第6回広告エッセイ大賞受賞作品

大賞 『留置場のクリスマスイブ』             大阪府 伊豆村 通

「担当さん。やっぱりサンタって、いるんですかねぇ・・」冷たい留置場の床に座って男泣きしていた暴力団組員の言葉に思わずもらい泣きしそうだった若き日の私。あれからもう四半世紀以上が過ぎた。
留置場の看守勤務に就いてまだ三ヶ月の新入りだったけれど、私は張り切って勤務していた。当時の看守勤務員は刑事への登竜門といわれ、留置場で被疑者の扱いに慣れてから駆け出しの刑事となっていくという、若手の警察官で刑事志望の者なら誰もが憧れる部署だったからだ。だが、その勤務は相当に過酷なもので常時八~十名は留置されている被疑者の監視を二人から三人の看守勤務員で二十四時間行い、被疑者と同様に一度、留置場に入ったら次の日の非番日までは原則、被疑者と一緒に缶詰めにされるのだ。留置場勤務員の本来の目的は被疑者の逃走と自殺の防止である。その他にも日課時限という一日の決まりがあって、早朝の起床に始まり、刑事課での取調べや護送という検察庁や裁判所への車での送り迎えがある。さらに入浴や食事の世話、身体の不調を訴える被疑者には警察病院まで付き添わなくてはならない通院護送というものから、被疑者の洗濯の手伝いまで多種多様な雑用が山ほどあった。
交番勤務を少し経験しただけだった私には留置場の鉄格子の向うにいる様々な被疑者の扱いは不慣れなことばかりだった。前科前歴を多数有する極道ものや、下着泥棒などのコソ泥、留置場で出る通称「官弁」という不味いけれど無料の弁当にありつきたいがために万引きを繰り返すホームレスなど。取り調べの時になると急に腹痛を訴えたり、官弁の飯の盛りが少ないと因縁をつけてきたりで、鉄格子の向うには人生の酸いも甘いも噛み分けた海千山千の強者ばかりが住んでいた。
だが、看守と被疑者との関係とは不思議なもので、逮捕されてきてから数日間が経つと鉄格子の中と外とはいえ一緒に過ごす時間を共有するためか、徐々に打ち解けてくる。入ったばかりの頃には荒々しい態度をとっていた者でも就寝前の自由時間などには心寂しいのか、しきりと話を聞いて欲しがった。大抵は娑婆にいる家族の話、そして刑期を終えて社会復帰したら二度と同じ罪は犯しませんから、という誓いが多かったように思う。
暴力団組員のKという三十六歳の男が傷害の罪で逮捕され、留置場に来たのは師走の初めの頃だった。Kは極道もの独特の暗い目をした男で、逮捕歴も相当あったから留置場でも同房者のコソ泥などからは必要以上にペコペコされた。しかし、そんな周りの住人から受ける畏敬の念にも黙って寝ころびながら、いつも何かを考えている風の男だった。
後で刑事にKについて教えてもらったところによると、Kは全国規模の暴力団組織の二次団体に所属する組の若頭補佐という役付きの幹部であったが、亡くなった先代組長と交代した現在の組長とはソリが合わなかったらしい。シノギ、いわゆる上納金の取り立てばかりを喧(やかま)しくいう組長に反抗し、その組長を殴り飛ばしてしまって逮捕されたという。極道社会では絶対に許されない「親に刃向かう」というタブーを犯してしまったKの行為であったが、一面では法外な上納金に喘ぐ自分の子分達の窮状を救うための、止むにやまれぬ行為として賞賛されるものでもあった。その証拠にKは接見禁止という面会は禁止の処遇であったが警察署には自分の子分や、Kが日頃から面倒を見ている「カタギの衆」からの差入れ品が山ほど届いていた。そんな意味でKは極道社会で当時でも既に絶滅してしまったといわれていた「任侠ヤクザ」という極道ものの化石であったかも知れない。
「担当さん。願箋(がんせん)、お願いします。」
師走も半ばの日曜日。珍しくKが私に願い出た。願箋とは手紙を出したいという意味である。留置場は代用監獄であり、基本的には外との交通権は禁止されるが、手紙の投函は憲法で保障された通信の自由として許可されている。取調べのない日曜日は、朝からラジオを聴くことも許され、鉄格子の外からはFM局から軽快な軽音楽が留置場内に流れていた。Kも他の被疑者もラジオを聴きながら朝から一所懸命に手紙を書いていたのだ。
「担当さん。これ、何ていう曲ですか?」鉄格子の前で便箋を受け取った時、Kは私に尋ねてきた。多くの極道ものが私のような若僧の看守に対して、ぞんざいな口を効く中で、Kは必ず私を「担当さん」と呼び、敬語で話しかけた。だから私も必然的にKのことを、「Kさん」と呼んで敬語で接していた。
「山下達郎の『クリスマスイブ』ですよ。JR東海のコマーシャルソングでしょう?何年か前から凄く流行ってる曲ですよね。」
そう答えた私にKは少し遠くを見るような目をしていった。「そうですよねぇ。もうクリスマスが来るんですよねぇ・・・」
私は即座にKが何を考えているのかがわかった。Kには妻と一人息子の男の子がいた。子供は小学一年生の男の子で、随分寂しがり屋で困るんですよ、と食後の自由時間に私にこぼしていた。Kは以前にも逮捕歴があり、その時は懲役刑は執行されず罰金だけで執行猶予が付いたが、今回は二度目の逮捕ということで、おそらく実刑は免れない。そうなれば家族とも長い間合うことは出来ない。朝から繰り返し流れる山下達郎の「クリスマスイブ」を聴いて子供のプレゼントのことや長い懲役刑期のことを考えていたのだろう。
【~雨は夜更け過ぎに 雪へと変わるだろう
サイレントナイト ホーリーナイト
きっと君は来ない
一人きりのクリスマスイブ~】
軽快な曲のはずなのに留置場という人生の縮図のような場所で聴くと何かもの悲しい気がした。それっきりKは押し黙り、「手紙、お願いします。」そういってまた寝ころんだ。
その日の就寝前。被疑者の部屋から一日で出したゴミを部屋の外に集めた。ゴミ集めは看守の大切な仕事である。嚥下(えんか)といって紙のゴミなどを飲み下して自殺を図る被疑者がいるためだ。その時に私はKが書き損じたのか下書きにしたのか、半分クシャクシャにした便箋を見るともなしに見てしまった。
【・・・Tくんへ 今、おとうさんはとおいがいこくにいます。だから、ことしのクリスマスはあえません。おかあさんのいうことをきいていればサンタさんがプレゼントをくれますから、おりこうにしていてください。】
便箋の一番下にはサンタクロースがトナカイのソリに乗っている絵が書いてあり、そこだけ紙質が波打っている。涙の跡だった。やっぱりKは子供に手紙を書いていた。また、もう一枚の書き損じの便箋には、妻に「留置場では、ラジオのFMを聴くのだけが楽しみだ。」等と書かれてあった。私は黙ってゴミをまとめた。その夜、Kは壁の方を向いて明け方まで何度も何度も寝返りを打っていた。時々、肩を震わせながら・・・
クリスマス、正月、節分など娑婆で華やかに行われる行事は留置場の中では全く関係がない。「ムショでもクリスマスにはケーキが付くのになぁ。」と人生の半分以上を留置場と刑務所で暮らした大泥棒が溜息まじりで鉄格子沿いに話しかけてきた。今日は十二月二十五日のクリスマス。日曜日でラジオからは相変わらず山下達郎の曲が繰り返し流れ、間もなく消灯時間の九時になろうとしていた。
住人達は寝床の用意も終わって各自くつろいでいる。その時だった。「次は△市にお住まいの○×さんという女性の方です。」と、FM局の女性アナウンサーが、リスナーからの手紙と、かける曲の紹介を始めたのだった。
「俺の嫁さんだっ!」とKが叫んだ。ええっ!、留置場にいた被疑者と私たち看守も驚きの声を挙げた。「担当さんっ!音っ、音っ!上げてください!お願いします!」Kが手を合わせて懇願した。私は思わず上司である主任の顔を見た。うん、と頷く主任。よっしゃぁっ!と、私はボリュームのツマミを上げた。
【・・主人は外国に行っていて今年のクリスマスは家族一緒に過ごせません。でも小学一年生の息子とパパが帰るまで頑張っています。主人も大好きなこの曲をお願いします】
アナウンスの内容は確かそんな感じだった。
聖夜に響くような鈴と鐘の音で構成されたイントロ。山下達郎の「クリスマスイブ」がラジオから静かに流れ出した。
【~心深く 秘めた想い
叶えられそうもない
~必ず今夜なら 言えそうな気がした
サイレントナイト ホーリーナイト】
曲が終わっても誰もが無言だった。Kのすすり泣く声だけが場内に響いた。そしてKが私にいったのだ。「担当さん。やっぱりサンタって、いるんですかねぇ・・・」気の利いたこともいえず私も何故か泣きそうになっていた。ただ、鉄格子の向う側にいるKに「よかったですね。」と肩を叩いてあげられないことが少し悔しかったことを憶えている。
年が明けてKは被疑者から被告の身となり、拘置所に移管されることになった。護送用のバスに乗り込むKに私の方から「外国から帰ったら、真っ直ぐに、家へ帰ってあげて下さい。」と告げた。一瞬、Kは目を見張ったが、その意味がすぐにわかったらしく、シャンと腰を伸ばして両手は手錠で繋がれたまま、「はいっ。ありがとうございましたっ!」と深々と頭を下げた。真面目になってほしい。若い日の私はそう願わずにいられなかった。
あれから三十年近く経った今でも「クリスマスイブ」は世代を超えて皆に愛され、聖夜には欠かせない曲として君臨している。あの曲を聴くとふとKのことを想い出す。もう孫にでも囲まれているだろうか。そしてもしもKが、師走の街でまたあの曲を耳にすることがあれば、あの時の優しい気持ちを思いだしてほしい。今も切にそう願っている。【了】

優秀賞 『夫とコマーシャル女優』             大阪府四條畷市(主婦) 山田 恵子

夏のある日。リビングにいる夫が何か言った。「えっ?」キッチンで洗いものをしていた私は水道の栓を止めて聞き返した。夫の答えはない。夫、七十六歳。私、七十一歳。高齢の年金受給者だ。私たちには旅行を楽しむ、温泉めぐりをする、リッチなグルメを求めて……という趣味はない。夫は日がな一日テレビの前にいるし、私はといえばリビング横のダイニングテーブルで本を読んでいる。

リビングでまた夫の声がした。何だろうかと覗いてみるとテレビに向かって夫がしきりにしゃべっていた。不気味だ。テレビの画面は酒造会社のコマーシャル女優Kが映っていた。暇つぶしにテレビばかり見ている夫に何が……。
独り言をつぶやく夫に私はなぜかモウロクという言葉を重ねてしまった。高齢になるとちょっとした体の変化にも敏感になり病気とつなげてしまう。病気には死の四重奏なるものがある。肥満、糖尿病、高脂血症、高血圧などという病気がそれだ。しかし、これらは生活習慣や食生活などの自己管理でいくらか防げる。ところが老いてほうける、いわゆる認知症は恐怖だ。音もなく忍び寄って来て人格をむしばむ。家族の存在や過ごしてきたあらゆる記憶を消し去るのだ。
私はすぐに電子辞書をひらきモウロクの意味を調べた。〝モウ〟とは高齢のこと、または老いぼれる。〝ロク〟とは役に立たないとあった。高齢で役立たずとはきびしすぎるが、それが世間の常識なんだろう。けれど高齢の基準も老いかたも人それぞれに違うはずだ。その違いにあわい期待を抱くことにして、私はそうそうに電子辞書をとじた。

我家のテレビはこの夏の節電に協力もせず毎日つけっ放しだ。ある日。次々流れるコマーシャルを見て夫がつぶやいた。「これ、何のことかわからんなあ」と。私もわからない。最近、まったく意味不明や理解不能なコマーシャルがふえてきた。ああ、時代にとり残されていくのだと思う。
どんなコマーシャルでも製作者たちは十数秒のうちに、不特定多数の人の心をいかにつかまえるかが大きな課題だそうだ。わからないと言う高齢の私たちはもはや不特定多数に入っていないのだ。製造メーカーは商品が売れることを願い、コピーライターは魅力的な商品だとアピールに懸命だ。映像の表現者は商品を夢のように映し出す。ほとんどが購買力のある元気な家族や若者たちへのメッセージなのだ。

