第9回広告エッセイ大賞受賞作品
大賞 「おばあちゃんとの週末」 兵庫県芦屋市 脇本 昭彦
僕は、小学校の低学年の頃、毎週金曜日の夜から日曜の夜に父がクルマで迎えに来るまで、ずっと母方の祖母の家にいた。家庭の事情からだった。
サラリーマンの父親が、いわゆる脱サラを目指し、飲食店の創業資金を準備するため、両親が休日を返上して週末にアルバイトを始めたからだった。父親は、ちょうど高度成長期で仕事は溢れるようにあっ た土木作業員、母親は知り合いの和食屋で調理をしていた。子供の僕としては、もちろん両親とも家にいて欲しかったが、飲食店の創業計画を日夜熱く語る二人を見ていると、祖母に預けられる大義名分を無言のまま叩きつけられているようで、子供ながら両親に不服を言う勇気がなかった。
一人住まいの祖母は、そんな僕の鬱屈した気持ちを理解してくれていたからなのか、ほんとうに優しかった。しかし、いくら優しい祖母でも、毎週末に二人きりでは退屈で、僕はテレビばかり観ていた気がする。その頃だ。
僕は、祖母の家でテレビを観ていて、頭からバケツで氷水をかけられる度肝を抜かれる衝撃を受けた。それは番組ではなくサントリーホワイトのCM だった。サミーデイビスJr. が、『コンコンチコンチキコンコンッ!』と、ウィスキーとグラスを前にして、踊るわけでもなく、ひたすらリズムを取り続 けて『ウーンッ、サントリー』と唸って終わるだけ。僕は、そのカッコ良さに、観ながら一緒に唸った。説明臭くなく、社名や商品名を連呼することもなく、BGM もなく、シーンの展開もない1ショットアングル。カッコイイ! ・・・、と一瞬にして魅せられた僕は、まだ家庭用ビデオがなかった時代だったので、そのCM が週末にはどのチャンネルで何時に流れるかを憶えて、何があってもテレビの前で 構えていたものだ。それからの僕は、『コンコンチコンチキコンコンッ!』を、ウィスキーの代わりにコーラの瓶を置いてグラスを持って練習し、完全にあのCM をコピーできるようになった。テレビの前ではいつもサミーとセッションをしていた。
ある週末、僕はいつものように祖母の家にいた。祖母は、僕がこのCM に夢中になっているのを知っていて、そんな僕を微笑み、拍手をしながら見守ってくれていたのだが、祖母が食事を作りに台所に行ったスキに、僕はあることを突如思いついた。それはサミーに、より近づいて祖母を驚かすことだった。
忘れもしない。金曜日の時間割には図工の時間があって、その日は絵具のセットを持っていた。僕は、黒と茶色の絵具を絵具箱から出して、洗面所に行って顔に塗りたくった。
目と歯だけを白くした僕は、テレビを観ながら夕食をとる居間にそっと戻って、一人で『コンコンチコンチキコンコンッ!』をやっていると、祖母が食事の用意をして居間に入ってくる。
「ゴハンできたわよ」と祖母が僕の背中に言った時、僕は振り返り『ウーンッ、サントリー』と決めた。
するとその時だった。笑ってくれるはずの祖母が、顔をくしゃくしゃにし、しゃがみ込んで泣きだしたのだった。唖然とした僕は戸惑い、どうしていいのかわからなかった。しばらく祖母は泣いていた。その時間は、僕には何時間にも感じられた。祖母は僕に言った。
「そんなことしたらダメよ」 「汚れるよね」 「そうじゃなくて」 「そんなこと、ダメなのよ」 「だったらどうして」 「お顔の色で遊んじゃダメよ」 たぶんこんなやり取りだった。優しい祖母のままの言い方だけど、真剣な顔で僕に言った。僕には何がどうダメなのかさっぱりわからず、あの優しい祖母が泣きだすほどの大変なことをしたのだと思い、訳もわからずに大声をあげてしゃくりあげながら泣いた。宥めようと近づいた祖母を撥ね退け、コーラの瓶とグラスを襖に向かって投げながら号泣した。
しかし祖母は、いつもの優しい祖母の微笑みに戻って、僕を見つめてクスッと声を出して笑った。
「お顔に川ができてるよ」
涙で絵具が溶けて、顔に線が入っていたのだ。
「お顔洗いに行こうか」
やっと泣き止んだが、まだ不機嫌な僕を連れて、祖母は洗面所に行き、僕に言った。
「ほらね」
鏡を見た。僕は、悲惨な自分の顔の状態がおかしくて、吹き出して笑った。祖母も爆笑した。二人で声を上げて笑い続けた。
次の日から、『コンコンチコンチキコンコンッ!』は僕にとって禁句でありタブーになった。急激に憑き物が落ちたように、なんとも思わなくなり、CM で流れても見向きもしなくなった。何故なのか?
これは、今だからやっと説明できるが、僕は世の中に『忌避なこと』というものがあることを初めて知った。見てはいけないもの、やってはいけないこと、喋ってはいけないことというものが大人の世界にはあって、そこに踏み込んでしまった恐怖体験の象徴がこの顛末だったのだと思う。
祖母が亡くなった。
僕は、高校生になっていた。悲しかった。僕は、お通夜もお葬式も遺影を見ながら、祖母と二人の週末のことばかり思い出していた。祖母の作るいなり寿司や、ソース味の焼き飯が蘇り、無性に食べたくなった。もちろん、祖母と泣き笑いしたあの日のことは何度も何度もかみしめた。
両親は、その頃、何度断念しかかっても諦めずにいた念願の飲食店をやっと開店した。この店を開店するために、僕は小さい頃、祖母の家に預けられていたのだと思うと素直には喜べなかった。しかし、駅に近い店は立地条件にも恵まれて予想以上の売り上げがあり、両親は従業員を雇うようになり、その後2号店と3号店を出店した。両親は、あの頃アルバイトをしてがんばった甲斐があると、まるで戦 友のようにお互いを称えあってはいたが、祖母に預けられていた僕は、その犠牲になっていたようで、いくつになっても釈然としない気持ちは変わらなかった。
それから、父も母も高齢になりリタイアした。結局あれほど毛嫌いしていた両親の飲食店を、サラリーマンの僕が早期退職して継ぐことになった。両親から発する『お前のために店を残してやったぞ』という何ともいえない優越感を忌々しく横目で感じながらも、今まで忙しい日々を過ごしてきた。
僕は、今、あの頃の祖母の年齢に近づこうとしている。一昨年、祖母の三十三回忌の法事があった。親族が集まり祖母を偲んだ。法事の後の食事会は、祖母が久しぶりにみんなを集めてくれているようで、笑いの絶えない時間が続いた。僕は、叔父や従兄弟たちと昔話を肴に飲みに飲んだ。みんな酔っ払い歌も飛び出す始末、すっかり宴会モードになっている。でも、たぶん今日で祖母の法事も最後になり、祖 母のことはみんなの記憶から徐々に消えていくのだろうと思うと、グーッと胸が詰まってきた。どうやら、自分は世界中でおばあちゃんのことが誰より好きなんだなと自覚した。
「やります!」
と大きな声をだしてしまった。思わず始めた『コンコンチコンチキコンコンッ!』。
何十年ぶりだが完璧に憶えていた。若い甥や姪はなんのことかサッパリわからない顔をしていたが、叔父や従兄弟連中には大受けした。
そして、あの日のことをみんなに言った。みんなシーンとして聴いてくれて、最後に爆笑してくれた。
老婆になった母は、僕のその話を聴き、涙を流した。そして、後からそっと僕に言った。
「あの頃、バアチャンとこばっかりで、ごめんよね」
僕は、その母の言葉で、子供の頃から引きずり、ほんのわずかだが澱のように残っていた両親に対する不満のようなものがスーッと消えていくのを実感した。
近年逝った父の顔も浮かんだ。自分があまりにも小さな男だったようで恥ずかしかった。
この店を作ろうとした両親のおかげで、僕は祖母のことがこんなに好きになれたのだと思えた。今では幸運だったとさえ思える。
先日、You Tube であのCM を探してみると・・・あった!
