第7回広告エッセイ大賞受賞作品

大賞 『宝物』      大阪府箕面市(会社員) 髙田 真理

「師匠がね、今朝亡くなった…。」
蝉の鳴き声も一段落した昨夏の末、突然の訃報だった。
「師匠」というのは、私が弟子入りをしていた「紙芝居の師匠」である。ついこの間まで、ステージに立っていたのに…。呆然と立ち尽くしてしまった。

師匠、通称ヤッサンは二六歳で駆け落ちして、着の身着のまま東京から大阪に出てきた。二八歳のとき、小さいころから憧れていた街頭紙芝居屋の免許を取得。それから四十年間、紙芝居一筋の人生を歩んできた。四人の子供を育て上げ、依頼があれば、日本全国、アメリカやイギリスなど海外にも飛んで行った。
六十歳を超えても、一日五回以上の口演をこなし、五十人近くの弟子を育てた。「自分のやりたいことで喰う」という精神を貫いた、まさに「生き様」という生き方をした人だった。

生前、師匠ヤッサンにあるアルバムを見せてもらったことがある。
「これは、俺の宝物だ。」
と取り出したアルバムは所々が擦り切れていた。受け取ると、ずっしりと重い。
私はゆっくりと表紙を開いた。一ページ目は、三十年前、四十歳くらいのヤッサンが紙芝居をしている大きな白黒写真。真っ白いスーツに身を包み、大きな口を開けてお客さんに問いかけていた。
戦後、街頭紙芝居屋は定職につかない人が、手っ取り早く稼ぐ方法でもあった。その流れから「紙芝居屋は汚い、見るな」という風潮があったという。汚い紙芝居屋のイメージを払拭したいと、オートバイに紙芝居をのせて、スーツ姿の「かっこいい紙芝居屋」として全国巡業をしていたのだ。

「次のページを開いてごらん。」
師匠に促されて、私は丁寧にページをめくった。
「おぉっ!」
私は思わず、感嘆の声をあげてしまった。見開き一面、びっしりと写真がはり付けられていた。どの写真も子供の顔顔顔…。子供の人数が少ない写真で三十人くらい、多いものだと百五十人は超えていた。
紙芝居が終わった後に撮ったのだろう。スーツ姿のヤッサンを中心に、3歳くらいから小学校高学年くらいまでの子供たちが、並んでカメラの方を向いている。白黒写真なので、一人一人の顔ははっきりとは見えない。ただ、一人残らず、大きな口を開け、はちきれんばかりの笑顔なのはよくわかるものだった。
中には顔のほとんどが口と言っても過言ではないほど、大きな口を開けている子もいた。
「みんないい顔をしてるだろう。紙芝居の口演が終わると、必ずこうして全員で写真を撮ったんだ。」
と師匠が言った。
次のページも、その次のページも、おかっぱの女の子、坊主の男の子がカメラに満面の笑顔を向けている写真が続いた。子供たちの親らしき大人が写っている写真もあった。大人たちは少し照れながらも、同じように大きな口を開けて笑っている。よく見ると、何か声に出して言いかけているように思えた。
私はたまりかねて、師匠に尋ねた。
「写真を撮るとき、何かみんなで掛け声をかけていたのですか?」
「そうだ。なんだと思う?」
師匠はいたずらっ子のような表情を浮かべて聞き返してきた。
「『ハイチーズ』じゃあこんなに口は開かないし…。『大阪』?…でもいきなりこんな笑顔にはならないですよね。えっと、なんだろう。」
私は返答に困ってしまった。

「『ハエハエ カカカー』って言ってるんだよ。」
師匠が口を開いた。

「え!?」
あまりに意外な答えだったので、私は思わず聞き返した。
「ハエハエ カカカ?ですか?」
「『ハエハエ カカカ キンチョール』だよ。」
一九八〇年代のキンチョウのCMに使われていたフレーズである。今となっては言わずと知れた名作であることは承知だが、私が生まれる前に放映されていたCMとあって、記憶になかった。

師匠は続けた。
「CMの影響は強いもんだ。当時『ハエハエ』って言ったら、誰でも知ってるフレーズだった。二、三歳の小さな子供でも『ハエハエ カカカァ』って、一丁前に言うんだよ。『ハイチーズ』と使い古した言い方をしても、子供は見向きもしない。『写真なんて、いやや。』と帰ってしまう子もいる。
俺は、決まって写真を撮るときは『ハエハエ カカカー!』と大きな声で掛け声をかけていた。するとどういうわけか、紙芝居を見終えて気持ちが高揚している子供たちはその興奮状態、一体感のまま、『ハエハエ カカカー!』ってね。耳が痛くなるくらいの大きな声、いい笑顔でカメラに向かうんだ。」

改めて、一枚一枚写真の笑顔を見た。なるほど、みんな『カカカー』の口型である。眺めていると、写真から『ハエハエ カカカー』と、生き生きとした声が聞こえてくるようであった。

「な、すごいだろ。俺の宝だ。こんないい顔を見られるからな。だから俺は一生、紙芝居がやめられないんだよな。」
師匠は熱いお茶をすすりながら、目を細めて言った。

それから、半年後、師匠は逝ってしまった。お葬式には、子供のころ、師匠の紙芝居を見たという人々が駆けつけていた。
「もう一回、ヤッサンの紙芝居、見たかったな。」
という声が、啜り泣きとともにあちらこちらで聞こえた。
私はふと、あのアルバムのことを思い出した。白黒写真に写っている人は来ているのだろうか。カメラに向かって『ハエハエ カカカ』と声を合わせたことを覚えているだろうか。

『ハエハエ カカカ』が切り取った、あの瞬間のあの笑顔は、ヤッサンという紙芝居屋のモチベーションの一つであり続けた。そのモチベーションが、また次の笑顔を生んでいった。

「だから一生、紙芝居がやめられないんだよな。」
と、アルバムの笑顔を見ながらつぶやいた師匠の姿は、今も私の目に焼き付いている。

「たくさんの笑顔をありがとうございました。」
多くの人を笑顔にしてきた師匠に、弟子として、また一ファンとして、感謝の気持ちを込め、白い花を手向けた。

優秀賞 『チラシ一枚は汗一粒』             大阪府大阪市 天野 志保

引きつった笑顔を携帯電話のデジタル画面に映し、「はぁ」とため息をついた。
チラシ配りをしてまだ、一日目だというのに私の心は、この小さな紙切れ達にすっかり骨折られていた。
時は、通勤ラッシュの朝。場所は地下鉄の心斎橋駅出口。十九歳の私は紙袋に千枚ものチラシを詰め、意気揚々と人の波を待ち構えていた。
さかのぼる事、一週間前の昼過ぎ。私は久々の着信にすこし戸惑っていた。電話主は先月辞めた中華料理店の店長だった。彼はたどたどしい日本語でこう言った「あのね、天野ちゃんにチラシ配ってほしいんだよ!もちろん、おかねは払うよ!」店長はそう付け加えた。彼の話によると、近頃、集客率が悪く、商売あがったりだそう…。そこで、チラシ配りを考え付いたらしいが、自分も料理人達も皆中国人で、言葉の壁があり、何とも不安で日本人であった私の顔が頭に浮かんだらしい。「お願いだよ!頼めるの君だけだよ!」何度もそういう店長に私は少し思いを巡らした。きっと、気前のいい店長のことだ、また、おいしいまかないも食べられる!財布と胃袋をガッツリ掴まれた私は、いとも簡単に首を縦に振っていた。
でも、それが苦悩の始まりだった…。
数日後…
『はい!天野ちゃんこれ!!』
アスパラガスみたいに細長い店長は嬉しそうに膨らんだ紙袋を店先で私に手渡した。(うぅ…!?なんか、想像以上に重たい…。)笑顔で嬉しそうな店長をよそに私の第一後悔は始まった。『あのぉ…、これって何枚あるんですか?』
『うぅ~んとね…、たぶん1000枚位かな』『え!1000枚』幸か不幸か接客態度もよく、ミスもほとんどなかった私への店長の期待値はこんな風に悲しく私に襲いかかってきた。
『天野ちゃんならできるよぉ♪皆、きっとどんどんとってくれるよぉ♪』
そして、一週間後、ついに決戦の時がきた。
しかし、恥ずかしながら、実はティッシュ配りすらしたことのない私は内心戸惑っていた。正直、店長がするのと大差ないだろう…そんな事を、今更くよくよ考えながらも、地下鉄の地上出口に到着した。時間は今から六十分、ラッシュがだいたい終わる九時まで…。
『こんにちは!台湾料理○○です!宜しくお願いします!』
『こんにちは!台湾料理○○です!宜しくお願いします!』
『こんにちは!台湾料理○○です!宜しく…あ、あのぉ…お願い…』
何だろう。まるで、私が見えないように沢山のサラリーマンのおじさんたちが私をすり抜けて行った。品のいいスーツを着たOLさんたちも颯爽と歩いていく。
皆私が見えないのだろうか…。どんどん声は小さくなって、差し出していたチラシをつかんだ右手はいつしか下がっていた。それから四十分は地獄だった。誰も関心を持ってくれない中、それでも諦めず必死に同じ言葉を口から吐き出す。『台湾料理!○○!』
くそぉ…、一体私の何がいけないんだろう。携帯画面で時間を確認するとその電子数字よりも引きつった笑顔に目がいった。私、こんな顔で配ってたんだ…。こんな怖い顔してたら、誰だって受け取ってくれないかも…。結局、初日の成果はたったの十枚だった。ちなみにこの十枚はクラスメートに無理やり配った分だ…
店長からの何枚配った?というメールには思わず三十枚と嘘をついてしまった。自分の無力さと罪悪感にさいなまれた私は、なんとか、なんとかして明日を乗り切らねばとベッドの中でひたすら頭をひねっていた。そうして、ベッド脇にあったチラシを手に取った。オモテ面をまじまじと見て、私はあることに気付いた。なんか地味だ…。もし、私が道でこんな茶色い地味なチラシを目にしても果たして手に取るだろうか…。表紙は木目調の背景、真ん中には金色で店名が抜いてある、よく言えばシックで高級感ある雰囲気だが、正直目立たないし、何のチラシか一目で分からなかった。さらに、観音開きでメニューやお得なセットの情報をふんだんに載せている割にクーポンもついてなければ、ポケットティッシュでもない。まさに、“THE お高くとまったホテルのパンフレット”と言った感じだった。チラシ配りなんかには不向きな装いだ。これじゃ、絶対だめだ。ため息をついて、私は何となく手に取った一枚を裏向きに折りたたんでみた。
(お?…おおぉーーー!!!これは…!?)
なんて魅力的なチラシなんだろう!沢山のおいしそうな料理の写真であふれたカラフルな表紙ができた。『お得!バイキング!』のカラフルなロゴが思わず目に入る。なんで、今朝これに気が付かなかったんだぁ!!私は心の中で叫んだ。(明日は絶対大丈夫!Yes!I can!)
翌日、私は逆さに折った無数のチラシを手に地下鉄出口へ再び出陣していた。
『おはようございます!○○です!宜しくお願いします!』
おぉ??通りゆく人が昨日よりもチラシに目をやってくれる気がした。やったぁ!私は心の中で小さくガッツポーズした。しかし、受け取ってくれないのには変わりない。おかしいな、何がいけないんだろう…。開始から十分たって私は人混みからいったん離れた。そして、じっとサラリーマンやOLたちを見た。おお、朝から忙しそう…。ほんと、ご苦労様ですって感じだな…。忙しそう…。あぁ!そうだ、みんな忙しいんだ。そりゃそうだろう。朝から昼ごはんや晩御飯の事考えている人なんてほとんどいない。みんな忙しくてイライラしている。私はまだどっしり重い紙袋片手に駅から外れた人通りがそれほど多くない道に移動した。それでも近くに駐車場や会社があったりして割と人は行き来する。私はそこの十字路に立った。様々な人が歩いてやってくる。お父さんくらいの会社員の男性。私はとっさに前へ出た。『もしよかったら、忘年会に中華料理はいかがですか?』『え?』男性は少し拍子抜けした顔をしていた。私も、内心自分の口から出た言葉にびっくりした。特に考えたわけではなかったけれど、ああ、お父さんもこの時期飲み会とかよく行ってるなとふと浮かんだのだった。『本格中華の食べ放題、飲み放題です!』『へェー。一応もらっとくわ。うん。』男性はまじまじとチラシを見つめてチラシを快く受け取ってくれた。『ありがとうございます!』何だろう…この言葉にできない感動は…。私は去りゆく男性にもらわれていった一枚のチラシをまるで旅に出すわが子のように愛おしくじっと見つめていた。どうか、この一枚が明日のお客さんになりますように…。私は切実にそう願った。それから、私の逆転劇が幕を上げた。大きな荷物を持ったおばあさん。『おはようございます!今日も寒いですね。おいしい中華はいかがですか?体が温まりますよ。』綺麗めなOLさん。『ランチタイムは杏仁豆腐までついているお得な中華ランチもありますよ♪』大阪のおばちゃん『○曜日はバイキング割引行ってます!めちゃくちゃおいしくて安い中華料理ですよ!』時に笑われたり、へェーと関心を持ってもらえたり、ほとんどの方が一瞬足を止めてチラシを受け取ってくれた。私にとってはその0.5秒足らずがとっても長く感じた。受け取ってくれない人も一瞬私が掲げたチラシに目をやってくれた。昨日とは大違い。はっとして携帯画面を見るともう十分もオーバーして配っていた。昨日は苦しかった時間が今日は、あっという間に終わった感じだった。今日の成果は七十枚だった。昨日を大きく上回る結果だった。
たかが、チラシ。されど、チラシ。私は時折、商店街でティッシュを受け取りふとあの日の自分を思い出す。チラシを渡す時、私がおじさんやOLさん、おばあさんたちに渡していたのはあの紙切れだけだったのだろうか…と。一人のおばあさんと目が合った時、彼女はこう言って私のもとに歩み寄ってきた。『私ももらうわ。あなたを見て、中華屋さんの料理食べたくなっちゃった。』おばあさんの「あなたを見て」という言葉に私は心打たれたのだ。きっとチラシや広告って宣伝する方の一方的な気持ちでは成立しないし、だれも見向きもしない。こうしたら喜んで貰えるだろうとか、もし自分がお客さんだったら何を求めるだろうとか、当たり前だけれどそんな気持ちが本当に大切なのだ。その為には、工夫も必要だ。チラシを裏向きに折ったのは、目立つように、それとお客さんが求めている情報が一目で分かるようにする為だった。値段、メニュー、料理の写真。声のかけ方もその人に合ったものにする。みんながみんな辛いものが好きではないと思うし、バイキングに興味を示すわけでもない。全く同じチラシでも配り方次第で十人十色のチラシに変わると思う。おいしいものがもっとおいしそうに。綺麗なものがもっとピカピカ光るように。そして、それらが誰かの心をもっとHappyに…、人々が素晴らしいものに巡り合えるように…。
そんな懸け橋になるのが広告だったりするのだろう。
もしかしたら、私のチラシだって。
最後の一枚を配り終えた後に食べたまかないは、チラシ配りというスパイスで今までで一番おいしかった。