二十四、五年も前になるだろうか。鮮明に覚えているコマーシャルがある。
サルが海に向かって直立していた。耳にイヤホーン、手にはウォークマン、音の世界にひたりきっているサルがいた。その表情は含蓄のある人間の風情だ。サルの名演技だった。そこにナレーションだったか、文字表記だったのか「この音は、進化したウォークマン」と。
音はスピーカーで聞くものと誰もが思っていた。それがくつがえった。スピーカーもない海辺で音楽が聞けるとアピールしたもので、ソニーの画期的な商品、ウォークマンのコマーシャルだった。この映像をはじめて見たときすごいなと思った。製作者の意図が、感性が、ユニークに、ユーモラスに、伝わってくることにである。進化とは音楽を聞くサル。ウォークマンそのもの。それを創り出した人間そのもの。みんな偉大だと思った。
半世紀近くを過ごした老夫婦の日常に進化はない。何かがくつがえるようなセンセーショナルな変化もない。しかし、ちょっとした問題は起きる。たとえばテレビの音がうるさいといったようなことだ。実はここ数年前から夫の耳が遠くなっている。反対に私はいたって耳がいい。狭い我家のリビングでの騒音は由々しき問題だ。
「ねえ、テレビの音、下げてほしいわ」
するとたちまち音が小さくなった。少しでいいのに夫は思いっきりボリュームを下げたのだ。しょっちゅう苦情を言う私への当てつけだろう。
「そんなに下げんでもいいのに。あなた、聞こえるの」
夫は私の言葉を無視して、新聞を広げた。

真夏日が何日もつづいていた。ある日。私はリビングで夫の異様な姿を目の当たりにした。テレビにはコマーシャル女優Kが映っていた。ピチピチした若い彼女が「好きだーっ」と叫んだ。それと同時に夫が大きな声で「好きだーっ」と言ったのである。ええっ! 信じられない。私は見てはいけないものを見てしまった気分だ。
実際にきれいな女優から「好きだーっ」なんて言われたら、男性なら誰もが舞い上がってしまうにちがいない。ねえねえ、これは酒造会社のコマーシャルなんよ。不特定多数の人に向けたコピーライターの戦略なんよ。あなた、まんまとはまってしまったのね。そう言いたかったが、幸せそうな夫の顔を見ると言えない。
「好きだーって、叫びあった気分はどうお?」
嫌みでも焼きもちでもない。〝モウ〟や〝ロク〟に近づきつつある夫にそんな元気さがあったのかとおかしくて、私はつい聞いてしまったのだ。
「可愛いやないか」
夫はそう言って、また新聞を広げた。

相変わらずテレビづけの夫と読書づけの私。今日、夫はまだ彼女に出会えていない。コマーシャルはドラマのように放送時間が決まっていないので、夫はいつ彼女に会えるのか分からないのだ。お気の毒なことだ。日に何度も流れるあのコマーシャルに私も付き合っているうちに、五種類のバージョンがあることに気づいた。
「ワンカップ大関を飲む人、断固として認めます」とか、「男ならパカッといきましょう。ああ、女性も。ねっ」とか、「今日はみんなでパーッといきましょう」など。これらは彼女の持ち味の元気さがあふれている。
「グイッと飲む人って格好いいですね。チビチビ飲む人は可愛いですね」。これには彼女のキュートさが出ている。
極めつけのセリフが「ワンカップ大関が好きだーっ、という人が好きです。言っちゃいました思いきって。好きだーっ」。はにかむかのように言う彼女に仇っぽさが見え隠れする。さすが女優だ。
夫がテレビの前で一人ブツブツしゃべっていたのはこれらのセリフを覚えようとしていたのだ。日がな一日テレビを見ている夫にそんな意欲があったのかと驚いた。〝モウ〟を心配したのは私の早とちりだった。けれど、せっかく一生懸命に覚えたはずのセリフが彼女とテンポが合っていない。遅れているのだ。呂律が回らないのか? いや心配することはない。夫は好きなカラオケに行ったときでも、画面に出るテロップの歌詞にいつでもちょっと遅れがちに歌うのだ。そんなのでよく曲について歌えるものだと感心する。遅れるのは遠くなった耳のせいだろうか? もちろん彼女はそんな夫に頓着することなく、十数秒で姿を消す。
ある日。夫に聞いた。
「彼女は明るくて健康的ね。タイプなの?」
「いいや」と夫は言いながら「この娘(こ)なんかで見たよなあ」と言った。
「大河ドラマに出ていたでしょう」
「ああ、そうやったなあ」
夫は百も承知でとぼけているのかも、そう思った。
季節は変わり、テレビの画面から大関の夏バージョンのコマーシャルが消え、彼女も消えた。女優Kと愛を語り合った夫の夏も終わった。が、夫は元気そのものである。テレビコマーシャルが夫を幸せにしていたのだ。

優秀賞 『母と僕の手書きのチラシ』             大阪府吹田市(会社員) 西尾 光則

僕が幼稚園に入園してしばらくすると、父が勤めを辞めて米屋を開業した。後で聞いた話によると、豆腐屋か米屋を開業するかで迷い、最後は早起きをしなくてすむという理由で米屋にしたとのことだった。それほど強い思い入れがあっての開業ではなかったのかもしれない。家から十分ほど離れた、田畑に囲まれた空き地に、小さなプレハブの店が建った。それから僕の幼稚園からの帰宅先は、家ではなくて母が留守番をしている店の方になった。
母は同居している祖父や近所に住んでいる伯母との折り合いが悪く、家にいるときはいつもどこか居心地が悪そうだった。しかし、店にいるときは、それらのしがらみから解放されるのか、楽しそうに父の仕事を手伝っていた。父も精力的に働いていて、ネズミ対策に飼っていた三毛猫がいたこともあり、僕もどことなく暗い感じのする家よりも店にいる方が居心地がよかった。
母の主な仕事は、店にかかってくる注文の電話を取ることと、新しいお客さんを開拓するためのチラシの作成だった。もともと文章を書くのが好きな母は、楽しそうにチラシのキャッチコピーめいたものを考えていた。俳句を嗜んでいたので、「炊き立ての 白いお米は おいしいな」など五七五調のものが多かった。
僕が十歳になったときに弟が生まれた。そして、これらの母の仕事はときどき僕の仕事になった。パートで来てもらっていた人が所用で来られないときに代わりに店番をするのだ。配達販売がメインの店だったので、店に直接買いに来るお客さんはほとんどいない。僕は宿題をしたり、マンガを読んだりしながら電話番をしていた。
時には母と一緒にチラシを作ることもあった。僕は、「味で勝負!」とか、「ついついお代わり!」など直球の表現が好きだった。「味で勝負!」という表現は実際のチラシに採用されたことがあり、そのときはとてもうれしかった。
チラシに書く商品の順番にもこだわった。「標準価格米」という安価なものから書く場合と、「コシヒカリ」など高価なものから書く場合の2パターンを用意して、どちらの方が反応がよいかを試してみようとした。しかし、これらの試みの効果は、父が気分次第でポスティングをしていたので、結局はあいまいなままだった。
高校生になり、腰を痛めて部活を辞めた僕は、夏休みなどの長い休みには、退屈しのぎと小遣い稼ぎのために店に連日通った。仕事の範囲も拡大し、電話番だけでなく、米の袋詰めや自転車で行ける地域への配達なども手伝った。
ある日かかってくる電話の地名をぼんやりと眺めていると、店のあった堺市よりも、近隣の高石市や松原市方面からの注文の方が多いことに気づいた。そこで、主だったお客さんの地名を地図上にプロットしてみた。すると、僕の予想通り、堺市の中心部や泉北ニュータウンよりも、競合店の少ない近隣都市の一部地域の方が密集度も高く、これらのエリアにチラシをまく方が効果的に思えた。そこで、それらのエリアに優先的にチラシをまくように父に提案してみた。その提案がどこまで受け容れられたかはわからないが、その後しばらくしてから、心なしかそれらのエリアからの注文の電話がさらに増えたように感じた。店の売上に少しでも貢献できている気がして少し誇らしかった。
東京での四年間の大学生活を終え、就職で大阪に帰ってみると店の周囲の環境は一変していた。当時は日本全体の景気がよかったこともあり、田畑しかなかった店の周りにも、住宅が建ち並んでいた。店の土地は父のものだったので、銀行も気安くお金を貸してくれたのか、店もプレハブから鉄筋コンクリートの立派な建物になっていた。精米機や米の袋詰め用の機械も新しくなり、仕入れの米の量も増えていた。しかし、母の作るチラシは僕と一緒に作っていた頃から変わらず、手書きのままでうれしかった。
順調に思えた父の米屋だったが、バブルの崩壊に加えて、米の販売自由化が重なり、次第に売上は落ち始めたようだった。自分の仕事があったので、僕が店を手伝うことはもうほとんどなくなっていたが、スーパーのカラー刷りのきれいなチラシにコシヒカリが特売されているのを見たときには、母の手書きのチラシでは到底太刀打ちができないと思ったことを強く覚えている。売上と反比例するかのように父のやる気と元気も目に見えて失せていった。そして、新築した店の借金が返せなくなったのとタイミングをほぼ同じくするかのように、父は急死した。
結局、店と自宅は差し押さえられ、家族はバラバラになった。僕と妹はすでに独立していたし、幸い知人が母に安価で家を貸してくれたので、母は弟と二人でなんとか暮らしていくことができた。しかし、父の死や店の業績不振までもが、まるで母の責任かのように伯母達から責められていたのは胸が痛んだ。
やがて、僕にも子どもができ、母が隠れるように住んでいた家にも遊びに行く機会が増えた。ある日、母の家を訪ねてみると、母は懐かしい手書きのチラシを作っている最中だった。聞けば友人の書道教室の手伝いをしていて、このチラシは生徒募集のためのものだと言う。例によって、五七五調のキャッチコピー入りのチラシが完成すると、母はどこか心が満たされているかのようだった。この母のささやかなチラシにこめられた思いが、少しでも多くの人に届き、生徒が増えればいいなと思った。
活動的な母は今でも書道教室やボランティア関連のチラシを作っている。小学生になった僕の息子たちも、かつての僕がそうだったように、その作業を手伝うようになった。母の影響を受けて、「夏休み 書道教室 楽しいな」など、五七五調のメッセージを一緒に考えている息子たちを見ていると、活気のあったころの父と米屋のことを思い出してしまう。   あの米屋はもうなくなってしまったが、母の手書きのチラシにこめられた思いはなくならないし、少なくとも僕や息子達には届いている。

優秀賞 『野菜のこころ』             大阪府羽曳野市(パート事務) 樋熊 広美

母親というものは、子供がいくつになってもつまらない心配ばかりするものだ。
「もしもし。東京の生活には慣れたの?仕事は、一人前にできるようになった?」
こまごまと聞くわたしに、
「ああ、大丈夫、大丈夫」とすげない息子。
「お肉ばかり食べてないで、野菜もちゃんと食べんとアカンよ」
「わかってる、わかってる」
それだけ答えると、彼はいつもすぐに電話を切ってしまう。
この春大学を卒業して、東京の情報処理の会社に就職をした息子。もう立派な社会人になったのだから、こうして構う方がおかしいのかもしれない。しかし何といっても初めての一人暮らし。親としては気になってしかたがない。