数十年ぶりに観た。あの頃の祖母との週末が回想される。ものすごく懐かしかった。
完璧に憶えているはずが・・・かなり間違えていた。
優秀賞 「広告の縁」 大阪府豊中市市 安藤 知明
「近頃は全面広告が目立つようになったな。どうせ自社に都合のいいことしか書いていないだろうから、読んでみようという気にはならないね。紙とスペースの無駄だよ」
なんとも手厳しい友人だ。
私もある時までは、友人と同じように考えていた。仕事の忙しい中、新聞や雑誌を効率よく読むには、広告を飛ばして先に進んでいた。
「俺もそういう時期があったなァー。でも、今は違うんだ。結構目を通しているよ」
「そりゃ、サラリーマン時代よりは暇ができたからだろう。記事を読み終わった後も時間があろうから、広告にも一応目を通しておこうかといった程度じゃないの!?」
広告に対する偏見というか不信感が、相当強そうだ。こういう場合、抽象論だけに走ってしまっては、堂々巡りで終わってしまう。そこで、私の「ある時」以降の話をすることになる。
二〇一四年三月末まで、私は若者の就労支援に携わっていた。アベノミクスで、今でこそ雇用情勢は改善されてきたが、私が現役でバリバリとやっていた頃は、なんとも低調な状態であった。働く意欲があり、四〇社、五〇社と履歴書を提出しても、職にありつけないような状況であった。
私自身も企業を回り、就職希望者の売り込みを行った。
「即戦力でなければ、当社としては採用できませんね。例えば、どんなスキルというか専門性を有していますか?」
人事部の担当段階で、門前払いを食らってしまう。
学校出たてだったり、社会に出て数年してからの転職だったりで、即戦力になるような人材はいなかった。
「企業の持続的発展の視点から、長い目で見守っていただき、社内でOJTや研修で教育していただくわけにはいきませんか。キャラクターは申し分ありません」
そんな情緒的なアピールをしたところで、聞き入れてもらえるような甘い雰囲気ではなかった。
「我が社は、人口減や高齢社会化していく日本を出て、これからの有望市場であるASEANやアフリカ大陸への進出を計画しています。グローバル人材が喉から手が出るほど欲しいのです。留学生なんかがいいですね。母国語に加えて、日本語や英語の少なくとも三ヶ国語は話せますものね」
海外展開を考えるなら、確かに自国の市場に精通し、三ヶ国語を繰ることができる留学生がいいだろう。ハードルの高さに頭を抱えてしまう。
担当者は上の指示に従って、とにもかくにも「明日からでも戦力となる人材」を求めている。私としては担当者の壁を越えて、課長なり部長に会わせてもらって、会社の人材育成のプランを知りたいところである。それに見合ったポテンシャルの人材を供給できればと思うのだが、壁を越えるにはあまりにも厳しい現実が立ちはだかっていた。
ある日のこと。新聞を読んでいて、意見広告かと思うほど活字の多い広告が目に入った。せっかく大枚を叩いて載せた広告なのに、こんなにぎゅうぎゅう詰めのレイアウトなんて読む人はいないだろうにと思いながらも、私自身がなんとなく読み始めてしまった。
いわゆる企業イメージ向上を狙った広告だった。大半の企業の広告は、自社製品を売らんがために、有名人を登場させ、ビジュアル効果を期待している。しかし、その広告は違った。社長が登場し、社会の中で果たす会社の役割や貢献について言及している。自分のところの製品やサービスが、他社と比べていかに優れているかといった記述はどこにも、見当たらない。
長期ボランティア休暇制度を早くから導入し、社員がその制度を利用して活躍している様子が述べられている。その制度を利用した社員は、全員といっていいほど成長して会社に戻ってくるという。
営業社員といっても、普段は代理店止まりのコンタクト。なかなか消費者までは足を運べない。ところが、ボランティア活動となると、助けを必要としている「現場」まで出かけることになる。その現場とは、被災地であったり、過疎地であったり、豪雪地帯であったり、時にはアジアやアフリカ大陸の発展途上国であったりする。こういった現場を経験すると、成長しないはずがない。
何度か読み返しているうちに、広告に登場した社長に会ってみたくなった。私が相談に与っている若者に、なにか心構えとして伝えるいいメッセージが見つかるかもしれないと思ったからである。欲をいえば、このような社長の率いる会社に、若者の一人や二人を社員として採用してもらいたい。
こういう場合、「社長にお会いしたい」と電話を入れたり訪問しても、門前払いを食らうだけである。今までの経験から、最も有効な方法は、本人宛に手紙を書くことだ。会社によっては、秘書が事前に開封し内容をチェックし、都合が悪いと社長まで上げずにゴミ箱行きなんていうこともありえる。でも、電話や訪問に比べると、社長の目に触れる確立は高い。
書き始める前に、もう一度広告を読み返した。社長のメッセージのどんなところに感動し共感したのか、そしてどうして手紙を書く気になったのかを、的確に伝えなければならない。読み込めば読み込むほど、含蓄のある広告であった。
広告だけではないが、読み手がいい加減に読んでいると、いい加減な情報しか入ってこない。したがって理解もいい加減となる。広告はどうせ自社宣伝の文言ばかりだから、読む価値はないだろうなどと飛ばしてしまうと、せっかくの獲物をみすみす逃がしてしまうことにもなる。
準備完了。私は書き始めた。会社のトップ宛に書くとなると、やはり緊張する。時候の挨拶などは短か目にし、「起承転結」の簡潔な文章を心掛けた。「どうか社長の手に無事に渡り、返事がもらえますように!」と祈って投函した。届けば、返事はもらえるとの確信みたいなものがあった。
その確信は、私の貴重な経験に基づいている。私は一九四一年に今はサハリンと呼ばれている樺太で生まれた。戦後、ソ連領となり、一九四七年にやっと再開された引き揚げ船で本土に帰ってきた。異国になってしまった故郷の土を一度は踏んでみたいと思うようになった一九六〇年、当時のフルシチョフ第一書記に手紙を書いた。前任のスターリンとは違い平和共存外交を提唱し、アメリカとの冷戦緩和にも努めていたので、なんらかの脈はあるだろうと期待していた。
裏切られることはなかった。一九歳の日本の若者が切々と綴った手紙に、本人のサイン入りの返事が届いた。希望が叶うように努力するとの短い手紙だった。その手紙に勇気付けられ、一縷の望みを持っていたが、残念ながら一九六四年、農業政策の失敗などで失脚してしまった。
そんな昔の遠いエピソードを思い出しながら、返事を待った。「これは移動の車の中で書いたので、少々乱筆になっております」との返事が届いたのは、それから間もなくだった。若者の就労に携わっていると書き添えておいたこともあって、ぜひ会って話を聞きたいと結ばれていた。
数日して秘書に電話を入れると、話が通っているとみえ、難なくアポイントが取れた。社長に話を聞いてもらい、私の活動も理解してもらって、その会社への若者紹介の道が開けたのであった。
実は、広告が取り持った縁はこれだけではない。これに味を占めて、その後やはり広告のお世話になって、何社かのトップと会うことができた。トップの考え方次第で、会社は良くも悪くもなる。昨今、過重な労働を課し、残業代を払わないブラック企業のことがマスコミで取り上げられる。そんな会社に若者を紹介などすると、私の調査能力が疑われ、また信頼を失ってしまう。トップに会えるチャンスがあれば、社員の幸せを本気で考えているかどうか、私なりに判断できる。
採用担当者レベルと話をすると、即戦力が求められる。しかし、トップは必ずしもそうではない。
「『育つ』人材がいい」と言う。
この意味するところは、自分から積極的に仕事に取り組む姿勢である。よく「育てる」というが、これだと会社側が主体的に研修・教育をしていかねばならず、社員などは受身となる。新しい環境下で、教育されるのを待つのではなく、自分で自分を育てていく姿勢が問われる。これがトップの言うところの「育つ」人材だろう。
トップの口から聞くこういった生の言葉は、私を通して、私のところに通う若者にも伝えられる。いうなれば、現場の声だ。私にとっても若者にとっても、大いに参考になる。
時には飲みながら、こういった話を友人にする。
「そうか、広告だからといって、一方的に毛嫌いするのも良し悪しだな。ちょっとは、真面目に接してみようか!」
嬉しいことを言ってくれる。でも、彼一人ではなくて、もっと多くの友人が私の話に耳を傾けてくれて、広告の効用に目覚めてくれたらと願っている。
優秀賞 「新しい私になって」 兵庫県西宮市 船本 由梨
世界は服で溢れている。
小さな商店街でも、駅へと続く地下街でも、飛行機に乗っている時でさえ服が買える。今この瞬間にも、誰かが自分に似合う服を求めており、そしてあらゆる服は誰かの手に取ってもらうのを待っているかのようにじっと佇んでいる。雑誌からも、音楽からも、映画からも、常に最新のファッションが私たちを楽しませてくれる。今、この瞬間も、新しい着こなしが誕生しているのだ。
だけど私のクローゼットには同じような服しかない。合コンでモテるような甘い服は卒業し、30歳に差し掛かった今、気づけば実用的な服ばかり揃っていた。上は白、下は紺。シャツやブラウスなど素材の違いこそあれ、大体白を上に持っていけば綺麗に見えるし、紺を履けばバランスよく見える。小物で差し色を加えれば如何様にも着こなせることから、私のクローゼットのほとんどはその2色で埋め尽くされていた。それで不便を感じたことも無い。仕事でも私服でも使えるなんて、私はなんて賢いのだろうと悦に浸るほどだった。
けれどもある日、そんな私の価値観を揺るがす出来事が起きた。
