第5回広告エッセイ大賞受賞作品

大賞 『私と広告 ― サンキューベリーマッチ』             根本 薫

東京生まれの東京育ち、戦争中の集団疎開の時以外は東京以外に住んだことが無い両親の下、目指せ一流中学校と言い聞かされて受験勉強中の毎日だった。当時の私は12歳、東京の区立小学校6年生。中学受験は学校が終れば塾、塾から帰れば続けて勉強といったとても忙しい日々を過ごしていた。小学校の同級生は受験勉強なんかとは程遠く、教室ではピンクレディーやらキャンディーズやらと芸能やテレビドラマの話題で盛りあがっていた。ところが受験中の根本家では「テレビは禁止!」。ピンクレディーが歌手であることくらいは知っていたが、テレビを見れない私にとっては人気アイドル歌手がどんな歌を歌っているのか知るわけもない。それこそ同級生から「変な奴」扱いの的になる絶好な「イジメのネタ」だ。
「友達とは遊ぶ暇があったら勉強だ!」、「テレビなんか見たらバカになるぞ!」、と毎日言われ続けられれば、小学6年生の私には何のための受験なのか分からなくなり、体は自然と塾に向かうものの、まったく納得のできない受験勉強になっていった。塾にいても意識はボ~ッとしているだけで、何も身に入らない。そうこうしているうちに入試試験の本番季節が到来。勉強に気も入らないまま気合もヤル気も空っぽで続けた結果は歴然。受けた五つの私立中学校は全て不合格となった。となると中学校は地元の区立、小学校のクラスメートがそのまま集まる、いわば「変な奴」扱いをされていた私にとっては決して楽しい学校生活は期待できない環境がまっていた。
そんなある日、父親からいきなり「薫、アメリカの中学校に行くか?」と提案が出された。小学生の私にはアメリカの中学校へ親元を離れて単身留学することが何を意味しているか想像もできなかった。ただ、地元中学校へ行けば「苛められるかもなぁ」という想像や、ずっと受験を強要してきた両親に対する反抗心も交じり合って、深く悩むこともなくアメリカ行きに賛成をした。その時、まったく英語なんか話せない事は二の次、それよりもその時の環境からの脱出のことしか頭にはなかった。
そして数ヶ月が過ぎ、パスポートと航空券、トランクケースには洋服や本を詰め込んで、アメリカで一緒に住む家族の写真を片手に独り成田空港からアメリカに渡った。到着したアメリカの空港は勿論英語だらけ、何が書いてあるのか、何を言っているのか分らないまま空港の到着ロビーで出迎えの家族をポツリと待った。すると同じ歳くらいの男の子が近寄ってきて「ペラペラペラ」と何かを言って私の手をとり引っ張っていく。確かに家族写真に写っている次男っぽい。それから家族の車に乗せられて、お父さん、お母さんが何を言っているかも分らないまま「アメリカのお家」に向かった。そして私のアメリカ中学生としての生活が始まった。
学校が次男と同じということもあり、英語が分らなくても次男の後ろを金魚の糞のように付いて行けばとりあえずは何とかなる。学校までのスクールバスやお昼休みのカフェテリアは次男に付いていけるが、教室はバラバラ。授業も何をしているかまったく分からずだ。クラスメートも一生懸命に話しかけてくれるものの、こっちは笑顔どころか戸惑う表情しかできない。
家に帰ると次男が連れてくる近所の子達が集まってアメリカンコミックを読んでくれた。「マネして読め!」とジェスチャーで伝えてくるので、笑われながらも読めない英語を読んだことを今でも覚えている。そして家には勿論テレビがリビングルームに一台あった。小学校では「テレビを見るとバカになる!」と怒られて見ることが出来なかったテレビだが、この家にはそんなことを言う父親はいない。放課後に暇をしている時にはテレビのスイッチを入れるものの、勿論全て英語だけ。あたりまえだがコマーシャルまで英語だ。「これじゃ面白くないじゃん!」と思いながらも、静かなリビングルームにいるよりは音があった方が多少は賑やかという思いでテレビはつけたままの時が多かった。
テレビ番組はアメリカでも日本と同じで30分や60分。何が可笑しいかわからないアメリカンジョークで観客がゲラゲラ笑う音声が入ったコメディー番組や、刑事ドラマなんかは、英語が分らない私にとってはまったく面白くもドキドキもしなかった。
そんなある日、テレビを見ていて面白いコマーシャルを見た。それは地元のタイヤ屋さんのコマーシャルだった。タイヤがいっぱい出てきて、何ドルだ、何ドルだとデカく派手に目立つドルの値段が表示されている。言っている内容は分からないが、値段のことを言っているくらいは英語が分からなくても見れば分かる。要するに「お得ですよ」ということだろう。そして最後には素人っぽいお爺さんが「サンキューーーベリーマッチ」と強く強調するトーンでコマーシャルが終る。このコマーシャル、とにかく沢山流れるではないか。気がつけばお爺さんの「サンキューーーベリーマッチ」が耳から離れない。気がつけばコマーシャルと一緒に私も「サンキューーーベリーマッチ」と真似をしていた。それを聞いた次男が大爆笑。「おい、カオルがタイヤ屋のコマーシャルの真似をするぞ~!」という感じだ。大爆笑となったものの、その時は「笑われた」と嫌な気持ちではなく、なんか仲間として少し人気者になれた気分で嬉しかった。それから数ヶ月、家でも学校でもカオルはサンキューーーベリーマッチを物真似する「面白い奴」と、それまでの静かで戸惑っているキャラから一変した。
このタイヤ屋さん、レックスブローディー家族の個人店。見る回数も多いせいか回数が増えるとブローディーお爺さんの「サンキュウーーーベリーマッチ」以外のセリフも聞き取れる英語が増えてくる。気がついてみるとタイヤ屋以外でも分かるコマーシャルが増えてくる。そう、コマーシャルは30秒という短い秒数で必要最低限の情報をできるだけ分かり易く、そして記憶に残るように連呼するからだ。地元の中古車屋さんは週末のセールを告知し、ファミリーレストランは美味しそうなステーキのシズルを見せて幸せそうな家族が出てくる。どのコマーシャルも見る回数が増すに連れて、なんとなく分かる部分も増えていく気がした。
そんなアメリカの中学生となった私も、地元の大学を卒業するまでの10年間アメリカで過ごすことになった。最初に渡航した12歳から10年も経てば英語は何の不自由もなく話せるようになっていた。アメリカンコミックを真似して読まさせられたり、コマーシャルのセリフを物真似したりのお陰もあってか、私の英語の発音はいたってアメリカ人。ジャパニーズ・イングリッシュの響きはない。
言葉や文化をまったく知らない外国に渡って直ぐの時期、そして友達や楽しみがまったく無かった留学初期に見たテレビのコマーシャルは、私にとっては友達を作る格好のネタになったことは勿論、英語や文化、習慣を体で覚える最高の教材だった。
初めてブローディー家族のタイヤ屋コマーシャルを見てから32年が経った去年、夏休みで当時の地元に帰ってみた。テレビでは今でも同じタイヤ屋のコマーシャルがオンエアされていた。「サンキューーーベリーマッチ」の最後のフレーズも健在。当時のお爺さんではなく、ブローディーさんの息子だろう中年オヤジがお決まりフレーズで決めていた。思わず「サンキューーーベリーマッチ」と私も一緒に呟いて、当時の思い出が蘇った。
私にとっての広告、それは異国で留学生として暮らした貴重な人生経験、その初期にアメリカに馴染む切っ掛けを提供してくれた大切な楽しい時間かもしれない。ブローディ家族のコマーシャルに「サンキューベリーマッチ」。

優秀賞 『「ペンギンさん」の歌』             藤原 初枝

昭和50年代のある真夏日。私は不覚にも、わが家の二階から階段をころげ落ちて、大ケガをした。左足に激痛が走って動けない。
即、運びこまれた救急病院の医師から、 「左脛骨・腓骨骨折」と診断され、五時間にも及ぶ大手術をうけた。その上で「床上起座ならびに体位変換が不可又は不能」「食事用便ともに要介助」の身となり、個室で寝たきりの生活を余儀なくされることになる。
私に与えられた自由はといえば、仰向きのまま、ベッドを30度ほど上げ、引き寄せてもらった食事台の上の大学ノートに、やや自虐的な、闘病日記を書きなぐることであった。
その日記に、つぎのような一節が書かれている。

にわか病人
まあ考えてもみて下さい/元気で日常生活をしていたのに/あの魔の一瞬を境目に/私はベッド釘
付けのにわか病人
ケガした足の苦痛は最高潮/おしっこも 便も寝たままで/垂直ならいざ知らず/水平のままで/
どうして足すことができようか/自然の条理に反します/淀んだ川の流れと同じです
熱で発汗したら/たちどころに体中びしょぬれ/血圧は上がる/食事も寝たまま/天井向いての
食事は/どうして胃の中に流れようか/傷の治りが悪いから/体力が付かないから/周りのみんな
は心配するけれど/食事時間は苦痛のタネ

こんな状況で、失意のどん底にあった私のせめてもの慰めは、やはり夫が仕事帰りに立ち寄ってくれることだった。
たまたまその晩、夫の来訪が遅い。何か不測の出来事でもあったのだろうか?残業かな?あれこれ思い悩んでいると、廊下の遠くから「コツ、コツ」と、聞こえるいつもの小さな靴音。やがて、近く大きくなった「コツ、コツ」が、私の個室の前でピタッと止まる。やっぱり夫だ。(遅すぎる)と、私はタヌキ寝入りをして、むくれたふりをする。
「ごめん、ごめん。ちょっと遅くなったかな」と言うや、夫は買ってきたばかりのテレビカードを、個室の片隅にぽつねんと置かれたテレビに差し込んでいる。映しだされた画面に、私はタヌキ寝入りから目覚めるしかない。「ありがとう」。しばらくすると、夫は「気分転換に、テレビを付けるんだよ」と、言い残して、わが家へと帰って行った。
翌日からの私の個室は、活気が満ちはじめたかにみえた。しかし、どんなニュース、ドラマ、そして歌番組も、私の脳裏をかすめるだけで虚しいばかり。落着き先は、歩くことはおろか、立つことさえもできない現実のわが身で、逆に気が滅入りこんでしまう。
いっそのこと観るのを止めようと、思ったその瞬間だった。突然、昔なつかしいサンスター歯磨きのCMソングが流れはじめた。
あっ、「ペンギンさん」の歌だ!若き日の郷愁さえも感じさせるその歌は、乾き切った私の心を、捉えて離そうとしない。

♪ オーロラ かがやく その中で
なんと おしゃれな えんび服
もしもタクトを ふりながら           晴れの舞台に 立ったなら
とても りっぱな 楽長さん
ペンギン ペンギン たのしいな