優秀賞 『目のつけどころ』             兵庫県西宮市 内藤 恵子

先日朝刊をあけると、シャープの空気清浄器の広告が載っていた。女優の水川あさみさんが『この空気きれいですよ』と言ってるかのように、紙面中央で笑っている。
「シャープの全面広告って、久しぶりに見た気がするね。」私は出勤前の夫に話しかけた。「赤字で大変だから、広告費はなかなか出ないんじゃない」と答えながら、夫も新聞の広告をのぞきこんでいた。
私は、シャープの広告に特別な思い出がある。夫はそのことを知っているかな……?

会社員の夫は、2001年から2007年まで単身赴任をしていた。当時ふたりの息子は3歳違いの中学生と高校生、我が家に夫が単身赴任する以外の選択肢はなかった。
前半はアフリカのモザンビークにいた。アフリカ大陸南端に位置する彼の地は、日本から本当に遠い。2回乗継をしなければならず、片道24時間近くかかった。
後半は、ミャンマーの都市ヤンゴンに駐在した。当時のミャンマーは軍事政権で自由な雰囲気はなく、同じアジアと言っても気持ち的には非常に遠い国だった。
ニューヨークやロンドンならひとりで暮らしてもそれなりに楽しく過ごせる。しかし、日本人も少なく環境の厳しい両地での単身赴任は、とても大変だったと思う。

夫は年に3回ほど、休暇で日本へ一時帰国していた。
夫は日本で暮らしているとき、あまりテレビを見ない人だった。それなのに休暇で日本にいるあいだ、テレビの前に座り、画面を食い入るように見ていることが度々あった。
何かおもしろい番組やっているのかな?夫があまり熱心に見ているので、私も気になってリビングのテレビに目をやる。
映っているのはドラマでもスポーツでもない。夫が見つめているのは、なんとひたすらコマーシャルなのだ。
「日本のコマーシャルって本当によくできている、よく考えているよなぁ」しきりに感心する夫。
「そ、そうかな、コマーシャル見ながらそんなこと考えたことないからよくわかんないよ」私は、そう答えざるを得ない。
モザンビークやミャンマーでも、日本語の衛星放送はあった。しかしさすがに、日本のコマーシャルを見ることはなかったようだ。
夫はサユリストの世代でもないのに、吉永小百合さんが好きだった。だから、彼女が着物姿で話しかけるシャープのコマーシャルが、特にお気に入りのように思えた。
『目の付けどころが、シャープでしょ。』あのころは、コマーシャルの最後にこのフレーズが必ず出ていた。
夫は、「日本のコマーシャルは目の付けどころが違うんだよ、才能あふれてるよな」といつも言うのだった。

実は私は当時、かなりストレスを感じる日々を送っていた。
年頃の男の子はただでさえ難しい。ましてやそれが受験生だ。気を使った方がいいのか、放っておいた方がいいのか…… 母親ひとりではもてあますことが多かった。
夫はもともと家庭的で子育てもよくするほうだった。しかし一緒に暮さないと、いろいろなことに温度差が生じてくる。
赴任先では、休日ゴルフをしていると聞けば『私がひとりで子供と向き合っているのに、あなたは遊んでいるのね』とむっとくる。
「勉強なんか本人に任せておけよ。学歴だけが人生じゃあるまいし」。したり顔でそう言われると、私がまるで教育ママみたいじゃないと、これまたむっと来るのだ。
私は毎日毎日大変なんだよ。あなたにはリフレッシュする休暇があるけど、私にはないんだからね!
心の中ではそう思うのだ。しかしそれを口に出してけんかすることは、どうしてもできなかった。
日本にいたら何とも思わないコマーシャルなのに、夫はあんなに感激して見ている。ふだんそんなに大変な環境の中で生活をしているんだ、休暇のあいだぐらいイヤなことを言うのはやめよう……
私は腹立たしい気持ちと、夫をいたわる殊勝な気持ちとを、行ったり来たりしていたのだった。

あれから年月は経った。長男はすでに家庭を持っている。大学院生の次男も来春からは社会人だ。
今、私たちは夫婦ふたりだけで暮らしている。いっしょに暮せば不満のひとつやふたつ出てくる。そして私は、腹が立ったときは、夫に向って文句を思いっきり言っている。
「かんべんしてくれよ」私の悪態にへきえきしてそんなことを言いながらも、夫はけっこう気楽そうに毎日を送っている。
わたしもそうだ。夫婦は同じ温度の中で暮らして、仲良くしたりけんかしたりする生活が、いちばん自然なのだと思う。

私はシャープの広告を見ると、当時のことをいろいろ思い出す。
「『目の付けどころが、シャープでしょ。』というフレーズあったでしょ、あれ、今は違うのに変ったんだって」私は新聞の広告を見ている夫に言った。
「へーっ、むかしあれ見て感激したよな~」夫もあのコマーシャルのことは覚えていた。
でも、あのとき、コマーシャルに感激している夫を見て、私がどう思っていたかなんて一生知ることはないだろうなぁ、たぶん。

優秀賞 『たいこまんじゅうの詩(うた)』             大阪府大阪市 藤原 初枝

冬至のころである。ある旅を終えた私は、大阪のターミナル駅まで戻ってきた。時計はとっくに五時を回っている。通勤客らでごったがえすコンコースをすり抜けて、駅前広場に出る。日は落ちているのに、周りをとりまく大小のビル群には、ネオンがともり、まるで不夜城のようなありさまである。
ほどなく私は、広場の片隅にあるバスターミナルへの通路を急ごうとした。
通路には、駅ビルの軒下を借りた小さな店舗が、ずらりと並ぶ。喫茶店、ブティック、コンビニ、土産物店などが、赤、緑、橙といったカラフルな電光板に、ゴシック体の活字やローマ字を配した看板をかかげている。通路は、ビル群のネオンと相俟ってかがやきを増し、まばゆいほどである。
その内に、ウインドーガラスにひかる素朴な看板が、私の目に止まった。半紙四、五枚分をひろげたほどのスペースに、真っ白な電光をともし、行書体の墨字でたった3文字『御座候』と、無造作に書きながしている。
何とシンプルなネーミングであろうか。まるで江戸時代を彷彿させるような古風さ加減。意味は一体どういうことなのだろうか?
そう思った途端、店内からえもいわれぬ懐かしい匂いがただよい、私をなおも引き留めた。間仕切りされた向こうでは、白い上着に青のキャップを被った職人が、鉄板のくぼみに、溶かした小麦粉を流し込んでいる。
「あっ、回転焼……。そう、あれこそは、たいこまんじゅうだ!」
回転焼は、物心ついたころの私に、母がなんども語り聞かせてくれていた、「たいこまんじゅうの詩」とオーバーラップした。
やがて私は、甘酸っぱさに満ちた母の胎内へ戻っていくような、感傷にひたるのである。

