第3回広告エッセイ大賞受賞作品

大賞 『おばあちゃんの、残らない思い出』             木村 真理子

キッチンで冷凍庫を開けると、お味噌汁がかちかちに凍っていた。食器棚の前にはおばあちゃんがここのところ毎日買ってくるかぼちゃが8つも並んでいる。
近所で一人暮らしをしているおばあちゃんが認知症になったのは、私が高校生の頃。「認知症」とは物忘れだけでなく、今まで普通にできていた日常の判断もできなくなってしまう病気だ。
数年前、認知症を発症したおばあちゃんは、1分前に話したことを忘れ、もう亡くなったおじいちゃんの遺影を「まだ生きているのに縁起の悪い」と言って片付けるようになった。
そんなおばあちゃんの症状が悪化してきた頃、ある「認知症疾患啓発」(当時は痴ほう症)の広告を見かけた。どんな背景だったかはっきりとは覚えていないが、夫婦が道だったか浜辺だったかに立っていて、妻の顔だけがぼやけている写真。ただ、鮮烈に覚えているのは  「夫の思い出の中で、私が死にました。」

というコピー。
あと何年かしたら私も、おばあちゃんに忘れられるのかな、そう思った。
修学旅行でおばあちゃんのお土産に買った和柄の鏡も、私がさっき話した弟の話もおばあちゃんは覚えていない。

だけど、私は暇があれば近所のケーキ屋さんでケーキを買って、おばあちゃんのところへ遊びに行った。
おばあちゃんは、ついさっきした話は忘れてしまうけれど、昔の話は鮮明に覚えているし、長い人生で得た自分の考えはしっかりと持っている。私と七五三に行ったときの話とか、昔おじいちゃんをどうやって口説いたとか、楽しそうに話す。就職先のアドバイスもくれたし、どんな人と結婚したらいいかも教えてくれた。
私はその話が楽しくて、おばあちゃんも笑うのでまたケーキを持って会いに行った。私が帰るとすぐ、おばあちゃんはお母さんに電話をして、私が来たことを自慢げに嬉しそうに話す。5分たったら、私が来たことは忘れてしまうけど。

人にとって記憶は、生きる意味なのかもしれない。昨日の失敗に学ぶからこそ成長し、嫌なことがあっても楽しい思い出を持っているからまた期待して生きていける。でも、おばあちゃんは思い出を残すことができない。友達と約束をして出かけることもできない。
しかし、おばあちゃんの家に何度も行くうち、私の考えは変わった。
後に残らないのだとしても、そのときその人が笑ったり喜んだりすることは、その人にとっても私にとってもとても意味のあることのような気がする。おばあちゃんが一人で不安な時間を、私がいる1時間減らせたのだったら、それでいいかと思う。
もう、ケーキを食べたことを忘れても、さっきした話を忘れても、私が今日遊びに来たことを忘れてもいいと思った。

「おばあちゃんの思い出の中で、私が死ぬ」
でも、一番辛いのは、おばあちゃんの記憶の中で死ぬ“私”よりも記憶の中で大切なみんながいなくなっていく“おばあちゃん”である。

「夫の思い出の中で、私が死にました」

あの広告を見た当時、このコピーに描かれているのは、夫に忘れられる妻である“私”の哀しい気持ちだと思っていた。
けれど今、私にとってこのコピーは、妻のことを覚えていたいのに忘れてしまう“夫”の辛い気持ちだと思っている。

今、おばあちゃんの認知症はさらに進んで一人暮らしをやめ、岡山のホームに住んでいる。この間遊びに行ったとき、一緒に出かけたことをおばあちゃんはきっと覚えていない。でも、またおばあちゃんと“残らない思い出”を作りに行こう。おばあちゃんの不安な時間を減らしに行こう。

優秀賞 『走れ!グリコのランナー』             青木 ダイスケ

私は久々にその橋の上で立ち止まった。そして見上げた。今日も有名なランナーが夜を駆けていた。まばゆいばかりの光を放ちながら。

道頓堀、戎橋。通称ひっかけ橋とも呼ばれるその場所は、大阪のひとつのシンボルでもある。阪神タイガースの優勝時、熱狂的なファンがその橋から川に飛び降り、ハリウッド映画「ブラックレイン」では、世界に一種異様な存在感を示した。そして、その場所の中心で輝いているのが、グリコの看板である。1935年の初代から、現在の5代目ランナーに至るまで73年もの間走り続けている。2003年には大阪市指定景観形成物に指定された。

幼い頃、私は橋の上から、グリコの看板を見るのが大好きだった。私の両親は、大阪の郊外で小さな書店を営んでいた。盆と正月しか休まない働き者の書店だった。その当時、私は月曜日がイヤだった。クラスの友達が、日曜日にどこに連れて行ってもらったかを楽しそうに話し合う。その輪に入れなかったからだ。しかし、盆と正月の後は、私は嬉々として話した。道頓堀のグリコの看板がどれだけキラキラしていたかを。クラスメイトたちはもしかするとうんざりしていたかもしれない。「いつもグリコの看板だなぁ。聞き飽きたなぁ。」と。でも私にとっては、父と母と一緒におでかけできることがとにかくうれしく、クラスメイトに話したかった。今思うと、なんでいつも道頓堀だったのか?と思うが、おそらくお盆は、普段買い物できないものを近くのデパートでまとめて買うためだろう。家族みんなが片手にショッピングバッグを持っていた記憶がある。そして、正月は他に観光できる場所があいていなかったからだろう。グリコのランナーは正月も休みなく走っていた。両親にとっては、息子を喜ばすのに好都合だったのだろう。

今も大変な人ごみであるが、当時はもっとごった返していたと思う。商店街を歩いているときは、人の足しか見えなかった記憶がある。父親の手をギュッと握り、はぐれないように人の足の間を懸命に歩いた。やがて、父は歩みを止め、私をひょいと持ち上げてくれる。その瞬間、人の足ばかりで退屈だった光景が一変する。光のシャワーが降り注ぎ、私の視力を一瞬奪う。目が慣れて、その巨大できらびやかな世界を前にした時、思わず私は声を上げてしまうのだった。そして、ひとしきりはしゃいだ後、私はいつも父を困らせた。「お父さん、グリコのポーズをしてや。なぁ、してや。」そうねだるからだった。父は照れ屋だった。しかし、母にうながされ、小さくグリコのポーズをしてくれた。とてもキラキラとした時間だった。

私は子供のころ、グリコの看板がいわゆる「広告」というものだとは思っていなかった。 テレビやラジオ、新聞や雑誌、駅のポスターなどはもっと広告然としているが、グリコの看板はそうではなかった。街の風景の一部だった。それがないと、道頓堀の街が不完全になる。そのようななくてはならない存在だった。私がグリコの看板を見た次の日に、グリコのお菓子を買ってくれとねだったかと言えば、そんなことはなかった。その意味では広告効果はないように思える。だが、グリコという会社が好きかと聞かれれば、間違いなく答えただろう。「好きやでぇ!」と。そして、大人になった今でも私は、グリコのことを好きだ。お菓子はあまり食べなくなったが、それでもやはり思い出に深く刻まれたグリコに 好感を持っているのだ。

「広告(コウコク)」とは文字通り「広く告げる」ということだ。しかし、グリコの看板のような場合、「長刻(チョウコク)」と言っていいのかもしれない。「長く刻み続ける」。短期間に認知度を上げたり、売り上げを伸ばしたりといった、本来の広告の役割とはすこし違う。でも、人の思い出や、街の歴史・景色に、長きに渡ってその存在を刻み続ける。刻まれているからちょっとやそっとでは消えやしない。街にとっては、深く根ざした文化になる。人にとっては、それを見た瞬間に思い出す、思い出の触媒になる。そんな存在。

近年の広告の寿命は、ますます短くなっている。ものすごい数の広告が目の前に現れ、アッという間に消え去っていく。瞬間、印象に残っても、長くは残らない。他の新しい広告に取って代わられる。長引く不景気で企業の業績も落ち込み、広告費も削減傾向にある中、短期的・即時的な成果が求められるのかもしれない。だが、私は「長刻」的なモノがもっと増えて欲しいと思う。人と長い間にわたって絆をつくっていくような、街の風景を作っていくような、人の思い出に一生存在し続けるような。