なんと楽しく軽やかなメロディであろうか。
神秘的とさえいわれるオーロラがひかる中、南極の海を、短いツバサをヒレに変えて、たくみに泳ぐペンギンさん。氷原にある住処のがけっぷちを、楽しげにヨチヨチ歩くペンギンさん。厳寒に生きるその姿は、孤独でたくましく、大自然に溶け込んでいる。

どなたの作詞、作曲かは知らない。でもこれほど純粋で、人々に勇気を与える歌が、他にあるだろうか。
昭和27年の春。18歳の私は、地方の親元をはなれて、大阪南の知人宅に下宿していた。下宿といっても、知人家族との窮屈な同居暮らしだ。早朝から、一台の古いラジオが、「早く、起きなさい」といわんばかりに、付けられていた。
やっと見つけた職場へと、毎朝、私の背中を押してくれるのが、そのラジオだった。ガッ、ガッ、ガッと、雑音が混じる中、7時15分のペンギンタイムになると、「ペンギンさん」の歌が鮮やかに流れてくる。その軽快さに元気をもらい、勤めを休んだことがない。

図らずも私は、病院の個室でなつかしのメロディと再会した。「ペンギンさん」の歌は、ベッドで被害妄想にとらわれがちな私の心を、少しずつではあるが、ほぐし始めたのである。
足の骨折がどうしたというんだ!日夜、懸命に診て下さる医師とスタッフたち。人間には自然に備わった治癒力がある。日にちが経てば必ず治る。きっと治してみせる!昔のあの頃は、貧しくて孤独だった。が、今はどうだろう。私には、かけがえのない家族がいる。気のおけない知人や友人もいる。くよくよしては居られない。
こうして、「ペンギンさん」の歌は、私の若き日を励まし、中年になって負った大ケガの試練をのりこえる、二度もの勇気を与えてくれるきっかけになったのだ。
治療と機能回復に一年間を費やしたものの、私の左足は、ほぼ元どおりに回復した。

それから30数年の歳月が流れた。
日進月歩のマス・メディアには、叡智をこらせた新しいCMが次々に登場し、古いものは姿を消したかにみえる昨今となる。ところが、私の想像は浅はかだった。古い筈のCMソングが今もなお、それも思いがけない場面で生きているのを知ることになる。
私が働くデイサービス(在宅福祉)の現場に、アルツハイマーを病むSさんが、奥さまに付き添われて来訪されたのは、木枯らし一番が吹くこの10月下旬であった。
年格好は70代後半か。かっぷくのいい、会社の重役さんタイプだ。
デイサービスを利用させたいという奥さまの願いに反して、Sさんにはその意志がなさそうにお見受けする。
それもその筈であろう。ロビーのソファーでお年寄りが三々五々、談笑する風景はうなづける。が、そこで、入浴し食事をとり、ゲームに打ち興じることなど、彼にはとうてい理解できないのである。(呑気に遊んでいる場合じゃない。会社へ行かなくちゃ、仕事が山積みだ)
この場から逃げ出そうと、彼はエレベーターの方へ走る。引き留めようとする職員たち。私にとっても、こんなお年寄りをいかに説得するかは、むずかしい課題なのである。
そんなとき、思いがけない奥さまから私へのひと言が、助け舟になった。
「うちの人、過去のことは、ほとんど思い出せないのに、『ペンギンさん』の歌だけは、ちゃんと歌えるんですよ」
思わず私の胸は、高鳴った。
(彼と私は、共通の歌をハミングしながら、同じ世代を生きてきたんだ)
彼と私で一対一の交流がはじまった。
「Sさん、『ペンギンさん』の歌を、いっしょに歌いましょうよ」
♪ オーロラ かがやく その中で
寡黙な筈の彼が口を開いてくれる。なかなかの美声、ソプラノである。
♪ なんとおしゃれな えんび服
と、アルトで調子を合せる私。二重唱はスムーズに流れて、止まることを忘れている。その様子を眺める職員たちと奥さまは、目を丸くして微笑んでいる。
翌日、彼は、私の期待どおりデイサービスにやってきた。まず「ペンギンさん」の歌でご挨拶し、そして、私は静かに話しかけてみる。すると、どうだろう。彼は少しずつ心を開いて、大阪の名門高校を出た後、某大手企業に入社したことなどを、ポツリ、ポツリと語り始めるではないか。
だが「ムリは禁物」と、私は多くを話しかけず、また明日という日に期待を繋ごうを、心掛けることにした。
彼が姿を見せなくなったのは、一週間ほど経った頃である。デイサービスに物足りなさを感じられたのだろうか。彼の身に何か変化が起きたのか。いずれにしても、私は悔しかった。彼との共有時間を、もっと持ちたかったのに・・・・・・。
思えば「ペンギンさん」の歌がとりもつ二人の交流は、たったの一週間だけである。しかし、彼にとってのその歌は、30年、いや、もっと60年近くも、彼の脳裏に刻まれて、過去を想起する役割を果たしている。
たとえ、どこかの、彼にふさわしい施設か病院に収容されたとしても、歌は必ずや彼を励まし、勇気づけるだろうことを信じて疑わない。
あらためて今、私はもう一度、「ペンギンさん」の歌を歌ってみよう。「Sさん、末長く、お幸せでね」の祈りをこめて・・・・・・。

♪ オーロラ かがやく その中で           なんと おしゃれな えんび服
もしもタクトを ふりながら
晴れの舞台に 立ったなら
とても りっぱな 楽長さん
ペンギン ペンギン たのしいな
(了)

優秀賞 『嘘と沈黙の隙間に』             吉田 統樹

ヒッチハイクの三箇条

【1】ロケーションを選ぶべし。
最終電車では大津まで行くのがせいぜいだったので、僕は駅から大津SAまで歩き、上りの出口付近の一角に立った。ここなら街路灯の下で目立つし、すぐに停車できるスペースもある。夜の琵琶湖を眺めながら一息ついて、さぁ御殿場方面へ向かおう、というタイミングの車なら山ほど通るだろう。

【2】笑顔を絶やすべからず。
そもそもヒッチハイカーに懐疑的なドライバーは多い。加えて、時間は深夜0時を回っていた。もし自分だったら、こんなシチュエーションで182cm の色黒な男なんてまず乗せないだろう。僕は「安心して乗せられる良い人オーラ」を全身から醸し出すため、自然な笑顔を心掛けた。

【3】成功するまでやめるべからず。
単純だけど、これがいちばん大切で、いちばん難しい。僕は1時間近く街路灯の下に立ち続けた。親指を立てる左腕が痛い。こんなポーズ、一体誰がヒッチハイクのポーズと決めたのだろうか…そんな八つ当たりとも言える恨みの念が湧いてきたちょうどその時、ようやくおじさんの運転するキャンピングカーが止まった。

まったく、ヒッチハイクなんてよっぽど時間のある時か、よっぽどな理由でもない限りやるもんじゃない。

それは大きなキャンピングカーだったけれど、おじさんは一人で運転していた。いや、「おじいさん」と呼んだ方が適切な年齢かもしれない。でも、そう呼んでしまうと最初から壁を作ってしまうように感じたから、僕はあえて二人称を「おじさん」にした。わざと狭い助手席にも座らせてもらった。
果たしておじさんは、やっぱりおじいさんだった。この春に定年を迎えていて、既に孫もいた。家族がみんな東京にいるのに一人だけ明石に住んでいるのは、そこが今までの単身赴任先で、もうしばらく残らなければならない会社の事情があったかららしい。きっと家族に会うために、金曜から土曜に変わる深夜にETC割引を利用して、一人で大きなキャンピングカーを運転して東へ向かっているのだろう。
おじさんは自分からヒッチハイカーを乗せたくせに、人としゃべるのは苦手な様子で、気をつけていないと二人の会話はすぐに途切れた。僕もどちらかというと話下手な方なので、まずはおじさんの人となりに関する質問を続けたが、やがて一通りの質問が尽きると、おじさんは政治や経済の話題を断続的に振ってきて、僕は睡魔と闘いながら話を合わせた。
「ところでアンタ、学生ね?なんでヒッチハイクしおるん?」
浜名湖SAで休憩を取った後、ようやくおじさんは僕のことについて聞いてきた。
「えぇ、はい、そうです。ちょっと友達に会いに行くため…」
おじさんと入れ違いで4月に社会人になったばかりの僕は、車に乗せてくれた恩人の質問に嘘で答えた。

つい4ヶ月前まで学生だった僕は、アルバイトではあったが、東京の中高一貫校のテニス部でコーチをしていた。その教え子からメールが来たのがちょうど一日前、木曜の夜のことである。

「お久しぶりです。 硬式テニス部の○○です。」
明日から、私たちは、夏合宿で御殿場に行ってきます。いよいよ、今回が最後の合宿になってしまいました。もう、最後になるなんて、信じられないです。初めて行った時はまだまだ先のことだと思ってましたが、本当にあっという間でした…。
悔いの残らない、最高の合宿になるように、皆で協力して、全力で取り組んでいきたいと思います。吉田さんもどうか応援していて下さい。」

たったこんな1通のメールで不意に沸き起こった、「がんばれ」の一言をかけてやりたい衝動。それはきっと、生徒たちと共に過ごしてきた4年間の日々が、まだかけがえのないものとして僕の心に確かに残っている証拠だと感じた。それに素直に従った結果が、今の僕の本当だった。
「そうなんや。」
おじさんがそう言うと、また、会話が途切れた。今度の沈黙は長かった。

僕が嘘をついたのは、決して悪意があったからではない。社会人にもなって他人頼りでしか旅することのできない後ろめたさは多少あったが、それだけでもない。僕の「夏合宿」にかける思いを話したところで、きっと赤の他人には理解してもらえないだろう、という諦め。それが主な理由だった。
僕がどれだけテニス部にかけていたかとか、生徒たちとの絆がどれだけ強かったかとか、そんな僕らにとって「夏合宿」がどれほどの意味を持っていたかとか。それを言葉にして語ってしまうと、これまでの4年間が陳腐になってしまう気がしたし、どんな言葉を使っても伝え切れる気がしなかった。上手な言葉を選んで、それで伝われば良いというものでもない気がした。
ただ、それが悲しいことだとは思わなかった。おそらくおじさんにだって、いや、きっと誰にでも、心の中に大切にしているものはある。でもそれは人それぞれで違って、もしそれを他人と共有しようと思ったら、十分な量の時間と空間と気持ちを共にしなければならないだけだからだ。たとえば、四年間ずっと通って、同じ目標に向かって、同じ汗を流して、何度もぶつかって、時に涙を流して。「大切」の重さって、そういうことだと思っていたからだ。