発端は友人の結婚式で着るワンピース選びだった。心斎橋のBEAMSで見かけた紺色のワンピースが気になり、店に入って手を伸ばしたら、隣で見ていた彼がクスッと笑った。
「由梨さん、また紺?」
前職で繊維商社に勤めていた彼は、服に詳しい。UNTITLED が好きだと言ったら、創業デザイナーに50代女性がいるだの、本社は神戸だのとすぐうんちくを語りだす。ただし、ブランドに精通しているのとお洒落であることは別問題らしい。彼のトップスの8割はボーダーだった。ボーダーTシャツの上にボーダーの長袖シャツを着た彼を見た時は、ウォーリーでもそこまでボーダー着ないよ、と思わず笑ってしまったが、本人は気に入っているらしく至って真面目である。
「由梨さん、せっかくスタイル良いんやから、明るい色も着たらええやん。」
と紺のワンピースを横目に、彼が取り出したのは黒の生地に花柄がプリントされたワンピースだった。
普段は決して着ない配色に少し戸惑っていたら彼が続けて言う。
「これは生地も良いし、華やかだけど大人っぽい。由梨さんに似合うと思う。」
ワンピースをまじまじと見る。黒を基調にしてはいるが、なんたって花柄である。いやいや、私には派手すぎる。いまさら性格を変えるのは大変だけれど、外見だって変えるのはなかなか大変だ。断ろうとして彼の方を見上げると、ふと、店の看板に目が留まった。そこには、フェンスに手をかけて寄りかかる女の子の横顔が映っており、その下にキャッチコピーが載っていた。
<恋をしましょう>
隣にいる恋人から顔を覗き込まれて、はにかんでいる姿がなんとも微笑ましい。恋をする喜びが全身から伝わるような1 枚だ。彼女を見ていると、なんだか恋をもっと楽しみたくなった。そうだ、恋をしている時ぐらい、相手の好みに合わせてみるのも、悪くない。
「試してみようかな」
私はそのワンピースを手に取った。試着室で着慣れない花柄に身を包み、恐る恐る鏡を見てみる。
「あれ…意外と、似合う!」
自分の顔が、パッと明るくなった。確かに彼の言う通り、華やかだけど落ち着きがある。まるで新しい私に出会ったようだ。自然と笑みがこぼれた。試着室のカーテンを開けると、そこで待っていた彼が目を光らせた。
「由梨さん、綺麗!」
「そう?ありがとう。」
綺麗と言われると、なんだか気分が良い。私に似合う服はもっとあるかも知れない。自分でも不思議なくらい、素直に彼の言葉を受け入れた。
会計を終えた私は、なんだか気分が明るくなって彼の手を繋いでみた。
「お、由梨さんのほうから手を繋ぐの珍しいやん。」
「ふふ。良い買い物ができてね、とっても気分が良いの。」
大阪転勤で出会った彼とは付き合って3ヶ月。久しぶりの恋だから、相手に思いっきり影響を受けてみるのも良いかもしれない。ファッションもそうだし、価値観も、言葉遣いだってそう。知らなかった私にもっと会ってみよう。そう思いながら店を出る。とたんに熱気が押し寄せてきた。9月に入ったというのに、外はまだまだ日差しがまぶしい。こんな日は、花柄のワンピースが似合うだろうな。私は、軽やかに歩き出した。
優秀賞 「忘れる事の無い広告に出逢えて」 大阪府大阪市 西崎 めぐ美
(ただいまの声が小さい時は、
心配で仕方が無いんだけど
丸くなった背中に手をあてて
出来るだけ 優しい声で言おう
「おかえり」♪)
家事をする手が、ピタリと止まった。テレビの画面から、平井堅の優しい声が……。
そして、その歌詞が、ずんずん私の胸の中にしみわたってきました。それは、十五年間、障害と共に生きた次男を見送り、当たり前の様に朝が明け、当たり前の様に時間を重ねている日常に、自分の身の置き場所、心の寄りどころに思案している頃でした。
次男との生活は、一日一日が、今日という日を生きる事がすべての積み重ねでした。出生時のトラブルによって、脳にダメージが残った為、話す事も出来ませんでした。少しの気温の変化にも左右され、肺炎となり呼吸困難となりました。それでも、何度も何度も押し寄せる波を乗り越え、元気になって自宅に帰ると、可愛い笑顔で私達家族を和ませてくれました。次男と過ごす時間は、家族にとって、中身が濃く充実した時間でした。そんな次男との生活に終止符が打たれ、新しい生活が始まった時、私の心の中や日常の時間が、表現出来ない空虚感と、自分の存在の意味がわからなくなって、何を目標にして 生きて行けばいいのか……淡々と過ぎて行く日々でした。
(いつかあなたが扉を開けて
自分の空を翔く日が来ても
羽根を休める場所になるため
ここだけは、あたためていよう……
負けないように、取り戻せるように
ここだけは あたためておこう♪)
ミサワホームのCMソング、「桔梗ヶ丘」の歌詞に、(ハッ)と目が覚めた。それは、長男と長女、そして、主人の存在に思いを寄せた。私には、大切な家族がいるんだ。
まぁちゃん(次男)だけで無く、これまでずっと、傍らで見守り支えてくれた大切な家族がいる事を、気づいた私でした。
この大切な家族の為に、これからの時間を大切に重ねて行こう、そして、歌詞にある、羽根を休める場所になる為、あたためていよう、負けないように、取り戻せるように、これからは、私が家族に力を与えようと心から思いました。私の生きていく意味が、目標が見つかった様で嬉しく、身体の奥底から次男と生活した頃の様に力が湧いてくるのが、感じられました。
平井堅さんの曲で、また前を向き歩いてみようと思えた私。不思議な縁を感じました。
次男は、平井堅さんが、大好きでした。テレビ・ラジオから曲が流れてくると、大きな目を更に大きくし、まっすぐな視線を音の鳴る方に向け聴きました。澄んだ大きな瞳がきらきら輝き、言葉を発する事の無い次男でしたが、本当に好きなんだなぁーと見てとれ、側にいる私達も幸せでした。
ふと耳にしたCMの一曲。それが、私の心を動かせ、前へ歩く背をそっと押してくれました。
広告の為に、一つの曲が生まれ、一つの作品が私達の元へ届けられます。その時、広告の意図した目的とは別に、私の様に、自分の置かれている立場とぴったりときた時、想像以上の力を感じます。そして、その広告全ての印象が鮮明に頭の中に残り、自分を介して周囲の人へ広がっていきます。
いろいろな影響を与える広告が、私の様に幸せな出逢いの広告として、世に羽ばたいてくれる事を願っています。
こんな時代だからこそ、あたたかな心温まる広告に、また出逢ってみたいです。
私は「桔梗ヶ丘」の一曲を胸に、一日一日大切に生きていきます。
ミサワホームさんと、平井堅さんにありがとう……。
日本音楽著作権協会(出)許諾 第1505260-501号
優秀賞 「爺ちゃんと女子高生」 大阪府吹田市 田中 清志
今年の六月初め朝の九時過ぎ、北摂のある高等学校の会議室に、七十歳前後の男女、十数人が集まっていた。私たちは地域のより良い環境の維持と、学校の環境教育を支援することを目的とする団体のメンバーである。
今日は、この学校の一年生と一緒に学校周辺を歩き、地域交流を兼ねて共に町の自然環境について考えようという企画だった。
一クラス四十名を五班に分けて、八名の生徒に私たちが二名ずつ付き添う。
この学校では、もう数年続けて経験してきた校外学習なので、私と今日の相棒西川さんは、簡単な打合せを済ませて、寛いでいた。そこへ我々の責任者である松本さんが、各班に生徒の名簿を配りだした。西川さんは受取った名簿を見て「あれっ、女の子ばっかりや!」と言った。この学校は共学なので、たまたまそうなったのだ。私は横から覗いて、欄外にカナと手書きされているのを見つけた。
「これは?」と、松本さんに尋ねる。
「アメリカから来た留学生やて、まあ日本語はいくらか分かるらしい」。松本さんはこともなげに言う。
「ほんまかいな!」。私と西川さんは一挙に緊張して顔を見合せ、同じ言葉を吐いた。二人とも生粋の大阪の爺チャンで、外国語はアカン。(しゃあないな。まあ、何とかなるやろ)大阪の爺チャンは立ち直りも早い。
十時きっかり、松本さんの簡単な挨拶の後、私と西川さんは、九人の女生徒に囲まれていた。
私が出席を取る。次々に「ハイ」と元気に返事が返る。最後に「カナさん……」と呼ぶと「ハ~イ」と手を上げ微笑んでくれた。栗色の髪をポニーテールに括り、ちょっとやせ型の女生徒だった。眼鏡の奥から青い大きな瞳が真剣に私を見ている。私は瞬間的に昔、子ども達と観ていたテレビアニメ「赤毛のアン」を思い出していた。
西川さんがこれから校外に出て、雑木林を巡り、その先にあるため池を回る、一時間半ほどのコースを説明して出発する。
校門を出たところで、西川さんが立ち止まり街路樹を見上げて話しだした。
「この木は何の木か、知ってますか?」
「……」ザワザワと小声で、隣同士で話しているが返事はない。
「この木は花水木と言います。花水木は、百年ほど前に東京市長からワシントン市長へ三千本の桜の苗木が贈られた時、その返礼として日本に届けられたものです。桜はその後、ポトマック河畔に植えられ、今は毎年、ワシントンの桜まつりとして日本に紹介されていますけど、知ってました?」
「テレビのニュースで、桜の女王がパレードしてるのを観たことがあります」「三千本て、凄いね」生徒が口々にしゃべってる。
カナさんは~と見ると、ちょっと首を傾げて隣の背の高い生徒と話している。「『ワシントンの桜?知りません』と言ってます」と生徒が通訳してくれた。アメリカは広いのだ。西川さんが、カナさんを意識しての花水木だったが、不発だった。
「花水木は近年になって人気が出て、よく植えられるようになりました。春にいち早く花が咲き、美しいこともありますが、このあいだ、市の公園課の人と話してたら別の理由もあるそうです。『木の高さが、ほど良くて、街路樹として適している。あまり高くなる木は電線に引っ掛かり、剪定にお金が懸るので!』と言ってました」。西川さんが電線を見上げながら話している。