少しでも息子との会話を引き延ばしたいわたしは、数日後ちょっとイイ話を仕入れた。そこで、懲りもせず電話を入れたのだ。
「もしもし。元気?」
「ああ、元気やで」
「この間、由紀さんからメールが届いたの」
「えっ、あの由紀おばさんから。どうした?病状が悪くなったんか?」
どうやら由紀さんのことは覚えているらしい。他のわたしの友達には全く興味を示さない息子が、彼女のことだけは案じている。
由紀さんはわたしの同級生で五十五歳。
もう社会人となった三人の男の子を持つ主婦である。本来なら、もう子育ても終え、これからがゆとりの時間という熟女だ。ところが、彼女のご主人は女性関係が派手で家に寄りつかない。とうとう三年前から本格的な別居に入ったようだ。
その頃から、彼女はエステの勉強を始めた。勉強熱心な彼女は優等生で、卒業するやすぐに、ただ同然の給料で朝早くから深夜まで見習いを勤めた。自分より二十歳は若いだろうと思われる店長に使われながら、文句一つも言わず修業を積んだ。
『一人で生きていく』ために・・・。
しかし、やっと念願の店を持とうとした矢先、彼女は乳がんと診断された。
前向きに自立を目指し、生きていくことに人一倍努力をした彼女が、こともあろうに、死と向き合わねばならなくなったとはあまりにも皮肉な運命であった。
由紀さんの前で大泣きするわたしに、彼女はまっすぐ前を見つめながら言ったものだ。「死に向き合うのも、真剣に生きることの一つだわ」と。
わたしは悔し涙にくれながら、何度もこの話をしたものだから、息子の心の中にも、いつの間にか由紀おばさんは住み着いてしまったのだろう。
「入退院は繰り返してるけど、病状に変わったところは見られないわ」
「そうか。良かったな」
受話器の向こうで安堵した息子の様子がわかる。
「あのね、誕生日だったのよ。それで息子から花束を贈られて、好物のカルボナーラとワインが食卓に用意されたみたいよ」
「ん?ああ、由紀おばさんの誕生日か」
「違うわよ。二十七歳の長男坊の誕生日だったの」
「・・・、え?」
「由紀さん家ではね、三人の息子たちが話し合って、息子の誕生日に、『産んでくれてありがとう』と、お母さんに花束を贈るんだそうよ」
「・・・」
「長男坊は、夕飯にパスタまで作ってくれたらしいわ」。ちょっと話し過ぎた。花束のところまでで止めておくべきだったかなと、心の中で舌を出していると、 「母さん、その話、魂胆丸見えやで(笑)」
バレタか─。そう思いながらも、やはりこの話は息子に告げなくては気が済まなかったわたしなのだ。三人の息子たちがしっかりと由紀さんを支えている。そう思うだけで、胸が熱くなる。
「いつもと違って、これはちょっと、イイ話でしょう」
長話になったことに満足しながら、得意げに言ってみせると、
「僕には、母さんのいつもの話の方がイイ話やで」
と、照れ臭そうに息子が答える。
何のことを彼が言っているのか、皆目見当がつかない。短い時間ながら、あれこれ考えてみたがわからない。息子は「しょうがないなあ」と呆れながら、
「野菜を食べんとアカン!という母さんの一言が、僕には何にも代えがたいイイ言葉なんやで」と大人びた口調で言うのだ。
いつも適当に聞き流しているとばかり思っていたのに、ちゃんと聞いていたのか。

そういえば─。
「ただよし元気にやっとるきゃ? 野菜をとらにゃ、だちかんぞ!」
お母さんの気持ちを込めて。
カゴメ野菜ジュース。
「体に気をつけてな」

もう三十数年前のコマーシャルだ。
畑の中で、野良仕事姿の母親が、都会に出た子供に気持ちを込めて話しかけるというシチュエーション。
言葉の訛りや畑仕事姿の母親のインパクトが大きくて流行したものだ。何篇かシリーズ制作されていたように思う。大地に根を下ろしたような安心感と微笑ましさのあるコマーシャルだった。
その頃のわたしは二十歳過ぎ。ちょうど今の息子と同じような年齢だった。
言葉の面白さを何度もマネたものだった。友達との会話の中でも、兄妹の会話の中でも、笑い話の落ちは常に「野菜をとらにゃ、だちかんぞ!」だった。
しかし、そうして笑い転げるわたしの横で、母は「親の気持ちよ」と、小さな声でひとりごちていたものだ。まだ親の真意など理解もできない若い頃のことだった。

あれから月日が過ぎて、わたしも息子を東京に送り出した母親の立場に立ち、つくづく思う。
─同じ言葉を口にしていたんだ!─
訛りはそれぞれ違っても、親が子を思う気持ちは、何十年の年月を超えても変わらない。「野菜」という言葉は、母親にとっては「案ずる気持ち」の代名詞だったのだ。
そう思うにつけ、あのコマーシャルは何と傑作だったのだろうか。心に沁みる。

「もしもし、母さん、聞いてる?」珍しく、息子の会話はまだ続いていた。
「一人で暮らしてみると、やはりへこむ時もある。そんな時は、由紀おばさんの真摯な生き様を思い出すことにしてるねん。いいお手本になるからな」
「そう、わかってくれてたらいいのよ」
「それにな、まぁ今度大阪に帰ったらミートスパぐらいは作ったるわ」
「ほんま?」
「ああ、ほんまや。大盛りのサラダを横に添えてな。暮れには帰るから」
いつになく息子は自分の思いを話し、そして丁寧に電話を切った。
ツーツーと、心地よく響く電話音に、
「体に気をつけてな」と、まるで、あのコマーシャルの締めくくりをマネるように、わたしはひとり微笑みながら呟いていた。

優秀賞 『祝! 元気をくれる広告』        大阪府箕面市(会社員) 竹本 奈央

「私が笑顔にならなきゃ。誰がこの寮を引っ張っていくんだ」
東日本大震災の発生から1週間。このCMは私に、笑顔になる力を与え、同時に、私のおせっかい魂に火をつけた。
『祝!九州 3・12九州新幹線 全線開業』

震災の当日。渋谷で友人とお茶をしていた私は、あっさりと帰宅難民になり、そこから3時間かけてたどりついた大学の講堂で夜を明かした。
道の途中、テレビに映る被災地の様子も、薄暗いコンビニで人々が長蛇の列を作っているのも、まるで現実とは思えなかった。すれ違う人々も、どこか、そわそわしているようだった。講堂では、時折襲う余震と寒さに身を震わせてはいたが、壇上のスクリーンに絶え間なく流れるNHKのニュースの映像は、まるでSF映画のようで、恐怖ではあるものの、どこか、遠く、自分のことではなかった。

卒業までの1年間、留学生寮でアシスタントとして暮らしていた私の部屋に、テレビはない。インターネットラジオか、ニュースサイト、あとはツイッターが主な情報源だ。寮生が団欒に使う食堂にある新しくなったばかりの薄型液晶テレビも、震災後は節電のため、あまり点けられなくなった。たまに電源が入っていても、ニュースかACばかり。輪番停電のスケジュールは流動的で不確かな上、電車の本数も減少。いつまた帰宅難民になってしまうか不安で、寮で過ごす時間が次第に増えていった。
春休みということもあり、大半の寮生が震災を機に実家に戻り、広い寮には、寮長さん夫妻、数人の留学生、部活に忙しい日本人学生、そして私が残された。人の少ない静まり返った寮は、洗濯機を占有できたり、食堂のテレビのチャンネル権を得られたりと、のびのび暮らすことができるため、私のひそかなお気に入りだったのだが、今回ばかりはそんな訳にはいかなかった。
帰省という選択肢は私にもあった。しかし、私がいなくなってしまうと、リアルタイムの情報を得にくくなり、留学生はますます困ってしまう。寮長さん夫妻もほとんど英語を話せない。私に課せられたアシスタント史上最大の任務は、この寮にとどまり、必要な情報を共有し、万が一に備えること。これらが、具体的には一体どのような行為を指しているのか、全く分からなかったが、漠然とした責任感と緊張感が私を拘束していた。

常に新しい情報を持っていないと、留学生やその家族の鋭い質問に答えられない。それに、部屋に閉じこもって、世界から隔離されるのも不安だ。オンラインでは絶え間なく震災のニュースが更新される。ツイッターを開けば放射能に関する情報が氾濫し、フェイスブックでは世界中の友達からの温かいメッセージが毎日何十件も寄せられた。気分転換にと、ラジオをつければ、湿っぽい音楽ばかり。部屋の中での頭でっかちな生活は、気分が滅入るばかりだった。
一週間が経った頃、緊急地震速報のサイレンは、すでに危機感覚を麻痺させていた。震度3くらいの揺れでは、びっくりしなくなってしまっていた。実家の家族が心配してくれるメールも、だんだんうざったくなっていった。実は、部屋にいると、案外これまでと変わりのない、いつもの毎日が過ぎていくのだ。それなのに、緊張は布団の中に入っても緩まない。これまでに味わったことのないほど非生産的な毎日と、無力過ぎる自分に吐き気さえ覚えた。徐々に、震災の深刻さが沁みてきた頃だった。

そんなとき、私はこのCMに出会った。
数日前、福岡出身の友達が紹介してくれていたが、どうせ、また九州贔屓の彼が言うことだと、あてにはしていなかった。しかし、その日、ツイッター上にこのCM動画のURLが流れていたのを発見した私は、何の気なしに、再生ボタンを押した。
気付けば、涙があふれていた。
遠くを走る新幹線に一生懸命、手を振る人々。カラフルなものを身につけ、顔には満面の笑み。みんな少しでも注目してもらおうと、部活のユニホームや着ぐるみ、ウェディング姿、巨大な横断幕に風船など、ありとあらゆる趣向を凝らしている。気付けば私は、何度も何度も繰り返し再生していた。
そして、このCMは私に決意させた。
「私が笑顔にならなきゃ。誰がこの寮を引っ張っていくんだ」

それからの私は、寮生に発信する震災関連の情報に、簡単なリラックス方法を添えたり、すぐにできるボランティアを紹介したりと、今振り返れば、実におせっかいな情報を流し続けた。
正直なところ、半分は、自分のためでもあった。
あと2週間、4月になれば、否が応でも社会人になる。卒業式も中止になってしまった。だったら、もう、どんな状況でも受け入れて、プラスにかえていくしかない。この寮では、私がその見本となって、みんなを励ましたい。そのポジティブなエネルギーは、きっと世の中をちょっとずつ明るくできる。寮生へのメールがちょっと熱くなり過ぎた時にも、反省の意味を込めて、CMを再生した。

そして、今、広告を作る側の人間となった。
この九州新幹線のCMでは、実に多くの人が「新幹線開業」という一つのことに喜び、一生懸命になっている姿が、とても強い力を私に与えてくれた。カンヌ国際広告祭でも高く評価されたようだが、難しいことはこれから勉強する。そんなことよりも、私は、とにかく、このCMが私にくれたエネルギーに感謝したい。このCMのおかげで、寮に、新たな防災の避難経路と緊急時の連絡方法が整備された。新年度から母国に帰ってしまった留学生もいるが、当時、寮に残っていた寮生との絆は、テスト前にノートの貸し借りをしていた同級生との関係よりも強く確かなものである。
震災はまだ終わっていない。
これからの新たな復興のフェーズで、私にできることはなにか。日々考えながら、精一杯、目の前の課題とにらめっこ。時々、このCMソングを口ずさみながら。

優秀賞 『あんたの仕事』             大阪府大阪市(会社員) 中原 雄太郎

2011年3月29日、私は、生まれ育った故郷鹿児島を離れた。大学院を卒業し、就職するためだ。
24年間ずっと一緒に暮らしてきた家族とも、離れることになった。別れの日、昼食に母がおにぎりを作ってくれた。母は一瞬涙ぐんでいた。空港で飛行機の時間が近づき、手荷物検査場で別れるとき、やっぱり母は涙ぐんでいた。搭乗前の待合スペースで母に電話して、今までありがとう、と伝えた。お互い泣いて上手く話せなかった。
飛行中も泣きっぱなしで、外の景色はほとんど見えていない。それでも離陸後に段々小さくなっていく鹿児島を見たときに、これまで感じたことがないほど、鹿児島が愛おしく思えた。「必ず帰ろう」と素直に思った。自分がこんなにも鹿児島を愛していたことに、自分自身で驚きを覚えるほどだった。
我が家は仲が良い。買い物にも行くし、食事もそろってする。食後はみんなでテレビを観るが、テレビに口出しをすることも多々ある。CMに口を出すこともある。大半はダメ出し。そしてその大半は鹿児島弁をふんだんに盛り込んだご当地CM。独特のイントネーションである鹿児島弁を全面に押し出し、これまた独特の構成で仕上げてくる。一度観たらなかなか頭から離れてくれない代物である。
私はこの鹿児島弁CMの類が苦手だった。普段自分が話している言葉なのに、テレビから聴こえてくると途端に気持ち悪さを纏う。構成もセンスを疑うものが多く、どうしたらこんなものが作れるのだろうとさえ思っていた。