その意味で私は、ずっと橋の上で走り続けてきたグリコのランナーをエライと思う。大阪のために、人々のために、短期的な広告効果なんて度外視で、走り続けてきた姿勢をカッコイイと思う。追走するランナーがもっと増えればいいのにとも思う。

橋の上で、そんなことをつれづれなるままに考えていたら、「お父さん、グリコのポーズをしてや。なぁ、してや。」という声が聞こえてきた。少年時代の私がタイムスリップしてきて、現代の私に声をかけてきた!…のではない。私の息子だ。私がかつて父に言ったのと同じようなことを、しばしば言うのでビックリする。私は私でグリコのポーズをせがまれて、かつての父と同じように照れてしまう。まったく血というものは争えない。私が周りの目を気にしていると、妻がうながしてくる。仕方なく、小さくグリコのポーズをしてみる。息子が大喜びではしゃぐ。その刹那、私はかつての父の心の内をうかがい知ることができた。照れてはいたが、息子の喜ぶ姿を見て、父は間違いなくシアワセだった。今の私のように、シアワセでいっぱいだったのだ。

グリコのランナーが走り続けてくれたおかげで、私は今日、橋の上で再び父に出会った。そして、かつての父の心の内まで知ることができた。私は橋を後にする瞬間、グリコのランナーを見上げて、「ありがとう」とつぶやいた。「えっ?」という顔で、息子が私を見上げるが、私は答えない。いつか息子にも、この気持ちが分かるときが来るはずだ。そして、私は切に願う。その時まで―息子が父になってこの場所にやってくる時まで、グリコのランナーが走り続けてくれることを。ひとつぶ300メートルなんて言わずに、これからもこの場所で、何年も何十年も走り続けてくれることを。がんばれ、グリコのランナー!

優秀賞 『定食屋より、愛をこめて。』             荘野 一星

はい、兄ちゃん、お待たせ、卵焼き定食。

あら、えらいむずかしい顔してどないしたん?
なんや、兄ちゃん、広告の仕事してるんかいな。
え?広告について意見を聞きたい?
このオバチャンにかいな。
あんたプロなんやったら、自分で考えたらええやないの。
んん、でも、まあええわ。オバチャン、そういう話、得意やから。
コマーシャルいつも見てるしね。

せやけど、あれやね、最近のコマーシャルはあんまりおもろないわ。
あの、犬がしゃべるやつ、あれは、おもろいけどね。
他は、なんやろ、華がないというか、パッとせえへんわ。
芸能人が出てきてなんか言うパターンか、あとは・・・歌?
昔からずーっとおんなじで、工夫がないわ。

あれやろ、やっぱり世の中また不景気になって、あんたらの世界もしんどいんちゃうの?
このあいだニュースでやってたわ。
不景気になった時は広告に使うお金が、一番先に減らされるんやって。
コマーシャル見てたらようわかるわ。
商品を売らんかな、売らんかな、っていう下心が丸見えのコマーシャルばっかりや。
人を笑わせたり、しんみりさせたりする余裕があれへん。
バカにしたらあかんで、オバチャンかて、それくらいわかるで。

あのな、商売ゆうのはな、下心に気づかれたらあかん。
それか、いっそのこと、はじめっから堂々と見せるか、どっちかや。
あんたらが作ってる広告みたいに、商売っ気を隠すんか、隠さんのかどっちつかずの態度でワタシら騙そうとしても、そんなもん、騙されたくても、無理やんか。
あんたらが迷ってるのに、ついていけるわけないやろが。

なんや、怒ってるんか?
ホンマのこと言われたから、腹立ってるんやな、まあ、落ち着き。
あれやわ、人間には厄年ゆうのがあるやろ?広告の業界も厄年なんちゃうか?
厄の時はな、自分の意見を押しつけたらあかん。
広告の仕事してる人は、しゃべるの上手で、自分ばっかりしゃべってるイメージやけど、たまには人の言うことによう耳を貸してみ、色んなことが聞こえてくるわ。
お金を出して広告を出す人らは、なんてゆうてるん?
一緒に広告を作ってる人らは、なんてゆうてるん?
それを見る人らは、なんてゆうてるん?
あんまり自分が賢い、賢い、思わんと、よう、耳の穴かっぽじって聞いてみ。
そしたら、今まで色々と考えていたことと、他の人の言ってることが、こう、ひとつに交わる瞬間があって、ぽんとアイデアがひらめくもんや。
オバチャン、そうやって新しいメニュー、思いつくねん。あはは。

それから厄の時は、あせって無理に何かを変えようとしたらあかん。
兄ちゃんも、テレビがあかんかったらインターネットを使ってコマーシャルして儲けたろうとか、
今までと違うお客さんに売り込みにいったろとか、思ってるんやろ?
オバチャン、アホやないで、それくらいお見通しや。
オバチャンがわかるような単純なこと、あんたらプロがやって、どないすんねん。
みんながあせってる時こそ、どーんと構えて、よく周りを観察するんや。
きっとチャンスが見えてくるで。
周りが、別の商売に変えようとバタバタしてるんやったら、敵が減ってラッキーやんか。

逆に自分は今の商売を一生懸命守るっていう考え方もあるやろ? 今まで以上においしい料理を出すように努力して、
ここにしかない味を追求したらええやないの。

あとな、厄の時は、あえて普段とは違う行動をとってみると、ええらしいわ。
普段ケチな人は、厄の時は周りの人に食事をごちそうしたり、
家事をしない人は、家の掃除したり、洗い物したりするとええんや。
そうすると今まで当たり前と思っていた世界が、全然ちがうもんに見えてくる。
あんたら広告の人らは外で遊んでばっかりで、家の用事してへんやろ?
飲みにばっかり行かんと、たまには早く家に帰って、
自分のシャツくらい自分で洗濯してみ。
首とか袖の汚れがどれだけ取りにくいかわかるわ。
そしたら洗剤のコマーシャルとか、洗濯機のコマーシャルとか、作るときに役に立つやろ?
あ、でもちゃんとオバチャンの店には来んとあかんで。わはは。

せやけど、ほんまに、これから広告はどうなるんやろねえ。
オバチャン思うねんけど、インターネットとテレビはそのうち一緒になるやろ、
そしたら、テレビのコマーシャル見てて欲しいものがあったら、
そのままインターネットで中身見たり、注文したりできるようになるやろ、
それやったら、コマーシャルはコマーシャルで必要やから、なくならへんのんちゃうの?
え?コマーシャルだけが広告ちゃう?
ああ、新聞もあるねえ。ああ、電車もねえ。雑誌も。へえ、映画の中にもあるんかいな。
そんなにあるんやったら大丈夫やないの。
オバチャンちょっと安心したわ。

実はな、うちのバカ息子がな、広告の仕事したいってゆうてるんよ。
コマーシャルとか作りたいってゆうてるんよ。
そういうの、なんていうの、作る仕事、ああそれ、クリエイターってゆうの?
そやから、兄ちゃんらが頑張ってくれないと困るねん。
兄ちゃんらがちゃんとお金稼いで、楽しく仕事して、みんなの憧れになってくれへんと、
安心して息子を送り出せへんやんか。 せやから、しっかり頑張ってや、期待してるで。
おもしろいコマーシャルたくさん作ってよ。
ほら、卵焼き、もう一個のせたろ、ほい。

優秀賞 『母の日にプリンター』             山崎 充祟

今年の母の日はいつもより少しにぎやかだった気がする。

例年は、母の日といえば、手作りカレー(こくまろ)を作って、綺麗なお母さんに食べさせればよかったが、今年は、更にチョコレート(Ghana)を買って、プリンター(PIXUS)で「フォトレター」までしなくてはならなくなっていた。

なんとも忙しい母の日である。

また、どのCMもキャストが豪華だった。カレーはいつも通り綺麗過ぎるお母さんの黒木瞳だったが、プリンターでは山田優・蒼井優・夏帆というありえない美人3姉妹が登場し、チョコレートは上戸彩・長澤まさみ・堀北真希ほか映画・ドラマの主役級の女優に交じって、人気ゴルファーの石川遼まで登場していた。

なんとも贅沢だ。
各社の力の入れようが伝わってくる。と思った。

が、広告を見た私は、なんとなく母親をダシにして物を売られる感覚に違和感を感じ、結果、今年の母の日は、プリンターも買わなかったし、チョコも贈らなかったし、カレーも作らなかった。
その代わりに、広告など一切してない近所の花屋で、簡単な花束を買って帰った。

母はよくは分からないが、まぁ、それなりには喜んでくれていたのではないだろうか?