いるはずのない僕が、朝一番にコートにいて、目を見て、「がんばれ」と一言。
ただ、それだけのこと。
他人から見れば、社会人にもなって、休日の予定をキャンセルしてわざわざ深夜にヒッチハイクで400km を移動するのに、ここまで呆れる理由もないだろう。百歩譲って一瞬だけ行きたい衝動に駆られたとしても、夜行バスにキャンセルが出ず、新幹線の始発では集合に間に合わないことを確認した時点で普通は諦めるはずだ。こんな行動、自分自身でさえ、何年か後に落ち着いて振り返ってみたら理解に苦しむのかもしれない。そんな自分がいたとして、うまい説明を与えてやれる自信もない。
だから、嘘をついたことは僕にとって仕方のないことだし、むしろ自然なことにさえ感じていた。

やがて夜が明け、富士山が朝日に照らされながら姿を現すと、今度は由比PAでトイレ休憩を取った。
おじさんは写真が趣味らしく、無言のまま一眼レフカメラを富士山に向けている。
あまりに長い沈黙に耐えかねて、僕はおじさんへの質問を必死に考えた。
「おじさんは、どうして僕を乗せようと思ったんですか?」
「だって、親指を立てとったやろ。あれは昔からヒッチハイクのポーズって決まっとるんや。」
「そうですけど、それだけで止まってくれる車なんてなかなかないですよ。僕はあそこで一時間以上、ああして待っていたんです。」
僕は左腕に感じていたさっきの痛みを微かに思い出し、組んでいた腕を解いた。
「あのポーズはな、」
おじさんは横目でちらりと僕を見、続ける。
「30年前だったか40年前だったか、テレビのCMで見たポーズなんや。もう何のCMかも覚えとらんけど、アンタを見た瞬間、ふと思い出してな。」
おじさんがこんなに自分から話をするのは、この数時間の中で初めてのことだった。
「そのCMでも道端に若い男が立って、親指を立てて車を待っとった。たしか車は一台も止まらずにCMは終わるんやけど、男の顔の中には、笑顔だけじゃなくて、何かを決意したような表情が表れとってな。なんでか知らんけど、その時の男の顔が、今でもずっと印象に残っとるんや。」
そう話すおじさんの顔にも、笑顔だけじゃなく、何か特別な思いを含んだような表情が浮かんでいるように見えた。
「あれは多分やけど、いろんな気持ちを背負って、大切な人に会いに行くためのヒッチハイクやったんやろうなぁ。じゃなきゃ、あんな表情はできん。僕も若い頃からずっと旅をしとるんや、よう分かる。アンタも、そんくらいの決意を持ってヒッチハイクしとったんやろ?会いに行く友達が誰かは知らんけど、大切な人なんやろ。」
夜通し独りで車を運転して家族のもとへ向かうおじさんも、僕と同じ気持ちを抱えていたことに気付かされた。と同時に、僕は心の中がきれいに見透かされていたような気がして、嘘をついたことをとても恥ずかしく思った。

たとえ人によって大切なものは違ったとしても、大切なものを想う気持ちはきっと万人共通なのだ。それは時代や場所が違っても変わらない。現にその記号は、もう何十年も前にCMに乗って流れていたのだ。僕がこの気持ちを抱く以前どころか、生まれてくるよりも当の昔から。
広告が人に向けられたメッセージであるならば、そこには必ず人間に共通する記号が含まれているはずだ。だとしたら、隙間にそんな記号を一つでも発見すれば、それだけで人と人はつながることができるのではないだろうか。相手が世代も出身も違う赤の他人だとしても、あるいは数時間前に初めて会った人だとしても。
どうやら僕は、見たことも聞いたこともないCMを作った、どこのだれかも分からない人に感謝しなくてはならないようだ。

エンジンがかかり、カーナビが起動すると、御殿場までの残り時間が表示される。
話下手な僕が「夏合宿」をおじさんに理解してもらうのに、あと40分で足りるだろうか。

優秀賞 『時が止まるコマーシャル』             山口 絵里奈

私は九州一の繁華街である中洲で、チーママとして働いていた。出勤は夜から3~5時間で、週休2日。時間と給料は同学年の友達より余っていたが、仕事で負うストレスもそれなりのものだった。しがらみ、愛想、嘘、から騒ぎ、事件。あの街に居ると心が乾くのだ。愛を探しに来る場所なのに、そこにあるのは愛ではなく、乾いた欲と虚構。やりきれなくなる。
そんな時、私はいつも自然界に触れたくなる。それも観光地化された自然ではなく、殆ど手がつけられていない、山の木々が怖い程に緑色を保っている場所に行きたくなるのだ。その為なら仕事が終わった午前2時や3時から数百キロの道のりを車で駆け抜けるのも楽しい。
おかげで私はずいぶんと九州の山や海に詳しくなった。一番好きだったのは、熊本の球磨川の水源地と、宮崎の高千穂だ。球磨川の水源地は山の上だった。車で山の頂上近くまで1時間半かけて登り、それから2時間かけて登山で水源地まで登る。登山の道は、道などない。誰も通った形跡もないので、どこを歩いていくのか全くわからない。崖を歩かなくてはいけない所もあった。途中で野良犬が出てきて怖かったが、何故か人に慣れていて仲良く一緒に登った。水源地は、神の存在を思わせた。仏陀やキリストの様な神ではなく、自然界そのもの。地球を生で見た感覚。この世の仕組みを猛烈な速さで考えさせられる様な場所だった。
高千穂は、有名な高千穂峡まで行かずに、高千穂という地名に入ったすぐの山と僅かな集落に、球磨川の水源地と同じ存在を感じた。緑が光の様に思えた。明らかに今まで見たことのない木々の色と空気と時間。神の国とされている理由がはっきりとわかった。
親友の誕生日に、私の妊娠が発覚した。2歳年下の彼氏に告げると簡単に逃げられた。彼氏の親には「水商売してる女の子供なんて、息子の子供とは思えない」と言われ、私は1人で産む決心をして、大阪の実家に住むことになった。
元々、両親も九州人なのだが数年前に転勤で大阪に住むことになったのだ。私は初めて大阪に住んだ。だが、私は彼氏が子供を捨てたショックに苦しみ、彼氏の親の言葉にも苦しむ毎日を送った。
家にも、なんとなく居づらかった。自分の場所がなかった。とにかく自然と触れ合いたかった。だが、関西の山に行っても神様が違った。勿論、見えるわけではないが姿が違う気がするのだ。何か分からないが全然違う。良い場所なのだが、私は余所者なのだと思わせられた。さびしかった。九州の山々が恋しかった。
冬に娘が産まれた。だが毎日がさびしかった。自然が恋しかった。
滅多に見ないテレビを見ることにした。不思議な変化があった。少し前と違って、テレビで流れる言葉の一つ一つを考えながら見る様になっていた。何故かコマーシャルを特に意識するようになった。YUIの歌が流れる印象的なベネッセの進研ゼミ進学講座のCM。そこには、
「何度も泣いた。ホントつらかった。でも、あきらめなかった。受験が終わって、私。なんか強くなってた。」
と赤い文字で力強く書かれていた。そのCMが何か好きだった。
AC公共広告機構のCMは誰でも惹かれるものがあると思うが、私は一匹狼の様な眼をした女子高生が出てくる、
「あなたは あなたでいいのだ」
というCMが一番好きだった。あのバイオリンの心地よい音と、一匹狼の様な気高く孤高の眼をした女の子を見ていると、安心できた。
そして私は、一番好きなCMに出会った。それは、「大分むぎ焼酎 二階堂」のCMだ。テレビであの映像を見た時に、私の時が止まり、母が隣に居るのも忘れて私は涙を流してしまった。テレビを見て泣いたのは15年ぶりだった。
見慣れた山の色、草の色、土や橋の雰囲気。田舎道の懐かしさ。線路の終わりと、錆。異世界と繋がっている様な錯覚に陥る、広大な深いひまわり畑。蝉の鳴き声。咲き乱れる彼岸花。全て私の知っている自然だった。間違いなく、九州の風景だと思った。何故、故郷とはこんなに懐かしいものなんだろう。たった一年、離れていただけなのに凄くさびしかった。だけど、不意に今私は触れあえた。テレビ番組で九州の山が映しだされても、偽物の様に思えていたのに、このCMは違った。
確かに私は触れあえたのだ。
CMの途中に母が「なんか九州っぽいね」
と呟いた。そしてCMの最後に「大分むぎ焼酎 二階堂」と出ると「やっぱり」と言っていた。その後で私は泣いているのがバレてしまうのだが。
終わる間際の「一生に何回 後悔できるだろう」という言葉。考えた。正直に言うと、意味が分からない。これが分かるようになるには、私はまだ生き足りないのだと思う。なので覚えておくことにした。いつか分かる日が来るまで。
間違いなく私はそのCMに元気を貰った。貰ったというよりは勝手に吸いとった。という方がしっくりくる。娘が3カ月になったと同時に、正社員としてOLになった。会社で良い仲間と出会えた。それから半年すると逃げた彼氏が涙ながらに詫びて大阪に引っ越してきた。
今、娘の父親としてやっていけるか、かなり厳しく採用試験中だ。

優秀賞 『私と広告 ~ つぶやきの効果』             梅村 修

だれの文章だったか、思いだせない。こんな一節があった。
・・・・坂の上に暮らしている人は、家路に差し掛かるたびに、その日一日のことを、ときには何年か前のことを、反省したり思い出したりする身体になっている、と。
また、長い冬を閉ざされて暮らす人は、ひっきりなしに降る雪を見ながら、いつとはなしに物思いにふける身体になっている、と。
環境は、人の生理に微妙な影響を与えて、深いところから人を変えていくのだろう。

変わったといえば、ここ数年、日本人の書き言葉はずいぶん変わったと思う。
書き言葉は、有り体にいえば、日記のように自分に向けて書くものと、手紙や作文のように読み手に向けて書くものしかない。それがインターネットの普及からこのかた、特定の読者を想定しない、「つぶやき」のような書き言葉が氾濫するようになったのだ。
ネット社会では、だれもが、自分の感想や思念を文字にして、世界に発信することができる。試みに、誰かのブログやツイッターを開いてみるとよい。そこには虚空に放り投げられたようなモノローグが、塵芥のごとく散乱しているだろう。
私たちは、いつのまにか、そんな日本語に慣れきってしまった。そして、他人の「つぶやき」に敏感に反応する身体になってしまったようだ。

このことをいちばん感じさせられるのは、電車に乗って、見るともなしに広告を眺めている時だ。そこには、言うともなしにつぶやかれたようなコピーが待ち構えていて、読むともなしに目で追った瞬間、はっと胸を突かれることがある。ときには、長らく忘れていたことを思い出したような気分になることもある。また、あるときには、自分の心の内側を見透かされたような気持ちになることもある。