鹿児島を離れて東京で2カ月暮らし、今は大阪に住んでいる。東京も大阪も、鹿児島とは比べ物にならないようなクオリティの高いCMばかり流れていた。全国展開のものはもちろん、関東、関西でしか流れないローカルCMにも、鹿児島のそれとは全く違う、“元気”のようなものすら感じた。もしかすると、それまで地元のローカルCMに対してあまり良く思っていなかったこともあって、都会の芝が特に青く見えたのかもしれない。CMを観るたびに都会に来たことを感じ、これから始まろうとしている新しい生活に期待を抱いていた。

ある日、テレビ番組で日本各地のご当地CMが紹介されていて、その中の一つに鹿児島のCMもあった。番組ゲストのタレントや観客はCMを観て笑っていた。私は、というと、笑えなかった。恥ずかしさがあった。しかしそれとは別に、「あのCMは元気にしているだろうか」という不思議な感情を抱いていた。自分自身「CMが元気にしている」という言葉の意味はわからなかったが、それでも久しぶりに見かけた友人のように、“元気にしているか”が気になった。
番組が放送された翌日、会社でCMのことについて聞かれた。その人はCMのフレーズを真似していた。笑いながら真似をしていた。途端に、鹿児島弁を、鹿児島を馬鹿にされたような気がした。地元にいるときには嫌っていたそのCMを誰かが真似をした、ただそれだけで私の態度はくるりと変わってしまっていた。当然、あまりいい気持ちではなかった。その場は合わせて笑っていたものの、きっと引きつった笑いになっていただろう。

家に帰って、テレビをつけた。いつものように、華やかなCMたちが流れていた。そのCMたちを眺めながら、自分は何がしたくて広告会社を選んだのだろうかとぼんやり考えていた。

大学院で建築を専攻していた私は、広告業界へ進むことを決めたとき、そのことを母に伝えた。それまで真面目な話をしたことは実はあまりなかった。わざわざ言わなくてもわかってくれているだろうという、変な思い込みがあったからだった。なぜ広告なのか。なぜ建築ではないのか。私の話を母は何も言わずに聞いてくれた。私の考えを尊重し、後押ししてくれた。その後押しがあったから、今があるとはっきり言える。だからこそ誰にも負けたくなかった。就職活動は勝ち負けではないが、私にとっては間違いなく闘いだった。広告関係の書籍を沢山読み、雑誌も毎号買った。都会に比べて情報量の少ない地方では、雑誌や企業ホームページから得られる情報が全てだった。東京や大阪での試験は交通費がかさむ。やむを得ず面接を辞退することもあった。試験の際に他の学生を見ては「あんなやつら大したことない」と自分に言い聞かせていた。心構えでカバーするしかなかった。無意識のうちに都会の学生に引け目を感じていたのかもしれないと、今は思う。
就職活動を始めてからは、街中の広告をより意識するようになっていた。看板に対しては「もっとキレのあるコピーを書きたい」と思っていたし、鹿児島弁CMを観るたびに「このCMよりもっといいものをつくってやる」とも思っていた。その気持ちが就職活動を進める糧になっていた。
はずだった。いや、厳密には今でも思っているし、仕事を頑張る糧にもなっている。しかしそれと同時に、鹿児島弁CMに対して実は愛着を抱いていたということを、CMの真似をしている友人を見たときに実感した。あれだけ嫌がっていたのに。知らない間にCMが地元への愛着心を育んでいたのだ。

夏季休暇を利用して、鹿児島へ帰省した。鹿児島を離れてから約4カ月ぶりだった。4カ月は短いかもしれないが、しかし帰省という行為が初めてであったため、嬉しさと恥ずかしさが入り混じった複雑な気持ちで新幹線へ乗り込んだ。駅の改札口には母が迎えに来ていたが、涙ぐんではいなかった。

久しぶりの実家で、久しぶりの夕飯を食べた。食後はみんなでテレビを観ていた。すると、あのCMが流れた。鹿児島の実家のテレビで久しぶりに観るそのCMは、なんだか“元気にしている”ように思えた。久しぶりに友人に会った気持ちになっていた。いつも通り鹿児島弁をふんだんに盛り込まれていたが、なぜだか憎めず、ダメ出しする気にはならなかった。むしろ色々な思い出がよみがえってきて、見慣れたテレビを感慨深げに眺めてしまった。
街中では相変わらずの看板が、やっぱり“元気に”していた。通学路も、繁華街も、何も変わっていなかった。たった4カ月、変わるはずもない。ただ、学生時代のこと、それよりもっと昔のこと、歩きながら色々思い出していた。それを思い出させていたのは店頭のネオンであり、看板であり、いわゆる鹿児島の広告たちであった。

広告は物を売るのが仕事であるという。特定の商品、ひいては企業が抱える課題を広告によって解決していく。それこそが本来の姿であると確かに思う。しかしながら、物を売るものだけが広告と呼べるのだろうか。知らず知らずのうちに地元への愛着心を育み、思い出をよみがえらせ、ノスタルジックな気持ちにさせる。それは私に何かを買わせるわけではなかったが、自分自身で驚くほど、自分が故郷へ大きな愛情を抱いていることを教えてくれた。就職活動中に読んだ本には、「それを見た消費者の気持ちに何らかの価値変容を生まないものは広告とは言わない」と書いてあった。もしそうであるなら、街中のネオンも、看板も、あの鹿児島弁CMも、立派な『広告』と呼べるであろう。

次に鹿児島に帰るのは正月だろうか。祖母にはいつも電話で「あんたの仕事は何をする仕事ね?」と訊かれる。今度はうまく答えられるだろうか。

優秀賞 『クジラの夢――〈回復〉のメタファーとしての広告――』
大阪府大阪市(プランナー)  朱 喜哲

15、6歳の頃だっただろうか。よくクジラの夢を見た。いや、夢というのはおそらく正確ではない。それは、どこで見たのかすらおぼろげながら、ふとした瞬間に脳裏に浮かぶ映像だった。   巨大で、真っ黒なクジラの絵。そして、その絵を必死で描いているのに、誰からも理解されない男の子の姿。その映像を想起したときにはいつも決まって独特の寂寥感と切迫感があった。だから、それはできれば思い出したくないビジョンで、そしてだからこそなのか、ときおり不意に襲ってくるビジョンだった。   その正体を知ったのは、およそ10年後。とある研修で見せられた一本のCM――それがクジラの夢の正体だった。思いがけず再会したそれは記憶の片隅にあったあの曖昧なビジョンとは違って、巧みに編集されたショートフィルムのような美しい映像作品だった。

一心に画用紙を真っ黒く塗りつぶす少年。
図工の時間だろう。周囲のクラスメイトたちが子供らしい色とりどりな絵を描いているのとはまるで異なって、何枚も何枚も、授業が終わっても画用紙をクレヨンで真っ黒に塗り続ける彼を、教師が困惑しながら見つめている。教員が、両親が、彼の姿に眉をひそめ、相談し、医者の下へと連れて行く。そこでもクレヨンを手放さない彼は、きっと異常だと、何らかの〈病〉だと判断されたのだろう。次のシーンで真っ白な病棟の一室に入っている彼は、それでも画用紙を真っ黒に染め上げ続ける。黙々と。まるで世界から彼一人隔離されたかのように。   重苦しい情景はそのままに、ストーリーに変化が生じる。教師が、看護師が、積み上げられた真っ黒な画用紙たちに微妙な差異を認めたのだ。部分的に塗り潰されていない何枚もの画用紙があり、それはどうやら適切に並べ合わせられることで何らかの輪郭をなしているらしい。
かくして大人たちは体育館の床一面に、画用紙を並べはじめる。組み合わせを模索しながら一枚また一枚。
そして――、床一面に広がった真っ黒なクジラの巨体が、そこに姿を現わす。

場面はまた変わり、少年は、ひとり最後の一枚になった画用紙を塗りつぶし終えている。粛々と。その背中からはほんのささやかな達成感くらいしか読み取れない。けれど、世界中で彼だけのものだったその絵は、今や文字通りの理解者を、共に鑑賞してくれる他者を得たのだ。だから、彼はもう決して世界から切り離されてはいないだろう。もっとも、少年はそんなことは気にかけてもいないようだ。彼はただ自分の絵を描いた。右往左往して彼への視線を二転三転させていたのは周囲の大人、そして見ている私たちの方だ。

だけど、と私は思う。彼は喜ぶべきなのだ。そして、いつかは、どれだけ感謝してもしたりないくらいに感謝すべきなのだ。困惑しつつも彼を理解しようとした他者が少なからずいたことに。そして彼の、彼にしか見えてなかったクジラ、独りで描き続けた彼だけの〈神様〉を、一緒に見てくれた人々がいたというその奇跡的な僥倖に。
きっと、それはあまり素直とはいえない感想なのだろう。CMの最後にコピーが訴えるように、子供の想像力の可能性や、それを抑圧しがちな画一的な学校教育の問題にこそ思いを馳せるべきなのかもしれない。だけど、映像中の少年の姿に、どこか過去の自分が重なるのだ。だから、彼を客観的に見ることが難しいのだろう。だから、きっとあの頃、あの夢を見たのだろう。

クジラの夢を見ていたころ、いや、もっとずっと前、物心ついたころから、私は否応なく「周囲と違う」ことを意識しながら生きていた子供だった。まずもって名前が周囲のみんなとはまるで違い、読み方から説明しなければならなかったし、出自を説明するのはもっとややこしかった。おまけに父の職業はキリスト教の牧師という、これまた説明するのがやっかいなものだった。
ごくごく幼かった頃、教会で育った私には、私だけの〈神様〉がいたように思う。すべてをお見通しで、そして強く祈ったならば、きっと実現してくださる神様。けれど、そんな素朴な信仰を手放すには、絵に描いたように荒れていた転校先の小学校や、そこでの暴力を待つまでもなかった。幼稚園の頃から、たとえば点呼で名前を呼ばれるのが迫ってくる度に、あるいは自分の出自や親の仕事について説明を求められる度に、そしてささいな一言や何気ない視線が、そんな〈神様〉を胸に描き続ける強さを根こそぎにしていた。
みんなと「同じ」でなくては、という不安と、しかしそれをはるかに上回る、自分が何者でもなくなってしまうことに対する恐怖とが、思春期までをずっと覆っていた。そんなとき、ただ一つまっすぐに向き合えたのが、ろくに理解できないけれど何か深遠な魅力を持っていた、父の書棚に並んだ思想書や宗教書、そして埃をかぶった哲学書だった。父が生業として従事し、そしてそのために彼をしてこの異国の地にまでやってこさせた彼の〈神様〉。それを何としても批判しつくさなければ、自分はそこから自由になれない――そんな屈折した思いからはじまって、気づいたら大学院まで10余年、ずっと「哲学」のそばにいた。

おそらく現代の日本で数少ない「哲学者」の一人である永井均は、哲学は〈まとも〉な人にとっては何の役にも立たない、とあっさり述べる。彼によれば、哲学が何かの役に立ったり、誰かにとっての励ましになるとすれば、それは、十分に〈まとも〉ではいられない、すなわち世の人々が自明としているスタートラインにそもそも着けなかったり、どうしてもそれを信じられない、そんな種類の人にとっての〈処方箋〉としてだけである。だから、「哲学がわからない」というのは、ある種の健康さの証であって、そうした人々にとっては哲学などそもそも不要なのだ、と。
たしかに永井の言う通り、そうした純粋な「哲学」と学問としての「哲学研究」とはまるで異なるものだ。前者のような「哲学」をアカデミアにおいてやり続けられるのは、現代では永井をはじめ数少ない者にしか叶わない特権だろう。時代を超えて残りうる「哲学者」とは、そうした少数の者だけへの称号だ。その〈病〉の源泉が歴史的に消え失せない限り、彼らはいつまでも現役の哲学者である。たとえば、ニーチェやスピノザ、キェルケゴールといった、自分が思春期に理解もそこそこにむさぼり読んだ哲学者に通底しているのは、彼らがとりわけ個人史的背景としてキリスト教(あるいはユダヤ教)に由来する類の〈病〉を抱えており、それが彼らをして「哲学」へと駆り立てていたという点ではなかっただろうか。 だからこそ、牧師の息子として育った私の〈病〉に、あれほどよく浸透したのかもしれない。