そんな天邪鬼な私も、過去に広告主の思うままに、まんまと踊らされ商品をかったことがある。
その相手はユニクロだ。
去年のクリスマスだった。

ユニクロが去年のクリスマスに私に言った言葉。

「贈ってごらん、喜ぶから。」

CMの内容は確か、
一人暮らしをしている息子のところに、親からたくさんの仕送りが送られてくる。
(贈られてくる中身は、昔好きだったものだったか何か忘れてしまったが、)
それに対して、いつまでも子供じゃないんだからと、少しあきれる息子。
そこにナレーションが「贈ってごらん、喜ぶから。」
そして、息子がユニクロのレジで「プレゼント包装でお願いします。」と頼んでいるシーン。
というものだったと思う。

なんと、さりげなく本質に気付かせてくれる言葉だろうと思った。

言わずもがなだが、息子はいつも仕送りを送ってもらっている親の愛情に気付き、感謝の気持ちをこめて些細だがプレゼントを贈ろうと決心したのだろう。

親孝行、というか、親孝行に限らず人を喜ばせる行為をするのは、なんとなく照れくさいものだ。
本当は、やれば喜ぶんだろうなとは、頭では分かっていても、
「なんとなくの照れくささ」に、「ほんの少しの手間」が手伝って、いつも気付かないフリをさせてくる。

お年寄りに電車の椅子を譲る。
困っている人がいたら助ける。

こんな、小学生でも知っている当たり前のことすら、大人になったはずの私が、気付かないフリをして逃げていることがある。
本当は声をかけてあげるだけでも、相手を十分に幸せな気持ちにさせられるかもしれないのに。
本当はそこには、小さな小さなハードルしかないのに。

ユニクロの「贈ってごらん、喜ぶから。」は、そんな小さなハードルを越えることだけで、人を喜ばすことができるということを、同じ目線の言葉で、改めて気付かせてくれた。

また、高級プレゼントが飛び交うクリスマスにおいては、その「試しに贈ってごらん」というニュアンスと、ユニクロの商品がぴったり合っていて、私のような天邪鬼な人間までも行動に移させてしまったのだと思う。

当時、母親はまだ元気だったので、思っていた以上に喜んでくれた。
やってよかったなと素直に思えた。
ユニクロの戦略にハマったはずが、逆に感謝すら覚えた。
こんなことで喜ばせれるなら、もっと早くからやっておけば良かったとも思った。

そのおかげもあり、今年の母の日も、広告している商品は買わなかったが、何か行動だけはしたいと思い、近所で花を買うということになった。
広告は、「もうすぐ母の日が来る」ということを丁寧に私に何度も教えてくれた。
とてもありがたかった。
私にとって今回で最後になるかもしれない、母の日を忘れないようにしてくれた。

多分、日本中で見れば、母の日のチョコやプリンターの広告をみて、それらの商品は買わなくても、感謝することを思い出した人や、それをきっかけに別の行動を起こした人が、私以外にもたくさんいたと思う。

広告は「きっかけ」だ。
基本的には、「商品を買ってもらうためのきっかけ」として設計されている。
もちろん売れるように広告を作るのは、われわれの義務だ。
しかし、副作用としてでも人を幸せにする効果があったとすれば、それはそれですごく素敵だと思う。もしそれらが両立したら、もう最高だ。

私は今、幸運にも広告業界にいる。
広告には、私自身がそうだった様に「人を幸せにするきっかけ」を与えるチャンスもあると思う。
青臭いと笑われるかもしれないが、私もせっかく自分の人生を使って仕事をするのだ。
少しでも世の中に幸せを振り撒く仕事をしたいと思う。

優秀賞 『15秒の奥深さ』             廣石 彩

数年前に流れていた1本のCMが印象に残っている。ある生命保険会社のもので、主な出演者は父親と娘。場面は駅の改札口。5歳の娘が母親に連れられて、父親を駅まで迎えに行くシーンから始まる。次第に駅前の雰囲気は変わり、娘は10歳の小学生に成長している。次に場面が変わった時、駅前には雨が降っていて、14歳になった娘は父親と待ち合わせをして仲良く傘をさして帰宅する。そのまた次のシーンでは、18歳になった娘が、朝父親が忘れたパスケースを駅に届けている。そして最後シーン。初め5歳だった娘は23歳にまで成長している。会社から帰ってきた彼女は、先に改札口を出た父親を追いかけ、2人は一緒に帰っていくのである。
生命保険会社の多くがその商品の宣伝をするのに対し、このCMでは映像と共に谷川俊太郎さんの詩、「愛する人のために」が語られている。そして、年を重ねても仲の良い父娘の姿が何とも微笑ましいのだ。このCMを見て、そういえばうちの家もこんな風かもしれないな、と感じた。私は姉と二人姉妹だが、二人とも幼い頃から父親と仲がよく、特に言い争いをした覚えがない。世間一般に反抗期と言われる時期もなかったし、父親を嫌う友達が多い中、私は一度もそう思ったことがなかった。CMに出ている娘も、きっと普段から父親と仲が良いのだろう。そんなことよりも、画面に映る23歳の娘を見て、私もいつか彼女のように社会人になって会社に勤めるのかなぁ、その頃どんな仕事をしているのかなぁとぼんやり考えていた。
ところがその時母が、「このCMを見るとなんだか悲しくなるわ」と呟いたのである。思わず「え!?なんで!?」と聞き返してしまった。どう考えても父娘の仲の良い姿であり、現在ギクシャクしている親子の指標になる気がしたからである。間違っても悲しいという感情が湧くことは、私には考えられなかった。
「子育てって子どもが小さい時はとにかくがむしゃらで必死だけど、いざ成人してしまうと、あぁもうそろそろ自分たちの役目は終わるのかなぁと思うようになる。おまけにふと自分の姿を鏡で見ると、年をとってしまったっていうのがはっきり分かってね。」
母曰く、子どもが成長するというのは嬉しい反面なかなか寂しいものだそうである。特にこのCMを自分の子育てや姉と私の成長と重ねてしまい、何とも言えない気持ちになるのだと。また、「多分お父さんの方がこのCM見て悲しくなると思うよ」とも言っていた。母親と娘というのは同性だからまだ共通の話題も多いけれど、娘に対してどう接していいか分からない父親も多い。それでも確実に成長していく娘を見て、いつか結婚して遠くにいってしまうということを考えずにはいられない、と。父親と娘というのは年を重ねるにつれ、良好な関係を築いてゆくのが難しいようだ。
確かにこのCMは、娘が23歳になった時が最後のシーンとされている。もしかしたらその数年後には彼女は結婚してしまうかもしれない。そうなればもう父親と駅で待ち合わせをして、一緒に同じ家に帰るなんていうことは出来なくなるであろう。親にはその数年先に起こりうることが見えてしまう。だから私の親も、このCMを見ると悲しくなる、と言ったのではないだろうか。
たった15秒間に収められた、父と娘の18年という歳月。CMでは娘の成長に注目しがちだが、ふと隣の父親に注目してみると、彼が確実に年をとっていることがわかる。きっとこの18年間で、娘である彼女には計り知れないほどの苦労が父親にはあったのだろう。最後のシーンの彼の頭に混じる白髪が、それを物語っている気がした。同じように、私が今まで歩んできた21年という時間も、両親にとっては苦労の連続だったに違いない。進路、友人関係、経済面・・・自分で自分の人生を振り返っただけでも頭が痛くなるのだから、両親はもっと大変だったはずである。
現在「子ども」という立場の私は、自然と「娘」の視点でCMを見ている。しかし「親」という立場を経験している人は、おそらくこのCMでは「父親」に感情移入するのであろう。広告は、見る年齢や立場によって解釈が異なるのだ。今何気なく見ている広告を、10年後や20年後に見たらまた違った視点から見ることができるのである。15秒では決して終わらない、これからもずっと続いていく奥深さ。広告の面白さはそういう点にあるような気がする。単に広告を企業のコミュニケーションツールとしてだけ見ていては、人の心を打つことができなくなるのではないだろうか。
このCMの奥深さを理解できたとき、一体私は何歳になっているのだろう。その時どういう環境のなかで生活しているのだろうか。とりあえず今は、今しか感じることができない視点で広告を見ていけたらと思う。そしてせっかく少しは親の考えに触れることができたのだから、これからはもっと親と過ごす時間を大切にしていこう。
またひとつ、人の心を動かす広告の力を感じた瞬間であった。