大阪の母なる河、淀川のながれを汲み、毛馬から大川、堂島川を経ていっきに大阪湾へとそそぐ役目を果たすのが、安治川である。
昭和八年秋、私は、安治川の河口にへばりつくようにある町―――港区北八幡屋町2丁目29番地―――の長屋で、産声をあげた。
両親には、一七歳をかしらに三男三女の子供がいたから、私は七番目の四女。また「女の子」の誕生である。男尊女卑の封建的な頃とて、母はともかく、大黒柱の父は、さぞかしうんざりしたことだろう。
29番地の家は、天保山始発の築港本線(チンチン電車)から分岐して、安治川ぞいを走る安治川線の一つ目、「八幡屋町」という停留所の近くにあった。周辺一帯は、縦横十文字に路地筋があり、わが家と似たようなせまい長屋が密集していた。
大阪湾に近いせいだろう。たいていは港湾関係の仕事をする労働者と、その家族が住んでいた。どの家も一様に子沢山で、貧しい。が、隣人たちは人情にあつく、闊達で、何より救いなのは、町全体が活気に満ちあふれていることである。
父はこの町に似つかわしく、若いときから「はしけ乗り」である。碁盤の目のようにある大阪の川筋をはしけで行き来して、貨物を運搬する。当時としては花形職種だ。モータリゼーションの現代からは、想像もつかぬほどの活況を呈していた。鼻っ柱が強くて腕っ節もよい父にとって、この仕事はまさに打ってつけ。暑さ寒さをいとわずよく働いた。酒をこよなく愛しながら……。
そんな父の足を引っ張ったのが、母との間に次からつぎへと子供が授かることだ。石川啄木の「はたらけど はたらけど猶(なお) わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る」でもないが、貧しさから一向にぬけだせない。
母は一八才のとき、香川の小さな島から、父に望まれて嫁いできた。純朴で辛抱づよく、夫には絶対服従のタイプだ。二、三年おきに授かる子供の養育と家事に追われていた。
と、このような環境で、私が三歳になった昭和一一年の秋口、わが家へ寝耳に水のような話が舞いこんでくる。たいこまんじゅうの屋台を商わないか?という誘いである。
ある知り合いの老夫婦は、長年、屋台を営んできたが、寄る年波には勝てず、このさい田舎へ引き揚げたい。そこで屋台の権利はもちろんのこと、商売のコツ、屋台を張る適所、さらには老夫婦の住む借家、八幡屋大通1丁目7番地の権利も、譲りうけてほしいというのである。
さっそく両親は、7番地の家というのを下見に行った。29番地より少し東寄りの、同じ八幡屋町内だ。四軒つづきの角家で、上下それぞれに二部屋と、台所付きの二階建て。29番地よりもはるかに広くて明るい。父は一も二もなく気に入った。さりとて交換条件の屋台をする気は全くないし、できる筈もない。「母さん、お前が、やったらええのや」
夫には絶対服従のタイプだが、もともと人のいい母は、困った人から懇願されて断り切れないタチでもある。それに、少しは火の車の勢い(家計)をやわらげ(助け)てくれるのではとの打算も働き、すべてを受け入れた。
やがて母は、老夫婦おすすめの、安治川線と朝潮運河に交差して架かる「幸運橋」のたもとで、たいこまんじゅうの屋台をはじめることになった。三歳の私を連れた路上での商いである。
当時、八幡屋町と隣町との境に朝潮運河があった。安治川から分流して尻無川の三十間堀川につながる、小さな運河である。戦後は埋め立てられて大阪国際見本市会場や大阪プールに変身、今も地下鉄中央線「朝潮橋」という駅名に名残をとどめている土地柄だ。
その運河に架かる「幸運橋」は、7番地の家からほど近く、母にとって職住近接の距離ではある。おまけに、運河の手前には素人相撲の土俵場や朝潮会館があり、人々が事あるごとに集まってくる。
向こう側一帯の隣町には、公設市場、神社、温泉、劇場などが点在する。そんな繁華街へのとおり道ともなっている「幸運橋」での商いは、願ってもない好場所であった。
たいこまんじゅうは一個一銭、味がよく値段も安いとの評判がたって、おもしろいほどに売れる。その上、思いがけぬ客層があらわれて、母はますます商売に身が入った。
運河の岸辺には、はしけが何艘も係留されて、まるで船溜まりみたい。雑然とつながれたはしけで水路は一層せまくなり、他船が遠慮しながら行き来するといったぐあいだ。
船溜まりに船体を休めるはしけの甲板には、洗濯モノが川風に泳ぎ、七輪にかけた鍋、釜からは、湯気がたちのぼる。タオルでねじり鉢巻の船頭たちが、僚船の男たちと卑猥(ひわい)な会話を、大声でかわしあう。思いがけぬ客層というのは、実は、そんな水上生活者なのであった。
母は、水上生活者の悲哀を知り尽くしていた。
父と結婚して五年ほど、両親もまた神戸港や大阪港を根拠地に、水上生活をしていた。船底の一枚下は、暗黒の海、危険と隣合せだ。が、潮風に打たれて波まくらの暮らしには一種の気楽さがあり、貨物をぶじ届けたときの満足感もある。とはいえ、子供が生まれてみると、あらたな危険に見舞われる。
あるとき、腕白盛りの長男が、勢いあまって海中に落ちた。顔面蒼白。父がとっさの機転で救いあげたものの、母はショックから立ち直れない。ついに家族は岡(オカ)へあがることになった。29番地の家がそれだった。
たいこまんじゅうの上得意さんである水上生活者は、母にとって仲間内みたいなものだった。彼らの荒くれた気性も猥褻(わいせつ)さも苦にならず、むしろ親近感さえ抱くのである。
「姉さんのたいこまんじゅうは、旨いで……」
男たちは暇さえあれば、三六歳の女盛りをからかいがてら、岸辺にあがってくる。そして、母のたいこまんじゅうを買い、ほお張りながら、ひとしきり駄弁っていくのである。
ところが母には運河から吹きつける潮風が、こたえるようになった。冬場ともなれば、なおのことつらい。足許では腺病質な私がむずかり出す。そのうち材料の餡や小麦粉が高騰してきた。あっちの店、こっちの店で、「一個一銭五厘、いや二銭になったそうや」
との噂がながれてくる。しかし母はどうしても値上げに踏み切れない。採算が合わなくなり、赤字ばかりがつづいた。
そうこうするうちに、母は、私のつぎに「生」をうけるはずだった胎児を流産する始末。辛抱づよい母であったが、とうとう二年ほどつづいた屋台を畳んでしまった。
屋台をやめて、わが家の貧しさは、また振り出しにもどった。が、やがて、体調を取り戻した母は八番目の子を宿した。昭和一四年の夏、玉のような「男の子」を出産。私には唯一、弟の出生である。7番地の家では久々に大きな歓声がわきあがった。
「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 優(まさ)れる宝 子に及(し)かめやも」(山上憶良)とばかりに、居直った父はいっそう仕事に精を出しはじめた。

遠い昔日から我にかえった私は、不思議な喜びと勇気を噛みしめている。たいこまんじゅうの屋台の足許で、母にむずかる幼子のわたし。あれから七〇有余年の歳月を、こつこつと歩いてきた私。これら一連の歩みに、あらためて「生」の喜びを感じるのだ。
『御座候』の看板さん
今、町には、カラフルに彩られた電光板やネオン、イルミネーション、筆を凝らせたキャッチフレーズの広告、看板が氾濫して、道行く人の気持ちをとらえようと懸命です。
そんな世相の中、あなたは決して目立たず、楚々とした装いと古風なネーミングで私の心をとらえ、忘却しそうだったノスタルジアを呼び覚まし、さらに、明日への勇気を与えてくださいました。
『ありたがく、ござ候(ございます)』

優秀賞 『CM効果』        大阪府大阪市 平松 淳枝

冬のある日、アニメ番組を見ている子供達の横で、取り込んだ洗濯物を畳んでいました。番組の途中でCMに替わると、子供達はトイレに行ったりお茶を飲んだりと、忙しく動き回ります。私だけが番組より興味をもってテレビを見続けていました。子供が五人もいると、なかなか自分の好きな番組は見られません。子供向け番組にも、子供のように夢中になれません。それだけにCMが楽しみでした。ともすれば子供一色でう まる生活の中で、大人の存在を感じられました。
それでもCMには、「期待したらあかん。」 と思っていました。この時テレビに映っているタレントさんの手には、新商品のシャンプーがあったと思います。彼女の髪は肩より下のロングヘアで、明るいブラウンに染められ、やわらかいウェーブがかかっていました。髪の先まできっちりカーブがついているのに、軽くてふんわり。理想的なヘアスタイルに包まれた卵形の輪郭はつるんとしていて、大人っぽいのに少女のようなかわいらしさでした。すてきな姿につられて、きれいになれるかもしれないという誘惑にかられます。それでも、「私が使ったって同じようにはなられへん。あんな艶々した柔かくて軽い髪になるわけないし、あのタレントさんみたいにかわいくなれるわけないわ。」と思い直すのが、私の常でした。
それにしてもシャンプーひとつにどこまで期待すんねん、と自分にツッコミを入れていると、CMの彼女が最後に一言いいました。「カワイイはつくれる。」
くるくるした巻き毛に指を絡めながら、ニッコリと笑っていました。

「ホンマにつくれる?つくれたらええのに。つくりたいなあ。」

畳みかけのトレーナーを置いて、洗面台の前に立ち、髪を少し濡らしました。ドライヤーの電源を入れてブローしてみますが、やっぱり上手く巻けません。私は不器用でした。今までだって、名古屋巻きもふんわりお団子ヘアもできず、最後には一つにまとめて終わってきました。この時も早々にあきらめて、子供達の横に戻ったのでした。
日が過ぎて暖かさも感じられるようになった頃、就職が決まりました。専業主婦からの再出発です。春は毎年、新生活への準備に忙しいですが、自分の出勤のための用意と、末っ子達の保育所の用意は、滞りなくすすみました。
いざ勤務が始まると、今までと違う忙しさが待っていました。乳幼児に時間通り動いてもらうのは大変です。慌てて食事させている間に、長男のお弁当や次男の提出書類を持たせ損ねたりしました。主人がいつ出勤したのか、分からない日も少なくありませんでした。毎日メイクしていても、楽しむ余裕はありませんでした。
そんなある日、主人が「最近、きれいになったな」とほめてくれました。やはり働くようになって、身の回りに気をつけるようになったからでしょうか。うれしかった筈です。以前の私なら、跳ねて喜んだでしょう。それなのに、この時はプラスの気持ちがほとんど湧いてきませんでした。
なぜなら、勤務先で見劣りする自分に凹んでいたからです。一回り年上の人ですら、私よりきれいにして生き生きしていて、仕事もバリバリこなしていました。休憩中も女子トークの勢い止まらず。通勤中も、髪を軽やかに翻えし、高いヒールを鳴らしながら、あっという間に私を追い越していくのでした。
がんばっても無理なんかな、という気持ちが日に日に膨らんでいきました。仕事も覚え、 子供達も新生活に慣れてきた頃でした。ホッとした反面、疲れが出てきていたのかもしれません。感情が鈍り、会話が億劫になり、テレビを見ても何も感じなくなっていました。
そんなある日、例のCMの別バージョンが流れました。前回も出演していたタレントさんの他にも数人集まって、「おしゃれは楽しいよね」なんて会話をしていました。「そりゃあ、元からかわいい子は楽しいやろうね」、とひがみながらも見ていると、集団の中にひとりだけ、やたら体格のいい子がいることに気がつきました。カメラは彼女の丸い肩を後ろから映した後、顔が斜めから映るように移動しました。私は驚きました。最近人気のお笑い芸人でした。お世辞にもかわいいとはいいにくかった彼女が、くるりと巻いた髪の先をいじりながら、はにかんでいました。その後の内容は覚えていませんが、CM最後の一言は「女の子で良かった。」でした。
私はCMが終わった後も、彼女の姿を思い起こしていました。あの表情としぐさ。もちろん、メイクや髪型がバッチリでも、顔や体つきが変わったわけではありません。それでも、とてもかわいく思えました。
久しぶりにワクワクしてきて、あの「カワイイはつくれる」と初めて聞いた日の気持ちを思い出しました。