ある日も、マヨネーズのグラフィック広告から、こんな「つぶやき」が聞こえてきた。

「近頃、よく笑う。」
・・・・そうだ。もうすぐ来るクリスマスのせいだろうか・・・・。

「ことしの冬は、去年の夏より明るい」
・・・・そういえばそうだ。こころなしか気分が明るいのは、四十歳になったからかな・・・・・。

「冷蔵庫はからっぽのほうが気持いい。」
・・・・そうそう。肉や野菜でいっぱいになった冷蔵庫って、なんだか億劫な気分にさせるんだよね・・・・・。

どれも公の場にはそぐわない、ささめきごとばかりだ。そこにはメーカーからのメッセージは影をひそめて、だれかの、溜息のような「つぶやき」が活字になっている。問わず語りに、思わず口をついて出てしまった吐息のような言葉、それを偶然居合わせて聞いてしまったような感慨、そしてその「つぶやき」に深く共鳴している自分を発見しておどろく。
もとより、広告のメッセージは、多くの消費者に伝わらなければ意味がない。してみると、親しい友達から、自分だけに送り届けられたかに見えるこれらの「つぶやき」は、じつは同時代の空気や気分と共振しているわけだ。
やっぱり、広告なのだ。

おもえば、広告には疎ましいものが多かった。商品の効能書きをがなりたてる「大声」や、けばけばしく飾り立てる「説得」には辟易していた。たとえ商魂を巧みにベールに包んでいても、広告の言辞には、どこか油断のならない狡知を感じ取ってしまう。こうして、いつしか、広告に無関心を装う態度を身につけるようになっていったと思う。
しかし、「つぶやき」には、相手を「納得させよう」とか「折伏しよう」とかという意図は全くない。「つぶやき」は、そもそも人に聞かせるためのものではないのだ。
「ささやき」が、どんな小声であっても、囁きかける耳を必要とするのと違って、「つぶやき」は、聞き手をはじめから想定しない。それでいて思わず聞き耳を立ててしまう。
「ぼやき」が相手にうとまれるのとちがって、「つぶやき」を咎めだてる人はいない。
考えてみれば、「大声」や「説得」なんか非力なものだ。そんなもので人は動かない。なにげなく、つぶやかれたほうがずっと心にしみるのである。
しかし、広告に仕組まれた「つぶやき」はなかなか曲者である。広告の「つぶやき」は、けっして聞き手を想定していなくはない。想定していないそぶりをしているだけだ。誰に言うともなく発する「つぶやき」が、消費者の中に沈潜している本音を言い当てる。広告業界ではそれを「インサイト」というらしい。広告の「つぶやき」は、消費者の「インサイト」を探りあて、垂直に、パーソナルに、下りてくるのである。
つまり、広告のモノローグは、実は「つぶやき」を装った「売るための仕掛け」なのだ。
それだけではない。「つぶやき」は、メッセージを届けたいターゲットを精妙に特定する。なぜなら、「つぶやき」を耳にした人がそろって、「つぶやき」に感応するわけではないからだ。その「つぶやき」の周波にたまたま合致した人にとってだけ、その「つぶやき」は意味のある音のつながりとして聞こえるのである。つまり、「つぶやき」に感応する人は、be in market =市場の内側にいる人なのだ。

ヨーロッパ中世、ドミニコ会の修道士、ジョルダーノ・ブルーノは、コペルニクスの地動説を声高に擁護した。彼は、度重なる異端審問において、自説を撤回するよう求められても断固として拒否したので、とうとう時のローマ教皇に火あぶりに処せられている。ところがブルーノの、勇猛果敢なこの事跡は、ガリレオの、あの「つぶやき」ほど有名ではない。
「地球は動いているんだぞ!」とブルーノのように大声で呼ばわれば、人々に真実が届くというものではないのだ。「それでも地球は動く」とぼそぼそつぶやくほうが、実はちゃんと届くものだという、つぶやき広告の法則を、ガリレオは知っていたのだろうか。
知っていてつぶやいたのなら、ガリレオも大したアド・マンではなかろうか。

優秀賞 『毎日が新しい一日』             梅川 謙次

父は今年、米寿を迎えた。背筋もシャンとして年齢の割にはカラダは健康である。しかし、今帰ったばかりの孫が来ていたことを忘れてしまったり、ちょっと目を離した隙に数日分のクスリを全部飲もうとする。またある時は干したばかりの洗濯物を勝手に取り込んだりしてしまう。認知症である。
だから、食事を自分で用意することもできないし、もちろん火を扱うこともできない。入浴は一人でできるものの時々シャワーの出し方がわからなくなる。つまり一人にしておくことができないのである。だから一緒に暮らす八十二歳の母に大きな負担が掛かる。
先日も父を病院まで付き添って行ったのだが、診察を待つ間にトイレに行くと席を立ったきり、いつまで経っても戻って来ない。一時間以上も待った上、職員の方々と一緒になって病院中を探したがついに見つからず、先に帰ったのかも知れないと自宅へ帰ると消防署から連絡があり、病院近くのスーパーで転んで怪我をし、別の病院に救急搬送されたとのこと。もちろん母はすぐに救急病院に向かったわけだが、こんなことは一度や二度ではない。
認知症は新しい記憶ほど頭に残らず消えていく。それなら昔のことは良く覚えていて、それを辿ることで症状を少しでも改善できるかも知れないと思い、母の日頃のストレス解消も兼ねて淡路島にドライブに行くことにした。淡路島は今から半世紀近く前に、父が営業で回ったエリアである。明石海峡大橋を渡り海沿いの道を走る。時々通過する地名を言っても「そうか」と言うくらいでサッパリ反応は無い。父が働いていた当時と街の様子は大きく変わっているから、記憶が繋がらなくても仕方ないのかも知れない。だいたいあの頃は島に渡る手段はフェリーしかない上、ほとんど舗装されていなかっただろうから、ここが淡路島であるという認識自体ないのかなぁと、半ば諦めかけていた時、突然父が「ここだ!」と叫んだ。うつらうつらしていた母も飛び起きて何事かとビックリ。
そこには道路脇に車二~三台が停車できる広さのパーキングスペースがあった。車をそこに停めるやいなや父は日頃ゆっくり歩く父とは別人のような活発さで元気よくドアを開け外に出た。そして、しみじみと懐かしむように海を眺めたあと父は、当時車で回っている時によくここで休んだことや、その頃の取引先のこと、営業での苦労話など驚くほど細かい内容の昔話を次から次へと話し出した。話している時の父の表情は豊かで瞳もイキイキまたゆっくりと一人で車に乗り込みシートで目を閉じてしまった。
再び車をスタートさせルームミラーで父と母の顔を見た時、不意に何年か前の製薬会社の新聞広告を思い出した。たしかカラーの全面広告で認知症治療薬の広告だったと思うが、海岸のような所を老夫婦が並んで歩いているのだが、奥さんの顔の部分だけボカシが掛かっていて判別できない。そしてキャッチコピーが「夫の思い出の中で、私が死にました」。その人を識別することができなければ、死んでしまったも同然というメッセージだが、その時は今のような状況を想像すらしない、まさに「他人事」だったので、何て暗い広告だろうというくらいの認識しか無かった。しかし今、身近なこととして対応しなければならない立場になったからこそ、この広告のビジュアルもコピーもいきなり、そして鮮明に甦ってきたのだろうか。
現在、父は認知症治療の中でもちろん治療薬の投与を受けている。しかし進行を遅らすのが精一杯で、完治させたり元通りにすることはできない。今はまだ家族それぞれを正確に認識することができるが、いつかこの広告のように身内が誰だか分からなくなる時が来るかも知れない。その時、父の中で母や私たち子供は死んでしまうのだろうか。
私が今後の父の介護を念頭に置いて東京から関西に引っ越してきて一年以上になるのに、会うたびに「いま東京から着いたのか」と聞くので、今はもうこっちに住んでいると言うと、毎回初めて聞くように「そうか、そうか」と嬉しそうに言う。あるいはいつも食べているパンなのに「こんな美味しいのは初めて食べた」とニコニコしながら言う。
私は思う。記憶が失われていくのは仕方のないことだが、それと引き換えに毎回新しい出逢いがあるような気がする。会う度に私が近くに引っ越してきたことを喜び、食べる度に初めての美味しさだとパンに感激する。
あの広告は、記憶が失われることはその人の心の中から身内が消えていくことと同じくらい悲しいことだと伝えようとしたのかも知れない。しかし、たとえ記憶が失われてしまってもそこにはきっと今までにない新しい出逢いと感動があるように思う。自分の妻や子供たちに「初めて会う」父がそこにいるのかも知れない。そして見たこともない新しい一日が始まるに違いないのだろう。
あの広告を初めて見た時は暗くて寂しいという印象しかなかったが、いま思うと何故か人間としての温かみを覚えるから不思議だ。広告の送り手が発信しようとしたメッセージを私は同じように受け取ってはいないのかも知れない。しかし、いま私がこのような状況にあるが故に、深く心に残る広告であることは間違いない。
今回のドライブも翌日には、いや帰った夕方には父は忘れているかも知れない。しかし、わずかでもイキイキとした瞬間を取り戻せたのは何よりも嬉しい。次にもう一度同じルートでドライブしても、父には初めてのこととして新しい一日を心から楽しんでもらえることだろう。

優秀賞 『広告の善意、あるいは或るコピーライターにまつわる話。』       久下 尋厚

1996年。その年私は、高校3年生だった。

大学受験を控え、悲壮感の一つでも顔に浮かべて、机にかじりついていれば恰好もつくのだろうが、当時の私は全く勉強もせず、ただラジオを聴いては葉書を番組に投稿したり、好きな音楽を聴きながら本を読み、時々犬の散歩に行き、学校の帰りに寄り道しては、最寄りから8駅も過ぎたところにあるラーメン屋で、ラーメンも食べずに店主と与太話をしたりしていた。

橋本龍太郎の内閣が発足し、『失楽園』がベストセラーとなり、大好きな渥美清さんがあの世に召された1996年は、私にとって大きな出会いの年でもあった。

その1年前の1995年は、阪神・淡路大震災の年だった。

死傷者、行方不明者合わせて約50,000人。明け方の大都市を直撃した震災は、前の日までの当たり前をあっけなくひっくり返し、よもや見ることになるとは想像だにしなかった景色を、私たちの眼前に横たえた。道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などのライフラインはすべて寸断され、瓦礫と砂埃、火の手と黒煙、そして時折襲ってくる余震の中、私たちは途方に暮れた。

自分がいままで生きてきた場所が変わり果てた姿になった、というより、生まれて初めて見る場所に迷い込んだような心持ちだった。現実を事実として受け止めることが、できなかった。