優秀賞 『時を越えた「証」』             早島 奈穂

「これから、つらいこともあるだろうけど、がんばってのりこえようと思います。そうして今の二十歳のあなたがいると思うから。」

十二歳のわたしからのメッセージにはこう書かれていた。
平成二十年、大学三回生の夏休みに小学校の同窓会が行われ、八年の時を経てタイムカプセルが開けられた。かわいらしい封筒の中にはたくさんの写真やシールが添えられ、十二歳のわたしが現在のわたしに笑いかけた。
手紙の差出人はわたしで受け取ったのもわたし。十二歳のわたしが今もどこかにいる訳ではなく、彼女はわたしの中にいて、彼女は今のわたし自身で…。なんとも言えない不思議で照れくさい感覚と同時に、手紙を読むうちにある思いが湧きあがった。

「わたしの前でまで強がらんでええやん。」

弱音なんて一言も書かれていない前向きな文章とは裏腹に、当時のわたしは不安で一杯だったのだ。大好きだったおじいちゃんの死。心もからっぽになってしまったわたしたち家族は、春からおじいちゃんのいない、からっぽの家にかえることになった。
仲良しだった友達と同じ中学校に行けなくなることは、わたしにとって受け入れ難い現実だった。引越し、そして転校。ゼロから始まる人間関係。今でこそそれは大人になっていくうえで当たり前のことだが、十二歳のわたしにとっては、自分の知っているたった一つの居場所を離れ、誰も知らない世界に飛び込むことが本当に怖かったのだ。

当時の記憶を思い返すなか、ふとわたしは今朝見た新聞広告を思い出した。

しかられたのは、あなたが愛されている証。
くじけそうなのは、あなたが進んでいる証。
つらいのは、あなたがあきらめていない証。
「生きている」という証を、感じてほしい。

ACの広告である。同窓会が終わり、帰宅してからもう一度新聞を広げ、思わずその広告をはさみで切り取った。このコピーの背景のビジュアルには、何人もの中高生の写真が埋め尽され、みんなまっすぐにこっちを見ている。その中に、あの頃のわたしもどこかにいるような気がして無意識に探している自分がいた。

あの頃はわたしも家族も「必死」だった気がする。新しい生活が始まり、最初は慣れない環境に戸惑い、あんなに好きだった学校という場所に初めて行きたくない、と思う時もあった。

くじけそうだった。つらかった。しかしあの時わたしは進んでいた、あきらめていなかったのだ。そう思うと肩の力がすっと抜けたようだった。八年ぶりの自分との再会の日に出会ったこの広告は、私に生きるうえでのひとつのヒントをくれたようだった。

十二歳のわたしはその後、新しい生活にも慣れ、部活動にも打ち込み、かけがえのない友達を得る事になる。なにより初めての環境に飛び込んだおかげで、自分を支えてくれる人がいることの有り難さ、そして相手の立場にたって考えることが、どれほど大切かを早くから気付く機会になったと思う。

自分自身にまで弱い部分を見せようとしなかった十二歳のわたし。少しくらい甘えてくれても良かったのに…最初は強がりのように感じてしまったが、それは今のわたしがこれから待っているだろう、さまざまな困難を乗り越えていることを信じて書いた、自分への決意表明だったのかもしれない。

そして今もあの頃のわたし以上に、不安や悩みを抱え込み、苦しんでいる人も大勢いるだろう。そのような人にこそ、この広告を見て知ってほしい。あなたは今、全身全霊で生きている証を感じているのだということを。なにより、この広告の何人もの中高生たちのまっすぐな瞳から、一人一人の心臓の音まで聞こえてきそうに思え、一番生きている証を物語っているように感じた。また、周りの人も微かなSOSに敏感になることが大切ではないだろうか。助言なんて必要ない。ただ、くじけそうなとき、つらいときに傍にいてくれるだけで、話を聞いてくれるだけで、人は人に救われ、そして支え合うことができると思う。

たった一行の言葉やビジュアルがこんなにも心に寄り添ってくれることがあること、文字通り、広告とは多くの人に広く情報を告げるだけにとどまらず、何年経っても色あせず記憶に残ること。そんな素晴らしい力が広告には秘められている。私もこの広告との出逢いを大切にしていきたい。これから、自分の進む道で更に困難に直面する日も必ずやって来るだろう。そんなときも、きっとこれは自分が一生懸命生きている証なのだ、と前向き捉えることができるはずだ。

八年前のわたしが時を経て今のわたしに語りかけてきてくれた。また、そんな貴重な日に一生忘れられない素晴らしい広告に出逢うことができた。できることなら、十二歳のわたしに返事を書いて送りたいものだ。あなたがいてくれたから今のわたしがいるという感謝の気持ちと、切り取ったこの広告を添えて。

優秀賞 『いい子だね』             坂本 ユミ子

古すぎる話で恐縮だが、「夜のヒットスタジオ」と言う人気歌番組で、司会の前田武彦さんが、
「さあ、トイレに行くなら今です」
CMが始まる前によく言って、笑いを取っていた。CMのおかげで番組が成り立っているのに、大胆な発言だった。今と違って、テレビで本音発言する人がいなかったので大うけしていた。
「CMタイムはトイレタイム」
正にその通りなのだが、時にトイレに行く足を止めて、思わず見入ってしまうCMがある。最近は「薩摩焼酎」のシリーズが大好きで、何回見てもあきない。流れて行く映像が美しく、音楽とナレーションが耳に心地よい。下戸の私には焼酎と映像が結びつかないのだが、なぜかこれまでの人生を想い、胸がジーンとしてしまう。
日本広告機構のCMも好きで、毎回、思わず「うーん、うまい!」と唸られせられる。その中で、一番のお気に入り、忘れられないCMがある。それを見た瞬間、テレビの画面に目が吸い寄せられた。放映されたのは四年前、アテネオリンピックの年だった。新聞の一面広告にも掲載されていた。

「抱きしめる、という会話

子供の頃に抱きしめられた記憶は、人のこころの、奥のほう、大切な場所にずっと残って行く。そして、その記憶は優しさや思いやりの大切さを教えてくれたり、ひとりぼっちじゃないんだっておもわせてくれたり、そこから先は行っちゃいけないよって止めてくれたり、しんじゃいたいくらい切ないときに支えてくれたりする。

子供をもっと抱きしめてあげてください。
ちっちゃなこころは、いつも手をのばしています」

以上の文章と一緒に母と小学生低学年くらいの娘が抱き合っている様子が写っていた。その広告は忘れてしまっていた遠い遠い記憶を呼び起こしてくれた。写真は白黒写真だった。

あれはいつの日のことだったのだろうか。私がまだ、小学校に入る前、たぶん五歳までの出来事だったと思う。その頃、私は母がこわかった。母はとても気が強く、気が短い人で私はいつも叱られてばかりいた。姉たちとケンカするといつも、口より先に手が飛んできた。言うことを聞かないとトイレに閉じ込められた。その時、母の顔はオニババみたいで、とても恐ろしかった。
ある日、私が台所で一人遊びしていると、母がやってきた。母は何も言わすじっと私を見つめていた。私はまた何か叱られるのではとビクビクしていた。すると、母は突然、私を抱きしめた。そして、頬ずりしながら
「いい子やね。ユミ子はほんまに、いい子や」
とても、優しい声だった。母の笑顔が目の前一杯に広がっていた。私はなんとも言えない幸せを感じていた。その日のことをすっかり忘れてしまっていたが、CMを見た時、鮮やかに思い出した。