——-やっぱりかわいいってええよな、余裕ができたらがんばってみよっかな。——-
すぐに取り組む元気はないものの、とっておきのお菓子を特別な日に向けて、しまい込んだ時のような気持ちになりました。
そしてあっという間に日が過ぎ、特別な日がやってきました。三男の七五三です。家族そろって一生残る写真を撮ります。撮影日は再来週に追っていました。
「母ちゃん、しんどそうやし無理しんときや。」いっそうバタバタしていた私に、そう声をかけてきたのは、今年十二歳になる長女、唯一の娘です。
「どうせ私かわいくないし。」が口癖。親バカながらそんなことないと思うのですが、同級生はもっとオシャレしている為、少し気後れしているようです。小学生でも髪を染めている子、流行のアクセは一番につけている子、毎日バッチリ髪型を整えている子、とみんながんばっています。家計の都合上、服も好きに買えない我が子は、自らひっそりしているところがありました。母として、娘のオシャレ力に責任を感じます。せめてかわいくカットしてもらおうと、美容院に母娘二人分の予約をしました。
家族でお世話になっているこのお店では、乳幼児を連れていても対応してもらえます。リーズナブルなのにサービスが良くて、店内もカワイイ。さらにオシャレが苦手な私でも通いやすい雰囲気です。店員さんがみんな、いつでもニコニコしているから話しかけやすいのです。
さっそく七五三の髪型を相談しました。すると、ブローの基本からヘア用品の使い方、ルーズな三つ編みの作り方など、たっぷり時間をかけて教えてくれました。かなり勉強になりましたが、何より楽しかったです。やっぱりカワイイはつくれるかも。撮影日がとても楽しみになってきました。娘の髪は肩にかかるくらいの長さにラウンド・カットされていて、おろしているだけできれいなシルエットになるように仕上げられていました。
当日、写真館のお客は私たち家族だけでした。建物の二階に案内されて上がると、教室より二回り大きいワンフロアが扇状に見通し良く仕切られていて、撮影した写真確認用モニターが所狭しと並ぶ場所・撮影場所・たくさんの衣装がずらりと掛けられている場所に分けられていました。衣装の場所は選ぶ時に何人か立ち入れるだけのスペースもあり、ゆったりとしていました。待合場所も兼ねているようで、大きなソファと小さいテレビ、おもちゃや絵本もありました。着付けもここでするようです。子供が家族と離されて不安にならないように、という配慮だと思われます。
この場所と撮影場所の境目に、小さなメイク室があり、入口には扉がわりの短い暖簾がかかっていました。着付けを待っている間に入ってみました。
家族全員で入るには厳しい広さでしたが、明るいせいか圧迫感はありませんでした。長い方の壁片側の上半分に大きな鏡、その下に大人の腰より低目のカウンターテーブルが置かれていました。私を追いかけて娘も入ってきましたが、鏡の前に置いてある彩り豊かな女児用コスメを、熱心に見ていました。そんな私達の様子に気づいた従業員さんが「何でも使っていいですよ」と声をかけてくれました。
ご厚意に甘えて娘のメイク開始。眉を整えて、リップを塗って、髪もとき直して。ホットカーラーはちゃんと温めてあったので、あの指に絡まる巻き毛をイメージして、丁寧に巻いていきました。娘とあれこれ言いながら作業していると、「やっぱりオシャレは楽しい、女の子で良かった。」 と思いました。
十分くらい過ぎた頃、着付けが終わったと知らされたので、慌ててカーラーを外しました。すると、私譲りの頑固なストレートの毛先が、くるりときれいに巻き上がっていました。あのCMと同じ、柔かくて軽い巻き毛ができました。
写真撮影の間、娘の髪は優しいカーブを保っていました。お参りに行き、食事をしているうちに、元のストレートに戻ってしまいましたが、私は満足していました。
CMの商品がなんだったか、もう忘れてしまいましたが、もう一度あのCMに出会えたら、ちゃんと買おうと思います。そうしたら一日中、カーブをキープしてくれるかもしれませんから。今度は私の髪でもトライしてみたいです。今からワクワクしています。
CMは商品を買う前から、期待以上のパワーをくれます。

優秀賞 『復刻バースデー 2012』             大阪府吹田市(会社員) 木本 緑

ある日実家に帰ると、リビングのテレビ周りが灰色の機器に埋め尽くされていた。まるで編集スタジオのようだ。
機器の中心で操作するのは、還暦を迎えた母。ビデオデッキとDVDレコーダーのリモコンを両手に構え、せわしなく操作する。
テレビで再生されているのは二〇年以上前の宝塚歌劇。古いビデオテープをDVDに焼き直しているようだ。

今日、テレビでは有料チャンネルやBSでしか見られない宝塚歌劇だが、当時は阪急百貨店と阪急電車の提供番組により、地上波で定期的に舞台を放送していた。宝塚ファンの母がマメに毎回録画していたおかげで、実家には今でも大量のビデオが存在する。まるで、宝塚歌劇歴史館のようだ。

その貴重なビデオを劣化による再生不能にさせてはいけないと、DVDに焼きなおして保存する一大プロジェクトが彼女の中で立ち上がったらしい。
OA機器に詳しい妹が指南役となったおかげで、操作を会得したという母。ここ数日は毎日リモコンを握り、録画作業に没頭しているそうだ。一度始めると止まらない性格なのは重々承知。特に声をかけずおとなしくしていると、ふと母が声を挙げた。

「緑、このCM、懐かしいなぁ。」

画面を見ると、阪急百貨店のCMが流れていた。「Hankyu」のロゴ、包装紙をあしらったテクスチャが色とりどりに画面を舞う。三〇秒の企業CMだ。
その後もオリジナル子供服、生鮮食品、阪急電車の初詣と、阪急グループのCMが次々と画面に登場した。

当時はこのCMが退屈で、再生早送りでスキップしたものだった。阪急グループの提供番組なので、同じCMが繰り返し放送され見飽きてしまったことも退屈の原因だったのだが、飽きるほど見たすりこみ効果と言ったら絶大なもので、大人になった今でも画面を見ると、音楽や歌が自動的に声となって発せられ、画面に合わせて口ずさんでしまう。
そんな自分の声に乗せて、胸の奥深くからあふれ出すように、当時の記憶が鮮やかに色づいてよみがえった。

誕生日やクリスマスと言えば、梅田の阪急百貨店。我が家の、『お約束』だった。
今から思えば宝塚歌劇のチケットがもらえるなど、買い物特典目当てだったようだが、子どもの私にはその不純な動機など意に介する必要もなかった。それよりも年に数回連れて行ってもらえるきらびやかな世界に、すっかり魅了されていた。
シャンデリアがきらめく大廊下、心浮き立つようなディスプレイ。誕生日が十二月の私の記憶の中で、ショーウインドウはいつもクリスマス。サンタクロースの向こうに見えるのは人がすずなりに乗っている店内のエスカレーター。
そんなエスカレーターになんとか合流乗車して、目当ての場所は五階の子ども服売り場。人がいっぱいなので片側を走り抜けることも出来ず、仕方なく立ち止まってエスカレーターがゆっくりと上へ運んでくれるのをうずうずしながら待っていたものだ。
叔父の結婚式のための黒いレースのスカートや、気に入りすぎて何年も着続けた挙句に、飼い犬に引っかかれあえなく最期を遂げたセーターなど、買ってもらった洋服のディテールから廃棄のいきさつまで、鮮明に思い出す。買い物後の大食堂も含めて、私にとってそこはまぎれもなく夢の場所、パラダイスだった。

もう何年も忘れていたそんな光景が、宝塚番組に入っているCMをきっかけとして、再生されるなんて。記憶は鮮明で、色あせていないまま、空間のざわめきや匂いまでも思い出す。
CMの持つ商業性が、その時限りの刹那性を伴って記憶されているからなのだろうか。ミュシャやロックウェルの作品が、いわゆる「画家」の作品とは一線を画し、どこか儚い印象を与え、それが故に広く支持を得ていることと、共通しているのかもしれない。

阪急百貨店は七年におよぶ改装期間を終え、今秋リニューアルオープンを迎えた。
子どもの頃に大好きだった『阪急』は、大人になるとともに自分の中で存在感を失い、すっかり疎遠になったと思っていた。街にはいろんな商業施設が立ち並び、生活者にとっての『買い場』は日々移り変わる。わざわざ百貨店に行かなくても、困らなくなった。
そんな毎日を過ごす中で、阪急百貨店に特別なロイヤリティを感じてはいないと思っていたのだが、今回のリニューアルにより足場で区切られ、周りを囲まれ、工事のため閉鎖した店舗や通路を見ていると、自分の過去を失うような気持がこみ上げてきた。
改装工事が終わるのをいつの間にか待ち望み、今では「やっぱり阪急がオープンしないと、はじまらないよね」などと言い出している自分がいる。
繰り返し見たCMと、子どもの頃の記憶があたたかなハーモニーとなって、心に作用していることは明白だ。この絶大な効果は、当の本人も気づいていなかったのだから不思議なものである。

「CMも、残しとこうと思って。」

母の声で、ふと我に返った。
当時、競うようにスキップしていたCMを、消さずに残そうとしているとは。母も、私と同じようなことを思い出し、感じていたのだろうか。

「阪急、グランドオープンしたやん。今度、行ってみる?」
「そやな。あんた、もうすぐ誕生日やろ。」

誕生日といえば、阪急か。何年ぶりに、聞いた言葉だろう。やっぱり母娘だ。
リモコン操作に夢中になっている母の後ろ姿に気づかれないよう、小さく笑った。
新しくなり、大きく変わった阪急百貨店。でもショーウインドウのクリスマスディスプレイは、あの時と変わらず私たちを迎えてくれるのだろう。溢れんばかりの人が織りなす、朗らかなざわめきとともに。

ハードディスクの普及によって、CMスキップが多くの録画機器で実装される中、我が家のDVDにはCMも一つの歴史として、おそらく永遠に残る。懐かしいCMは心をタイムスリップさせ、しばし記憶の中に身を置かせてくれる。そして、新たな会話と思い出を作り出す一助となるようだ。
そんなこと、ぶつぶつ言いながらリモコン片手にCMスキップにいそしむ子どものころの私には、想像もつかないだろう。「今は面倒でも、消さない方がちょっといいコトあるんだよ」と、もし心だけでなく体までタイムスリップできたなら、教えてあげたいものである。

優秀賞 『刻まれた一瞬』                          兵庫県西宮市(会社員)  三原 貴子

「スジャータ♪スジャータ♪白いひろがり…スジャータが9時をお知らせします。」
高校時代に聞いた今でも忘れられないラジオ時報CMだ。
私は普段ラジオをあまり聴かない。車に乗って出かける際に聴く、もしくはタクシーに乗った時にかかっているくらいだ。
普段聴かない分、車に乗った時には必ずラジオをかける。ラジオは、テレビと違って映像がないメディアなので,音だけでいろいろと想像させられる。特にラジオCMは、様々な商品やサービスについてのアピールが、親子の会話だったり、独り言だったり、オフィスだったり、家庭の居間だったりと、いろいろなシチュエーションでさまざまな言葉を用いて繰り広げられているところが楽しく、番組以上に楽しめる。しかし、時報CMは、ただの時報であって特に印象に残るようなものではなかった。
そんな時報CMが今でも忘れられない事件が起こったのは、高校一年のこと。テニスの試合に向かうため、明石から三宮まで電車に乗ることになった。地方暮らしだったため、電車に乗るといえば旅行くらいしかなく、普段電車に乗ったことがなかったため、電車のシステムにもあまり慣れていなかった。にも関わらず、指導の先生が忘れ物をしたということで、生徒だけで試合会場に向かわねばならないことになった。
「九時までに試合会場に集合。」
テニスのメンバー三名とともに、宿泊していたホテルから明石駅へ向かった。ホームに入ってきた「三宮行」の電車に何も考えず乗った私たちは、かなりの時間が過ぎてから「いつまでたっても三宮に着かないのでは?」という状況に気づいた。車内で乗り合わせた女性に「この電車三宮に着きますか?」と聞いたところ「着くには着くけどねぇ・・・」とのこと。なんと普通電車に乗っていたのだ。出発した時間から考えると、明石から三宮という距離を普通電車に乗ってしまっては、どう考えても九時までに試合会場に着くのは無理な状況だ。試合に出られないことよりも、後から会場に向かっている先生に何と怒られるか、ということで頭がいっぱいだった。今更乗り換えても仕方ない所まで来ていた普通電車の中で一言もしゃべらずまんじりと三宮への到着を待った。
そして、いよいよ三宮に到着。一秒でも早く会場に着きたい、という一念で、猛ダッシュ!駅を出て、タクシー乗り場へ。タクシーに乗り込んで行き先を告げる!その時あの時報CMが流れた。
「スジャータ♪スジャータ♪白いひろがりスジャータ♪・・・スジャータが9時をお知らせします。」
間に合わなかった。怒られる。とはいえ行かぬわけにもいかず、試合会場へ向かった。タクシーの中で、どんな言い訳をしよう、どんな顔をして行こう、と悶々と考え、かかっていたラジオも全く聞こえてこなかった。
こんなに頭の中に響き渡った時報CMはない。普段時間を知らせるだけのCMが、こんなに深く記憶に刻まれるとは。聞く環境によっては、ただの時を告げるだけの時報CMも、いろいろな思い出となるのだ。
時報CMなんて、社名と時間を告げるだけで何のメッセージ性もなく、番組と番組のの間を埋めているだけの印象しかなかった。広告とは「人々に関心を持たせ、購入させるために、有料の媒体を用いて商品の宣伝をすること」と辞書にあるが、時報と社名を聞いたからと言って、そこの商品を買おうとか、そういった行動に結び付いた覚えもない、しかし、この経験で私にとって「スジャータ」は、頭の中に刻まれてしまった。三宮駅で乗ったタクシーの中で聴いた高校一年のテニスの試合に向かったあの思い出となった。ラジオに映像がないゆえ、より鮮明に社名とともにその一瞬の記憶が呼び起される、私にとってはあの九時になる瞬間。こんな広告はほかにはない。誰しもがラジオの時報CMに何らかの思い出を持っているのではないだろうか。こんなドジな失敗談だけでなく、素敵な瞬間、悲しい瞬間、そんないろんなシチュエーションで時を告げているのだろう。
社会人となり、普段電車を使うようになってからは、なぜあんな失敗をしたのか、と恥ずかしいばかりだが、ラジオで流れる時報CMを聞くたびに、あの時のことを思い出す。
ちなみに、試合会場に着くと、だいぶ後に出発した先生の方が先に会場入りし、私たちが到着していない事態に気づいて、代わりに選手登録してくれていた。想像通りかなり叱られたが、無事に試合に出場することができた。試合の結果はさておき・・・。