生きているうちに起きることには、何か意味がある。それまで前向きに考えてきた私は、ただ「じゃあ、これにはどんな意味があんねん」と、答えのない問いかけを心の中で繰り返していた。

答えの出ないまま翌年を迎え、私は特に何に精一杯になるわけでもなく、やりたいことをやりたいように、ただダラダラと刹那的な時間を過ごしていた。それまで熱を入れて続けてきた剣道も、バンド活動も、パタリと手を止めてしまった。それなりに頑張っていた勉強もまったくやる気にならず、進路指導では、「で、どこに就職するんだ?」と言われる始末。「寿司屋へ丁稚にでも行きます」との答えに、母は私の隣で激昂していた。

そんなある日、ふと開いた新聞の広告に、こんなことが書かれてあった。
「災害時、道路は迷路になる」

紙面には火で焼け焦げて穴が空き、道路が寸断された地図が描かれていた。広告の下段には、小さな文字で「どこに救助へ向かえばいいのか、災害がどこで起こっているのか把握できない、道路が寸断されていて、どの道を通れば被災地に辿り着けるのか、わからない。その時、一つでも多くの命を救うために…」というような内容のことが続いていた。私は、文字の一つ一つをなぞるように追いながら、1年前の景色を思い返していた。

この人は、被災者なのだろうか。おそらくは、東京か大阪か、どこか大きな都市でこういった新聞の広告を作る仕事をしている人なのだろうが、こんなにも見たかのように、無駄なく被災地のありようを言葉にできるのは、震災を経験している人に違いない。そう思った。

その時、初めて「コピーライター」という仕事があることを知った。自分のことではない誰かのことを、世の中のできるだけ多くの人に、正しく、魅力的に知ってもらうために言葉を紡ぐことを職業にしている人がいるのだということを。

後に調べたのだが、それは東芝の防災行政情報通信ネットワークの企業広告で、災害時の情報断絶による二次災害を防ぐためのセキュリティネットワークを広告するものだった。そのこと自体は、18歳の私にはピンとこなかったのだが、生まれて初めて、はっきりとした意思を持ってひとつの職業に憧れを抱いた瞬間であったことは、間違いない。

私は、机に向かい、勉強をした。大学に入り、学を身につけ、世の中のことを知り、就職してコピーライターになるために。思いつきのような夢だったが、震災の後、全てに無気力だった自分にとって、精一杯何かに向き合える気持ちを得られたことは、まず何より嬉しかった。

2010年。私は、広告会社で働いている。

浮気をせず、わき目も振らず、後生大事に高校3年生の時の夢を持ち続け、初志貫徹してきたわけでもなんでもないが、あの頃自分の心を大きく揺さぶり、言葉の持つ力を教えてくれたある新聞広告との出会いが始まりだったことだけは確かだ。私は今の会社で3年間、コピーライターとして働くことができた。

とは言え、コピーライターになるのに取り立てた資格はないので、最初は書き方や考え方を教えてくれる先輩が師匠としてつく。私にも、師匠ができた。
ある時、「コピーライターは、広告の善意だ」と、師匠に教えられたことがあった。きょとん顔の私に、師匠は丁寧に説明してくれた。

「その広告が世に出ることによって、例えばその会社の社長はどう思うだろう。何百、何千という社員はどうだろう?その家族は『うちのお父ちゃんの会社、あのCMやってるところやで』と、胸を張って言えるだろうか。受け手として見た人が『知って良かった』『見られて嬉しかった』と思えるだろうか…。要は、何人の人々の顔と幸せを思い描いて、表現を考え尽くし、想像力や思いやりを費やしたか。それが、広告の善意なのだ」と。

分かっているのか分かってないのか微妙な顔をしている私に、師匠は続けた。「だから、うんと考える。それが自分の経験の引き出しにないお題だとしても、うんとたくさんの人の顔を思い浮かべて、その人たちが言ってほしいことに目を向け耳を澄ませば、知ったかぶりでも、言いたいことを言うだけでもなく、ちゃんと人の気持ちをキャッチできる言葉が見つかる。どんなに人が様々でも、本質は変わらないから」と。

広告は、消えモノであるという。その一方で、いつまでも誰かの心に残る広告というものも、厳然と存在する。どちらが正しいではなく、どちらもある。残るのは、その表現が刹那の価値ではなく、人にとっての本質に語りかけているからだと思う。本質だからこそ、たくさんの人の心に届き、消えずに生き続けているのだと思う。

1996年、私もある新聞広告に、気持ちをつかまれた。それは、決してオシャレな表現ではなかったが、災害時に一つでも多くの命を救うため、一企業が真剣に取り組んでいる姿勢をはっきりと伝えてくれたその広告には、確かに作り手の想像力と想いやりが溢れていた。
あの新聞広告のコピーライターも、きっとたくさんの人の顔を思い浮かべたに違いない。その中には、もしかすると私のような高校生の顔もあったかもしれない。被災地の様子を思い浮かべ、そこに住む人に、その家族に、気持ちを馳せたのだろう。「この人も、震災を経験しているに違いない」と思わせるほどに、うんと。

昨今、クロスメディアだ、という。コミュニケーション・デザインの時代である、という。コピー一本で解決できるクライアントの課題は、ほとんどなくなったようにも感じる。これだけ様々な広告と消費者の出会いのカタチがある中で、言葉ひとつで誰かの気持ちをつなぎとめるのは、困難であることは痛感している。
ただ、伝え方が複雑になればなるほど、作り手の姿勢の根っこには、「誰かを少し、幸せにしたい」というシンプルな善意を、今まで以上に大切にしていかなければと、コピーライターを離れた今、より一層思っている。
そのことを教えてくれた私の師匠が、高校生の時に出会った新聞広告を作ったコピーライターその人だったことに気がついたのは、「善意」の話を聞いて、少し経ってからのことだった。〈了〉

優秀賞 『家族の時間はどれくらい』             齊藤 穂高

出張で熊本に来ていた。
宿泊先の旅館から阿蘇山が見える。雄大なカルデラを形作るその山々の向こうに、生まれ故郷の宮崎がある。大阪で就職した私にとって、仕事で九州に来ることはめずらしかった。仕事でとんぼ帰りする同僚もいる中、ひとり出張先に残る気まずさはあったが、親孝行という名目で実家に一泊して帰ることにした。
仕事を終えた翌日、阿蘇駅からJ Rに乗って、熊本と宮崎の県境にある駅まで向かう。父が車で迎えに来てくれることになっていた。小さなひとり旅である。父は息子の私に山の名前をつけるほどアウトドアな人だ。この阿蘇にも、物心ついたころから父に連れられ何度もキャンプに来ていた。ローカル列車の窓に懐かしい風景が広がっている。空、雲、阿蘇山とその麓に広がる草原。都会と違い、なにもかもが大きい。幼いころ毎年見ていた風景。最後に家族で訪れたのは、私が何歳のときだっただろうか。缶ビールの静かな酔いの中、旅情と郷愁を同時に味わっていた。
やがて列車は谷へと入り、左手に川、右手に山肌と変わらない風景が続き始める。見るものがなくなってくる。ふと、車内の中吊りポスターのキャッチコピーに目が留まった。

「思い立った日が、父の日、母の日になる。」

コピーは「帰らなきゃ、とは思っている。」という一文から始まる長いボディコピーへと続き、「これから先、僕は、人生で、何日帰省するのだろう。」と、商品であるJR新幹線つばめに着地した。例えば一年に一度、4、5日だけ帰省できるとして、それが10年続いたとしても、たった4、50日しか家族に会えない。そんな内容だった。
ポスターの中のサラリーマンが、今の自分と重なった。
私は今年で27歳になる。故郷を出て、関西の大学に進学してから9年が経つ。大学のころは盆と正月、就職してからは正月に、ほんの数日帰省できればいいほうだった。それを全部合わせても、今まで何日帰省できているのだろうか。高校まで十何年も一緒にいたのに、卒業してから家族と過ごした時間は2ヶ月に満たないだろう。そう考えると不思議な感じだった。
揺れる列車の中で、家族のことを思い出していた。
私が大学3年生のときのことである。
九州旅行をかねて、当時付き合っていた彼女を実家に連れて帰ったことがある。1日目は博多を観光し、2日目に実家のある宮崎県日向市に行く計画だった。
このことを聞いて、もっとも喜んでいたのは祖父かもしれない。年寄りというのは気が早い。将来の嫁を迎えるくらいのつもりで、ずいぶん前からソワソワしているようだった。
祖父は工事現場や建設現場で何十年も働いてきた力自慢。正月は紅白よりも裏の格闘技番組にチャンネルを合わせるような、血気盛んな感じ。腕相撲で私が勝ったことは一度もない。言葉数は少ないが、やさしくて、なにより初孫の私が大好きだった。そんな、大好きな祖父に彼女を紹介できることが、私も楽しみでしかたなかった。
叔父、つまり祖父の長男が婚約者を紹介したときは、宮崎弁についていけない関東出身の彼女に「日向は方言がねぇですかいねぇ~」と、完璧な訛りで言ったそうだ。家族や親戚が集まると必ず出てくる、祖父の鉄板エピソードだ。僕の彼女を紹介したときは、いったいどんな名言で迎えてくれるのか。彼女と博多の街で飲みながら、そんな話で盛り上がった。
2日目の朝、母からの電話で目が覚める。
祖父が、脳梗塞で倒れた。
脳梗塞って何?どんな症状?電話だけではピンとこない。とにかく祖父のもとへ向かうしかなかった。のんびりと走る田舎の電車がもどかしかったのを覚えている。早く行けよ、特急のくせに、と。
病室に寝ていた祖父は、後遺症で言葉をしゃべることができなかった。体もマヒし、名言どころかいつもの「ヨッ」という挨拶もできない。腕相撲も、もうできなくなっていた。僕の彼女と対面した祖父は、ただ泣いていた。
帰省となると、このときのことを思い出さずにはいられない。
ずっと変わらず続くと思っていた家族の時間は永遠ではないと、わかってはいたけれどやっぱりそうなのかと、実感したのもこのときだった。
それから祖父は車イス生活になり、言葉も不自由なままだが、元気に生きている。よく笑うし、たまにお気に入りの歌も口ずさむ。
ただ、私が年に一度帰省することができたとして、これから先どれくらいの時間を一緒に過ごすことができるだろうか。
数年前には、叔母がくも膜下出血で倒れた。そのことを私は後々になって知らされた。「あのときは生死の境をさまよった」と、よく話しているが、私から見た叔母はお酒が飲めなくなっていること以外、何も変わってないように見える。
弟が事故でケガをしたときのことも、私はよく知らない。
私の家族は、私の知らないところで、家族の時間を積み重ねている。
母はときどき「しんどかったら帰ってきないよ」と言ってくれる。その「帰って」は、帰省を意味するものではない。
祖父が倒れたときに、その場に居合わせ、家族と励ましあったり助け合ったりできたことは、今考えると不幸中の幸いだったのかもしれない。地元に帰り、家族のそばにいて、もっと多くの時間を一緒に過ごしたほうがよいのだろうか。そのほうが親孝行しているといえるのだろうか。そのほうが私も幸せなのだろうか。
少し考えてみたが、いや、そうとは限らない、と思い直した。
なぜなら、私が年に数日しか帰省しないからこそ生まれる家族の時間があるからだ。
私が帰省するとみんなが張り切る。母と祖母は特に張り切る。「どんなごちそうが食べたいか」と聞いてきて、父はそれにかこつけいつもより高級な刺身を買いに行く。実家で暮らしている弟は「兄貴が帰ってきたときだけいいメシが食える」と笑いながら文句を言う。普段は集まらない家族と親戚が大きなテーブルを囲み、決まって祖父が乾杯の音頭を取る。そして、一年でそのときしかしないような話をして、みんなで笑い、集合写真を撮る。とても愛おしい時間。
私の帰省をきっかけに、家族としての輝きを増すのだ。いつもは遠くにいてろくに手伝いもできないが、私は、家族にとって特別な時間を作ることができる存在だった。私が帰る日は「家族の日」なのである。
私はもう一度あのポスターに目を通した。
その新幹線のポスターは「思い立ったら家族に会いに行こう」と言っている。いくら新幹線の本数が増えようと、飛行機が増便しようと、「思い立ったら」は、現実的には難しい。
しかし、永遠には続かない家族の時間の大切さを教えてくれた。離れていても、年に数日しか会えなくても、その時間を大切にすればよいのだ、と。たぶん帰省するたびにこの広告を思い出す。たった一枚のポスターだが、家族を大事にしようと思う人間を確実に一人生み出した。ほかにもそんな人がいるかもしれない。本当に「思い立って」帰省する人もいるかもしれない。そしてその想いは、彼らの大切な人へと波及する。これはとても清清しいことだ。