父が交通事故で亡くなった時、母は三十二歳だった。姉は六歳と四歳、私は二歳だった。父の経営していた町工場は一年も立たないうちに多額の負債をかかえて倒産した。母は家族の反対を押し切って、駆落ちまでして父と結婚した。その意地もあったのだろう。母は実家に頼らず、再婚もせず、女手一つで三人娘を育て上げた。生命保険の外交員になって間もない頃、契約が取れず、苦しい生活が続いた。
給料日までまだあるのに、米びつが空の時もあった。給食費を払えずに、恥ずかしい思いをしたこともあった。わが家はいつも「金欠病」だった。私たち三姉妹は何か買ってほしいと親にねだったとこはなかった。母は私たちのために一生懸命に働いている。だからねだってはいけない。母に甘えてはいけないと思っていた。
あの頃、母は先のことを考えると、不安で心細くてたまらなかっただろう。日々を三人の娘たちと生きてゆくのが精一杯だったのだろう。子供に愛情を見せる心のゆとりがなかったのだろう。

十二年前、母は心筋こうそくで突然倒れ、二週間後に帰らぬ人となった。あの日、母が抱きしめてくれた時、母はどんな気持ちだったのだろうか。もっと、早く思い出せば、母に聞けたのに。いや、きっと、母はそんな昔のことは忘れていただろう。
私は絶対に忘れない。
あの日、あの時、母に確かに愛されていると感じた、幸せだった瞬間を。

優秀賞 『命の期限を知らせる広告』             朝倉 詩穂

私の母は、1年前乳がんが見つかり、乳房切除の手術を受けました。この秋、1年検診となり、血液検査や放射線検査を数日かけ、受診しています。

ちょうど1年前の10月頭、母さんが入院する日だったので、パジャマとかの荷物運ぶのを手伝って、担当医から手術についての説明を受けました。
10月に癌が見つかってから、何週間も待たされ、やっと入院手続きになりました。
母さんとふたり暮らしなので、同意書とかのご家族署名は私がして、宮崎に単身赴任の父さんと、和歌山に住んでいる兄ちゃんには知らせなかった。知らせたところでどーもならんという母さんらしい言い分。でも後々報告ぐらいはしたと思う。

私は、大学4年生で、気ままな学生をしていました。地方の大学に進学し、下宿していましたが、年明けに父の転勤が決まり、大阪の自宅に母ひとりになってしまうので、就職活動に専念するついでも考え、私は大阪の自宅に帰っていました。通学に片道2時間かかったけど、授業の単位は充分足りていたし、卒業制作の作品作りにのみ通えばいい程度だったので、本当にのんびりしていました。
ぐうたらテレビを見ていて、ACの乳がんの早期発見・早期治療のCMをしていても、自分には関係ないと思っていました。主婦らしき白い服を着た女性が、忙しくアイロンがけをしています。その映像にグラフが重なって、日本の女性は30歳を過ぎたら乳がんにかかる確率が高まることを強調していました。乳がんは早期検診・早期治療で治る病気であることを伝えていました。検診率の低い日本の現状を踏まえて検診を呼びかけるCMでしたが、私は無関心。20歳すぎでなるわけないし、てか胸おっきくないし。
でも母は、秋口にやたらと「ピンクリボンキャンペーン」を行っている企業の広告活動の何かしらから、セルフチェックの方法を知り、お風呂場で右の乳房にしこりを発見したのでした。すぐに病院に行き、マンモグラフィー検査と超音波検査を受け、癌だと診断され、手術と入院手続きをしてきたと、学校から帰宅した私に告げました。本当に急でした。淡々とした口調でしゃべる母に、「ふーん、そっかぁ」としか、答えませんでした。動揺してはいけないと感じたのです。

入院する日、病室とか食堂とか、売店や庭園もどんなのか見学してきました。目と鼻の先の総合医療センターだし。担当医もさばさばした優秀そうな方だったので、ひとまず安心。あとは手術してみてから。医師から聞いた話は、開いてみて、腫瘍を詳しく検査してみないとわからないらしい。悪性が強いかも知れない、転移しているかも知れない、再発するかも知れない。
怖くなった。
でも母さんは至って普通。時期が良かったと。後期の学費も払い終わって、私が滋賀から帰ってきていて、就職前やからさほど迷惑もかからんと。すべてベストな時だと。あっけらかんとしすぎて、医者にもっと癌と向き合えと注意されても、あははと笑っていた。心配かけまいとしているのか、天然なのかわからなかった。あの態度は私の気をめいらさなかったから助かった。本当にたくましい、と感じた。

大学に通う私は、行き道、JR京都線の新快速の窓から、ワコール本社ビルのピンクリボンの壁画を見つめました。女性の胸をつつむ下着を作る企業が、その胸にまつわる病気の認知、早期発見・早期治療を促す活動を大きくアピールしている。母はきっと、こんな柔らかく優しいイメージのシンボルマークを見たのだろうか。でも、どうして「ピンクのリボン」が乳がんのキャンペーンのシンボルマークなのか、この車両に乗っている女性の何人が知っているのだろう?
帰り道、よく阪急梅田駅にある大きな本屋に行きました。その本屋の前は、駅のターミナルになり、大勢の人が行き交い、イベントスペースもある場所です。そこで、「ピンクリボンキャンペーン」をしていました。医療関係の企業が、乳がん啓発ブースを設置し、認知運動をしていました。しこりを埋め込んだ乳房モデルに触れてしこりを体感できるというイベントでした。母はきっと、こんなイベントで、優しく笑うお姉さんから乳がんのことを教わり、知ったのだろうか。でも、イベントスペースに20人くらいの女性が興味深げにスタッフから説明を受けているけど、この中の1人は乳がんを発病するという恐怖を、本当に体感しているのだろうか?

母さんが術前から入院したので、私は自宅でひとりきり。何をするでもなくまたぐうたらとTVを見る。流れるCM。ぼんやりとした思考が一気に覚める。日本医師会のCM。「もう年なんだから乳房なんていらないでしょ」のコピーが見えた。私は目を疑う。「あんた何歳まで生きれば気がすむの?」「どうせ助からないんだから」ヒヤリとした感覚が背筋を凍らせた。医師の暴言。画面に流れるテロップは、医師から患者に向けられた暴言の実例でした。でも、私にはむしろ、自分自身が頭の片隅で、そう思っていることを、形にされた感覚がしました。こんな言葉を言われる立場になったことを、悟ったのです。
ふっと、母の手術を担当する乳腺外科の、さばさばとした冷静な印象の、若い医師の横顔を思い出した。母は、男前でよかった、などと冗談を言っていました。明日、頭を下げてこよう。もう一度、しっかり下げてこよう。
「どうか、母さんを助けて下さい。胸の一部も、胸の中までも」
きっと、心が痛かったに違いない。確かに母は50歳をすぎて、熟女も熟し過ぎてきている。でも、女が胸を失うのは、どんな気持ち。50歳すぎても、まだまだやりたい事もあるよね。大丈夫って、信じてるよね。母のあのたくましさは、気丈に振る舞っていただけで、私に心配をかけまいとしていた優しさだったならと考え、このCMで私はひどく傷つきました。聞こえないフリをしたい言葉だった。どうして私は、病気がごく身近で、深い哀しみが現実だと、信じなかったのだろうかと、泣きました。どれくらいの哀しみの中、母は潔く平静でいられたのだろう。