優秀賞 『銀のペンと腕時計』             大阪府箕面市  上森 道大

心が贅沢で幸せな気持ちで満たされる時一つの言葉が僕の中に思い浮かぶ。

一年の浪人生活を経て大学へ入学、一ヶ月ほどたち学校や下宿先等、新しい生活環境の変化に徐々に慣れ始めたころである。
「ちょっと用事がある」
短文のメールを僕に突然送りつけて母が下宿先へやってきた。

この下宿先というのがおおよそ学生の下宿というのはこのようでなければならないという風なマンガに出てくるような建物であった。築三十年、マンション名は付くが、四つの部屋を立方体状にくっ付け、建材の錆が酸性雨の流れをなぞって白色であった壁を染めている様子は、まさに「焼き豆腐」と形容するのがぴったりで誰もマンションだとは思わないであろう風貌である。僕はそこの二階の右の部屋に陣取っていた。

三時間以上の時間をかけて母は自動車でやってきた。一時間の運転も嫌がる母にしてみれば異例のことである。何かよほどの知らせがあるのかと少し心構えをした。

メールで約束した時間の頃に誰かが外の階段を上る音がしたのでふと外に出てみると、レタスと大きく書かれたダンボール箱を抱えた母がフーフーと息を切らし額に汗をてかてかさせながら錆だらけの階段を上ってきていた。あわててその箱を受け取りに行く。
「いいよ。いいよ。一人で運べるから。」
そう言って母は玄関にダンボールをどさっと下ろした。

開けてみるとダンボールの中身は調味料やティッシュ等そのほとんどが生活必需品であった。
「今の時代コンビニがあるのだから、そんなに心配しなくても・・。」
と照れかくしにぶっきらぼうに言うと母は
「でも、あっても困らんやろ。」
と笑いながら言った。自分を思いやってくれる気持ちがうれしかった。

近くで昼食を済ませ大学周辺を案内したあと部屋に戻った。
コーヒーを一杯飲むと冷静を装っていた母も落ち着いたのであろう、堰を切ったように息子の近状について質問をしてきた。
メールのやり取りこそしていたものの必要最低限の内容しかない僕のメールによほど心配していたようだ。
一通り質問に答えを得ると
「元気そうで安心したわ。実はな、今日はこれを渡しに来たんよ。」
母はそう言うとバックの中から丁寧に包装された長方形の箱を取り出した。手渡されたプレゼントを開けてみると、中身は銀の細やかな細工の施されたボールペンだった。何故銀色なのか何の気なしに尋ねると
「あんたの色は金とか黒とかじゃなくて銀だと思うのよ。月日がたてば素材の良さが出るし、純粋であれば錆にくいってところが。」
家族にそんな事を言われたことがなかったので照れくさくなって言葉少なに礼を言うと母は満足そうな顔をして帰っていった。

母を送り一人になって再びボールペンの箱を開けてみると一枚の名刺大のカードが入っていることに気がついた。もらった時はペンの説明書だろうと気にもとめなかったがそこには母の字で

「浪人したり色々あったけど、大學生活は『おいしい生活』にしてください。」

と書いてあった。
その時は「おいしい生活」ってなんだ。単純に楽しいってことかな等と考えていた。それ以来そのメッセージカードは銀のボールペンと一緒に大切にしまっていた。

それから三年後、母からもらったメッセージのことはすっかり忘れてしまっていた。大学終盤を迎え就職活動が本格化してきた頃、今度は父が下宿先にやってきた。
平日の仕事終わりにやってくると電話があった。
その時にも何かよほどの知らせがあるのではないかと少し心構えをした。
夜遅くにやってきた父は「話だけしにきた」と言うと部屋の真ん中のソファーにどっしりと座った。一つ大きな伸びとあくびをして父は僕の近状や就職活動がうまくいっているか等いくつか質問をした。
東京や大阪での就職活動が震災の影響をうけ日程が変わったり採用試験自体が無くなったり複雑になってきていることや、大学の単位は取れそうだから卒業はできるという僕の答えを聞くと父は安堵と満足、少しの不安を混ぜたような顔をして何度かうなずくと
「今日は就活の応援にこれを渡しに来た。」
と言いポケットから黒い箱を取り出し机に置いた。
開けてみると銀色の時計が入っていた。
ふと三年前の母のプレゼントを思い出し、これはと思い気持ちが高ぶった。
あの時と同じ色である。気持を読み取られないよう声色を抑えて
「なんで銀色なの。」
と聞くと
「お前の色が銀色なんだよね。金ほどのふてぶてしくなく、でもしっかりとした色。堅実に頑張れるって感じかな。」
と言われた。
家族に思ってもらう幸せがこみ上げてきて涙が溢れそうになった。

父と母の感覚、同じように自分を感じてくれていたことに家族だなぁとしみじみしてしまい余計に泣いてしまいそうになった。

そこで三年前母からもらったボールペンと「おいしい生活」のカードについて父に話した。父はそれを聞くと一瞬驚いたような顔をしたがその後大きな声で笑った。
「あぁなるほど。『おいしい生活』ね。なるほど、なるほど。」
一人で勝手に納得した父は不思議そうにしている僕に気づくと笑みを浮かべながら説明してくれた。

父と母が新婚の時に行った東京旅行でたまたま広告を見かけ母がコピー「おいしい生活」を大変気に入りそれ以来しばらく二人の間で幸せと感じる時、うれしい事があった時に「おいしい生活だなぁ。」と互いに言うのがお決まりになっていたということだった。

「おいしい生活」というのは糸井重里さんが書いた西武百貨店のコピーであるという事も僕はこの時初めて知った。
一つの言葉に家族の歴史や感情が込められていることを知り僕は驚き、気付いた時には我慢していたものが耐えきれなくなっていた。ぼろぼろと涙を流していた。
それを見た父が
「だからさ、母さんはきっとお前に、うまく表現できないけど大学生活で父さんたちがあの頃感じていた『おいしい生活』ってのを感じてほしかったんだよ。」
と言った。

「おいしい生活」

どうして母がこの言葉を使ったのかを知るとなんだかとても愛おしい言葉のように感じられた。
二十数年前この世に産み落とされた言葉は当初の目的とは違うところで息づき独自の進化を遂げたのだ。
そう、とても優しく心地よい進化を。今僕の胸に届いたその言葉のなんとしっくりくることか。

父が帰った後、興奮冷めやらぬ僕は美術の授業で使ったきり押し入れの奥の方にしまいこんでいた大きな画用紙と水彩画セットを引っ張りだした。絵の具の中から一度も使われずほぼ新品同様の銀色の絵の具をむんず[O8]とつかんでパレットに豪快に絞り出す。
水入れの代わりにガムのボトルに水を入れ丁寧に筆を洗う。シャバシャバと六畳一間の部屋に響く音が心地よい。パレットの絵の具をたっぷりと筆に含ませる。
筆を握った右手を高く構え画用紙を睨み「ふっ ふっ ふーー。」と小刻みに息を吐く。
次の瞬間僕は無心で文字を書いていた。

「おいしい生活」

書き終えた荒々しい文字を眺めながら僕は自分の中に見つけた新しい感情を楽しんでいた。まるで新しいおもちゃを手に入れた子供のように、あぁ二十二年の人生でまだ感じたことのない感情があったのかと思うと自然と笑みがこみ上げる。
その時の幸せとも、幸福とも言い表せない気持ち。何とも贅沢な気持であった。

それ以来、心が贅沢で幸せな気持ちで満たされる時僕はその言葉を思わずにはいれなくなった。それは「おいしい生活」という感情と言ってもいい。そしてその感情は必ず銀の色を伴って僕の心の中に映し出された。

心が贅沢で幸せな気持ちで満たされる時一つの言葉が僕の中に思い浮かぶ。

あれから一年僕は広告の仕事に就いた。
両親からもらった銀のペンと時計は今や僕のお決まりの仕事道具である。

今、この時もどこかで誰かの言葉があなたの『特別な言葉』になる時を待っている。
そんな言葉の可能性に満ちた世界で自分が携わった言葉、広告がどこかでひっそりと誰かの心の中で息づき月日を重ね、思いを纏う事で誰かの『特別な言葉』になることを願わずにはいられない。

優秀賞 『あるイベントの思い出』
兵庫県伊丹市(会社員)  金川 幸雄

「お父さん、広告の仕事って、どんなことするん?」
息子はテレビゲームをする手を止めて、私に訊く。
イベントの仕事で、私が土日の休みに出かけるのが気に掛っていたのだろう。元気な時にはそんな話をしたこともないのに。
「広告の仕事っていうのはな…」
私は読みかけの本を置いて、説明しはじめた。息子はしばらく興味深く聞いていたものの、疲れた様子を見せ、相槌を打つのもそこそこにゲームに戻っていった。静かな病室にゲームの電子音だけが響いていた。
中学生の気難しい年頃になると、息子は私とほとんど会話をしなくなった。しかし、苦しい闘病の過程で、少しずつ口を開くようになっていた。

平成十五年十二月、運営子会社だったわが社は、事業会社として再出発した。と同時に、私は大阪本社から京都営業所へ異動になった。それまでは広告の営業や情報誌の編集など現場で仕事をしてきたが、異動とともにひとつの営業所を任されることになった。責任者としての重責に、不安と戸惑いを感じながら、京都での生活が始まった。
異動から九ヵ月が過ぎた夏の終わり、突然予期しない不運に襲われた。

息子が胸の痛みを訴えたのは七月下旬、中学生最後のバスケットの試合が終わった直後だった。試合が激しいぶつかり合いだったので、打撲によるものだと思っていた。ところが、近くの医院でレントゲンを撮ってもらうと、すぐに市民病院を紹介された。CTを撮って診察を受けた後、さらに大学病院を紹介される。画像に映っているものが、尋常ではないことが想像された。
「何かの腫瘍が出来ているのは確かなようです」と、大学病院の医師から告げられる。
生体検査の結果、横紋筋肉腫という小児がんの一種と判った。数十万人にひとりの珍しい病気で、胸部に発症するケースはその内の1%程度だという。気の遠くなるような確率は、容易ならざる事態を示していた。
発症した場所が気管の近くで、かなり大きくなっていたため手術で取り去ることは不可能だった。抗がん剤の治療が始まる。しかし、抗がん剤の効き目はすぐには表れない。徐々に癌は大きくなり、気管を圧迫するようになってきた。
癌の病巣に直接抗がん剤を投与するため、簡単な手術が行われた。しかし、手術中に息子は突然呼吸困難からこん睡状態に陥り、集中治療室に運ばれることになった。
その後、病状は一進一退を繰り返す。見守る私たち家族にとって、悪夢のような日々が続いた。