列車が速度を落とし始める。まもなく待ち合わせの駅に着く。
小さなひとり旅が終わり、家族の時間が始まろうとしていた。
父の車の中で、どんな話をしよう。本当は、早く孫が欲しいとか思っていたりするのだろうか。
なんだか、今までしたことのない話をしてみたかった。

優秀賞 『パパ、これからも、よろしくね。』             徳安 麻子

「社長よりも
パパになりたい。」
というキャッチコピーが書かれた
和光堂の広告を目にしたのは、私が産休に入る2日前のこと。
ボディコピーを読み進めるうちに、
私の目から、大量の涙が溢れ出ていた。

旦那と結婚して、1年がたった4月のある日。私は、妊娠した。
昔から、子どもが好きではなかったし、子どもが欲しいという
願望もなかった。だから、妊娠と分かった時は、内心
「デキちゃったな。これからどうしよう」と焦った。
まず、真っ先に頭に浮かんだのは、仕事のこと。
今の会社に入社して4年半。
広告業界という多忙な職種ゆえ、忙しい毎日を送っていた。
20歳のころからなりたかった、コピーライターという職業。
なりたくて、なりたくて、ようやく掴んだ自分の居場所。
子どもが出来たことで、その居場所がなくなってしまう…
そんな不安が頭の中を駆け巡った。
仕事も波に乗っていたし、毎日が充実していたから、
余計にそう感じたのかもしれない。

とにかく、会社に妊娠の報告をしなければ。
私は我に返って自宅から会社に電話を入れ、妊娠したことを伝えた。
上司は「良かったな。おめでとう」と言ってくれたものの、
その次に発せられた言葉は、
「最近、頑張ってくれてたから、ちょっと残念やな」。
それを聞いて、私も悔しい気持ちでいっぱいだった。

妊娠初期のつわりを乗り越えた6月のこと。
ある出来事が起こった。
検診の2日前、トイレに行くと茶色のおりものが。
「なんだろう、これ」と思ったが、特に気にはしなかった。
6日後、病院の検診で、私は「切迫流産」と診断された。
「切迫流産」の意味を知らなかった私は、「流産」という
響きにびっくりしたものの、主治医の先生に
「切迫流産になりかけてる状態ってことですか?」と
チンプンカンプンな質問をした。
すると先生は「出血があった時点で、切迫流産なんです!!」と
声を荒げ、ようやく私は事の重大さに気付いた。
どうやら、赤ちゃんの健康状態が良くなく、
このままだと、流産の可能性も高いとのこと。
私はパニックになり、先生に何を聞けばいいのかも
わからず、ただ先生の前であたふたしていた。
先生は私に「あなた、働いていますか?
仕事を、時短勤務にすることはできますか?」と聞いた。
その時の記憶を、私はあまり覚えていないけれど、
私は「難しいです」と答えていたように思う。
しばらく沈黙があった後、先生の
「仕事と子ども…というより、仕事と命、どっちが大事なんやっ!!」
という声で、私は現実に引き戻された。

検診が終わり、病院を出ると、涙が頬を流れて止まらない。
すぐさま旦那の携帯に電話をしたけれど、思うように話せない。
私の異常を感じ取った旦那は「すぐ帰ってきて」とだけ言った。
マンションに戻ると、徹夜明けで寝ていた旦那が
パジャマ姿のままで玄関のドアを開けて待っていた。

切迫流産と診断された旨を伝えると、旦那はすぐさま
「明日、会社に連絡しよう。仕事を辞めてほしい」と言った。
旦那の冷静だけどはっきりとした口調に、私は絶句した。
今、私が仕事を辞めてやっていけるわけがない。
考えが甘い。甘すぎる。そんなことを心の中で思っていた。

「辞めてくれ」「辞めたくない」のやりとりを
何回か繰り返しているうちに、
「俺がどれだけ、この子の誕生を楽しみにしてるかわかるかっ!
お願いだから、何が一番大事か、もう一度考えてみてくれ…」
と大声を発し、泣きじゃくりだした。まるで駄々をこねた子どもみたいだった。
付き合って6年、結婚して2年、
旦那のここまで取り乱した様子を見たのは、初めてだった。
私も、もうどうして良いか分からず、
2人で1時間近く、大声で泣き叫んでいた。
話し合いの結果、私は診断書を提出し、
17時帰りの時短勤務にすることに決めた。
でも、会社にそれを伝えるのが、怖かった。
みんなが夜遅くまで働いていて、
自分だけが17時に帰ることに後ろめたさもあった。
恐る恐る社長に伝えると、
「命より大切なものはない。何の問題もないよ」
と言って、時短勤務を許可してくれた。
給料も減給はなく、今までと変わらなかった。
17時退社となった初日。
17時になり、そろそろ帰る準備をしなければ、と
周りの状況を伺いながら身支度をしていた。
みんな、忙しくバタバタとしている。
なんとなく、帰りづらいなぁ…なんて思っていると、
隣の席の同僚が
「●●ちゃん、もう帰る時間だよ!早く早く!」と
明るく声をかけてくれた。
帰りにくい私の心境を察しての、救いの言葉だった。

心から、この会社に勤めて良かった、と思った。
その日は、何カ月ぶりに、夕食を作って旦那の帰りを待った。
思えば、1年前に入籍はしたものの、仕事人間だった私は、
新婚なのに22時、23時帰りも当たり前。
時には徹夜になることもあり、
平日は、2人で夕食を取ることなんて皆無だったのだ。

21時頃に帰宅した旦那は、私がこんな時間に家にいることに
驚いたような、嬉しいような、変な顔をした。
久しぶりに作ったなんでもない手料理を、
何度も何度も「おいしいよ」と言ってくれた。
今まで、悲しい思いをさせてごめん、と心の中で謝った。

時短勤務から3カ月が過ぎ、お腹の子は順調に成長していった。
産休まで残り2日となり、少しの間、会社を離れてしまう
さみしい気持ちと、ホッとした気持ちが入り混じっていた
ある日のこと。インターネットでベビー用品を探していた時に
ある広告が目についた。妊婦体験ジャケットを身に付けた
男性の写真の横には、こんなコピーが書かれていた。
僕は、キミの超音波写真を
見ても泣けません。ママのお腹に
話しかけるのも苦手です。
妊婦体験ジャケットをつけても、
キミの命まで感じることはできません。
だから、早く、キミと会いたい。
この手でふれて、抱き上げれば、
キミを守るパパ本能が
ゆっくり目覚めはじめる予定だから。
※一部抜粋

そうだ。そうだったんだ。
なんで、今まで気づかなかったんだろう。
私は、いつも一人で頑張ってきたような気になっていた。
一人で妊娠と向き合おうと必死だった。
でも、今、私のお腹にいる命は、間違いなく
私と旦那の子どもなんだ。2人の子どもなんだ。

そう思うと、なんとなく、心のもやもやが消え、
晴れ晴れとした気持ちになっていった。

予定日まで残り3週間。
これから、どんな生活が待っているのか
まだ想像もつかないけれど、きっと、楽しいに違いない。
大好きな旦那との子どもに、早く会いたいな。

パパ、これからも、どうぞよろしくね。

優秀賞 『答えはCMに』             小原 敬

目の前にある幾千もの星を眺めながら彼は言った。
「歳なんて関係ない。遅いことなんてない。人はいつでも始められる。」
僕はその言葉を長い間忘れていた。
彼と出会ったのは大学1年生の時だった。

当時、僕はアメリカのジョージア州にある大学に通っていた。何の共通点もない数名がなんとなく自然に集まり、グループができていた。彼はそのグループの一員だった。

彼と出会った日がどんな日だったのかはよく覚えていない。僕と彼の間に何か特別なエピソードがあった訳ではなかった。そんなエピソードのない一日を積み重ねていたある日、彼は一人暮らしをしていた僕にルームシェアしないかと声をかけてきた。特に仲が良かったわけでもない、僕に。

僕は迷わずOKしてしまった。今振り返っても、何故だかは分からない。白人で金髪、目は透き通った青い色、すっと通った高い鼻、なかなかハンサムなヤツだった。アメリカ人のステレオタイプとは違う、混じりけのない日本人である僕と変わらない身長で、さらに細身だった。仕事は軍でヘリコプターの整備士。いわゆるアメリカの軍人であった。

同じグループに属していたとは言え、彼のことは見た目と彼の仕事ぐらいしか知らなかった。それなのに、一緒に暮らすことをOKしてしまったのは、アメリカ人=軽いノリという僕の思い込みが大部分であったが、彼が纏う雰囲気に惹かれていたのも事実だった。