それから10年、 大学での専門の研究をはじめて6年。いつの頃か私の〈病〉には一通りの処方箋が与えられたのだと思う。それは、フラストレーションが解消されるのと同時に、自らを哲学へと駆り立てるモチベーションの源泉を失うことを意味していた。だから、そこから先は、その専門領域への愛着と、自分がどのように回復したのかをできる限り公共的に表現するという、違う目的のために研究を続けてきたような気がする。例えばそれは、次のような命題を説得的に論じることだ。

「人間や社会とは、受肉した語彙である」(リチャード・ローティ)

一人ひとりの「人間」あるいは、それが集まって織り成される「社会」とは、具体的な形をとって現れる「言葉づかい」そのものである。ある人のもつ「語彙」=「言葉づかい」とは、その人の「信念の体系」であり、それこそが「人格」にほかならない。したがって、言葉づかいが変わるならば、その度毎に人は新たにされるし、人々の言葉づかいが変わっていくならば、それは社会そのものが新たにされることである。だから、「言葉づかい」は、文字通りこの上なく重要なものである。ただし、「言葉」は対話する相手が、会話する人々が居てはじめて意味を持つ。この点こそが決定的に重要である。はじめに「私の意識/自我」があって、それが世界の根本であるという伝統的な意識哲学は、この「言葉」の公共性を見落としている地点において根本的に誤っている。話し相手、すなわち「他者」がいてはじめて「言葉」が生起し、 そしてそれゆえに、「他者」がいてはじめて「私」が生起するのだ。

――だから、あのクジラの絵を描いた少年にとっては、彼の絵を一緒に形にしてくれた人々の存在こそ、かけがえないものである。彼を世界につなぎとめてくれた紐帯は、実際にはそこにあるのだから。
CMの冒頭、先生が呼びかける。「みんなの心の中に浮かんだことを、そのまま描けばいいんだからね」と。少年は心に浮かんだ大きなクジラを、そのままの大きさで描こうとした。クジラは、彼の想像力で、そして彼だけの〈神様〉で、それを誰にも奪われてはならない、とCMは最後に告げる。

だけど――と私はやはり思う。どんな時代のいかなる教育制度であれ、少年のように自分だけの〈神様〉を描き続けて生きていける人間は決して一握りもいないし、またそれを推奨することが必ずしも望ましいとはいえまい。むしろ、より重要なのは、決して理解することをあきらめずに彼の周囲にいた大人たちの存在であり、すなわち少年が最後に振り返ったならば、彼の想像力の産物をともに味わうことのできる人々の存在であろう。先生や両親、看護師や医師たちの手で実際にならべられたクジラの絵に、最後の一枚を嵌めるとき、その瞬間を他者と共に喜ぶとき、ようやく彼は世界と再会できるのだから。
もっとも、映像が実際にそんな大団円で終わっていたならば、そもそもあのクジラを夢にまで見ることはなかったのかも知れない。そして、あの映像だったからこそ、これからもきっと私はまたあのクジラの夢を見るだろう。豊かなテクスト性を帯びた偉大なCM作品として。そして、自分にとっての〈回復〉の、ごく私的な象徴として。

優秀賞 『冷たいチャーハン』             兵庫県神戸市(会社員) 柴田芳子

このCMが、関西で流れていなくてよかったと思った。
東京ガスのCMである。母親が、高校に上がり会話の少なくなった息子のために、毎日お弁当をつくる。「野菜も食べなさい」「背、また伸びた?」メッセージが込められたお弁当を、息子は毎日からっぽにして返す。そして最後のお弁当の日、母親が息子から返ってきたお弁当箱を開けると『ありがとう ってずっと言えなくてごめんなさい』というメモ。CMの中の母親と一緒に、見ていた私も涙ぐんだ。
関西出身の私が初めてこのCMを目にしたのは、入社後の研修のときであった。広い講義室の巨大なスクリーンの前で涙をこらえたのは、おそらく私だけではなかっただろう。
それにしても、困ったことをしてくれたことだ。
世の子どもたちは、少なくとも私は、母への感謝を表すなど恥ずかしくてとてもできないというのに、こんな「理想の子ども」像を世の中に拡散されては、こちらの立場がない。「このCMはフィクションです」と、クレジットを入れておいていただきたいくらいだ。

私の母親は、料理が下手である。
結婚して初めて実家を出た母は、まともに嫁入り修行をしたことがない。結婚後、慌てて料理教室に通ったのだという。
しかし、ふだんピアノ教室をしている母には、ゆっくり台所に立つ時間がない。レッスンの合間を縫って作る料理は、どうしてもスピード重視になってしまう。あさりの味噌汁にはたいてい砂が入っている。野菜炒めには大きなキャベツの芯が紛れている。きちんと混ぜないので、卵焼きの塩加減は偏っている。ブイヨンもちゃんと溶かさない。最近はましになったが、カレーはだいたいがスープ状態だった。
母も自分の料理下手は自覚していた。だからといって、冷凍食品や出来合いの総菜などは食卓に出さず、なるべく自家製のものを取り入れたのは、祖母から受け継いだ料理の信念なのだろうか。(しかしそれも考えもので、たとえば農家で教わって作った自家製味噌はあまりにも酸っぱく、家族みんなを苦しめていたのだが。)

そんな母の料理に一度、私は泣きそうになったことがある。
新入社員として東京での2ヶ月間の研修を経て、関西の実家に帰ってきた日のことだ。
家に帰ったのはお昼時もすっかり過ぎ去った午後だった。今までずっと実家暮らしだったかわいい娘が2ヶ月も家にいなくて、さぞかし両親は心許なかったことであろう、一体どんなもてなしで私を迎えるだろうか、ああ、それに対して私はまた、照れくさいのを隠して「たった2ヶ月じゃないか」とあまのじゃくを振る舞わなければならないのだ、そんな想像を膨らませながら私はドアを開けた。
しかし予想に反して、誰も出迎える者はいない。リビングから遠く「おかえりー」という声は聞こえるが、誰も私に身向きする者はおらず、みんな平和にテレビを見ていた。
おーい。かわいい娘が帰ったよ。
華麗なスルーである。
しかしそれを咎めるよりも、空腹だった私はなによりご飯が食べたかった。家で遅めの昼食を食べるということは既にメールしてあった。さて、2ヶ月ぶりの娘に何を食べさせてくれるのだろうか。
テーブルで私を待っていたのは、冷え切ったチャーハンだった。具はレタスやウィンナーといった、いかにも冷蔵庫の残り物で、チャーハンとしてのセンスがまるで感じられない。
おーいおい。かわいい娘が帰ったよ。最初に食べさせるものがこれかい。
私は完全に不服だったが、母親としては「あんたの帰る時間に合わせて作っていられるかい」といったところだったのだろう。私は黙ってセンスのない冷めたチャーハンを口に含んだ。
私は泣きそうになった。
それは紛れもなく、母親の作るチャーハンだったのだ。
具にセンスはないし、冷めているし、手抜きだし、だけれども、それは私が23年間食べてきた、そして2ヶ月間離れていたチャーハンの味だったのだ。
きっと、2ヶ月間のインド旅行から帰ってきた人が食べる白米と同じくらいの感動が、そこにはあったのではないかと思う。
感無量の両親を私がなだめるはずだったのに、予定が大きく狂ってしまった。しかしやっぱりあまのじゃくな私は、「おいしい」とも「なつかしい」とも一言も言わず、無心にチャーハンを飲み込んだ。食べ終わるとさっさと自室へ引き上げた。

私は4月から社会人になった。
実家に帰ってきたとはいえ、経済的には一人で立って歩けるところまできた。
両親に頼って生きてきた今までを振り返ると、家事もスピード重視で放任主義だった母が私に注いだものは僅かだと思っていたが、そうではなかった。毎日、きっちりと、母の味が私の細胞にまで染み透っていたのだ。冷めたチャーハンにすらその断片を味わい取ることができるほどに、私は母の料理に育てられてきたのだ。

今まで毎日ご飯をつくってくれてありがとう。
って、まだ恥ずかしくて言えないけど、ごめんなさい。

あのCMが、関西で流れていなくてよかった。
まだ、自分の口から、母親に「子どもの気持ち」を伝えるチャンスが残されているから。

優秀賞 『しあわせって なんだっけ なんだっけ』
奈良県香芝市(自営業)  林 俊雄

“しあわせって なんだっけ なんだっけ・・・”
あの頃、若々しく溌剌とした明石家さんまさんが、TVの中で踊りながら歌っていたのを
よく憶えている。
最近ある全国紙のコラムを読んでいて、
明石家さんまさんが歌い踊るTⅤCMがオンエアされていたのは、1986年だったことが分かった。
私にとってこの1986年という年は、それまで担当していた広告制作の仕事に区切りをつけ、
勤めていたあるメーカーを退職して独立を考えていた時期だった。
その頃の日本は、いわゆるバブル景気に突入する直前で、
企業全般の収益も向上し、それにつれて個人所得も増え消費も活性化しつつあり、
各企業が盛んにCIを導入し、TⅤではいわゆる企業イメージCMが、競い合うように流れていた。
ご多分にもれず私の勤めていたメーカーにもその波が押し寄せてきていた。
そのメーカーの創業以来の経営理念は「社の幸せと一人一人の幸せとの一致」。
そんな経営理念のもと、広告もそうあるべきと信じていた私ではあったが、
その当時の広告制作は私の思いとはかけ離れたものになりつつあった。
企業イメージとは広告だけで作り上げるものではなく、まして新しく作ったCIロゴでもなく、
地道で真面目な製品作りとそれを買ってくださるお客様への思いが作り上げるもの。
そう信じていた私は、周囲の人たちとの広告に関する価値観とか根本の考え方の違いが、
私の思う広告とは違ってきているのを徐々に感じはじめていた。
企画して制作することに自分自身がしあわせを感じない広告が、
一人一人をしあわせにすることが出来るのか。
“一人一人をしあわせにすること”。
自分の理想とする広告の役割は、その一点にあるはずだっだ、
そんな思いがまた、私を少しずつ独立へと駆り立てていたように思う。
やがて独立した私は、自分自身の理想とする本来の広告制作を追求するあまり、
自分自身の置かれた状況も顧みず、仕事を選ぶ日々が続いた。
私を理解し、私達家族の生活も気遣い、好意的に接してくれていた仲間にも迷惑を
かけることが多くなり、当然のように事務所は常に火の車。
妻へ渡す生活費もままならない時期もあったが、
いつも妻と娘は楽しそうに私の帰りを待っていてくれた。
そして二人はいつも私に聞いてくれた。「お父さん、今日はしあわせだった?」
そんな時、私もまた、一生懸命自分のその日考えたことやいろんな人と話をしたことなどを
二人に伝えた。
私の話を聞きながら、「今日のお父さんはしあわせでした」と、
二人はその頃我が家の習慣になっていた「しあわせのハートマーク」を
壁のカレンダーに書き込んでいった。
自分自身を欺きながら、家族のためなのだと自分自身に言い訳をしながら、
自分の思いとはかけ離れた仕事にも手を出していることを隠しながら、過ごした20年近い年月。
人をしあわせにする広告とか、広告はこうであらねば・・・などといつも力んで、
理想ばかりを追求していたはずの今の自分と、家族の思う私のしあわせが、
カレンダーのハートの数に反比例しているような気がしていた。
自分の考えていた「一人一人をしあわせにする広告」とは、いったいどんな広告なんだろう。
「しあわせ」は、万人共通のものではなく、その人の住んでいる環境や年齢や
生活状況によってまったく違ってくることは充分理解はできる。
しかし、少なくとも一人一人が思う、人としての共通の「しあわせ」はきっと存在すると思う。
思い返してみると、仕事とは別に私のしあわせは平凡だが暖かい家族とともにあった。
幼い娘が自転車に初めて乗って、うれしそうに自宅周りを何周も何周もグルグルと回る姿を、
一生忘れないでおこうと思ったあの時。
サンタさんのプレゼントがダイエーの包装紙に包まれているのを、不思議そうに見ていた娘の表情。
友人にもらった仔犬を英語でしつけようとして、犬の方が先に英語を憶えたことを悔しがっていた妻。
人間の「しあわせ」とは、遠くにあるものではなくごく身近にあって、探せば必ず見つかるものだとは、
子供の頃に読んだ「青い鳥」にも書いてあったし、高倉健さんの映画「幸せの黄色いハンカチ」の
テーマだったような気もする。
ハートマークの並ぶカレンダーを眺めながら、そんなことをぼんやりと考えていた。
2009年の10月頃だったと思うが、
23年ぶりに明石家さんまさんがキッコーマン醤油のTVCMに出演する新聞記事が出ていて、
その日たまたまそのTVCMが流れていた。
あの頃から23年たったさんまさんは、相変わらず若々しくしなやかに歌いながら踊っていた。
“しあわせって なんだっけ なんだっけ”に続けてさんまさんが歌ったのは、
“うまい醤油がある家さ”。
私が23年の間探し求めていた「一人一人をしあわせにする広告とは・・・」に対する答えは、
さんまさんが歌うCMのなかにあった。
“うまい醤油”、言いかえれば、“日本人だったらみんながおいしいと感じる味 “すなわち、
“一人一人が同じようにしあわせだと思うこと”。
私の探していた「一人一人をしあわせにする広告」とは、“うまい醤油”のことだった。
自分の作る広告が本当に “うまい醤油”を運んで行くのか、自分自身で味わってみてその旨さを、
一人一人の人に簡潔に解りやすく伝えること。ともすれば自分の理想の制作を優先して
ほんとうに大切な “うまい醤油”を探すことを怠ってきたこの20年近い年月。
解っていたはずの広告の作り方に、私はやっとたどり着いたと感じた。
これからは胸を張って妻と娘に伝えよう。「今日はしあわせの広告が出来た」と。
そして、壁に掛ったカレンダーにきれいな色のハートマークを書き込んでもらおう。