そんな折、同じ病室の人に、『メイク・ア・ウィッシュ』という団体のことを教えてもらった。『メイク・ア・ウィッシュ』とは英語で〈願いごとをする〉という意味。「難病と闘う子どもが持つ〈夢の実現〉の手伝いをする」ことを目的としているボランティア団体だった。苦しい治療を強いられている息子を勇気づけるのに何か出来ることはないか、と考えていた時期だった。家族で話し合って〈願いごと〉を決め、手紙を送った。それは、バスケットでガードをしていた息子が大好きだったT選手から、メッセージをもらうことだった。T選手はアメリカのプロバスケットリーグ(NBA)に挑戦するため渡米していた。しばらく経って、『メイク・ア・ウィッシュ』の担当者から連絡があり、〈夢の実現〉に向けて交渉することを約束してくれた。

平成十七年の年明けから放射線治療に入り、抗がん剤の投与が続いた。懸命の治療が効いたのか、癌は小さくなってきた。小学校での少年バレー、中学校でのバスケットと、スポーツを通じて培った体力が驚異的な快復をもたらしたようだ。小児がんの場合、患者本人にも告知するケースが多いと説明を受けたが、十五歳にしては子どもっぽさが残る息子に対して、癌を告知する気にはなれなかった。しかし、薬の影響で髪の毛が抜け始めた息子は、病気の重大さを徐々に感じ始めていた。気分が落ち込み、不安になっていたのだろう、息子はほとんど笑うことがなくなっていた。
二月に入り、T選手からのビデオレターとリストバンドが届いた。リストバンドは日頃、T選手が試合で使用していたものだった。ひとつは息子の手元に、もうひとつはT選手が身につけて試合に挑む。「一緒に頑張ろう」とT選手が語りかけるビデオ映像を見て、息子は久しぶりに明るい笑顔を見せていた。
三月、同級生たちが卒業式を終え、高校生へと成長していく。息子は病室に取り残され、抗がん剤の治療を受け続けた。

異動から1年が経過し、私は京都の仕事にも慣れてきた。会社の主な売上は交通広告の扱いによるものだったが、京都営業所は特にイベント運営の仕事が多かった。商業施設やクルーズ船の販売促進、比叡山でのライトアップなど、イベントの仕事が次々と入ってくる。ゴールデンウィークに入ると、営業所の所員たちは連日、京都駅前や浜大津での集客イベントに追われていた。人気のタレントが来店するとなると、息子と年齢の変わらない女の子たちが長い列を作る。私も病院から、会場案内や人員整理の応援に出かけた。
イベントの仕事は、手間と時間を掛けて周到に準備をしても、打ち上げ花火のように一瞬で終わってしまう。見た目は派手で華やかだが、労力が掛る割には利益の少ない仕事だった。終わった後に、徒労感だけが残った。管理者の立場から、私自身、イベント運営の仕事に少なからず違和感を覚えていた。

ゴールデンウィークが過ぎると、息子は病院の駐車場でバスケットボールのドリブルが出来るほどに回復していた。しかし、病魔は着実に息子の身体を蝕んでいく。
梅雨に入った頃、担当医から癌細胞が脊髄と肺の裏側、それに腸間膜にまで転移していると告げられた。そして、「出来るだけ好きなことをさせてあげてください」と付け加えた。担当医のその言葉を境に、息子の病状はゆっくりと坂を下っていった。

そんな時、『メイク・ア・ウィッシュ』の事務局から連絡が入った。
アメリカでNBAに挑戦していたT選手が一時帰国して、石油販売会社のイベントに参加するとのことだった。その会社の女子バスケットボールチームはリーグ戦でも常に優勝争いをしている強豪チームだ。イベントはバスケットボールに親しむ少年少女たちを招待して、選手の技術指導や対抗試合を楽しむ催しで、T選手はメインゲストで参加することになっていた。
何とか会場に行って、T選手に会わせることが出来ないだろうか。
その頃、息子はほとんど歩くことが出来なくなり、車いすを放せなくなっていた。
飛行機と車を乗り継いで、開催場所の千葉県柏市まで行けるとはとても思えなかった。しかし、6つ年上の娘と妻は担当医を説得し、イベントに参加する方向で話を進めていった。主催者に連絡を取り事情を説明すると、T選手と面会することは出来ないが、近くから見学することは可能だと伝えてきた。

七月の終わりに、飛行機とレンタカーを乗り継いで千葉県柏市に向かった。
会場の体育館には多くのバスケットファンが集まっていた。それは私が日頃見慣れているイベントの光景だった。駐車場では、会場に最も近い場所が用意されていた。関係者の人たちが車いすの息子につきっきりで世話をしてくれる。細かい気づかいが温かく、ありがたかった。
イベントが始まり、女子選手に続いてT選手が現れると、体育館は大きな歓声に包まれた。主催者がバスケットコートの横に車いすのスペースを設けてくれ、息子と付き添いの娘は間近から、動き回るT選手の姿を食い入るように見つめていた。コートで走り回る子どもたちのように、息子が元気にバスケットボールを楽しんでいたのは、ほんの1年前のことだ。私と妻は観客席から、遠くに見える車いす姿の息子を見守っていた。そして、息子に与えられた時間が残り少ないことを感じていた。
その夜、都内のホテルに泊まった。ベッドに横になった息子は、イベントの余韻で眠れない様子だった。死期を早めるかもしれないと、イベントへの参加に迷いがあったが、満足げな表情を見せる息子に少しだけ救われる思いだった。

初秋の晴れた日、息子は亡くなった。1年間の闘病生活だった。
法要を終えたある日、家族でテレビを観ていると、バスケットコートを駆けるT選手の姿が映っていた。それはイベントを主催していた石油販売会社のCMだった。映像には、柏市でのイベントの様子が使われていた。お礼を伝えるため、娘が手紙を送った。すると、主催者側からイベントでT選手が着ていたユニフォームとCMのメーキングビデオ、それにT選手のサインが送られてきた。ビデオの映像には、ドリブルをするT選手の傍らに、わずかながら車いすの息子が映っていた。あの時、確かに息子はあの場所にいた。

その後も、京都営業所でのイベントの仕事は続いた。柏市での体験は、私にイベントの仕事と向き合う姿勢を教えてくれた。イベントの大小に関わらず、会場へ足を運ぶ人たちにはそれぞれの思いや願いがある。そんな当たり前のことを気づかせてくれた。

息子の部屋は七年経った今も、使っていた当時のままに残してある。部屋の壁には遺品とともに、T選手が着ていたユニフォームが掛けられている。私はそれを見るたびに、あのイベントの光景を思い浮かべる。

優秀賞 『ベッドの上の、1分間』                 大阪府大阪市 吹上 洋佑

「腫、瘍…?」
大学4年のとき、病院の先生から手渡された、診断結果が入った厚い茶封筒を太陽の光にかざすとその文字が見えた。何がなんだか状況が飲み込めず、とりあえず忘れることにした。しかし、現実から逃れられるはずはなかった。就職活動真っ只中の春だった。

「ここに大きな腫瘍があります」、カルテを見せながら先生は淡々と話した。腫瘍には悪性と良性があり、その診断結果にはまた少し時間がかかるという。悪性だったら癌、結果を待つ間、私は人生で一番苦しい時間を過ごした。「腫瘍なんて不気味な物体がこの体の中にあるのか…怖い、怖い、怖い」毎日そう怯えながら、また考えても仕方がない診断結果にも神経を使った。できるだけ、悪性と思うようにしていた。良性と願って、結果悪性だった場合に、冷静でいられる自信がなかった。
そして診断結果発表の朝を迎えた。重たい空気の中、先生は「良性でした」と言った。淡々とした口調だった。対照的に、母親は診察室で号泣した。何度も「よかった、よかった」と叫んでいた。看護士が笑顔でうなずいていた。しかし、本当の闘いはこれからだった。

手術は壮絶なものだった。腫瘍が大きかったため、首元とわき腹を切り、その二か所から腫瘍を摘出することになったからだ。すべての景色が暗く見えた。耐えるしかなく、他にどうすることもできなかった。同じ頃、同級生たちは就職活動に打ち込み、どんどん選考を進めていた。
手術が終わっても、心は晴れなかった。常に全身が痛み、体を拭くことも、用を足すことも自分でできない。渋谷のスクランブル交差点で真っ裸にされるくらい、すべてをさらけ出さないといけなかった。時間が経つにつれ、自分の殻に閉じこもっていった。食事はまったく手を付けなかった。人とも話さなかった。家族ですら、見舞いに来ても顔を合わせなかった。面会時間が終わり、院内が静まり返ったころ、日中に寝ているせいか目がさえてしまい、色んな事を考えては勝手に涙がこぼれてきた。欲も希望も心から消え去り、この頃から死にたいと思うようになった。
そんなときに、私の人生を変える1分間の映像に出会った。動画サイトで偶然見た、東京メトロのCMだった。そこで流れていたのは、東京で暮らす一人の女の子の日常で、特別なことなんて何もなかった。すごいCGや斬新な企画性なんかもない、ただ普通の女の子が、メトロに乗ってふらっとどこかへ行くという、それだけの1分間だった。しかし、そんな当たり前の日常から遠ざかっていた私にとって、一番欲しいものがそこにあった。
「自分の足で歩きたい。食べたいものを食べたい。誰かと一緒に、笑いたい」
消えていた欲がどんどん復活しだした。病気になる前は、歩くことなんて当たり前だと思っていた。服を着ること、字を書くこと、電車に乗ること、全部普通のことだと思っていた。でも、そうではなかった。人が人らしく健康的に生活することは、すごく貴重で尊いことなのだと痛感させられた。東京メトロのCMを見てから、私の目標は「人として当たり前のことを、当たり前にできるようになる」になった。
それから焦りもあり、無理をしすぎてリハビリ中に倒れたこともあったが、それでも目標ができた私は強く、前を向き続けた。ただ日常が欲しくて必死にあがいた。そして同級生たちがたくさんの内定を勝ち取っていた頃、私はようやく退院を勝ち取った。その時、病気になってから初めて、自然に笑うことができた。

退院後、すぐに東京へ向かい、メトロに乗った。なんだかよくわからない大きな感情が、急に心の底からどっと湧き出してきたから急いでドアの前へ行き、外を見た。そして抑えても抑えても溢れ出てくる涙を、周りにバレないように必死で隠した。でもきっと、不審に思われていたに違いない。東京メトロは文字通り地下鉄で、真っ暗な外の風景などじっと見ている人なんていないから。これが私の、人生で初めての東京だった。
1本のCMが私の人生を変えた。それから大学院へ進学し、勉強し直し、同級生たちより2年遅れた就職活動を経て、今、CMの現場に新人として立っている。今度は私が、CMで誰かの人生にかする番だ。