手術が終り、腫瘍検査(センチネルリンパ節生検も)行い、腫瘍はかなり悪性が強く、ホルモン療法は効果がないので、抗がん剤治療と、放射線治療が行われる事になりました。1ヶ月は入院し、投与とリハビリを並行しました。退院後、抗がん剤投与を3週間に1回、6クール行い、母はすっかりやせ、髪はきれいに抜けてしまいました。胸を失い、髪を失い、次は何を失うのか。私はその先の思考を止め、母と同様、平然とするスタンスを崩すまいと、意地になっていました。
また今年も、ACが早期乳がん検診の重要性を、人気タレントの山田邦子さんが乳がんの体験談をする映像で、伝えていました。
「そやね、早期発見が大切やったわ」ひとり言みたくぼそっと、母はTVに向かってそう言いました。
このCMは、もう乳がんが進行してしまった母には、辛い後悔を蘇らせるだけでした。セルフチェック・自己診断で発見したしこりは、手の感触でわかるほど大きいものになっているのです。母の場合、1円玉くらいになってしまっていました。それでも、「早期発見」だと、医者に感心されていました。「自分で見つける人は少ないよ。マンモグラフィー検診を受ける人も少ないから、発見される人の絶対数が少ない」と、医師が話していたのを思い出しました。10円玉になっていたら、癌レベルは高くなり、病期ステージも上がり、転移の可能性と比例します。
命にかかわる危険性を伝える広告は、危機感を強めさせるものなければ、スルーされてしまいます。自分には関係ないと、思っているし、みんな思いたいのです。無意識に病気とは無縁だと信じています。しかし、よりリアルで具体的な言葉は、自我と結びつき、自分と置き換えて考えさせます。真実みのある、背筋をひやりとさせる表現は、深層にまで響きます。
乳がんとは何か、誰がなる病気なのかは、広く認知されています。早期発見・早期治療が必要なことなど、当然なのです。でも、広告に出会い、意識した時がすでに早期ではない可能性もあるのです。胸を切除し、リンパ節も切除すれば、リハビリが必要になるほど、後遺症が残ります。抗がん剤で癌組織を殺す副作用は、生活に支障をきたすほど。髪は抜け落ち、高価なカツラが必要になります。治療費も膨大で、母の加入している保険では、通院の抗がん剤投与は適応されませんでした。10年以上も定期診断を受け、常に再発の危険性が潜んでいます。そんな具体的な内容を知れば、女性の誰もがなる病気の恐怖を、否応もなく感じさせられます。「もう年なんだから乳房なんていらないでしょ」「あんた何歳まで生きれば気がすむの?」「どうせ助からないんだから」と、自分が、大切な人が、言われない保証なんてない。病気がごく身近で、深い哀しみが現実だと、伝える広告があってもいい。本当の強さにこそ、本当の優しさが込められている、そんな広告が病気を発見させると思います。日本医師会の広告と、他の乳がん啓発の広告と、母の強さから、私はそう思いました。母を早期発見に導いたのが、何かしら広告なのは確かですが、しこりを発見し、急に母は、心構えもなく、癌と闘う女性になりました。1年検診の結果を待ち、私たちはいよいよ長期戦に挑んでいきます。
乳がんに関するほとんどの広告は優しさを全面的に押し出した心に届かない曖昧なものです。しかし、それらが母に癌を発見させたのだから、広告の力は確かに働いたのです。でも、より強い広告があれば、私が大切な人の、命の期限を知ることもなかったのではと思います。乳がんの切り札の「早期発見・早期治療」を伝える方法。何が正しかったのか、この秋ずっと考えています。

優秀賞 『祖父の気遣い』             藤井 理那

今年の夏、私は例年よりも長めに実家に帰省した。妹と旅行に行くからというのもあったが、父方の祖父の老人ホームへの入所が決まったからだ。
帰省直前、母は私に「礼服を買っておくように」とのメールをよこした。

私が今住んでいる大阪から実家までは特急電車で1時間半の距離だ。朝出れば昼には着く。電車に重いスーツケースを運び入れながら、ふと祖父との思い出を掘り返そうとしてみた。しかし、あまり思いつかない。思い出すのはコタツに当たって難しい顔をしながら新聞をじぃっと読む小柄な老人の姿だけだ。私は祖父についてあまり知らない。若いころ戦争でフィリピンに行っていたことと、元気な頃には祖母とよく海外旅行に行っていたことぐらい。海外旅行での出来事を祖母はにこにこしながら私に話してくれたが、祖父は一言も会話に参加してこなかった。

正直、私は(恐らく二人の妹達も)この祖父のことは苦手だ。嫌いではないが、母方のおだやかな祖父に比べると、頑固で自分勝手で、怖かったのだ。小さい頃は顔を合わすのが嫌だった。正直、一対一で会話しろといわれたらしんどい。そういう祖父と孫の関係なのだ。

無事実家に到着し、ペットと戯れていると、父と祖母が祖父を病院から連れて帰ってきた。祖父は前に見たときよりも一回り小さくなって車椅子に座っていた。

「おじいちゃん、久しぶり」と声を掛けると小さなしゃがれた声で「おお、お前か」と返してくれた。祖父は恐らく私が誰なのかわかっていない。しかし「お前は誰だ」とも言わない。祖父は自分が認知症になりかけていることを自覚しているうえに、かなりプライドが高いので、わからないということを他人に悟らせまいとしているのである。「こういうところは一生変わらんのやろなあ」としみじみ考えてしまった。

父と母が車椅子から祖父をソファへ移動させようとしている。小柄な老人とはいえ、力が入らない人間の肉体というのはかなり重いらしい。何度かやり直していた。 こういうときでも祖父は「ありがとう」は言わない。しかし「いたい!」とも「もっと優しくしろ!」とも言わない。つくづくプライドの高い男なのだ。弱みは絶対に見せない。

ようやく一番テレビの良く見える場所に祖父を座らせると、父は「親父、何が見たい?」とテレビのチャンネルを回し始めた。祖父は時代劇が好きなのだが、あいにく今日は放送していない。流行の騒がしいクイズ番組ばかりだった。
「これ面白そうとちゃうか」と父がチャンネルを止めたのは雑学系のクイズ番組だった。

祖父、祖母、父、母、私とそろって雑学クイズを鑑賞していると、妹二人も二階から降りてきた。いつも自室に篭りきりの妹達もなにかしら考えたのだろう。
家族全員でのテレビ鑑賞が始まった。妹達が来たことでにぎやかになった。母と祖母も加わって四人で「これ知ってる」「こんなんほんまかー」「この人めっちゃ雑学知ってんな」など盛り上がっている。
祖父の方をチラリと見ると無表情でテレビ画面を見つめている。時折、そんな祖父に父がなにやら話しかけている。あまり会話は弾んでいないようだった。

何回目かのCMの時に、加山雄三が海をバックに「愛・その海」を歌うというパチンコメーカーのCMが流れた。最後の最後でパチンコメーカーのロゴが出るので初めて見たときは何の広告なのかわからなかったやつだ。「よう流れるなあ…」と思いながら見ていると、最後のロゴが出た瞬間、祖父がのどをクッと鳴らして「なんや、パチンコ屋のCMかい」とニヤリと笑ったのである。すかさず父が「なあ!俺も最初見たとき笑ろたわ、これ」続けた。祖父の表情も父の表情も、さきほどより柔らかくなった気がした。

祖父が寝付いてから、そのことを父に言ってみると「加山雄三のおかげで会話の糸口見つかったわ」と笑っていた。そのとき私はなんとなく、加山雄三のおかげではなくて、あれは不器用ながらも祖父の気遣いだったのではと思った。少し父に言いたい衝動に駆られたが、言ってしまっては台無しかな、と思いとどまった。

次の日、祖父は老人ホームへ入所した。最初の頃は父も心配で、仕事の合間に時間を作っては会いに行っていたようだが、最近では会いに行っても構ってくれないほど祖父は向こうの生活に馴染んでいるそうだ。父は「あの親父が」と驚いていたが、私は「加山雄三のときみたいな不器用な気遣いを繰り出してるんやろなぁ」と思った。無表情で淡々としゃべりながらも、ところどころで会話が盛り上がるようなスパイスを入れながらホームの仲間とおしゃべりをする祖父の姿を想像して、私は祖父が可愛く思えた。こんな感情生まれてはじめてである。なんだか不思議な感じだけど、今年の年末はバイトも休みをもらって早めに帰省しようと思う。礼服はまだ買わないでおこう。