優秀賞 『うつにならないおまじない』             兵庫県尼崎市(翻訳業)  南 はるか

***
この部屋に越してきて八年、最初の頃うれしがって壁じゅうに貼っていた様々なポスターは、粘着部分の弱まりとともに次々はがれ落ちてゆき、今でも残っているのは一枚だけ。それが、キッチンの壁に目の高さに合わせて貼られた折り込み広告である。
一人暮らしを始めた頃、何においても制限のない生活が無性に楽しかった。誰にも文句を言われず、好きな時間にほしいものを好きなだけ飲み食いできる。ただ、仕事の忙しさや人間関係のわずらわしさからくるストレスを解消する方法はなかなか見つからなかった。残業を終えた夜遅く、誰もいない真っ暗な部屋に帰り着き、とりあえず缶ビールとインスタント食品を口にする。ほろ酔い気分で少し陽気になり、その日あった仕事での嫌なことを忘れて眠りにつく。そんな日々を繰り返していたが、そのうちそれがだんだん高じて、ビールの後に焼酎やワインやウィスキーをガブガブと飲むようになり、気がつけば歯止めが利かなくなっていた。いつの間に寝たのかも記憶がなく、朝目が覚めると昨日の服のまま、化粧も落とさず恐ろしい顔をした自分がそこに転がっていた。それが癖になると今度はしばしば寝坊するようになり、電車に乗り遅れ、職場では遅刻を繰り返すというありさまだった。
運の悪いことに、そこに失恋も重なった。心の痛みを鎮め現実から目をそむけるために、毎晩のおひとりさま晩酌を楽しみに帰宅するという始末。良くないスパイラルに巻き込まれていることはわかっていても、どうしてもそこから抜け出せなかった。アルコールをがぶ飲みしては泣き、そんな自分にまた酔いしれて、その後つぶれるように眠り、翌朝飛び起きては何事もなかったかのように、しかし大慌てで職場へと向かう。当然部屋の中はぐちゃぐちゃだった。そしてキッチンのシンクには、サボりにサボった汚い洗い物が積み上げられ悪臭を放っていた。今晩こそ帰ってきたら全部洗う、絶対に洗う、そんな決意を心の中で呟きながら毎朝玄関を出てゆくのだが、その晩帰ってくるとすでに気力はなくなっており、明日こそは、絶対に明日こそは、という思考に変わってまた同じ翌朝を迎える。
そんな自分を律する方法は見つからず、また注意してくれる人も周りにおらず、ただ時に流されるままにおざなりになっていた生活の中で、毎朝届く新聞だけはなぜだかきちんと読んでいた。朝出がけにポストから朝刊を取り出し、間に挟まっている折り込み広告を抜き取ってポストに戻し、電車の中でゆっくりと新聞を読む。通勤時間の小さな楽しみだった。
ある日、いつものように新聞を開いたら、抜き忘れたのか一枚の広告がはらり、と落ちてきた。あわてて拾うと、まるで自分の部屋のシンクを見ているかのような汚いシンクの写真が目に飛び込んできた。それは、うつのサインを見逃すなという製薬会社の広告だった。シンクにたまった洗い物を見ると、つい家族は家事をさぼっているのではと思いがちだけれども、実は出来なくなっているのかもしれない、だからそのサインに気づいてあげてください、というものだった。あなた自身も、と自分に訴えかけられているような衝撃を受け、いつもならほとんど見ずすぐに捨ててしまう折り込み広告だけれども、半分に折ってカバンにしまった。その夜、帰宅して早速キッチンの壁にその折り込み広告を貼った。自分の目の高さに合わせ、キッチンに立つといつでも目に入るようにした。そうすると、ここまで汚くなってしまう前に洗い物は済ませるようにしよう、という気が起こった。その後、ご飯を食べ終わるたびに、洗い物はめんどくさいから後にしようと思ってシンクにお皿やコップを置いても、顔を上げるとその汚いシンクの写真が飛び込んでくるので、自省し、出来るのであれば今のうちに洗っておこうという気になっていった。そのためには、洗い物をする気力を残しておかねばならないから、という自制も働くようになり、毎晩のアルコールの量も自然と減っていった。
一人で暮らしていると、自分自身が発しているうつのサインには気づけない可能性が高い。たまたま新聞に挟まっていた折り込み広告が、しかも家族へ問いかけている内容が、このような形で役に立つとは思ってもいなかった。
あの朝以来、今日に至るまで、その広告はキッチンの壁から私を静かに見守ってくれている。この出会いを大切にしたい。次に引っ越す場所にも連れていこうと思っている。

優秀賞 『「大阪駅」のあるドラマ』             大阪府大阪市 藤原 初枝

リニューアルした関西の新たな玄関口、JR大阪駅「OSAKA STATION CITY」がグランドオープンしたのは、平成23(2011)年5月4日である。
その朝、私はわが家のポストから朝刊をとり入れ、その折り込みの『大阪駅発』創刊号(朝日新聞)をみて躍り上がった。大阪ステーションシティのコピーが、目に飛びこんできたからだ。
『旅立ち、別れ、そして再会。様々な人生の舞台を演出してきたターミナル駅が4日、生まれ変わる《大阪ステーションシティ》。それは、創造力と感受性を育む街。南北の商業ビルと一体化し、新たな大阪文化の発信役を担う。その象徴は、六つのホームをまたぐ巨大ドームだ。都心に舞い降りた翼のように、行き交う人々を優しく包み込み、近未来の旅へといざなう。関西浮揚の夢を乗せて――』

大阪に生まれ育ち、8年ほどのブランクがあったものの、70年近くを大阪に定住してきた私にとって、なんと血湧き肉躍る、名コピーであろうか!「六つのホームをまたぐ巨大ドーム」「都心に舞い降りた翼のように……」。とてつもなく巨大で、夢たぎるような空間を想像するだけでも、胸がわくわくする。私はもう矢も盾もたまらず、身支度もそこそこに、大阪駅へと駆けつけた。
まずはサウスゲートビルディング(旧アクティ大阪)の正面玄関口から、エスカレーターを上がっていく。その辺りからであろう、四方よりやってきた「平和」と「繁栄」を愛する群衆で埋まりはじめ、立ち所に幾重もの横隊となって、スムースに前へ進めない。(翌日の朝刊によると、その数、50万人に達したとか)
そんな中、じょじょに進んで、巨大ドームに覆われて、6つのホームをまたぐブリッジのある、いわゆる「時空の広場」にたどりつく。何時、如何にして、このような空間を構築したのだろうか。人間の英知と技量に、あらためて「乾杯!」と、心で叫ぶ。
気がつくと、私は広場の横隊からひとり外れて、ブリッジ片側に設えている耐火ガラスの柵に、吸い寄せられていた。そして、まるで幼子がするように、自分のおでこと両の手のひらを、ベタッとガラス柵に張りつけて、すぐの眼下を見下ろした。
そこには6つの大阪駅ホームが、整然と並列、躍動している。電車に乗る人、降りる人、人、人で、ホームを埋め尽くしている。遠い昔日、私にはこの大阪駅から、不安と希望の入り交じった、二つの旅立ちがあった。
まもなくそのときの記憶が、まるで白黒映画の映像のように、私の脳裏に蘇ってきた。

縁故疎開
「おーい、みんな、切符が手に入ったぞ。今夜こそ、愛媛行きの列車に乗るぞ――」
昭和19年6月のその日。帰宅した父は、船乗りできたえた肉厚の胸を張りながら、待ちかまえていた家族に大声で伝えた。
(ついに、その日がやって来た!)
国民学校5年の私は、複雑な気持ちだった。
太平洋戦争が勃発して2年と6か月。戦況はどう推移しているのか、子供の私には分からない、というより、知らされていなかった。でも、「この国は神国だ。まさかの時は必ず神風が吹いて、勝利に導いてくれる」を、信じこんでいる。街の電信柱に貼られている、『撃ちてし止まむ』のポスター。4年生の書き初め展覧会では、毛筆で大書きした『必勝堅忍持久』が入賞した。何がなんでも我慢して勝ち抜くんだという、少国民の誇りと意地をもっていた。
それなのに、なぜ、この大阪を見捨てて、地方へ疎開せねばならないのだろうか。慣れ親しんだ街や学校のたたずまい、先生や級友との別離も悲しい。疎開が現実となって、やり切れない気持ちに覆われるばかりだ。
大阪は安治川の河口近く、港区八幡屋という町にあるわが家は、両親に四男、四女の10人家族であった。が、18年暮に長姉と次姉は独立し、さらに長兄と次兄は赤紙一枚で、それぞれ出征してしまった。その上、四女の私に、学校から学童疎開の声がかかる。子沢山が自慢の父にとって、これ以上わが子と離れることは、辛抱の限界だった。
「残った四人の子供はもう離さない。母さん、いいなあ。みんないっしょに、俺の故郷(愛媛)へ縁故疎開しよう」
父の鶴の一声で、疎開の段取りは急ピッチにすすみ出した。家財道具の一切合切――箪笥や水屋は言うまでもなく、鍋や釜、お櫃、石臼、七輪の消し炭に至るまでを梱包。そして父は、所属する会社の船を自分で先導し、安治川端から愛媛の港へと運びおえていた。
夕方近くだ。長屋のご近所さんが厚意で作ってくれた、コウリャン入りおにぎり弁当を、リュックに背負った家族六人は、最寄りの停留所へ急ぐ。まもなく築港本線のチンチン電車に乗りこみ、数えられないほどの停留所を経て、やっと終点の大阪駅に到着する。
初めてみる駅広場の雑踏に、私は驚愕した。四方の街路からやってきた、市電や乗合バスから人々が吐き出され、ほとんどが駅構内へと吸いこまれる。一方、構内からも大きな荷物をしょった大人たちが出てきて、いづこかへ姿を消して行く。わが家のような疎開組らしい集団もあれば、凛々しい出征兵士と、日の丸の小旗をふって兵士を見送る人たちの姿も混じっている。行き交う人々の表情と動きは、一様に緊張ぎみで、あわただしい。
混沌としたこの光景は、今、この国が戦争によって何かが逼迫することを、10歳の私に否応なく理解させようとするものだった。
中央改札口から階段をのぼる。6時59分。押し合い、圧し合い乗った下りの鈍行列車は、やがて発車のベルとともに、ホームを離れて行く。不安と離愁の念を抱いた私と、私の家族を乗せて……。そのとき私は、翌日からの疎開先で、「衣食住」に事欠く生活が待っていようとは、つゆ知らない。