それから彼と彼の仕事仲間と私、男3人でのルームシェア生活が始まった。彼らと過ごす生活は、とても楽しかった。夜遅くまで語り合ったり、色々な州へ旅に出たり、時にはお互いの友達を呼んでどんちゃん騒ぎをしたり、僕の大学時代の思い出といえば、彼らとのそう言った思い出だと言っても言い過ぎではないくらいだ。

共同生活のなかで、僕は彼らがよくあるハリウッド映画に登場するような暴力的な軍人ではなく、むしろそんな暴力的な軍人から弱い者を守るような正義感溢れる人間だったことも知った。

数年のそんな生活の後、彼は兵役を終え、ニューヨークに移り住むこととなる。僕たちの共同生活も、それと同時に幕を閉じた。

僕は大学卒業後、サンフランシスコに移動して仕事を始めた。偶然にも、彼もまたニューヨークからサンフランシスコへ拠点を移し働いていた。シェアメイト時代の続きをする訳ではなかったが、僕はあのころのようにまた、彼と時を過ごすようになった。

彼の人柄を表すエピソードとして鮮明に覚えていることがいくつかある。

そのひとつはヨセミテ国立公園に旅に出た時のことだ。ある日突然、彼から「暖かい格好をしてくるように」とだけ言われ、何も聞かされずに車で向かった先がそこだった。ヨセミテ国立公園は1984年に世界遺産に登録されたアメリカでは代表的な国立公園である。公園内のヨセミテ渓谷にはいくつもの巨大なハーフドーム型の花崗岩が聳え立っていて、中でも世界一大きな一枚岩「エル・キャピタン」が象徴的な公園だ。僕たちは、巨大な花崗岩までハイキングしてキャンプすることにした。

そこから臨むヨセミテ渓谷のスケールは桁違いだった。花崗岩が群を為して静かに立ち並ぶ姿は、まるで石化した巨人達が円陣を組むかのようだった。岩と岩との距離はとても遠く、渓谷まではとても深かった。空は雲が手に届くかのごとく近く感じ、果てしなく青く広がっていた。

夜になって、キャンプファイヤーで食事を作って食べた。食後に彼は「今日、ここに来たのは、実はこれのためさ」と、ビスケットとマシュマロ、そしてチョコレートをバックパックから取り出しながら微笑んだ。

彼はマシュマロとチョコレートをビスケットで器用に挟み、それを木の枝で刺してキャンプファイヤーにかざしながら言った。「これはスモア(S ’more)。まだ食べたことないだろ?アメリカでキャンプと言えば、このスモア。これをお前に1度食べさせてやりかったんだよ。」

スモアは、アメリカではキャンプの話になると必ず登場する食べ物だった。いつか食べてみたいとは思っていたけれど、わざわざこのヨセミテまで連れてきて食べさせてくれるとは思ってもいなかった。アメリカのねっとりした甘さに慣れていなかった僕だったが、その時のスモアの味は格別で、一噛み一噛み噛み締めて食べていた。

スモアを食べながら僕達は、仕事や趣味の音楽の話に花を咲かせていた。大学時代の思い出話に差し掛かった時に僕はため息を吐きだしながらつぶやいた。「あぁ、あのころは良かったなぁ。夢があって、何者にでもなれると思っていた。あのころの自分にはもう戻れないんだろうなぁ」

キャンプの火も弱まってきて、辺りには幾千もの星が、相変わらず静かにたたずむ巨人達の頭をやわらかく照らしていた。そんな星を眺めながら彼は言った。

「歳なんて関係ない。遅いことなんてない。人はいつでも始められる。」

何か根拠があった訳でもないのに、ただ僕がその言葉を待っていたのか、その言葉は心の深いところにずっしりと落ちてきて、僕は言葉もなく、頷き続けることしかできなかった。

ヨセミテ国立公園を旅してから数ヶ月後、彼はハワイにある会社に転職することになった。そして、彼がサンフランシスコを離れて1年後、僕もまたサンフランシスコの地を離れ、日本に戻ることになった。

僕が日本に帰国してから3年ほど経ったころ、彼から連絡があった。日本に住むことにしたといった内容だった。僕は驚かなかった。僕を訪ねて遊びにきた日本という国に、彼が魅了されていることを知っていたからだ。全く日本語が喋れなかったにもかかわらず、条件が良かったであろう自国での仕事を蹴ってまで日本の会社に転職してしまったと聞いた時にはわずかに苦笑したけれど。

彼とまた同じ土地で暮らすということは、ヨセミテであの言葉を教えてくれた彼に恩返しをする最大のチャンスが来たということだ。僕らはお互いに忙しかったが、可能なかぎり時間を作って会い、休日は彼が行きたいところに連れて行った。それでも彼が僕にしてくれたことに遠く及ばなかったと思う。

チャンスが来たということだ。僕らはお互いに忙しかったが、可能なかぎり時間を作って会い、休日は彼が行きたいところに連れて行った。それでも彼が僕にしてくれたことに遠く及ばなかったと思う。

彼が日本に来て数年が経ち、僕は関西の会社に転職することになった。同じ日本国内とはいえ、彼と会う機会はめっきり少なくなってしまい、電話やメールだけの関係が続いていた。

ちょうど僕が関西に移ってから6ヶ月たったころ、彼から1通のメールが届いた。そこには彼が今まで抱えていた持病が再発し、手術を受けたという内容が書かれていた。ご丁寧に、胸の下から下腹部まで伸びる手術痕の写真まで添付されていた。

その痕はとても長く黒ずんだ痕で、写真の中で彼は笑顔でピースサインをしていたが、痛々しく決して笑えるものではなかった。僕は心配してすぐに彼に電話をしたが、彼は冗談を交えて大丈夫だと笑い、僕は僕で元気なその声に安心してしまっていた。

それから1ヶ月ほどしてから、彼のガールフレンドから1通のメールが届いた。

彼が亡くなった。

そう書かれていた。手術は成功していたにもかかわらず、突然彼が倒れて救急車で運ばれ、病院で亡くなったらしい。僕は到底信じられずに、共通の知人に連絡を取った。彼が亡くなったことは、やはり、事実のようだった。

不思議なことに、悲しいとかそんな感情は沸いてこなかった。とにかく確かめたかった。本当に彼が亡くなったのかを。僕はすぐに東京に向かった。連絡をくれた彼のガールフレンドに教えられた店には既に彼の両親、同僚、友達が20人ぐらい集まっていて、「惜しむ会」を行っていた。

日本に来て何年も経っていないのに、よくこれだけの友達を作ったものだと冷静に感心する一方で、誰よりも長く彼と友達だったのは自分であることに気付いた。僕はただひたすら、僕らの思い出や、彼が今まで僕にしてくれたことを思い出し、話すことしかできなかった。

あたかも自分は彼にとって特別な人間だったかのように、僕は話していた。そんなことを言いたかった訳でも何でもないのに。お別れの言葉に「彼は私達の中に生きている」なんてそんな気障な言葉を吐きたかった訳ではなかったのに。突然彼を失った混乱の中で、言葉だけが空回りしていた。

僕は、モヤモヤした気持ちを引きずったまま関西に帰ってきた。モヤモヤしたまま数日を過ごし、なんとなくテレビを見ていると、あるCMが流れた。「アースマラソン」に挑戦している間寛平が出ているトヨタ・プリウスのCMだ。

CMは、最初に間寛平が一人で走っていて、徐々に彼を支える人達やプリウスが登場するといった構成になっていた。彼のナレーションが「一人でできるから、走るようになったんでしょうね。でも、気が付いたら、なんか周りに助けられていますよね。仲間です。それに、うちの嫁。それに、プリウス。仲間ですから。だから最後は一緒にゴールしますわ」と入り、最後にプリウスをバックに「いいヤツですよ!」というものだった。

それを見て、僕は唐突に彼が教えてくれた言葉を思い出した。

「歳なんて関係ない。遅いことなんてない。人はいつでも始められる」

還暦近い間寛平が「アースマラソン」に挑戦すると知った時は、誰もが「その歳で大丈夫?2年以上も日本に帰らずレギュラー番組に出なくて大丈夫?」と思ったはず。でも、このCMに登場する間寛平は若々しく輝いていた。