優秀賞 『生きる』             井下 俊夫

一枚の布を巻き、白髪の老婆が生まれて間もない赤ん坊を抱き遠くを見つめる。

ソファに座り、コーヒーを片手にただボーっとテレビを見ていた私の手は止まった。
おばあさんが赤ちゃんを抱く。どこにでもある光景だ。
ただ薄暗い背景を背に、その二人の姿に光を感じた。
老婆の蒼い瞳は私に何かを訴えている気がした。
老いゆく者と新しい命。
そのコントラストに「生と死」を連想させられた。

「生きていることが辛いなら、嫌になるまで生きればいい。」
流れていた歌はその印象的な歌詞で話題になっていた。
このフレーズもまた、老婆の生涯を物語っている気がした。
矛盾しているかのような歌詞。飾りのないビジュアルの強烈なインパクト。
私の目は釘付けになっていた。

「いのちの限り、医療は闘う。」

無意識に見ていた私にそのコピーは飛び込んできた。

大阪医専のこのテレビCMに惹きつけられたのには、理由がある。
大学生になり、私は祖父との別れを経験した。
祖父とは私が産まれてからずっと一緒に暮らしていた。
一九年間の付き合いだった。
祖父は私の生まれるずっと前に脳梗塞なり、左半身は麻痺状態だった。
若い頃はフィギアスケートをしており、軍人の経験もあり、細見ながらがっちりとした体型をしていた。
背も高くスタイルもよく、孫の私が言うのもなんだが二枚目だった。
身だしなみにも気を使っていた。
外出時は背広にスラックス、中折れハットを被り、ステッキと高粋な人だった。
少ない髪も毎朝セットしていた。
その姿を見ていた幼い頃の私は「将来、確実に髪すくなくなるんやろな…」なんて心配をしたりもしていた。
大正生まれ気質なのか、祖父は男気に溢れていた。
「夫は家族を守り、妻は支えるもの」というスタンスだった。
祖母に対し、時に強引で厳しいところもあったが、誰よりも祖母のことを大切にしていた。

幼い頃、やんちゃでわがままであった私はよく妹とケンカをした。
ある時、おもわず叩いてしまったことがあった。
それを見た祖父はそれまでにないくらいに怒った。
杖で本気で殴られたのはその時が最初で最後だった。かなり痛かったのを覚えている。
「男は絶対に女に手だしたらあかん。」
祖父は、私に多くのことを教えてくれた。
戦争で家族、兄弟を亡くしたこともあり、兄弟で仲良くして欲しいという思いも強かったのだろう。
祖父はなによりも家族を大切に思う人だった。
自由のきかない身体にはがゆい思いもたくさんしていた。
しかし悲観的になることは決っしてなかった。
常に前を見つめ、祖母見守り続けた。
時折みせる、クシャっとした笑顔が印象的な人だった。

祖父の死は私にとって初めて身近な人との別れであった。
死の現実をなかなか受け入れることができなかった。
葬儀、通夜とたくさんの人が集まってくれた。
たくさんの人が涙を流していた。
私は始終、泣くことはなかった。
遺骨を持ち帰り、仏壇の前に座った。
遺影の中の祖父のはにかんだ笑顔を見た瞬間、「ばあちゃんのこと頼むな。」
病院のベッドで私の手を強く握りながら言った時のことを思い出した。
気づいた時には涙が止まらなかった。
誰にも見られたくなかった私は布団の中で声を殺して一晩泣き続けた。

「人はいつか死ぬ。」それは仕方のないことだと思っていた。
延命治療などにも反対であった。
苦しい思いをしてまで生き続けることに意味があるのか?
意識もなく、ただ生き続けることに意味があるのか?
そんな風に思っていた。
医療におかげでたくさんの人が助けられている。
私もその一人だ。
しかし、発展し続ける医療に不信感も抱いていた。
「少しでも長く生きたい」
そう考えることは人間のエゴだと思っていた。

祖父の闘病生活。
それは私の医療に対する価値観を大きく変えた。
私が中学に入学したあたりから祖父は入退院を繰り返すようになった。
転倒した際に腰を圧迫骨折したのが原因だ。
病院嫌いの祖父はリハビリを必死に頑張っていた。
相当辛かったと思う。
しかし私が見舞いに行くといつも笑顔だった。
「学校はどうや?」「ばあちゃん頼むで」
人のことばかり心配していた。
高齢とゆうこともあり、病状はすこしずつ悪化していった。
寝たきりの祖父を直視できなかった。
私の手を握った時、袖から見えた腕はかなり痩せて細くなっていた。
会話をすることも徐々になくなり、最後は眠っている時間の方が長かった。
祖父の意思でもあり、延命治療を行うことはなかった。
しかし私はずっと生き続けて欲しいと思っていた。
また元気になることを祈って…

今、私は出会いに恵まれ大切に思う人がたくさんいる。
家族、親族、友人…自分の大切な人達が健康で幸せでいて欲しい。
誰もが思うことだろう。
医療は関わる人の人生を変える可能性を持っている。
医療により、大切な人が救われるなら本当に有難いことだ。
「いのちの限り、闘う医療」
このコピーを意識したのはきっと、私の「生」への価値観が変わったからだろう。

祖父の死後、後悔だらけであった。
「もっと話したかった。」
「何の恩返しもできていない。」
思うことは尽きなかった。
こんな悔しい思いしないように…改めて人との繋がり、絆というものの大切さを実感した。
また医療の持つ意味を考えるきっかけにもなった。
「生と死」は私が考えていた以上に簡単なものではなかった。
発展し続ける医療に多くの「いのち」が救われ、多くの可能性をうむだろう。

しかし、悲しいことに人の決意や決心は時とともに徐々に薄れていく。
祖父との別れを機に、人と時間を共有できることの有難さ、人との繋がりの重さを意識し感謝する気持ちでいた。
祖父との思い出の風化につれて、少しずつその気持ちも薄れかけていた。

何気なく見ていたCMに私の時間は止められた。
たった十数秒のCM。
その少しの時間の中に、記憶や思い出が頭の中を駆け巡った。
老婆の姿、「いのちの限り、医療は闘う」というコピーに、命の限り闘い続けた祖父が重なった。
老いゆく者、生まれる者。共通するものは「命」。
「いのち」のある所には必ず、別の「いのち」が関わっている。
これが「繋がり」だろう。
少し薄れかかっていた私の気持ちがそのCMをきっかけに再び固まった瞬間であった。
これから先、もっとたくさんの出会いが訪れるだろう。
その「繋がり」に常に感謝の気持ちを持ち続けたいと思う。
祖父への感謝も忘れることなく。

普段、意識してCMを見ることはなく、むしろチャンネルを変えることが多い。
大阪医専門のCMをみた時も私はテレビにリモコンを向けていた。
しかし、ただ老婆が赤ん坊を抱えているだけの映像に私はなぜか引き込まれていた。
老婆の悟ったかのような表情、まなざし。
薄暗い空間に裸で赤子を抱く姿。
その描写は幻想的で非日常的な一コマであり独特の世界観を醸し出していた。
おばあさんが赤ちゃんを抱く。
そんな日常的な世界とのギャップに何かが引っかかったのかもしれない。

このCMを見たことにより、私は祖父との思い出がよぎった。
また考えさせられるきっかけにもなった。
広告の中の演出により創り出された世界。
そこに私のもつ世界観とが絡んだのだろう。
私は大阪医専のCMで特に老婆に注目していた。
もし、実際に病と闘っている人、お腹に赤ちゃんがいる女性がこのCMを見たら…
感じるものはまったく違うだろう。
広告の制作者は私がこのような気持ちを引き出すことをあらかじめ予見できたはずはないだろう。
ある意図、意味を持ち創られた広告は世の中にでることで、製作者の想像以上の力を持つ可能性があるのだろう。

人が集まるところには必ず広告は必要だと思う。
情報が飛び交う世の中でますますその力は試されることになるだろう。
いかに本当に必要なものを見極めるのか。
私達も見る目を持たなければいけないのだろう。