「私、ハナミズキのCD持ってる」「あれ良い歌だよね」。生徒の声は、話に乗ってきているのか、そうでないのか? 判断に迷うところである。
雑木林の中で、一際目立つ大きな木の前で西川さんが話し始めた。「これは楠で、大木のベストテンを数えると大抵の地域で大半が楠です。楠には際立った特徴があります」。ここで私は用意してきた楠の葉っぱを配る。西川さんが続ける。「葉っぱをクシャクシャにして、匂いを嗅いで下さい。何の匂いか分かります?」「ん?」顔をしかめ、「臭い!」「そうでもないよ」と囁いたり、深呼吸をしたり生徒の反応はいろいろだ。
「では、ヒントを出します。タンスにゴン」(※注①)
私がヒントを出した。「ああ~」とざわめきが走り、笑顔が浮かぶ。皆の頭に一瞬、あの映像が流れたのだ。沢口靖子か土屋アンナか? 映像は違っても伝わるところは同じである。記憶に残るCM は、世代を越えて共通の言葉になるのだ。
「もしかして、ナフタリン? ちょっと違う気もするけど」。生徒の声を受けて、西川さんが説明する。
「まあ正解に近いですね。この匂いの成分は樟脳と言いまして、衣類の虫よけに使われてきました。昔のタンスにゴンです。(※注②) ナフタリンは化学的に作られた樟脳みたいなものです」
「でも、お母さんがタンスにゴンは匂いがしないと言ってましたよ」。眼鏡の生徒が異論を唱えた。
「防虫剤にはいろんな材料がありますが、タンスにゴンは除虫菊です。(※注③)
もちろんこれも化学物質に変わってきてますけど……除虫菊見たことあります?」
「和歌山のおばあちゃんとこで見たことあります。白くて小さくて、清楚な感じの花でした」。小柄な生徒が答えた。
カナさんを見ると、眼鏡を鼻からずらしたまま、しきりに葉っぱの匂いを嗅いでいる。
ぽっちゃりして良く笑う生徒が、カナさんの肩に両手を置いて「タンスにゴン」とおどけてみせた。
「ダンスにゴー?」とカナさんが首を傾げた。
「えっ……違う違う。カナさんヨシモトにいけるわ」。皆の笑い声が止まらない。
「虫は、英語で何と言うんかな?」。西川さんが私に顔を向ける。
「ん? コンピューター用語で、バグというのは虫のことじゃなかったかなあ」
「それや。クスノキ イズ ええ レジスタンス ツ バグ」
通じたか、どうか分からなかったが、カナさんは、真剣な目をして頷いていた。
優しい人だ。
雑木林を抜けるとため池がある。その傍にヒメボタルの看板が立っていた。
生き物は私の得意分野である。
「この蛍は小さくて、飛ぶ力も弱く、雌はほとんど飛べません。それだけに放っておくと絶滅のおそれがあり、地域の人たちがボランティアで、住処である竹林の整備をして、環境を守っています。身体はゲンジボタルの半分ほどしかありませんが、光る力は強くて一秒間に一、二回フラッシュします」
「出てくるのはいつ頃ですか? 私はこの近くなのに、見たことがありません」。眼鏡の生徒が不思議そうに言う。
「五月の終わりから六月の初め、丁度今頃です。晩の八時頃が見ごろです。ぜひ見に来て下さい」
「夜の池は怖いので、友だちを誘ってみます」
「蛍が光るのはラブのためですが、ゲンジボタルは名古屋辺りを境に、二秒に一回の地域と四秒に一回の地域に別れます。さて、関西はどちらでしょう?」。私がクイズを出す。しばらくザワザワとしていたが「四秒に一回」と声が返った。
「残念でした。人と同じで、イラチの関西は二秒に一回です」「ええ~」と波紋が広がり、大笑いとなった。カナさんも笑っている。どうやらこの生徒たちは、結構英語が話せるのだ。
雑木林の樹木やため池の生き物など、教えたり、逆に教えられたりしながら歩くと時間が経つのが早い。
「あの花、除虫菊に似てません?」。和歌山におばあちゃんがいる生徒が指す方を見ると、白い五円玉くらいの花が数本咲いている。「ああ、あれはヒメジョオンと言って、明治時代にアメリカから観賞用として入って来たと言われています。除虫菊と同じキク科の花なので……なるほど言われてみるとよく似てますね。皆さ~ん、タンスにゴンの原料はこれとそっくりの花ですよ」。(※注④)
私は話しながら、植物園で見たことのある除虫菊と重ねて、今まで気が付かなかったなあ……と生徒に感謝していた。そして、防虫剤のCMをヒントに話したことがきっかけで、この可憐な花を生徒たちに紹介できたことも嬉しかった。
帰り道では、意外にも笹笛を吹ける生徒が二人いて、皆に教えながら吹きあっていた。カナさんも懸命に頬を膨らませていたが、やがて一声「ピー」と高い音が響く。「出来た!」「大成功!」「ワンダフル」等と、口々に叫び生徒たちはハイタッチを繰り返していた。西川さんと私も笹の葉を唇に当てて、真似てみたが上手くいかない。顔を見合わせて大笑いしながら、私は「若いってすばらしい」と呟いていた。
後日、生徒の感想レポートの抜粋を見る機会があった。「学校の周りにはまだまだ自然が残っていて、嬉しかった。地域の人たちががんばって守っているのが分かった。今日はお爺ちゃん達と真剣に、お話しができて楽しかった」。また、カナさんのレポートは、花水木と蛍の絵が描かれていて、大きく「Thank You」と添えられていた。
私はちょっと眼鏡が鼻にずれた、カナさんの真剣な顔を思い出し、自然と顔がほころんでくるのだった。
一般の方が、防虫剤の成分知識や効用に精通いただくのは、なかなかに厳しく、作者の方の誤認は残念ですが、止むを得無い処ともいえます。しかし誤った表記のまま当作品を公表させていただくことは、「タンスにゴン」のメーカーである「大日本除虫菊株式会社」様に、ご迷惑をお掛けするものですので、慎んで注釈をつけさせていただきました。
本来ですと、これらの事実誤認は改稿すべき処ですが、今回の作品では、「楠」「除虫菊」が、広範に重要な単語として登場するため改稿が難しいと判断致しましたので、メーカーの大日本除虫菊様にご了解をいただき、原文のまま掲載をさせていただきました。①「タンスにゴン」がヒントとなって、正解が樟脳になるくだり。
[A] 間違いです。
「タンスにゴン」はピレスロイド系防虫剤で、においがないのが商品特長です。
においのある「樟脳」のような防虫剤とは、異なります。
② 昔のタンスにゴンです。
[A] 間違いです。
「タンスにゴン」は、発売当初より一貫してピレスロイド系防虫剤です。
においは、ありません。
③ ゴンは除虫菊です。
[A] 間違いです。
除虫菊の花に含まれる天然殺虫成分はピレトリンと言います。そのピレトリンに似た化合物のピレスロイドをゴンには使っていますので、除虫菊を使ってはいません。
④ タンスにゴンの原料はこれ(ヒメジョオン)とそっくりの花ですよ。
[A] 間違いです。
タンスにゴンの原料は、除虫菊ではありませんので、間違いです。
優秀賞 「酌み交わす日まで」 大阪府大阪市 梶川 美輝
唐突だが、私には夢がある。いつの日か、三重県の実家で、父とともに酒を酌み交わすのが私の夢である。酒は「サントリー ザ・マッカラン」で、飲み方はオン・ザ・ロックと決めている。
私がこの夢を持つようになったきっかけは、「SUNTORY SATURDAY WAITING BAR AVANTI」というラジオ番組がきっかけである。
私の地元、三重県名張市はお世辞にも栄えているとは言えない、いわゆる「ド」が付くほどの田舎である。父は愛知県出身で母は大阪府出身。共にいわゆる大都会出身で、二人とも大阪の会社に勤めていたのだが、私の1歳年上の兄を出産するにあたって、「空気のきれいな場所で育てたい」とのことで三重に引っ越したそうだ。
私は生まれてからずっと田舎暮らしだったため、何の不便も感じなかったが、両親は都会暮らしであったがために相当の不便を強いられたことと思う。なにせ職場までが片道2時間である。我が子のため、などという一言で片づけるにはあまりに大きい負担を負って三重への引っ越しを決めた両親には本当に頭が下がる。
さて、そんな我が家族にとって、休日の主な移動手段は専ら車であった。近場の牧場から、泊りがけの温泉旅館まで、父が運転する車に乗って実に様々なところに行ったものだ。
私が「SANTORY SATURDAY WAITING BAR AVANTI」と出会ったのも、そんな車旅行の帰りであった。
ジャズっぽい軽やかな音楽が流れた後、外国人らしきバーテンダーが、常連客やゲストの人たちの会話に聞き耳を立てる、という形式だったと思う。
とにかく、当時幼かった私にとって、そのラジオ番組は「落ち着いた空気」「ウィットに富んだ会話」「お酒」「ジャズ」と、私がイメージした大人の要素を網羅していた。たちまち、私はこのラジオ番組のファンとなり、毎週のように車のラジオで聴くようになり、果てには100円均一でラジオを買ってまで聴くようになった。
そのラジオ番組の合間に入っていたのが、「サントリー ザ・マッカラン」のCM だった。「カラン、カラン」というグラスと氷のぶつかる軽やかな音がラジオから流れ、「トクトクトク…」と少しとろみがかったウイスキーが注がれる音。そして、「サントリー、マッカラン」という商品名。「AVANTI」というラジオ番組自体がサントリーの一社提供番組であり、またそのラジオ番組の一部としてマッカランのCM が流れていたので、正直なところ明確なCM の内容は覚えていない。ただ、氷とウイスキーの音、そして「マッカラン」という商品名は、ラジオ番組と同じく、むしろ番組以上に「大人」のイメージとして私の記憶に焼き付いたのである。
このように偏った「大人」のイメージを持った子供が、ウイスキーへの興味を抱くようになるまでに時間はかからなかった。