それが根拠の無かった彼の言葉の答えだった。

彼とアメリカで出会ってから十何年、偶然が偶然を呼んで彼と私が追いかけ合っていたのはこの言葉の答えを探すためだったのかもしれない。

「それでも答えを見付けるには早過ぎた。人生はこれからじゃなかったのか。これから山ほど始めたいことがあるって言っていたじゃないか。」

「もっと一緒にいたかった。もっといっぱい話したかった。」

「ずっと仲間でいたかった。」

「寛平のように一緒にゴールしたかったよ。」

「ありがとう。」

「いいヤツ!」

そして自然と涙が溢れてきた。

優秀賞 『ペギーズコーブの灯台』             三宮 純

一人きりのおざなりの夕食を終え、自分が何の為に生きているのかと張り合いのない毎日にうんざりしながら、私はテレビを見ていた。一青窈のハナミズキの歌が流れる。新作映画のコマーシャルらしい。
その時、いきなり見覚えのある風景が現れた。
あの灯台。ペギーズコーブの灯台だ。
約束を果たせなかった灯台が映っている。
次は一緒に見に行こうと約束したあの灯台だ。
夫が亡くなってから二年が過ぎた。
彼は、本当は美術の道に進みたいという望みを押し殺したまま、母親の希望通りの公務員という職業を選んだが、夢を葬り去ることが出来なかった。家庭を持ち、勤めの傍ら油絵を描き、風景写真を撮りはしたが、心が満たされていない様子だった。絵も写真も趣味と言われると激昂した。「趣味で終わってたまるか」が口癖だった。
今の自分からどうにか変わりたいと、海外赴任に手を挙げ、家族四人で移り住んだのが豪州だ。日本でのしがらみを捨て、まるで檻から草原に解き放たれた獣のように、週末ごとに写真の機材を乗せた車で、彼は地平線めがけて走り去る。
家族を置き去りにしたまま、仕事以外の時間は全て写真撮影に費やした。
「三年経って帰国したら元のお父ちゃんに戻るよ」と、幼い二人の息子たちにつぶやいてみたけれど、一度ついた火は日本に帰っても消えなかった。
油絵は金属造形に変わり、写真撮影も高い山々に出かけ、ますます趣味の域を超えていく。掛かる経費を捻出するために手を出した投資にも失敗し、思いもよらない借財を背負う羽目になった。
子供の病気、身内の不幸。何もかも一度に押し寄せ、夫婦共に働いても働いても返済が出来ず、まるで小さな筏で急流を流されていくような日々だった。目の前に迫る岩や早瀬をどうすり抜けるかだけしか考えられず、心は離れるばかり。思いこんだら家庭も経済的なことも眼中に無くなってしまう彼の無謀さに、理解しようと努力する気持ちも失せた。
彼の退職金でようやくケリがついたのは十五年後だった。息子も独立し、気持ちのすれ違った夫婦二人が、今後どう暮らすかお互いに考えようと、彼は再就職先にカナダを選び、単身で赴任して行った。
ほどなく、月に一回、家族や親しい友人にカナダ通信と称してニュースレターを送って来た。異国での日々の暮らしから世界観まで興味深い記事と共に、伸びやかで涼やかな風景写真も入っている。今までゆっくりと話し合ったこともなかったが、ニュースレターに書かれている彼の考えを冷静に読むことで、もう一度彼の気持ちに寄り添いたいと考えるようになった。
何号目かのニュースレターの中に、ペギーズコーブとキャプションがついた可愛い灯台の写真があった。丸みを帯びた岩の上の白い灯台。屋根と窓枠が赤い。海に向かって可憐に建っている。カナダの東、大西洋側らしい。
無性に「ここに行きたい」と思った。すぐファックスで「写真、いいねえ」と連絡したら「会社の夏休みに、こことプリンスエドワード島とを見てバンクーバーにおいで」と返事が来た。
友人と一緒に教えて貰ったとおりのスケジュールで出かけた。夏の間はこの灯台の中に臨時の郵便局が出来る。「呼んでくれて有り難う。今度は二人で来たいよ」と、買い求めたポストカードを彼に出した。けれど飛行機の機器トラブルで足止めをくい、日程が足りなくなり、彼の住むバンクーバーには寄れず帰国することになった。
二年の赴任期間終了間近に「もう無茶はせんから、かあちゃんと住みたい」と言って帰国して一月後、「俺の居場所がない。半年はカナダで暮らす」と又遁走。
五年間の行ったり来たりと写真旅行三昧でまたもや借金まみれで帰国。    二人でカナダキャンピングカー放浪旅行』どころではない。彼にとっては縮こまった不本意な三年を過ごした後、彼は血液ガンの宣告をうけたのだ。余命は、早ければ一、二年との事だった。       手術も出来ず、週一回の輸血だけが彼の命をつなぐ手段だったのに、ある時、医師に
「一度だけでいいですから、輸血を十日後にしてほしい」と食い下がった。勿論「駄目です。体が持ちません。」と却下された。
帰りの車中で「なんであんな事を?」と尋ねた私に、彼は「十日空けて貰えたらペギーズコーブまで行けるのに。ごめん。約束、守られへんかったなあ」とぼそっとつぶやいた。
その二週間後、彼はあっけなく逝ってしまった。宣告を受けて八ヶ月後だった。
納骨時、フィルムケースにちょっぴりお骨を取り分け、お仏壇の引き出しに入れてある。「そうや、彼と一緒にあそこへ行こう。しっかり働いて旅費貯めて、今度は私が連れて行ってあげる」
もう一度生きていく目的が出来た。あのコマーシャルに感謝。

審査委員特別賞 『女子大生が広告から学ぶもの』             平栗 明子

神戸の小さな女子大で教鞭をとって7年目になる。
30人規模のクラスで授業を行うと、学生の反応が瞬時に伝わってくる。教科書の陰でメールを打つ生徒、B5サイズはあるかと思われる鏡をずっと覗き込むもの、ハンドクリームを塗ってみたりミントタブレット
を友人にまわしてみたり、90分の間にひととおり行われる。
教壇からは、驚くほどすべて見えるのだ。

授業中、学生を飽きさせるのは講師の責任と考えている私は、自分の力不足を歯痒く感じることはあっても学生に対しさほど不愉快には思わない。教室外で会えば「先生、先生」と慕ってくれる。出席重視と伝えればきっちり毎週授業にやってくる。あてられれば一生懸命答えようとする。何より、私が今まで一度も歩いたことがない恐ろしく急な坂道を、重い教科書をかかえピンヒールを履いてよたよた歩いてくるのだ。教室に入るころにはアイライナーが汗でにじみ髪が縮れている。それだけでいじらしい。

そんな彼女たちが、授業中一斉に顔をあげ身を乗り出して聞く話しがある。「就職」である。昼食後睡魔に襲われる3時限においても、みな真剣な面持ちで聞き耳をたてる。2年生の多いクラスでは目を輝かせながら。4年生中心の授業では疲れた顔の眉間にしわを寄せて。

学生が知らないような様々な業種のこと、大企業だけでなく中小企業にも目をむけるメリットについて、過去の卒業生の就職先、私自身の就職活動体験談、業界研究の重要性、ネットを活用し常に情報収集を心がけること等、気がつけば授業時間の半分近く就活話しに費やしたこともある。「就職」の話題に移すと授業は一気に活気付き、みなノートにペンをはしらせる。

昨日、11月17日の朝刊に「大卒就職超氷河期 内定率最悪」の見出しがおどった。今年の大学生全体の内定率は57・6%で、調査を始めた1996年以降最低となった。中でも女子大生の落ち込みが著しい。首都圏の有名大学の学生でさえ苦戦している。地方の大学、しかも多くの学生が学校推薦ではいってくる女子大にとって、八方塞の状態。バブル時代に就職活動を経験した自分が目を疑ってしまう内定率なのだ。

しかしこれで引き下がるわけにはいかない。就活中の学生は、将来を左右する人生の岐路に立たされている。大学は学生にありとあらゆる資格の取得、検定試験の受験を早くから指導し、就職部は新たな会社を発掘し情報を張り出し、教員は生徒をはげましながら、少しでも彼女たちの就活を有利にするための努力を惜しまない。

授業の合間はほとんど、学生の悩みを聞くか面接試験の練習と指導をしてすごす。エントリーシートをチェックし、履歴書を訂正し、講師控え室の片隅や空き教室にこもって、生徒と二人で面接の練習を繰り返す。化粧品会社志望と言われれば、私自身業界情報をかき集め、外資系航空会社を受けると聞けば、本社のある国の言語・文化・習慣に至るまで、面接で聞かれそうなことすべてを調べて、その学生に教える。もちろん生徒たちも一次面接、二次面接、と駒を進めるごとにメールで報告してくれるので、こちらにとっても手に汗握る勝負だ。最終面接で落とされようものなら「私のかわいい生徒に、なんてことしてくれる」と思わず怒りがこみ上げてくる。

一度、授業の中で「自分はどんな人間か」「自分の優れている部分」について書いてみる演習をしたことがある。本当に自信に欠けるのか極度に謙虚なのかわからないが、彼女たちは驚くほど「弱気」だ。これでは面接官相手に自分を売り込むことはできない。理由を聞いてみると、
「高校時代、しんどくて部活が続かなかったし」
「大学受験も失敗して、いやだった女子大に来てしまったし」
「バイトも店長が厳しくてやめたいし」
「姉と違って子供のころから勉強できなかったし」
「コンビニ菓子が好きなので太っているし」
とネガティブ思考のオンパレードである。物心ついたころから不景気な世の中が続くと、おのずとそうなるのだろうか。

自分という人間の魅力を最大限に伝えるにはどうしたらよいのか。
一番わかりやすい例をあげて学生に説明することにした。
広告である。身の回りの広告を見てごらん、と。
「余計なものは入れない、余計なことはしない。素材を選び独自製法で誕生した小麦の自然なおいしさ。小麦粉を熱湯でα 化して低温で長時間じっくり熟成させて焼き上げたもっちり、しっとりとしてサラッとした口どけ。やわらかさが長い時間持続。添加物は極力使用しないので、小麦本来のほんのりとした甘みと香りが生きています。」
たかが食パンでもこれだけ語ることがあるのだ。

「つけた瞬間に指先で感じる、しっとりと吸い付くようなハリ感。目に見える、明らかなリフティング感。気になっていたあのラインはどこへ消えたのでしょう?厚みのあるつやの膜は肌を完璧に見せるだけでなく、スキンケア効果を発揮し、やがて内から押し上げるような弾力感をも生み出していく。使い続けるほどに肌が磨き上げられ、若々しさを記憶してゆく。そんな喜びがあふれるファンデーションをあなたに。」
この化粧下地クリームなんてどうだろう。ありがたみあふれる文章に正体不明の魅力を感じてしまう。
コピーライターの技に畏敬の念を抱かずにはいられない。

このような広告の例を持ち出すと、決まって笑いの渦が巻き起こる。私も学生も、ここがおかしいやら大げさすぎるだのツッコミを入れつつ盛り上がる。では、これらの広告から私たちは何を学べるのか。
板書が苦手で普段なるべく避けている私もこれだけは書く。
「広告= truth well told の精神である」
Truth well told、真実を最大限魅力的に伝える。
これに尽きる。
たかが食パンであれ下地クリームであれ、これだけ伝える内容があるのだ。それならあなたという人間についていくらでも語ることができるだろう、自分の魅力を最大限に宣伝しなさい、と。もちろん嘘をついてはならない。しかし、自分についての真実をよりよく解釈し、自信をもって売り込む。面接官に好意を感じてもらう。どこまでwell に伝えられるかはあなたの腕次第。

そう説明すると、みな見違えるほど面白い自己PR文を書き、自信あふれる顔で発表してくれた。
「五人兄弟の長女なので、子供のころから自身の教育費をおさえることばかり考えて努力した」
「父が自衛官で、家族の反対を押し切ってイラクに赴任してしまった。私は私なりの防衛論をもっている」
「ずっと子役をしていた。ドラマ撮影現場で沢山学んだ」
「同じ在日韓国人として姜尚中さんの”悩む力“を期待して読んだが、はっきり言って失望した。自分だったらこうする」
「NHK高校生放送コンクールで上位入賞、デパートでアナウンスのバイトをしている。絶対音感を持っているので、音程の違いでアクセントを覚えている」など、
もっと聞かせて欲しいと思わずにはいられない魅力あふれる内容に変わった。

就職活動とは、自分の話術をもって自分という商品を売る活動である。知恵を絞ってよい内容にしなければならない。相手に、欲しいと思われなければならない。相手に好かれなければならない。
あなたの身の回りにある広告と同じである。私はいつもそう締めくくる。

日本全国の大学最終学年生のおよそ半数がまだ就職活動中である。私が教えている女子大生にとってはむしろこれからが本番で、卒業ギリギリまで(あるいは卒業式後も)スーツで走り回ることだろう。何社断られようとも、内定を勝ち取るまで挑戦し続けてほしい。しんどくなったら、周りの先生や級友に弱音をはいてもいい。しかし、こんな時代に就活する不運を嘆いているばかりでは前に進めない。身近な広告に宿るtruth well told のスピリットを持ち続けてほしい。
就職活動だけではない。仕事、結婚、子育て、とやがて直面するさまざまなライフステージにおいて、大きな力となり彼女達を支えてくれるはずである。

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