自立
昭和27年3月の或る早朝。一八歳の私が乗った愛媛からの夜行列車は、大阪駅の上りホームに滑りこんだ。ホームに降り立つと、辺りに霞が立ちこめる中、トランクを両腕にした「赤帽さん」が現れて、びっくりする。「列車から降りたら、その場を動かないように」。これから下宿する先の小父さんが、出迎えてくれる筈なのに来ていない。不安だ。
憧れの大阪だった。なのに、どっちが西か東か分からない。私のポケットにあるのは片道キップだけ。両親の許へはもう引き返せない。ただ胸に抱きしめるボストンバックの中身が、私に温かいエールを贈ってくれる。
愛媛の小さな村を出立する昨夜のことだ。
隣家のオバサンが、駅まで見送りにきて、「重うて、ごめんよ」と、米三升ばかり入った布袋を選別にくれたのだ。「ひもじい思いを、せんように」。そんな願いがこめられているようで、涙がこぼれるほど嬉しかった。
またの中身は二冊の文庫本――『貧しき人々の群れ』(宮本百合子)と『放浪記』(林芙美子)だ。私が自分に贈った餞別のような愛読書である。
『貧しき……』は、大正六年、坪内逍遥の推薦で発表された、宮本百合子18歳のときの処女作品である。18歳の作者が何をテーマに、どう書いているのか、そこに興味があった。『放浪記』は、林芙美子の自伝的小説だ。貧困と放浪のなかに身をおき、男の愛に裏切られながらも、文学で身を立てようとの強い決意で、前向きに生きて行く。
二人の作風は対照的である。私は、心の片隅でブルジョア的な宮本百合子の世界にあこがれ、一方では、林芙美子に自分の将来を重ねあわせ、漠とした夢を抱きつづけていた。
高3のとき、新聞の広告欄に載っていたのを、母にネダって購入した文庫本である。
という訳でもないが、自立しようと大阪に出てきた18歳の私に、不思議と不安感はない。「ここまで来れば、何とかなるさ」
現実では右往左往しながら、生来の楽天性が、もう一方の私に囁きかけるのだ。
まもなく、小父さんが手を振りながら近寄ってきた。私は足取りも軽く、小父さんと肩を並べて歩き出した。

と、このような二つの旅立ちから、60有余年もの歳月が流れた。そして、きょう平成23年5月4日、私は「OSAKA STATION CITY」に、わが身をゆだねている。ガラス柵から眼下の大阪駅ホームを見下ろしている内に、涙が滂沱とながれてきた。
私には、名もなく財もない、あるのはこの体、この命……。職を転々とするほどではなく、やがて人生の伴侶と出合い、出産、育児、そして後年になって得た高齢者福祉の仕事など、平凡ながら懸命に歩みつづけてきた。
両親と兄、姉たち、隣家のオバサン、下宿先の小父さんらは、すでに黄泉へと旅立った。思えば、彼らの礎のもとに現在の自分がある。私はこれまで気づかなかった、生きていることの感動を噛み締めた。
私は一人じゃない。夫と娘とその家族たち、親しい隣人や知人。そうだ、老人ホームの愉快なお年寄りたちもいるではないか。今や彼らも、私の人生の良きパートナーである。
生まれ変わった「大阪駅」のあるドラマを、お年寄りたちに語ってみよう。彼らもまた、大阪駅での旅立ちや出合いを想起し、たとえ何らかの症状を抱えていようとも、今ある「生」の尊さを再認識するに違いない。
私は、ふたたび広場の横隊の列にもどり、あらたな夢をさがして、ノースゲートビルディングの方へと移動して行った。

審査委員特別賞 『淡雪より淡く』             大阪府箕面市(会社員)  吉田 統樹

「津軽には7つの雪が降る」と太宰治は書いたが、少なくとも僕が高野山で見た雪は、そのどれにも当てはまらなかった。

2月。箕面から夜通しママチャリをこぎつづけた後の、最後のヒルクライム。明け方の標高800mをもうじき登り切ろうとする手前だった。それまで降っていた雪はぱたりと止み、頂上がかすかに見えたと思ったその瞬間、静寂に包まれた山肌につむじ風が起こった。
さっき降ったばかりの、木々の枝葉に薄く軽く積もった淡雪が、また再び、宙に舞う。それはさらにきめ細かな粒となり、雲の隙間から射してくる朝日の光に照らされて、キラキラと乱反射した。
僕は自転車をこぎ進める。光はどこまでも果てしないほどに続いており、肌に残る水滴まで暖かく感じられるのが不思議だった。
二度目に舞った雪は、風が去った後も数十秒の間輝き続け、やがて太陽の光に宙で溶けたのか、音も立てずに消えていった。
僕の知識の中のダイヤモンドダストとは違った。それよりも淡く、儚いあの神秘的な光景は、一体なんだったのだろう。携帯電話のカメラでは、その一瞬の現象を写すことはできなかった。かと言って、僕があの日見たものを鮮明に表現できる文章力と語彙力を持ち合わせているかといえば、そんな自信もない。だから僕はあの現象のことを誰かに尋ねることもできないし、その美しさを共感してもらう術もない。その人を、雪の降る高野山の明け方へと連れ出す以外には。

「どこからきたんね?」
ママチャリの荷台に積んだ小さな荷物とシュラフ、それにテント一式を見たら、たいていの人はそう尋ねる。おじさんもそうだった。
「大阪の北のほうです。一昨日の夜に出発して、高野山にのぼって。橋本あたりの川辺で一泊して、朝からこぎ続けてきたところですよ。」
11時30分の開店にはだいぶ早かったようだ。小太りで髭をはやしたラーメン屋のおじさんは、ちょっと待ってな、寒いだろうからと、奥から木炭を持ってきて、軒下の火鉢で火をおこし始めた。
そんな事より仕込みを続けてください、なんて言い出せないほどおじさんは僕を質問攻めにした。社会人が3連休にママチャリとテントで旅をして、途中でこんな山奥のラーメン屋に立ち寄ることがどうも珍しいらしい。そんなものなのか。仕込みは店の中で奥さんが黙々と進めていたので、僕は火鉢に手を当てながら、しばらくおじさんの好奇心に付き合うことにした。
僕は
・まだ学生だった頃、卒業旅行と称して四国の88箇所を一人で回った自分の物好きさ
・それはママチャリにテントをくくり付けて、あえて携帯電話を持たずに地図帳だけで挑戦した旅だったという無鉄砲さ
・2週間の孤独な道中で幾度となく周囲の人に助けられ、励まされてなんとか結願できたありがたさ
・88箇所を回り切った後には高野山へお礼参りに行くものであるが、社会人になってからずっとその機会を失っていたことへの後ろめたさ
・お遍路の旅からちょうど一年たって、改めて思い返し、ペダルに足をかけたのが一昨日の晩だったという突拍子のなさ

を、とうとうと語った。
おじさんは僕の話の一つ一つを興味深そうに、ゆっくりと頷きながら聞いていた。
「いやあ、ええなぁ、若者は。ええなぁ。」
僕のことを羨ましがるおじさんこそ、僕にとっては興味深い。こんなばかげた話に親身に耳を傾けてくれる60代男性なんてなかなかいない。でも、それがこんな山奥でひっそりとラーメン屋を開いているおじさんだったら、もしかしたら分かってくれるのも当然なのかもしれないと思った。電車は通っておらず、国道からも離れ、原風景という形容がぴったりな源流のほとりに建てられた、プレハブ小屋のような店だ。「和歌山に行くんだったらいいラーメン屋があるんだよ。高野山からはまたちょっと遠いんだけどね。」と、四国で出会って道中を共にしたお遍路仲間のアドバイスがなかったら、まず訪れることはなかっただろう。

聞いてみると、おじさんは若いころに、ミナミで板前をやっていたらしい。なぜ大都会で和食の道をきわめようとした人がこんな田舎でひっそりとラーメンを作っているのか。おじさんはただ、ゆっくりと地に足をつけた生活を送りたかっただけだとしか説明しなかった。肩肘はらず、夫婦ふたりで好きなラーメンを作り、地元のひとと、たまたま訪れたひとたちに、1対1で顔を向き合わせながら振る舞うほうが性に合っているということなのだろう。それにしたって、一度決めた生き方をそんな風に変えるのに、一体どれだけの葛藤と苦労が伴っていたのだろうか。会話の隙間で想像せずにはいられなかった。

「僕のラーメンはね、10人が食べて3人がおいしいって言ってくれれば、それで十分なんよ。もちろんおいしいラーメンをつくっているつもりだけど、でも味の好みなんて人それぞれでしょ。だから、10人に3人。4人じゃ多いの。あんたみたいに旅の途中で立ち寄ってくれたのがきっかけで、気に入って何回も来てくれる人がいるのはうれしいんやけどね。」
ぼくは「やけどね」の意図するところがわからなかった。
「この前、うち、テレビで『秘境ラーメン』なんて紹介されてな。それ以来いっぱいお客さんが来てくれるようになって。」
それは良かったじゃないですか、という言葉をかけていい表情を、おじさんはしていない。
「遠くからもお客さんが来てくれるのはありがたいんやけど、そんなに期待されても困るというか、申し訳なくって。」
なるほど、おじさんの生き方の根本でもある「田舎で店をやる」ということが仇になっているのかもしれない。頼んでもいないのに余計な修飾語で紹介され、みんなが遠くから過大な期待を抱いて押し寄せてくる。しかも、彼らが目当てにしているのは、おじさんにしてみれば10人に7人が気に入らない味なのに。
「最近は、インターネット、あれも怖いもんやね。情報が広がるのはいいことなのかもしれんけど、誰かの書いた感想が一人歩きして、知らん所で伝わって行くのは本当に怖いわ。」
僕だって知人の情報を頼りに訪れた。それがインターネットの誰かが書いた情報を参考にするのと、どこが違うのだろうか。
ただ、僕の勘違いでなければだが、おじさんは僕に興味を持ってくれて、好意的で、出会いを喜んでくれているように見える。「秘境ラーメン」に期待を抱いて遠くからやってくる一人ひとりに、おじさんがこんなにも自ら話し込むことは、たぶんしていないだろう。

「さてと、そろそろ準備しようかねぇ」
おじさんはついに立ち上がり、店の奥へと入って行った。
火鉢の火が消えないように何度も団扇で扇ぎ直し続け、やがて開店時間が近づくころ、店に続く細い田舎道は車でいっぱいになっていた。
店内に案内された僕は、横浜ナンバーの車で来た若い夫婦と相席になった。別に横浜から来たわけではない。お互い関東で知り合い、つい最近結婚して、夫の家族の反対を押し切って奥さんの地元である和歌山に移り住んで来たのだ、ということは、注文がおわってラーメンを待っている間に知った。

そうだ。表層的な情報だけでは何も判断できない。
きっと、テレビやインターネットの情報も同じで、断片的で、誰かに編集されたものだ。たとえばそこにおじさんのラーメンの情報はあっても、おじさんの考えや生き方が込められているのかといえば、おそらく今回は違った。おじさんがお客さんに出したいのは、単なる「田舎に足を運んででも食べたくなるうまいラーメン」じゃないはずだ。何気ない会話の端々や、仕草や、佇まいから染み出してくるおじさんの生き方。その静かな情熱の注ぎ先としての、一杯のラーメン。それらはきっと、限られた時間や文章の中では省略されてしまうことなのだろう。
情報を発信した人についても同じことだ。その人がどんな人で、いつどんな風に食べたラーメンの評価であるのかを切り離してしまっては、正しい評価を正しく参考にするなんて本来はできないはずだ。

「共感」という言葉がマーケティング用語として使われるようになり、本来の意味が薄まっているようにも感じる。表層だけの、編集された、断片的な情報に触れるだけで、共感した気持ちになってしまうことのなんと多いことか。同意を示すボタンを押されるだけで、共感された気持ちになってしまうことのなんと多いことか。
もちろん、広告は広告である以上、編集を伴う宿命を背負っている。その延長線上に、情報以上の何かを期待させるものでなければ意味はない。ただし、そこに「本質」が含まれていることは前提として、である。両者のバランスが損なわれた時、広告は人を幸せに導くことができない。
共鳴という言葉ならどうだろう。おじさんは、テントを担いでママチャリでやってきた僕の身なりを見て、僕の生き方の中の省略できない何かに共鳴してくれたのだろうか。僕が、田舎で店を開くおじさんを見たときに感じたそれのように。