私は、当時晩酌にウイスキーを愛飲していた両親の手伝いと称して、晩酌の水割りづくりを買って出た。両親は我が子の珍しい申し出に気を良くし、快く水割りづくりを頼んでくれた。当時9歳かそこらの子供にとって、ウイスキーの瓶に触れること自体、新鮮で、大人の階段を上ったような高揚感に満たされたのをよく覚えている。その時に初めて嗅いだウイスキーの香りは、今でも忘れられない。鼻の奥に突き刺さる、檜を濃縮したような濃く強い香り。当時子供であった私には、イメージとは違う強烈な香りは、大きなショックだった。
「まだ、自分は子供なのだ。」
両親が(水割りとはいえ)平然と飲んでいるウイスキーを、自分は味わうことは当然だが、香りを楽しむことさえできない。この経験は大きな悔しさと、より大きな大人への憧れを9 歳の私に与えてくれた。
それからしばらく、私は両親の水割りづくりを自ら率先して行った。今思えば浅ましい限りだが、少しでも両親の晩酌に関わることで、大人に近づけると考えたからである。そうするうちに、それまで感じることができなかった両親の様々な姿を見ることができるようになった。仕事でイヤなことがあったのか、不機嫌な時は濃い目の水割り。翌日にゴルフがあるときは明日に酔いを残さないように薄めの水割り。特に父は通勤時間の都合上、帰りも遅く、普段あまり喋る性格でもないので、水割りを作ることでそれまで知らなかった父の心情を少しでも知ることができたのは嬉しかった。
その後、私は反抗期に入り、両親も晩酌の好みがワインに移ったことから、水割りを作ることはなくなってしまったが、高校を卒業し、大阪で一人暮らしを始めるまで、「AVANTI」のラジオ番組とともに、「ザ・マッカラン」は私の憧れであり続けた。
そうこうしているうちに私は20歳を迎えた。当然、私が初めてのお酒に選んだのはウイスキーだった。気持ちとしてはマッカラン一択だったが、貧乏大学生に手が出る金額ではなかったので、やむなく安いウイスキーを選んだ。初めてということで、飲み方はオン・ザ・ロックと決めていた。そして一人で乾杯し、グラスを傾けた。11年来の憧れが実現する瞬間である。その時の嬉しさたるや筆舌に尽くし難いものであったが、味のほうは果たして、憧れとは大きくかけ離れたものであった。舌がビリビリして、喉が灼けるような熱さと、鼻に突き刺さるアルコールと樹木の香り。酒の経験値も人生の経験値も圧倒的に不足していたためか、私のウイスキーデビューは大失敗に終わった。
その年の末、三重に帰省した折に、初めて両親と酒を酌み交わしながら食卓を囲んだ。初めての晩酌はビールで、少し肩透かしの気分だったが、風呂上がりに父が、
「水割りいる?」
と聞いてきた。
私は普段、沢山飲むほうではないのだが、薄めに作ってくれるとのことだったので、父の厚意に甘えることにした。マッカランではなかったし、オン・ザ・ロックでもなかったものの、ともかく初めての父との晩酌である。先述のウイスキーデビュー失敗以来、ウイスキーからは遠ざかっていたため、久しぶりのウイスキーであったが、父が上手く割ってくれたのだろうその水割りは、とても飲みやすかった。別にその時も何を喋ったわけでもなく、ただ一緒にテレビを観ていただけであったが、とてもゆっくりしたひと時だった。
あの日から4年が経ち、先日、父が定年を迎えた。定年を家族で祝うことになっていたので、最初、私は「いまこそマッカランを買って、父と酌み交わすときや!」と思った。ついでに白状すると、今こそマッカランを嗜む絶好のチャンスであるとも思った。
だが、結局父には新しい鞄を贈り、マッカランは見送ることにした。
急な方針転換には理由がある。
実はこのエッセイを書いている最中に、まさに父の定年の日が重なったのだが、贈り物を思案しながら並行して文章を打っているうちに、「果たして今、私は父と酒を酌み交わせる立場なのか?」という疑問が浮かんだのである。子として、父に恥じぬ成果を残せているのか、と。
答えはノーである。社会人としての成果もさっぱりだし、子としてもまだまだ両親に心配をかけっぱなしである。
「子としての立場は変わらないのだから、せめて仕事で一端の成果を上げ、それを肴に父と仕事論など語りながらマッカランを飲みたい。」そう思ったので、誠に勝手ながらマッカランの贈るプランは暫く先送りとなった。
これまでの、私の思いを振り返ってみると、「ザ・マッカラン」のCM と「AVANTI」のラジオ番組に端を発した、偏った大人への偏った憧れは、つまるところ父への憧れだったように思う。たとえ心身共に疲れ果てていても、それを見せることなく、穏やかにグラスを傾ける。小さいころから無意識に目にしてきた父の姿が、マッカランのCM を媒介として、「理想の大人像」として、今日に至るまで私の中に焼き付いていたのである。
もちろん、この憧れは私が勝手に抱いているものであるし、マッカランへのこだわりは私の自己満足でしかない。多分、父はそのCM のことなど覚えていないであろうし、「AVANTI」のラジオ番組自体も昨年で終了してしまっているので、完全に忘れきっているかもしれない。
それでも、いや、だからこそ私はこの憧れを形にしたいと思う。
具体的にいうと、「大人である父と、大人として酒を酌み交わす」という憧れを実現したい。そして、この自己満足を100%貫き通すためにも、来年までに仕事で一端の成果を上げ、来年の父の誕生日には「ザ・マッカラン」を持って実家に帰り、父と盃を酌み交わそうと思う。
寡黙な父のことだから、語り合うというよりも私が喋り続ける形になるのだろう。
つくづく自分勝手な息子だと我ながら思うが、そこは甘えさせてもらおう。
ただ、甘えてばかりでは申し訳ないので、せめてもの償いに、今から美味しい水割りの作り方でも練習しようと思う。
人生を肴に酒を酌み交わす日まで。
優秀賞 「『ほろにが』人生」 大阪府大阪市 西村 孝子
昨日、私が押入れを整理していると、26年前の懐かしい夫婦の写真が出てきた。これは、アサヒビールが新製品として売り出した『ほろにが』というビールの宣伝用の写真だ。
当時は、武田鉄矢がテレビでこのコマーシャルに出ていた。しかし、アサヒビールの営業マンが、酒屋の夫婦の写真を欲しいと言って、撮っていったものだった。
この写真を眺めていると、その当時の若くて元気な頃が懐かしく思い出された。
その時代の酒類業界は活気があった。営業マンとの交流も盛んで、情報交換を頻繁に行いながら商売に取り組んでいた。
ビールメーカーや清酒メーカーも、熱心に営業活動をし、宣伝グッズや消費者向けの景品等を持って、月に何度かわれわれ小売店を訪れた。いわゆる製造元(メーカー)、問屋、小売店が、がっちりと連携が取れていた頃だ。
今から思えば、その頃が酒屋のみならず、あらゆる小売店の全盛時代だったといえる。
わが「西村商店」も、主人と私の二人三脚で店を切り盛りしていた。主人は一日50軒ほどの配達を朝9時から夜10時までこなし、私は近所の御用聞きに回った。新しくマンションができると、いち早く新規顧客獲得にチラシをまき、注文取りに奔走した。
「お父さん今日、新しく出来たマンションで、得意先を20件も獲得してきたのよ」
「おお、ようやったなあ。よし、俺も精を出して配達するか!」
「明日はもっと頑張って、50件ぐらい注文取ってくるわ」
「あんまり無理するなよ」
「新製品の『ほろにが』で乾杯しましょう」
「俺は『男は黙ってサッポロビール』といくか」
「三船敏郎気どり?」と言って笑い合い、よく夫婦の間で、こんな会話がかわされていた。
今考えると(一所懸命働いたなあ!)と感心するが、当時はそれが当たり前だった。そういうことは、どこの酒店でもやっていることであり、やればやるだけ必ず結果が出たので、少しも苦労とは思わなかった。毎日が充実していたのである。
「お父さん茂雄の絵、見た?」
「いや、知らないよ」
「学校の文化祭で、最優秀賞もらったのよ!」
小学6年生になる息子が、父親の働いている姿を見て描いたものだ。
夜遅く父親が、重いビール箱をお客さんの家に配達している。空は真っ暗で星や月が出ている情景だった。
いつ、そんな夫の姿を見たのか……。
子供はちゃんと父親の背中を見ているものだなあと、胸が熱くなった。
だがいつしか、政府の方針で規制緩和という政策が引かれ、酒屋だけに与えられていた免許が取り消された。そして、酒類がどこでも自由に販売できるようになった。
すなわち酒類市場がスーパーやコンビニまで、広がってしまったのである。これによって、価格競争が始まり、ディスカウント屋が出没した。こうなると通常の流通経路が乱れ、小売店に卸していた問屋という業界も不要になった。いままで来ていたメーカーのセールスマンも来なくなった。
世間は、価格の安い店に流れるようになり、品物の多い大型店で買うようになる。当然、小売店は苦境にたたされた。
主婦は近所のスーパーでその日の惣菜を買うついでに、缶ビールも買って帰るという状況である。酒屋で唯一の配達という業務も缶ビールが出てきたことによって、あまり必要とされなくなった。
私たちは、価格で太刀打ちできないし、数量、種類の多さでも負けてしまう。手の打ちようがない。また、それに追い打ちをかけて自分達の老いが進み、体力、気力が失せてしまった。そんな私達の苦労を見て育った息子は、後を継ぐ気にはならないだろう。私や夫も自信を持って継げとは言いにくかった。
ある時は、手作りのチラシを、近所へ配った。そこには「西村商店」で扱っている商品の案内と、お買い得品の紹介を提示し、特に配達は迅速に行いますとアピールした。
ところがその直後、スーパーの大きな広告で同じ商品が、我々のチラシの価格より安い金額で新聞の折り込みに入っていた。これを見た瞬間、私達は負けたという絶望感に陥った。やはり大型店には、太刀打ちできないと悟ったのである。