優秀賞 『ACと長男と私』             大阪府堺市(会社員)金山 洋久

『抱きしめる、という会話。』
制作者がどこまでを意図して作ったのかわからないが、「この言葉って、実は深いな」と今の私は思っている。私にそんなことを思わせたのは、小学校三年生になる私の長男だ。
私がこの言葉に出会ったのは、まだ人の親になる前、おそらく十年くらい前だろうか。雑誌か何かでふと目にしたACの広告だった。全ページ広告ではあったものの、モノクロだし、特別目立つビジュアルでもないしで、どちらかと言えば地味な広告だった。しかし、小学校低学年もしくは中学年程度と思われる女の子を母親が抱きしめている写真と、その横に添えられた『抱きしめる、という会話。』というコピーが、独身で結婚の予定もなかった私の目に強烈に焼きついた。
その時感じたのは、「そうか、子どもは親が抱きしめて、包み込んであげることが大事なんだ。確かにそうだよな。」という妙な納得感だった。当時の私は二十代前半で結婚願望もなく、将来的には人の親になるのかもしれないが、そのことにまったくリアリティを感じていなかった。にもかかわらず、そんな思いを抱いたのは、自分が親に愛情を注がれて育ったことに対する、親への感謝の気持ちがこの広告に触れたことで湧いてきたから、要するに、元子供としての立場からだったのかもしれない。
それから程なくして結婚することになり、子どもも生まれた。今では小学校三年生と一年生、二人の男の子の父親だ。どこまでいい父親をしてあげてこられたかはわからないが、「抱きしめる」ことなどを通じ、愛情を持って子供に接してきたつもりだ。
そんな私が、『抱きしめる、という会話。』という言葉を思い出し、それに深い意味を感じるようになったのは、つい最近のことだ。
小学校三年生になる私の長男は、人とうまくコミュニケーションをとることが苦手だ。幼児期からその傾向は見られたが、小学校三年になってその状況は悪化した。周りの友達とうまくいかず、ちょっとしたことで腹を立ててしまう。大声で相手をののしったり、時には手を出したりしてしまう。トラブルが絶えなくなった。家でも小学校一年生の次男とのケンカが絶えない。
このままではいけない。そう思った私は、休みの日ごとに長男と一緒に、人の気持ちや人との接し方について勉強することにした。長男も一所懸命学ぼうとしていた。また、休日はできるだけ長男と次男がいる場に私もいるようにし、二人がもめ出しそうになると、「大声出さないよ」とか「相手にも勝たせてあげて、仲良く遊ぶことが一番大事なんだよ」とか、一緒に勉強してきたことを声掛けしてあげるように努めた。徐々にではあるが、その意識づけもできてき、良い方向に向かっているように思えた。
しかし、そんな中のある休日のことだった。私がちょっと目を離したすきに、長男と次男がまたもめ出し、カッとなった長男が次男を突き飛ばした上で背中を激しく叩くということが起こった。次男は大泣きした。
私は長男を強く叱った。
「なんでそんなことするんだ!」
「だって、いらんことしてきたから。」
「いらんことしてきたら、叩いていい、何してもいいって言ったか?」
「言ってない。」
「自分より小さい子とか弱い子には手を出したらダメだって、ずっと言ってきただろ! お前、周りとうまくいってないのをなんとかしたいと思ってたんじゃないのか? そのために一緒に勉強してきたんじゃないのか?」
「・・・。」
長男はまったく納得や反省をしているようには見えない。何も答えなくなった。
「さっきから黙ってふてくされてるけど、何か言いたいことがあるんだろ。言いなさい。」
「・・・。」
やはり何も答えない。
このままでは埒があかない。そう思った私は、声のトーンを落として尋ね、返事を待った。
「お前、今まで一緒に勉強して来て、少しずつ良くなってたじゃないか。せっかく頑張ってきたのにもったいないだろう。どうしたの?」
すると、しばらくして、長男がポツリポツリと話し出した。
「僕も友達と仲良くしたいと思って、パパと一緒に勉強してきたことを学校とかでもやろうと頑張ってきて、できることも増えてきているんだ。でも、三つだけどうしてもまだ我慢しきれないことがあって、僕も困ってるんだ。一つ目は、僕が大事にしているものにいたずらされたりすること。二つ目は、物をこっちに向けて投げつけられること。三つ目は、僕にイヤなことをしてくるくせに、先生の前とかではごまかして、またしつこくやってくること。この三つをされるとカッとなって抑えられなくなってしまうんだ。」
私は言葉を失った。
「この子はこんなにこのことについて真剣に考え、なんとかしようと日々努力し、うまくいかないことについてもどかしい気持ちを抱えていたのか。すごく頑張っているじゃないか。成長しているじゃないか。どうしてもっと早くこの子のこういった気持ちを聞いてあげられなかったのだろうか。自分は父親として何をやっていたんだろう。」
長男に対する申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「これからは教え諭すだけでなく、もっともっとこの子の気持ちを聞いてあげよう。そして、少しずつでいいから、気長にこの子の成長に寄り添ってあげよう。」
そう思った時、ふと浮かんだのが『抱きしめる、という会話。』という言葉だった。
「そうか、あれはただ単に子どもの体を抱きしめるという意味だけではなかったんだ。それももちろん大事だけど、子どもの心まで抱きしめてあげないといけないよ、という意味だったんだ。」
制作者が本当にそこまで意図して作ったのかどうかはわからない。でも、私はそう思い至ったのだった。
「『抱きしめる、という会話。』、深い言葉だなあ。」
そんなことを感じた父親九年目のある休日だった。

審査委員特別賞 『日本人の美徳』             兵庫県芦屋市(会社員)  銭 暁波

私が来日して12年の歳月が経ちましたが、今でも中国にいた時に初めて日本人に出会った日のことを鮮明に覚えています。遡ること15年前、道で出会った日本人の方に道を聞かれ駅までお連れしただけのことでした。途中その方にガムを捨てたいので近くにゴミ箱はありますかと聞かれ、当時の中国(上海)はまだまだ衛生環境整備がされていなく不十分、街の中心でもゴミ箱が少なくゴミも散乱していた時期であったため、「そこらへんに捨てても大丈夫ですよ」と答えました。ところがその方はティッシュを取り出し、ガムを包んでからポケットに入れました。さらに鼻をかんだティッシュをも道には捨てず自分のカバンに入れてしまいました。そしてそれらのゴミを到着した駅のゴミ箱に捨てたのです。
日本人からすればごく普通のことをしただけかもしれませんが、私にとってその行動は意外で、大げさにいえば衝撃的でした。ゴミを捨てても誰も気にすることのないゴミだらけの街であっても、せめて自分はゴミを捨てない、捨ててはいけないというその方の気持ちと行動が私の心を強く打ちました。
「日本とか日本人ってどんなんだろう? 日本をよく知ってみたい、学びたい」、という気持ちにさせてくれた最初のきっかけとなりました。

上記はほんの一例でありますが、今私が長年日本で生活していて日本人についてはっきり言えることは、「自己犠牲をしてでも社会の調和を保つ」人々だということです。他人に迷惑をかけることを悪とし、他人に不快な思いをさせない、 謙虚や控えめを以て「空気」を読めることが良いこと、すなわち美徳なのではないでしょうか。

今ももちろん日本人の美徳とする事柄に多々魅かれております。しかし、その一方でとても違和感を覚えることもあります。
最近電車の中で「よう知らん子やけど、なんか気になる・・・と思ったら、すぐお電話を」、というポスター広告を見かけました。この広告は子供達の保護を社会に呼び掛けたもので、とても思慮深く良く出来た広告だと思う反面、このようなことを言わないといけない社会なのか、とちょっと悲しい気持ちにもさせられるのです。
また、テレビや新聞を通じて驚嘆させられる事件が次々と発生しています。
例えば、幼児虐待致死事件(通報されたのにもかかわらず、救えなかった)、
某所変死体事件やいじめによる自殺(ひどいことされているのに、声をあげなかった)、等々。
もちろん事件の発生はいろんな社会的要因が背景にあると思いますが、私はこのような事件に関して共通する一つのものを感じます。
それはまさに私が尊敬している日本人の美徳にあって、遠慮しすぎる点だと思うのです。
相手に対する思いやりは日本人の美徳の中でも一番素敵なものだと思いますが、過度に遠慮しすぎることに私は疑問をもってしまいます。社会においても、企業の発展においても同じことが言えるでしょう。最近日本が誇る電機メーカーが次々と赤字を記録し、世界市場での低迷、あるいは撤退したことなどが報道されています。私は日本製品が大好きで某有名メーカーのマーケティング作業にも携わっていますが、このようなニュースを聞くたびに本当に心を痛めます。また海外市場を観察していても、日本メーカーのアピール不足にも驚きを禁じえません。海外では、YesかNoか、をはっきりとした訴求が多いことに対して、日本では曖昧な表現が多く、どこか控えめすぎて避けているように見えます。日本では比較広告などは暗黙的に御法度なようですが、世界ではそのほうが珍しいことです。相手を下げ、自分たちをよりよくアピールすることが日本人の美徳である「思いやり」や「控えめ」「謙虚さ」に抵触してしまうのでしょう。
2年ほど前にトヨタの豊田章男社長がリコール問題でアメリカ議会の公聴会に出席した時と、その後のアメリカTOYOTAの集会に参加した時に、聴衆や社員に涙を見せた姿が議論になったのを覚えています。自分たちだけが悪くなくてもとりあえず謝る、すべて自分に落ち度がないと思ってはいるが、遠慮して反論をせず相手の気持ちに立った最も日本人らしい対応を取った行動である、さすが日本人だ、と思います。一方で、もっと運転手側の操作上の落ち度や、法的にトヨタ側にすべての責任や過失があったわけではないことを堂々と主張すればいいのに、聞いていた私自身がもどかしく、いじめられたように悔しい気持ちでいっぱいになりました。「謙虚」な豊田章男社長のあの涙は、自社の正当性を公の場で堂々と言えなかった悔しさに起因しているのではないでしょうか。トップのあの謝罪はトヨタの屈服(surrender)と全責任(responsibility)をアメリカ人に保障してしまう形になりました。まさに日本人の美徳が障害となってしまった一例です。

更に、最近の日中関係においても同じことが言えます。私は政治のことは門外漢ですが、一個人として反日デモは本当に酷い、醜いものであったと思います。このデモで日中関係が悪化し、中国人に対するイメージが一気に低下したことを肌で感じています。もちろん、私自身今回のデモについてとても恥ずかしく、同じ中国人として申し訳ない気持ちでいっぱいです。日本にも中国にも私のように両国の友好関係を本当に望んでいる人が沢山いるのに、このようなこととなり本当に残念でなりません。当地で破壊された店舗の営業再開が報道されているなか、損失に対する補償が一切されていないことに疑問を持ちました。何故日本政府は損害を被った在中日系企業の補償等をもっと強く要求しないのでしょうか?,事の発端は政府間の問題で、政府とは関係のない民間企業が被害を被ったわけですから日本政府は最後まで強気で主張し補償を求めるべきではないでしょうか。外交について深く触れるつもりはありませんが、なぜもっと当然のことを主張しないのか理解に苦しみます。日本人は相手に対して「多くを話さなくても分かってくれる」と思っている人が本当に多いと感じますが、その曖昧さがかえって相手に伝わらず、仇となって帰ってきてしまうのではないでしょうか。

先述のAC広告のように、「○○○・・・と思ったら、遠慮せず口に出して主張してね!」と普段の生活からもっとはっきり表現意志主張したら良いのではないかな、と思います。
日本人は十分に控えめで、謙虚で思いやりがあって親切です。ただ言葉での意思表示が遠回りしすぎているのです。日本を先進列強国に築き上げた明治時代の人たちは政治家も商人も欧米人と堂々と渡り合っていたと聞き及んでいます。明瞭な主義主張や意思表示がなければ欧米先進国の人たちを相手に対等に渡り合えなかったことでしょう。

謙虚であってもはっきりわかりやすい優しさと言葉。その新しい?どこかで忘れられた?日本人の美徳にもう一つの花を咲かせるのではないか?私の第二の故郷である日本の社会はもっと強く、もっと美しくなって欲しい。そして日中関係が一日も早く回復できることを日本を愛する中国人の方々と共に祈り、微力ながらも力を注げていきたいと願うばかりです。