おじさんはさっきまでの饒舌が嘘のように、厨房の奥で黙々とラーメンをつくっていた。奥さんが運んできたラーメンを、音を立ててすする。一息ついて、テーブルに着く3人が3人とも、ごく自然に、「おいしいですね」と言葉をこぼし合った。隣のテーブルからも聞こえた。残念ながら、おじさんの言葉には一つ決定的な間違いがあったようだ。もう、どう計算しても10人に3人にはならない。

僕は店を出るとき、同じ言葉を今度はおじさんにかけた。また自転車で来ぃや、との言葉には無言の笑顔で応える。次に一人で来るのはもったいないと思うと、自転車は厳しいだろうか。あるいは、僕の誘いに共鳴してくれる人なら無駄な心配だろうか。そうかも知れない。おじさんがまだ広告の力で幸せになれていないのなら、僕が発信者になればいい。

大阪に帰るならと、おじさんに教えてもらった県道を走る。太陽は高く昇っていたが、峠を迂回する道の脇にも一片の雪が残っていた。
ふと、昨日見た光景を思い出す。もしあの現象がまだ誰にも知られていないとしたら、さて、まずはどんな名前をつけようか。そんなことを考えていた。

審査講評 『広告が約束する多様な感動』          審査委員長・協会理事 植條則夫

1.広告と暮らしの温かい関係
このエッセイ募集も六回目を迎えた。これを機会に今までの入賞作品と私の審査評を読み返してみることにした。第1回目の審査講評のタイトルは、「暮らしと広告の温かい絆」であり、その後は、「エッセイから暮らしの顔が見える」(第2回)、「生活者の心に広告は届いているか」(第3回)、「エッセイが語る暮らしの広告像」(第4回)、「無縁社会に広告は人とどう繋がっているか」(第5回)と書いている。
これらの各タイトルが示すように、応募されたエッセイからは、常に広告と暮らしの暖かい関わりが感じられた。
もちろん、このたびの応募作品にも今まで同様、生活者と広告の深い繋がりや人と人との確かな絆を意識した作品が多かったことはいうまでもない。

2.世代を越えて暮らしを繋ぐ広告
さて、今回のエッセイ募集には53点の作品が寄せられた。その職業や年齢をみても、広告が実に幅広い人々に多くの影響を及ぼしていることが理解できる。
ちなみにその入賞者は女性、男性とも6人ずつで、職業は会社員、地方公務員、翻訳家、自営業、パート事務、プランナー、特別養護老人ホーム勤務、主婦など、実に幅広い層の生活者から構成されている。
その年齢も最年少の23才から最高齢の78才まで、ここでも世代を越えて広告が企業や商品と暮らしを結んでいる様子がうかがえる。

3.広告とエッセイの関係
こうしたエッセイで扱われている広告作品に共通しているのは、広告そのものが、読者や視聴者との間に、一瞬のうちにある種の感動や共感を与えている作品が多いという事実である。
やや乱暴な言い方をすれば、いかに企業や商品が優れていようと、そして、いかに科学的なマーケティング戦略がとられていようと、最終的には生活者との最初の出会いである広告のクリエーティブにかなり大きなウエートがかかっているという現実もしばしば経験することである。
無数に存在する広告の中で、あるごく少数の広告が、生活者との間に一瞬のうちに忘れられない感動の世界を与えることが出来るのである。それにはクリエーターの人や社会や時代を見る鋭い目が求められることはいうまでもない。
今回の応募作品にもそうしたことが強く感じられたが、いずれにせよ生活者(ここではエッセイの執筆者)と広告の制作者の感性が響きあって、今回の入賞作品も創造されたものであることは確かである。

4.入賞作品が語る12の感動
さて、今回グランプリに当たる大賞に輝いたエッセイは、伊豆村通氏の「留置場のクリスマス」である。
このエッセイに起用されている山下達郎の「クリスマス・イブ」(1983年発売)は、1988年にJR東海のCMにも使用されたもので、作者がかけだしの刑事として看守勤務に当たっていたときの服役中の暴力団組員との心温まるエピソードである。
エッセイとして書かれたものではあるが、4000字にものぼるボリュームの巧みな構成と内容が、読む人に長編小説のような迫力と感動を与える作品として今回の大賞となった。
以下の作品は、それぞれ優秀賞10篇と特別賞の1篇である。
まず最初に紹介する優秀賞「夫とコマーシャル女優」は、主婦である山田恵子氏の作品で、老夫婦の日常生活が淡々と語られている。広告は科学的な目的をもって制作されているが、受け手はCMに様々な受け取り方や魅力を感じており、ここでは大関のCMが「夫を幸せにしていたのだ」という作者(妻)の締めの文章が、このエッセイを支えていて面白い。
もう随分前になるが「スライス・オブ・ライフ」の考え方がクリエーティブの手法として話題になったことがある。これは、どの広告にもナイフでレモンを切ったときの断面のような、暮らしの中の瑞々しさが描かれていなければならないというクリエーティブ手法のことであった。このエッセイもそうした視点から書かれた作品であった。
次は、西尾光則氏の作品「母と僕の手書きのチラシ」で、作者が幼稚園に入園した頃、父が米穀店を開業したため、母の重要な仕事となったお店のチラシつくりの手伝いが淡々と描写されている。この店はスーパー等の進出で倒産するが、その後も母はボランティア関連のチラシ作りをしている様子が綴られている。短いエッセイの中に女の一生が描かれていて、作者の母への深い思いが感じられた。
次は、樋熊広美氏の「野菜のこころ」である。
もう30年以上前になると思うが、カゴメ野菜ジュースのヒットCMがあった。このエッセイでは、この広告が大きな比重を占めている。都会に出ている息子の健康を気づかう母の気持をテーマにした作品で、比較的年齢の高い人なら、このCMを記憶している方も多いことであろう。いつの時代も母親というものは、子供がいくつになっても心配ばかりしているものであるが、わずか15秒のCMが、いつまでも視聴者のこころに生き続けているのは、そこに母と子の強い絆が描かれていたからであろう。   このエッセイにも書かれているが「野菜」という言葉は、母親にとっては「健康を案ずる気持ち」の代名詞だったのである。
竹本奈央氏の作品「祝!元気をくれる広告」は、留学生寮でアシスタントとして暮らしていた竹本氏は、東日本大震災からしばらくたった頃「祝!九州3・12九州新幹線全線開業」のCMに出合い、このCMから多くのエネルギーをもらったという。そして「これからの新たな復興のフェーズで、私に出来ることは何か。」を考え行動している姿がエッセイとして綴られている。
同じく次の作品は、中原雄太郎氏の「あんたの仕事」で、故郷の鹿児島弁のCMがテーマとなっている。それらは「地元への愛着心を育み、思い出をよみがえらせ、ノスタルジックな気持ちにさせる。」「自分が故郷へ大きな愛情を抱いていることを教えてくれた」と書いている。爽やかなエッセイであった。
同じく優秀賞の作品に朱喜哲氏の「クジラの夢―(回復)のメタファーとしての広告―」がある。ここでは、公共広告機構(現ACジャパン)の広告が対象になっている。この作品は40年に及ぶ日本の公共広告史上でもベストテンの上位に入る作品だと私は思っているが、朱喜哲氏は哲学を専攻してきた人だけに氏自身の環境や教養をベースにして、この作品と対峙している点で、ユニークな視点や文体となっている。
今日のエッセイは、昔のように随筆とはいわなくなっているが、それは心のおもむくままに書いていくものではなくて、エッセイの英語が示すごとく、広く論文調のものや、フィクションやルポルタージュなど、その概念や表現形式の幅が広がっており、このようなアプローチがあってもいいのではないかとも思われる。
そうした点からみても、この作品は、他の入賞作品とは違った視点や文体、内容を有しており、読む人の感情や情緒だけでなく、知性にまで迫ってくる点で大変興味深いエッセイであった。
次は柴田芳子氏の「冷たいチャーハン」である。
このエッセイでは、母への感謝がテーマとなっているが、作者が書いているように、子供はいくつになっても改まって母に感謝の言葉を伝えにくいものである。
いずれにせよ心の中ではいつも感謝しているのだが、そうした照れくさい子供の心理を爽やかなエッセイにしている点が評価された。
昔のように親や先生などに対する気持ちが薄らいでいる今日の無縁社会にあっては、広告でも、東京ガスのCMのようなストレートな作品があってもいいし、いいたくてもなかなか言い出しにくい娘の心理や情況を描くのも広告の役目なのかもしれない。
優秀賞の次の作品は、林俊雄氏の「しあわせって なんだっけ なんだっけ」。これはいうまでもなく、といっても若い人にはわからないかもしれないが、25年ほども昔に明石家さんまが出演していたキッコーマン醤油のCMのなかで、彼が歌い踊っていたものである。
こうしたCMの影響もあって、その頃このエッセイの作者は「企画して制作することに自分自身がしあわせを感じない広告が、一人ひとりをしあわせにすることが出来るのか」と考え、独立したという。そして、今は「今日はしあわせの広告が出来た」といえる広告づくりを目指していると書いている。
同じく優秀賞の南はるか氏は「うつにならないおまじない」で、他のエッセイではあまり扱っていないテーマと、折り込み広告のかかわりが取りあげられている。
キッチンに貼った折り込み広告が、作者の乱れがちな生活習慣に対して、様々な自制心やアドバイスを働かせてくれることが書かれている。一人暮らしの人に役立つ様子が描かれており、「次に引っ越す場所にも連れて行こう」というあたりは、このチラシを作った製薬会社に知らせてやりたいと思うほどである。
最後に紹介する優秀賞は、藤原初枝氏のエッセイ『「大阪駅」のあるドラマ』である。藤原氏は、遠い昔に大阪駅から二つの旅立ちを経験しているという。一つは縁故疎開。昭和19年、藤原家の家族6人は、やっとの思いでたどり着いた大阪駅から愛媛へ疎開することになる。
もう一つは昭和27年、18才になった作者は、疎開先の小さな村を出て、愛媛から夜行列車で思い出の大阪駅のホームにたどり着く。
そして、この二つの旅立ちから60有余年後の昨年、新装なった「大阪ステーション・シティ」を訪れた作者の感慨が、読む人の胸をうつエッセイである。

5.審査員特別賞に見る『都会人の忘れもの』
以上が大賞1点と優秀賞10点の紹介であるが、最後に今年の審査員特別賞には、吉田統樹氏の「淡雪より淡く」が選ばれた。雪の降る高野山へママチャリで旅をした話であるが、途中、紀ノ川の上流あたりにある山奥のラーメン屋へ立ち寄り、その店主(おやじさん)との交流を綴ったエッセイである。といっても、この作品は単なるサイクリングの旅行記でもなければ、ラーメン店を営むおやじさんの話の紹介だけではない。
作者はこの中で「表層だけの編集された断片的な情報に触れるだけで、共鳴した気持ちになってしまうことの何と多いことか。」と嘆いているように、今日のマスコミや広告の在り方に対する疑問や批判を、この店主の素朴な、しかし一途な生き方に見い出し共鳴するのである。それはママチャリとテントで旅をした作者の生き方にも通じるものが感じられた。
このエッセイのタイトルにもあるように、作者が高野山で見た「淡雪より淡い雪」のように、今では、都会では失われた情景や人間の生き方が、素朴な二人の会話の中にも見え隠れする思いがした味わい深い作品であった。

6.心に響きあう広告創り
いま広告は世界的にみても大きな変化の中にある。それは、カンヌ・ライオンやニューヨークフェスなどの入賞作を見ても明らかだが、今回のエッセイの入賞作をみてもわかるように、広告戦略がどんなに科学的に構築されたものであっても、最後はその送り手の広告作品と、受け手である生活者の間に、温かく強い絆が結ばれるかどうかによって、その効果が決まることが理解できるのである。
つまり、広告作品がどれほど生活者の心と響きあうかによって、その効果が決まるのである。どんなに新しいメディアが出現し、多様化しようとも、受け手の心に感動を残さなければ効果は少ないことも、今回の入賞作品が語りかけてくれているように思われる。
(エッセイスト・関西大学名誉教授・社会学博士)

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