世の中はどんどん変化し、私達が考えることの先を行く。変化するのはなにも酒の業界に限ったことではなくて、あらゆる企業でどんどん変化は起きている。今の時代、そのスピードは驚くべき速さで進んでいるようだ。従って私達はその変化を敏感にキャッチして、時代に即した生き方をしなければならない。
人の後を走って、世間に後れをとっていては、ダメなのだ。その変化の情報を伝えてくれるのが解りやすくて、元気をもらう広告であり、コマーシャルである。
しかし一時、盛んにテレビで見かけたコマーシャルも、いつのまにか消えてしまっていた。例えば♪『お酒の王様月桂冠』とか西田佐知子が歌っている♪『やっぱり俺は菊正宗』などの、コマーシャルソングも最近聞かなくなった。まさに生き馬の目をぬくようだ。
50年前、私が酒屋に嫁いできた頃は、大福帳のような「お通い帳」を酒屋は使っていた。それに注文や、金銭の出入りを記入したりして日々の営業を行っていた。今の伝票に代わるものである。
こんなことを思い出すと、いつの時代の話かと思うが、これがほんの半世紀前のことだから驚かされる。現代ではすでに、パソコンによってあらゆる業務が迅速に処理されている。世の中は猛スピードで変化し、進んでいるのである。
また商品に於いても、アルコールのないビール(正しくはビールではない)なんて誰が考えたであろうか。今、発泡酒、リキュール酒、第3のビールが幅広く出回っている。
お酒を飲めない女の人や、車を運転している人でも飲めるということに着目したのはさすがだ。
本来のビールの味が忘れられてしまうように、私達小売店の酒屋の時代も忘れ去られようとしている。
昨年の暮、100年つづいた「西村商店」は閉店した。
「若い頃は、20キロもある重たいビール箱を歩いて5階までよく配達したなあ!」
「よく頑張ってくれたわ。お疲れ様」
夫77歳。私74歳の夫婦の会話である。
こうして西村商店の『ほろにが』人生は幕を下ろした。
優秀賞 「名作は、まず香り立つ」 大阪府吹田市 宮原 泰幸
二十年以上前、私はミッキー・ロークという俳優が好きだった。きっかけはよく覚えていない。
ロークは伸ばした金髪を無造作にオールバックにし、細い目をして遠くを見つめる写真が多い。彼が両方の口角をあげた様子は、笑っているようでもあるし、何か考えているようでもある。その不思議な雰囲気がたまらなく好きだった。そして、ぼそぼそと囁くように話す口調もミステリアスでとても良かった。とはいえ、口元は笑っていても目はけして笑っていない。興味本位で近寄る人間には薔薇のように刺を見せる。そんな独特の危険な雰囲気が大好きだった。当時学生だった私に、「大人の色気」を最初に教えてくれたのがロークだった。彼は正気と狂気の狭間で生きているようなオーラを持った俳優。こんな人、今の芸能界でなかなか見られない。
彼の主演映画も見てきた。彼の主演映画で好きな作品は「ナイン・ハーフ」と「エンジェル・ハート」。それを見て、私は彼の服装や仕草を一応まねしてみた。とりあえず髪を伸ばして無造作に後ろに撫でつけてみた。吸い終わったタバコを、ピンと指ではじいて遠くに飛ばすまねもした。両方の口角をあげて、ニヤニヤと笑ってみたこともある。だが、周囲からとても気味悪がられた。若気の至りとはいえ、当然の結果だと思う。
そんな憧れのミッキー・ロークだが、かつてサントリー・リザーブのCMに出ていたことがある。出演時期は八十九から九十年頃。
このCMは幾つかヴァージョンがあるが、どれも格好良かった記憶がある。共通しているのは、ロークがふらりと現れて、バーテンを前にしてリザーブを飲むというもの。この人のウイスキーの飲み方も独特で、グラスを手にするとまず匂いをかぐ。そしてグラスの中の氷をカランと回したあとで一口飲むのだ。
そして含んだあと口の中で回す。これが格好良かった。
彼の出演作は幾つかヴァージョンがあるのだが、私が一番好きなのは、ロークが黒づくめのスーツで、パーティー会場に現れるという作品。賑やかなダンスパーティーから一人離れて、バーテンの前で一人で座るローク。
そして彼はリザーブを飲みながら、バーテンと一緒にパーティー会場の輪舞曲を眺めるというもの。またバックに流れる合唱が何とも言えない独特な雰囲気を醸し出し、男の孤独と渋みが匂い立つ秀作だと思う。まさに全編を通じてロークの格好良さが際立つ作品だ。
だがロークの格好良さは認めても、当時の私にはCMの意味がいまいちよく分からなかった。
それは、当時の私はウイスキーが苦手だったからだ。ウイスキーより日本酒や焼酎が好きで、ウイスキーは進んで飲まなかった。リザーブも試してみたが、どうにも肌に合わなかった。だからロークが美味そうにウイスキーを飲んでも、いまひとつピンとこなかったのだ。ただし、そのCMに出ていた時期がロークが絶頂期だったと思う。本当にある日突然、彼のCMは終了してしまった。映画の方も相変わらず、私は彼の出演作を追い続けていたのだが、どうにも作品が合わず、追いかけるのは難しくなっていた。私はある時期を経て、彼の作品を全く観なくなるようになる。後で聞いたのだが、ロークはプロボクサーに転身し、試合で怪我を負ったあと、顔の整形手術をしていたようだ。そこからポツポツと映 画に出演していたようだが、私は観ていない。
それから私は仕事が忙しくなり、結婚もして子供もできた。仕事では当然ながら仕事に追い回され、出る言葉は仕事の愚痴ばかりである。子供も産まれた。そして嫁さんも働きに出ているため、子供の面倒も見なくてはいけない。子供に泣かれながらおしめも替えて、何とか子供を育てていく日々が続く。私は結婚生活のリアリティに日々追い回されていた。
世間の旦那連中に比べて、私は嫁さんから大事にされているようだが、日々の忙しさであまり実感はない。
実を言うと、私の壮年期の姿はこんな風ではなかった。
定時で仕事を終えると、ふらっとバーに寄り、バーテンを相手にウイスキーの水割りを飲む。そんな生活を考えていたのだ。そうかつてリザーブのCMに出ていたミッキー ・ロークのように。しかし現実の私は、仕事からくたくたに疲れて帰ってきたあと、嫁さんの相手をしながら発泡酒を飲む。そんな平凡な生活を繰り返していた。
そんな私とロークとの距離がかなり離れたころ、私は一本の映画に出会う。〇九年のころだ。それはローク主演映画「レスラー」だった。聞けばロークがプロレスラーの役を演じているという。ロークのファンだった私は、映画の予告を見た。ロークのかつての端正な顔立ちは、整形手術の繰り返しで見る影もない。そして一応引き締まっているのだが、肉体の老いも隠せない。「本当にあのミッキー・ロークか」と最初は思った。
映画の内容はこうである。ローク演じるランデイは、かつて栄光を極めた人気レスラーだ。今ではすっかり落ちぶれて、バイトをしながらレスリングを続けている。彼は心臓発作で倒れたあと引退の決意をして、疎遠だった娘と復縁しようとする。しかし、娘と食事の待ち合わせに遅れて絶縁されてしまうのだ。そして新しく見つけた仕事もトラブルで辞めてしまう。失意のランディは、満身創痍で再びリングに戻る、というもの。
このランデイの生き方は不器用で情けない。しかし、全編を通じてリアリティと深みを感じる。なぜか。それは映画のストーリーに、ロークの人生が見え隠れするからだ。かつて栄光を極めたものの、ボクシングによる顔の怪我を負うローク。その怪我は俳優にとって致命傷ともいえるものだ。しかし映画界にカムバックするロークは、満身創演でリングに戻るランディそのものである。かつての艶やかさは全くないが、「レスラー」のロークは、リザーブのCMの頃より格好良く見えた。映画を見終わったあと、「ロークのファンで良かったな」と感じた。
それから五年後の一四年。ふと思い立った私は、動画サイトでロークが出演していたころのリザーブのCMを見た。どうやってアップされたのか知る由はないが、とても懐かしく鑑賞した。その内容というと、あのときの記憶のままだ。私は懐かしさのあまり、何度も繰り返して鑑賞した。二十年以上ぶりに見るロークは相変わらず格好良かった。だが、どこか青臭い。やはり「レスラー」の年輪を感じるロークの方が格好いい。
そして私はサントリー・リザーブを買ってみた。昔からウイスキーが口に合わず、何度も断念していた。それまで居酒屋でも全く飲まなかった。だが、CMを見ているうちに「今だったらどうだろう」と思ったのだ。さて、数十年ぶりに飲むウイスキーは五臓六腑に染み渡った。実に美味かったのだ。酒の旨さに理由なんていらない。とにかく旨かった。
「名作は、まず香り立つ」
これは当時のリザーブのキャッチコピーだ。その時に飲んだリザーブは香りが良い上に、とても旨かった。私はようやく、あのCMを理解した気がした。
ロークのリザーブのCMを最初に観てから、私もすっかり年をとった。頭も薄くなったし腹もかなり出てきた。視力も体力もすっかり落ちて、中年の坂を越えたように思える。
「俺もロークのように、年取ってから格好良くなったのかな」
そんなことを考えながら、私は風呂に入る準備をした。タンスを開けると、家族から父の日に貰ったステテコが入っている。それは何年か前の父の日に、家族から贈られたものだ。添えられた「お疲れ様」という手紙が何とも泣かせてくれた。私はそれを抱えて風呂に向かった。
浴室の鏡に映った老いた我が姿を見ながら「俺だってロークみたいに、年をとってから格好良くなったかな」と思ったりする。
風呂をあがってから、発泡酒のあとはリザーブを飲もう。そんなことを思った。
優秀賞 「モスクワの味」 兵庫県尼崎市 松川 千鶴子
薄暗い裸電球の下、四畳半の部屋に置かれた卓袱台と白黒テレビ。典型的な昭和三十年代。そして、弟と二人でいつも見ていたCM、「パルナス」。