審査講評 『多様なライフスタイルを飾る心に残る広告エッセイ』      審査委員長・協会理事 植條則夫       

一、広告と生活者を結ぶ強い絆
広告が新しいライフスタイルを創ることはいうまでもないが、それと共に広告そのものも、生活者の心の中に様々な形で忘れられない存在となって生き続けていることは、誰しも、しばしば経験することである。
それは今回の広告エッセイのほとんどの応募作からもいえることで、作者と広告との心に残るかかわりが、感動的に綴られていることからも理解できる。
もちろん広告効果は、受け手の状況にもよるが、広告の送り手は今回のエッセイの入賞作品からも、ヒットする広告をクリエートする秘訣なり、手法なりを感じ取っていただければ、このエッセイ募集は、より大きな意味を持つものになると思うのである。

二、世代と職業を超えた応募者像
さて、今回の応募には六九編の作品が寄せられた。その職業や年齢をみても昨年同様に、広告が実に幅広い人々に多くの影響を及ぼしていることが理解できる。
応募者の最年少は十五歳の中学生、最高齢者は八十七歳と実に幅広い年齢層の方々から寄せられている。
この内、十二人の入賞者の内訳は、女性が八名、男性が四名という結果になった。また、入賞者の職業は広告会社勤務が圧倒的に多く、この中には今回審査員特別賞に輝いた中国籍の女性も含まれている。そのほか、学生、主婦、電話オペレーター、特別養護老人ホーム職員など。
また、入賞者の年齢も十九歳から七十九歳まで、幅広い層からのエッセイが評価されており、前回同様、広告が年齢層に関係なく、各世代にわたって影響を及ぼしていることが理解できる。

三、入賞作品の概要と講評。
まず、グランプリに当たる大賞は髙田真理氏の「宝物」が獲得した。この作品はかつて作者(髙田氏)の紙芝居の師匠であった通称ヤッサンの「生き様」を素材にして描かれた心温まるエッセイである。ここで取りあげられた広告は一九八〇年代のキンチョウのCMであり、この中で使われた「ハエハエ カカカー」のフレーズは、クリエーターでなくても年配の方なら記憶に残っている人も多いと思われる。
このエッセイでは、五〇年もの人生を紙芝居一筋に命をかけた師匠と、それを楽しんだ子供たち(このエッセイの作者もその一人だったが)との遠い日の交流が描かれていて、読む人に現代人の忘れている素朴で人間的な心の絆を思い出させてくれる作品であった。

四、広告は生活者とどう繋がっているか
次に紹介するエッセイは、それぞれ優秀賞の作品であり、そこで取りあげられた広告は、作者の人生の中で忘れられない大切な思い出となって、心の中で生き続けているように感じられた。広告と文学作品とはまったく別の目的を持つものであり、形式も手法も異なることはいうまでもないが、長い年月が経過しても、ある広告だけがいつまでも記憶の中にとどめられているのはなぜであろう。
それは広告も本来の広告目的を超えて、見る人の心に文学や絵画、音楽などの芸術作品と同様、感動を与える力が隠されているからであろう。
広告は送り手の狙い通りにいく場合もあるが、時に全く予想もしないケースも起こりうる。
今回の入賞作品に取りあげられたエッセイの中にも、こうした例は、いくつか存在しているように思われる。広告の受け手は生活者とか消費者とか一括りにして論じられるが、そのライフスタイルや人生観は十人十色というよりは百人百様であり、いかにセグメンテーションが的確であっても、クリエーティブ作品が一人歩きすることも多く、それがまた広告の面白さではなかろうか。
前おきが長くなったが、優秀賞の最初に紹介するのは、天野志保氏のエッセイ「チラシ一枚は汗一粒」である。ここで取り上げられたのは、チラシ配りの体験談ではあるが、作者はチラシ配りを通じて見知らぬ人との心の交流を深めていく。それはこんな文章にも顕れている。「何なのだろう・・・この言葉にできない感動は…。私は去りゆく男性に貰われていった一枚のチラシをまるで旅に出すわが子のように愛おしくじっと見ていた。どうかこの一枚が明日のお客さんになりますように・・・私は切実にそう願った。」
この文章をみても作者の仕事への真摯な態度と、人間性が伝わってくる感動的なエッセイであった。
次は内藤恵子氏の「目のつけどころ」である。このエッセイは、長年アフリカのモザンビークやアジアのミャンマーなどに単身赴任していた夫と、日本で家庭を守る作者の体験談である。しかし、単なる苦労話ではなく作者夫婦の人生記録を読むように綴られており、その表現の中心に吉永小百合が出演していたシャープのCMが取り上げられている。そして、このエッセイの中でこう書いているのが、特に印象にのこった。
「夫婦は同じ温度の中で暮らして、仲よくしたりけんかしたりする生活が、いちばん自然なのだと思う。」
次の作品は、今回の全入賞者の中の最年長者である藤原初枝氏の「たいこまんじゅうの詩(うた)」である。この作者は大阪港区の長屋で生まれ、「たいこまんじゅう」の商いをしていたこともある一家の思い出を中心に綴られているエッセイ。当時はどの家庭も子だくさんで貧しかったが、人情に厚い人々の暮らしが瑞々しく語られていて心を打った。
今回のエッセイ募集には、テレビCMをはじめ様々な広告が登場しているが、藤原氏のエッセイでは「看板」が取りあげられており、広告が今日のように科学でも芸術でもなかった時代の庶民の風俗や生き様が、思い出の中に描かれていて興味深かった。まさに昭和の女一代記とでもいえそうな長編小説を読む味わいのある作品であった。
次の優秀賞は、平松淳枝氏の「CM効果」である。このエッセイは、その作者である母と娘との髪のおしゃれに関する素朴な願いを綴ったもので、日常生活の中における母親の娘に対する気遣いが、まるで日記を読むように書かれていて、飾り気のない記述の中に「こんなCM効果」があってもいいものだと感じさせられた作品である。
次は木本緑氏の「復刻バースデー 2012」である。このエッセイでは還暦を迎えた作者の母が、二十年以上も前に録画していた宝塚歌劇と、そのスポンサーであった阪急百貨店のCMが素材に使われている。
阪急百貨店はおよそ八年の改装期間を経て、二〇一二年の十一月にリニューアルオープンしたが、作者はかつて母がビデオテープに入れた昔のCMと、当時の記憶が温かなハーモニーとなって、今も心の奥に残っていることに気付くのである。作者もかつてはCMが退屈で再生早送りでスキップしていたということだが、それでも木本家ではCMも一つの思い出としてむやみに消さず残していたことにも感銘を受けた。懐かしいCMは心をタイムスリップさせてくれると作者も結んでおり、感慨深いエッセイであった。
次のエッセイは三原貴子氏の「刻まれた一瞬」である。この作品は、作者の高校時代、テニスの試合に遅れたときに聞いた時報CMにまつわる思い出話である。
広告の創り手は当然のこととはいえ、常に広告主の企業や商品などを意識してCMを制作することはいうまでもないが、その受け手は必ずしも同じ状況や条件の中でCMに接するものではない。むしろある特殊な状況で遭遇したCMが、いつまでも記憶に残っているというケースも多いものである。
タイトルの「刻まれた一瞬」が示すごとく、時報のCMも聞く人の状況によって大きな意味を持ってくるのは、誰しも時々経験することではあるが、私などは今まで時報CMの新しいあり方など考えたこともなかったので、一つの問題提起をされたような気がして興味深く読ませてもらったエッセイであった。
次の優秀賞は、上森道大氏の「銀のペンと腕時計」である。このエッセイでは、「おいしい生活」という糸井重里氏のコピーが上森氏とその両親の思い出の中に生き続けていることが紹介されている。そして現在、広告の世界に身を置く上森氏は「今、この時もどこかで自分の言葉があなたの『特別な言葉』になるときを待っている」と書いているのは、クリエーターとしての願いでもあり、目標なのであろう。広告の生命は短いとよく言われるが、広告もまた他の芸術と同じように、見知らぬ人々の間でいつまでも息づいていることは、誰しもしばしば経験する。この優れたエッセイもまたそれを証明しているように思われる。
同じく優秀賞の「あるイベントの思い出」は金川幸雄氏の作品。このエッセイは、小児がんに襲われた息子と、父親をはじめ家族の人間的な対応が綴られている実話であり、読む人の心を打つ作品となっている。
ここでその内容を紹介するより、ぜひエッセイそのものをお読みいただくために、その内容と結果は省略させてもらうが、この作品には親子の絆だけでなく、国籍を超えた人と人の繋がりや人とグループとの結びつきが、どんなに大きな力や支えとなるかがドキュメンタリータッチで描かれており、タイトルから受ける軽い感じとは違ってヒューマンな秀作となっている。
次の作品は吹上洋佑氏の「ベッドの上の一分間」である。作者は、かつて腫瘍と診断され、手術の結果、良性ではあったが、多くの肉体的、精神的苦痛を体験することになる。そんなとき、作者の人生を変えるほどの東京メトロの一分間のCMに出会ったという。いまこのエッセイの作者はCM制作の現場で活動しているが、肉体的、精神的苦悩から得られた大きな試練を、これからのCM制作の中に生かれさることを願ってやまない。
次の優秀賞は金山洋久氏の「ACと長男と私」である。この作品は、ACジャパンの「抱きしめる、という会話」をモチーフにして、父親と二人の息子の関係をエッセイにしたものである。ここで作者は自分の体験をもとに抱きしめるのは単なる物理的な行為だけでなく「子どもの心まで抱きしめる」ことの重要性をアピールしているのがおもしろい。かつて過保護の世代と批判されたり、最近では逆に、教師やコーチの暴力沙汰が問題になっているが、広告もただ現実社会の動向を映す鏡であるだけでなく、このエッセイにあるような先を読む眼、心に届くメッセージが求められていると思うのである。
以上が今回の入賞作品の紹介であるが、こうしたエッセイを読んでいると、広告が単に「商品や企業の情報」だけでなく、文化的、社会的、教育的視点から発想すると共に、あらゆる芸術的手法を活用することによって、より暮らしに密着した不可欠の存在として、われわれ生活者に様々な生き方や力を与えてくれていることが理解できるのである。

五、審査委員特別賞の視点
このエッセイの作者・銭曉波氏は、現在、日本の広告会社で働く中国人女性だが、日本人と中国人とのマナー比較を中心に「日本人の美徳」について語っており、今回の審査委員特別賞を受賞した。銭氏は来日してすでに十二年もの歳月を日本に滞在しており、その指摘も的確である。外国人であるがゆえに気づくこと、その中で美徳というキーワードから日本人の良さにスポットを当てている点は同感だが、日本人が中国人から学ぶ点もあわせて指摘してほしいところである。
なぜなら、私も日本人として上海(復旦大学顧問教授)大連(大連工業大学名誉教授)北京(北京大学)などで記念講演や集中講義を行っていたので、銭氏とは逆の立場で中国の主要都市や中国人の生活を多少は見てきている。それゆえ銭氏のエッセイに書かれた日中の生活習慣や生活様式などについて同じことを感じることも多いが、反対に中国人ならではの性格(日本人が見習うべきこと)や、中国社会の特質などについても多少、触れてもらえれば、エッセイにさらに深みが増したのではなかろうか。

六、広告が結ぶ温かい絆
この広告エッセイの募集も今回で七回目を迎えたが、その間、現実の社会は目まぐるしく変化している。それに伴って広告表現の世界も、それ以上に進化しなければならなくなっている。しかし、重要なことは生活者の後追いをするだけでなく、時代の先を読む目や進むべき方向性、あるべき姿を示唆していくこと、つまり広告は一つの「先導文化」として社会的にも教育的にも重要な役割、使命を担っていることを認識しなければならないのではないか。今回の応募エッセイを読んでいると、いつの時代もそうした広告が生活者の暮らしと広告の強い絆となって、受け手の心にいつまでも忘れ難い存在として生き続けているように思えるのである。
(エッセイスト・関西大学名誉教授・社会学博士)

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