当時はアニメと言わず「マンガ」。そのマンガの番組の中でスポンサーであるパルナス製菓のCM、キャッチコピーの「モスクワの味」と共に流れる「パルナスの歌」に幼い私たち姉弟は心を奪われていた。
時代は高度経済成長期、工場勤務の共働きの両親は早朝から夜遅くまで働き、家はいつも留守だった。そんな中で、マンガを唯一心の拠り所とし、パルナスのCMも楽しみの一つだった。そのCM映像で出てくる見たこともない夢のようなお菓子やケーキ、そして、ピロシキ。食い入るように見つめ、ぐっと唾を飲み込み、暖のない部屋で空腹をポン菓子でごまかし、母の帰りを待っていた。疲れ切った母の並べる食卓は、決まってお惣菜屋ものかコロッケ。
その食卓を囲みながらも、ロシア民謡調の物悲しいフレーズのパルナスの歌が、
「ぐっとかみしめてごらん
ママの温かい心が お口の中に
しみとおるよ パルナス」と、私たちの心の中で繰り返し流れていた。
ママの温かい心・・・
ママという響きも、温かい心も、寂しい私たちには程遠い気がしていた。
鹿児島の南端から大阪に出てきた両親。阪神工業地帯に職を得、家を借り高度経済の小さな歯車の一つとしてクルクル回っていた。土曜はもちろん日曜もなく、たまの休みは両親とも泥のように眠っていた。当時は貧しく、共働きでも食べていくのがやっとだった。幼い私たちでも、そんなことは充分わかっていた。
「ぐっとかみしめてみ
お母ちゃんの温かい心が お口の中に
しみとおるよ コロッケ」
弟がじゃらけて替え歌を歌っていた。
それから瞬く間に時が経ち、私は高校を卒業し、就職。パルナスのケーキやピロシキも好きなだけ食べられるようになった。
それからまた時が経ち、私は結婚し、長女を出産した。
その長女が成長し、大学生になった時、ひょんなことから交換留学でドイツに一年滞在した。そして、そこでモスクワから移民してきたウラジミールという青年と知り合い、七年の交際後結婚した。その間親同士とも交流が深まり、今では一番の身内になった。
ウラジミールの母親ナターシャは、私と同い年で、結婚式や初孫誕生で会う度、本場 「モスクワの味」をご馳走してくれる。ボルシチ、つぼ焼きなど、しかし、一番私が好きなのは、やっぱりピロシキ。そして、それは、ナターシャの得意料理だった。ピロシキはそれまで油で揚げるのが普通だと思っていたが、ロシアではオーブンで焼くのが一般的だと初めて知った。
私はナターシャと会うと、いつもあのCMを思い出してしまう。それと一緒に、あの物悲しい曲もスイッチが入って流れ出す。
「もう五十年以上も前の事なんだけど・・・、」と、私はナターシャに子供の頃に見たパルナスのCMの話をしてみた。
ナターシャは、目が飛び出るくらいに驚き、「遥か遠い日本で、ロシアのお菓子やケーキ、はたまたピロシキが売られていたなんて、信じられない。」と、両手を広げて笑った。
「モスクワには、そのお菓子もケーキも何にもなかったのよ。冷戦の真っ只中なんだから。ピロシキも作れなかったのよ。」
そうだったんだ・・・。
当然、テレビどころか電化製品など無く、況してCMなど、当時のソ連では考えられないことだった。「毎日、お腹を空かせて、生きることに家族みんな必死だった。
お菓子やケーキなんか、夢のまた夢だった。私も一度でいいから食べてみたかった。」と、ナターシャは、暗く声を落とした。
私はナターシャのその言葉に胸が詰まった。モスクワの味なのに、私と同様、モスクワの女の子も食べることが出来なかったのだ。
昭和三十年代、貧しくとも日本は平和だった。そして、四十年代、高度経済成長の最盛期、人々は一段一段階段を上がるように、生活が豊かになり電化製品が各家庭に見る見る普及していった。若者たちは自由を謳歌し、大人たちも好景気の中、飲み歌っていた。ソ連時代だったその頃のロシアのことは新聞で知る程度で、況してや庶民の生活など知る由もなかった。それよりも何よりも、私がロシア人と親族になるとは、地球がどれほどひっくり返ろうが、想像すらできなかった。
甘いお菓子の お国のたより
おとぎの国の ロシアの
夢のおそりが 運んでくれた
パルナス パルナス
モスクワの味 パルナス パルナス
今はもう廃業されて久しいパルナス製菓。
半世紀以上も経っているのに、今も覚えているこの歌詞。
ナターシャの前で歌ってみせると、彼女は涙ぐんでしまった。
「甘いお菓子なんかなかった、
おとぎの国でもなかった・・・。」
しかし、彼女は強いロシア女性。
「だから、今はこうして、甘い物、美味しい物ばかり食べているの。」
と、肝っ玉母さんのように肉付きのいいお腹をパンパンと叩いて笑わせた。
「モスクワの味 パルナス
パルピロ パルピロ」
あの頃の子供たちは、まるで呪文のように唱えていた。
「モスクワとは、どんな所なんやろ、姉ちゃん。美味しいケーキやピロシキが沢山あるんやろうなぁ。」
弟の口癖だった。
「さぁ、私もよう分からん。」
二人でテレビ画面に頭を突っ込むように見ていたCM。今では、あんなに楽しみにしていたマンガのことなど皆目覚えていないのに、このCMと弟との思い出だけが鮮明に残っている。
あの呪文は、本当に叶ったのかもしれない。ナターシャの作ってくれるモスクワの味に舌鼓を打つ度、どこからともなく
パルピロ、パルピロと、呪文の声が聞こえてくる。
人生とは誠に不思議なものだとつくづく思う。
審査委員特別賞 「愚女子を救った広告」 大阪府松原市 原 浩子
「セルボにはいい男を乗せて走りたい」
浅丘ルリ子さんが颯爽と軽自動車を運転して呼びかけるCM。高校生だった私は心奪われた。男性に乗せて『もらう』のではない、『乗せる』のだ。セルボの浅丘さんはたくさんの男性を従えている。軽自動車のCMとは思えない、浅丘さんのゴージャスな美しさ。なんやねん、これは! めちゃカッコいいやん! と感動した。
このCMに出会わなかったら、私は自らの個性を否定し、自分を無理やり曲げ、窮屈で退屈な人生を送っていたのではないか。それどころか、この世にいなかったのではないか。このCMに出会わなかったら、いまのCMプランナーとしての自分も、きっといなかった。
セルボのCMと出会う少し前、中学一年生の時。私は学級委員の副委員長に推薦された。しかし、『副』のつかない委員長候補の男子が、私は気に食わなかった。勉強も運動も私よりできない、真面目なだけが取り柄な冴えない感じの彼より、私は下?憤った私は、
「副ならやりません。委員長ならやります。みんな、彼と私のどちらが委員長にふさわしいか、投票してください。そもそも男子が委員長、女子だから副委員長、という学校のルールはおかしいと思いませんか?人としてどちらがこの学級をひっぱっていけると思うか。冷静に判断してください」と演説した。投票の結果、私は中学校始まって以来、初の『女子学級委員長』に選ばれた。
今なら珍しくも何ともない話だ。しかし、当時は男女雇用均等法も生まれておらず、「結婚したら退職します」という誓約書に、女子はハンコを押さなければならない時代だった。
だから学級委員になった後、様々な嫌がらせにあった。朝礼では学校中でただ一人、男子の列の先頭に並ばされ「おとこおんな」と上級生にからかわれたり。男性教師にまで「どんな奴か見にきたけど、小柄やし可愛くもないし、別に普通やな」と蔑みながら言い捨てられたり。女子はおとなしくしていないと、ひどい目に合う。
『愚女子』。不良少女とまではいかない。強い意志を持ちすぎ、後先考えず主張する愚かな女子。それが思春期の私だった。だが、そう簡単に自分を変えられるはずもなかった。
高校に入ってから、『強い意志を持ちすぎる愚女子』はパワーアップした。演劇で私の夫役を演じる男子の演技力にクレームをつけ、「チェンジをお願いします!」と監督に申し出たり、つまらない授業をする先生、仕事より家事を優先する先生に文句を言うため職員室を襲撃したり。愚女子の授業妨害で泣き出した女性教師もいた。前身が旧制の女学校で女子が元気な校風だったとは言え、時代のムードからかけ離れた存在だったと思う。当時、アイドルと言えば松田聖子・河合奈保子など、ただただ可愛いい子がど真ん中だった。高校生活でもそんなアイドルをトレースしたような、「うん」と「ううん」としか言わない女子が人気。おしゃべりで、気が強い愚女子など、当然恋愛戦線にも全くお呼びでない。実に愚かな生き様だ。
そんな愚女子は高3で、厳しい体育教師のクラスに入れられた。もちろん担任からは露骨に嫌われた。体育の教師は運動部の生徒をかわいがる。私のように運動に背を向け、詩や小説を書く文芸部に所属していた上、女の子らしくなく騒々しい、おまけに教師の言うことを聞かない『意思を持ちすぎる愚女子』は嫌われやすく、体罰もたくさん受けていた。素手で殴られるのは良いほうだ。ある日、体育教官室で正座させられ、竹刀でバシバシ殴られているところを、参観日で学校に来ていた母親に見られた。
「あの・・・先ほどお叱りを受けていた原の母親ですが、うちの子は何をしましたでしょうか?」
と、母は小さく体を丸め、おずおずと担任に尋ねていたそうだ。
「そんな目にあわせて、無様な、しかも女の子らしくないところを母親に見せて、なんて申し訳ない
」 体を壊す工場勤めをしながら、娘を高校に行かせるため必死で働く母を辛い目にあわせた、その愚かさが悲しく悔しかった。
愚女子な自分はこれからどんな風に生きて、どんな仕事をして、どんな大人になったらよいのか。自分を変えなければいけないのか。自分を変えて、明らかな不正義にも目をつぶり、教師に目をつけられず、社会と足並みを揃えられる人間に変わらなければならないのか。皆目、見当がつかないまま、勉強やスポーツに打ち込む同級生の背中をぼんやり見つめていたあの頃。母に言われるがまま受験した公務員試験にもすべて落ち、途方に暮れていたあの頃。どうにも先が見えず苦しくて、近鉄電車のレールを見つめ、飛び込もうとしたあの頃。
そんな愚女子をセルボのCMが背中を叩き、励ましてくれた。勇気づけてくれた。
「あなたの時代が来たんだよ!あなたは、あなたのままで頑張ればいいんだよ!」
セルボのCMは、男性に従うのではなく、自らの意思を持ち、行動する強い女を礼賛してくれた。『意思を持ちすぎる愚女子』を初めて認めてくれる大人が現れたと思った。
「よし、大人になってお金を稼いで、セルボに乗るぞ!男の助手席に乗せてもらうのではなく、いい男を乗せるカッコいい女になるぞ!」
と心躍らせた。将来、何になってお金を稼ぐのかは解らないままだったが、セルボのCMに出会ったことで、立ち直ることができたのだ。
公務員試験に落ちたおかげで、私は親に負担をかけさせることを済まなく思いつつも、進学させてもらった。愚かな高校時代を悔い改め振り切るように、愚女子は生まれ変わって、国文学に打ち込み、文芸部で培ったなけなしの取り柄を磨く道を選んだ。アルバイトでお金を貯めて映像・シナリオ学校に通ったのだ。その結果、母が望んだ教員採用試験や様々な企業の就職試験にまたも落ちまくった挙句、唯一受かった広告会社のクリエイターとして、苦しみながらも自分が自然体でいられる仕事を続けさせて頂いている。
しかしいま、私は創れているだろうか。あの日の私を励まし立ち上がらせたセルボのような広告を、この日本で。心を病み、苦しむ人が増え続け、自殺者が年間3万人にも達した日本で。災害続きでたくさんの人が無念にも命を落とす日本で。人を救う広告、心に届く広告を創れているだろうか。とても残念で恥ずかしいことだが、私は創れていない。広告から生きる道しるべをもらった私は、広告に恩返しをするのが筋なのに、全く恩返しができていない。
広告主が広告への投資効果を求め、それが数値化できるようになってから、私たちクリエイターには余裕がなくなってきた。競合プレゼンが増え、勝つためにはどうすれば良いか頭を悩ませるようになった。メディアも従来のテレビ・ラジオ・新聞・雑誌に加え、Web の登場と進化により、学ぶべきことも増え、ますます余裕がなくなった自分を自覚する。そして、デジタル領域の装置ばかりに目が行き、それらを受け取る生活者の細やかな気持ちに目が届かなくなっている自分もいる。広告業界はいま、ものすごい速さで進化・変化しているからだ。
「セルボには、いい男を乗せて走りたい」
このコピーはかつて、強い女の時代が来たことを、カッコいい女のスタイルをプレゼンテーションしてくれた。しかし、いまの私に向けては、人を救う広告を創るクリエイターとしてのレシピを示してくれているのではないか。自分の意思を持ち、強く打ち出す女性はいまの時代、珍しくもなく当たり前の存在だ。「いい男を乗せて走りたい」と言うならば。言われた周囲を納得させられる人間性を身に着けること。それは、例えば何があっても動じない強さであり、許す強さであり、すべての事象をポジティブに捉えて前向きに進むこと。そして、生活者の悩み苦しみを俯瞰で見渡せる母性を身につけること。そう定義づけた。難しい。自らハードルを上げている。でも、この定義と格闘し、もがき苦しむ中から、人の痛みに寄り添えるメッセージが生まれると思う。心に届き、人を救う広告を創る人になろう。広告 に生かされたことを感謝しつつ。
審査講評 広告エッセイから見える人と暮らしの新しい絆 審査委員長・協会理事 植條則夫
一、九年目を迎えた広告エッセイ大賞
この広告エッセイの募集が、スタートしたのは二〇〇七年であるから、今回ですでに九年目を迎えたことになる。
この間広告を取り巻く世界もめまぐるしく変化していることは言うまでもないが、もっともこれは広告の戦略や表現手法の進化だけでなく、その背景には企業や生活者を取り巻く政治、経済社会の変革や、コンピューターを中心とする科学技術がもたらしたメディア状況の変革があったことは、今回のエッセイからも十分読み取ることができる。
二、七十一篇の広告エッセイが語るもの
さて、こうした状況の中で迎えた第九回の広告エッセイ大賞の募集には、女性四十三人、男性二十八人、合計七十一人の方々からの作品が寄せられた。そのうちの最年長者は八十五歳の女性、最年少者は十八歳の女性である。
また、入賞者の内訳は女性、男性とも五名ずつである。
それらのエッセイには、作者の暮らしや心の変化が様々な感動や評価となって綴られており、広告活動に携わるすべての関係者に多様な教訓と指針を残してくれているように思われる。
三、広告エッセイ大賞の入賞作品が訴えるもの
今回(第九回)の広告エッセイ大賞に応募された作品は、それぞれ作者と広告との深いかかわりや思い出などが描かれていて、読む人に爽やかな印象を与える力作が多かった。そんな中で、エッセイ大賞に輝いたのは、脇本昭彦氏の「おばあちゃんとの週末」である。
このエッセイでは、作者が子供の頃オンエアされていたサミーデイビス・ジュニア出演のサントリー・ホワイトのCMが採りあげられている。
おそらく中年以上の方なら、黒人のサミーデイビス・ジュニアが、ウイスキーとグラスを前にして軽快に踊る姿をご記憶の方も多いことと思われる。
次に審査委員特別賞は、原浩子氏の「愚女子を救った広告」が受賞した。「人の痛みに寄り添えるメッセージ。心に届き人を救える広告を創れる人になる」という作者の決意が伝わってくる好エッセイとして評価が高かった。
また、優秀賞には続いてご紹介する八作品が受賞することになった。それぞれ作者のユニークな体験や独自の視点が、味わい深い作品として完成されたエッセイである。
まず、松川千鶴子氏の「モスクワの味」がある。このエッセイは、いうまでもなくパルナス製菓のCMで、スローガンである「モスクワの味、パルナス」は、今でも私の若い日の記憶に残っており、久しぶりに口ずさみながら、このエッセイを読ませていただいた。ただ、今はもうパルナス製菓は残念ながら日本には存在していないとのことである。
後年、松川さんの長女がロシアの男性と結婚したとのことで、松川さんとロシアの不思議な縁に、胸を打つ熱いものを感じさせていただいた。
次の優秀賞は宮原泰幸氏の「名作は、まず香り立つ」である。この作品は、かつてサントリー・リザーブなどのCMに出演していたミッキー・ロークの波乱の人生について語られたエッセイである。この中で宮原氏は、当時のリザーブのキャッチコピー「名作は、まず香り立つ」をあげ、「私はようやく、あのCMを理解した気がした」と語っているのが印象に残っている。
同じく優秀賞は梶川美輝氏の「酌み交わす日まで」である。梶川氏は、今回の最年少(といっても二十四歳だから、飲酒はOK)である。
このエッセイでは、幼い日に父とドライブ中に聞いたサントリー「マッカラン」のCMが素材となっている。子供の頃のお酒への憧れと、反抗期を経て成人し初めて体験したウイスキーの味。親子が大人同士として酒を酌み交わすという夢が描かれている。
次は安藤知明氏の「広告の縁」である。このエッセイは若者の就労支援に携わっていた作者が、新聞の一面広告から得た縁をもとに広告の効用を説いている。
作者は現在サハリンと呼ばれる樺太で生まれ、日本に引き揚げてきた。生誕の地を訪ねたいという思いをフルシチョフ第一書記に手紙で書き送り、返事を手にした体験を自信として、目ざした企業トップに直接手紙を書く。
その結果、思いが通じ、面談へと漕ぎつける。
広告、手紙、面談と、縁はどんどん広がりを見せる。その様子が活き活きと描かれている。
次の優秀賞は西崎めぐ美氏の「忘れる事の無い広告に出逢えて」がある。
障害を持つ次男を見送った後の喪失感と、生きる目標すら失いかけていた西崎氏が、ある日耳にした平井堅の優しい歌声と歌詞。それは、ミサワホームのCMで、その歌詞が西崎氏の心の琴線に触れ、大切な家族を想い、また前に進み背を押してくれた体験を綴ったエッセイである。
続いては船本由梨氏の「新しい私になって」がある。この作品は恋をして今まで知らなかった自分を発見した女性の瑞々しい気持ちや恋心が新しい洋服を選ぶということを通じて描かれている。
次の優秀賞は田中清志氏の「爺ちゃんと女子高生」で、ボランティアの爺ちゃんと女子高生の交流が描かれている。「タンスにゴン」というヒントから話題はどんどん広がり、コミュニケーションが成立する。記憶に残るCMは世代を超えて共通の言葉になり、新しい出会いや発見は国境をも超えて広がることを、このエッセイは教えてくれた。
優秀賞の最後は西村孝子氏の「『ほろにが』人生」である。西村氏は今回のエッセイ大賞の全入賞者のなかの最年長者であるが、そのタイトルが示す如く、西村氏のほろにが人生の断面がみごとに描かれた作品であった。
四、むすび
これからの広告は表現が洗練されているとか、新しい手法を駆使したアイデアやアプローチが試みられていることも重要だが、広告の受け手である生活者の共感を呼ぶためには、それ以前に広告が送るメッセージの中に、今までの生活者が気づかなかった新しいライフスタイルや価値観を備えているものでなければ、単なる魅力の乏しい情報の提供に終始してしまうのではなかろうか。その点、今回応募いただいた多くのエッセイは、従来のエッセイの概念にとどまらず、生活者としての様々な視点から、今後の広告のあり方や新しい視点を提案していただけたことに深く感謝しなければならないと感じている。
そういう意味からも、このエッセイ大賞への応募作品は、それぞれ広告の新しい明日へ多くの提案やヒントを示唆していただいた。
エッセイの入賞者をはじめ、ご応募いただいた皆様に心からの感謝を申しあげ講評といたします。ありがとうございました。
(エッセイスト・関西大学名誉教授・社会学博士)