老婆の訴えかけるかのような瞳。
私の広告に対する見方も変えさせた。

優秀賞 『なんちゃって批評会』             小川 健太

僕は家ではオカンと一番よく話します。オトンは仕事が忙しくてほとんど家にいないし、妹は家が嫌いみたいで常に出かけているためあまり会わないからです。
しかし一番よく話すオカンともどうも話が噛み合わなくてけんかばかりしています。うちのオカンはどうも話が下手くそで何が言いたいのかも全然わからないし、そのくせに
「これはこういう意味やんか!」
とか逆切れはするし、僕も
「いや意味わからんから!」
「てかその話今してないから!」
など言い合って本当にまともな会話ができず、僕は毎日いらいらいらいらしていました。
そして僕はオカンと話すのがもう嫌になり家でもほとんど部屋にいて極力オカンと話さないようになりました。

そう言えば昔オトンとオカンもよくけんかをしていました。当時オトンは何も言わない人で、オカンがよく僕らにオトンの悪口ばかり言っていました。
ある日家族旅行に行った時オカンが
「旅行中はけんかしないようにするね。」
というと幼かった僕は
「じゃあお父さんとお母さんあんましゃべらんくなるな。」
と言ったらしいです。幼かった僕は二人は話せばけんかするから話さなければいいと知っていたのでしょう。それがきっかけかはわかりませんがオカンはオトンと全く話さないようになり、オトンが何か言っても無視していました。それを僕は見ていて初めは嫌でオトンとオカンが一緒にいる時とても恐かったのを覚えています。けど自然にオトンも話さなくなり、仕事も忙しくなり家にいることが少なくなり二人が接する機会も減りました。そして今では二人が話さないのは普通のことになりました。

そういう経験があったから僕もオカンとけんかするなら話さん方がいいという自分なりの答えが出たのでしょう。今までなら学校の話などよくオカンにしていたが、全くしなくなりました。そして自然にオカンも話してこなくなりました。

しかしある日オカンが
「こないだ面白い広告見たわ。なんか目の横にてんとう虫がとまってて、ほら目に留まるでしょって書いてあるやつ。」
と、いきなり話しかけてきたのです。普段話さなくなっていたのに話しかけられたことだけでも驚きなのに、広告のことを話されたから余計に驚いきました。確かに僕が学校で広告を勉強していたのは知っていたのだろうが、オカン自身が広告なんて興味を持っていなかったのになぜ?と思いました。後から考えると話題づくりのために頑張ったんやろなあと、微笑ましく感じます。今自分が興味を持っていることに触れてくれたので嬉しくなって、その日のそのことがきっかけで僕もオカンに
「この広告おもろない?」
と話をするようになりました。実は僕もオカンと話したいと思っていたんだと思います。 オカンも他にもおもしろい広告を見つけてきたりとだんだん会話は増えていきました。 どっちがおもしろい広告を見つけてくるかみたいな勝負になっていました。

そして今では昔みたいに一緒にテレビも見ます。その時にCM批評会を二人で調子に乗ってやっています。
「今のはまあまあやな。」
「今のはいいねえ。」
など二人で笑いながら審査員ぶっています。こないだまでは全然口も利かなかったのが嘘みたいです。でも間違いなく広告によって、僕とオカンの溝は埋まりました。今度はぜひこの批評会にオトンと妹も招待したいと思います。妹は昔よくCMの物まねをしていたので、またあの頃みたいに物まねをしてもらおうかな。

審査委員特別賞 『「三行広告」の人生』             藤原 初枝

先日、わが町を走る道路の交差点にさしかかったとき、「おやっ?」と、私は珍しいものを目にして立ち止まった。椅子に腰掛けたサンドイッチマンである。二十代ぐらいと思える若者が帽子を目深にかぶり、色メガネとマスクで変装し、広告板を掲げつづけている。新築マンションのモデルルームへの案内である。繁華街ではよく見かける風物だが、こんな住宅地では稀有なことだ。「おやっ?」と、意表をつく人間の広告板ともなると、その効果は抜群だろう。私は変装した若者に、心からエールを贈っていた。
今や世の中は情報化時代である。テレビやラジオのCM、新聞・雑誌・ネット広告、チラシ・ポスターなど、どこもかしこも広告のラッシュである。その体裁はといえば、大小の活字、明朝やゴチック体、カラフルな写真までとりまぜて、競争社会の縮図を見る思いがする。  そんな現代の広告を目にするにつけ、私の脳裏に浮かぶのは、新聞のわずか数行しかない求人広告、いわゆる「三行広告」と呼ばれるものである。思えば私の人生は、その小さな広告に支えられ、ジャンプしていたことを、なつかしく振り返ることができる。
昭和二十七年の三月。私は愛媛の高校を卒業してすぐ,、鈍行の夜行列車に乗って上阪した。夢にまで見てきた大阪で自活するためである。上着の内ポケットには、母が苦しい家計の中からやりくりして、持たせてくれた金三千円が入っていた。
列車はあいにく満席だった。私は通路に新聞紙を敷いて座り込んだが、乗客がゆききするたびに胸に手を当て、金三千円を確かめたものである。それは大阪の知人宅に払う、貴重な一か月間の下宿代だ。これを無くせば、不本意に実家へユーターンせねばならない。さらに、この下宿代が切れるまでには、何が何でも仕事を見つけねばならぬという、切羽詰まった金でもあった。
阿倍野の知人宅におちついた私は、翌日から仕事さがしをはじめた。地方高校卒の私には、何のコネも特技もない。しかも卒業式を終えての職就職さがしは、時期外れもこの上ない。私が頼ることのできたのは、手軽で取っ付きやすい新聞の「三行広告」であった。毎日、夕刊を買い求め、可能性のありそうな求人先に○印をつけて、翌日には足を棒にしてさがしつづけた。
朝鮮動乱がおさまり、この国も活気を取り戻したかにみえたが、やはり就職難の時代である。

絵心のある者を求める 1名
本年度の高校卒業生に限る
今里  ○○ペンキ店

英語に自信ある者、大挙して集まれ。
英文解読・面接試験あり
大阪・北  △△店書店洋書部

事務見習い兼お手伝いさん
18歳から20歳まで 1名
心斎橋  ××楽器店

高校時代から、絵と英語には自信があった。が、それも競争率という名の荒波にもまれ、アワと消えてしまった。唯一、楽器店が私を拾ってくれた。応募者は十数名いただろう。それなのに、なぜ、私が採用されたのか!信じられない。給料四千円、交通費五百円。これで実家へ戻らなくてすむ。震え上がるほどの喜びをかみしめた。「三行広告」が、私の社会デビューを果たす、仲介役をしてくれた瞬間だった。
その喜びもつかの間、楽器店での現実はきびしく、たった三か月しか辛抱できなかった。私は、また「三行広告」で、新しい職場さがしをせねばならない。運よく採用されたのは、東住吉区の場末にあるパン製造会社である。「見習い事務員」から一ランク上の「一般事務員」として、初任給は五千円だった。
会社とはいえ、従業員はわずか二十名余り、アットホームな雰囲気の工場である。地方出身の私にとっては、慰められることが多かった。毎日、香ばしいパンの匂いがただよう中、電話をとり伝票書きをし、その傍らで店売りもした。私は生き生きと働いた。
昭和二十七年から同三十年にかけて、コッペパン十円、ジャムパン・餡パン十円、食パン一斤三十円が、飛ぶように売れる。お昼どきともなると、近隣の会社員などで、押すな押すなの盛況ぶりだった。
パン製造工場で五年ほど働いたころ、期せずして工場は、大手企業に呑み込まれる格好で、倒産してしまった。私は路頭に放り出された。青春真っ只中の二十三歳。これからを、どう生きればよいのだろうか。結婚か? いや仕事だ。またさがして自活して行くしかないだろう。
そう決めてまもなく、一人の男性(サラリーマン)と巡り合った。その三か月後の昭和三十二年秋には、彼との結婚に踏み切った。
「三行広告」で社会体験をした私は、その経験を糧にして、結婚後は平凡ながら主婦業に専念する。家事、出産、育児にはげんだ。就学、結婚では、世間並の親としての役割も果たした。子どもたちは、それぞれに独立して行った。
ふと気が付いたら、夫は六十歳の定年を迎えようとしていた。五歳年下の私も、何か第二の人生の目標をみつけねばならぬ時期にさし差しかかっていた。
そんな折り、夫が新聞の、それも奇縁というべきか市政だよりの「三行広告」を指さしながら、私に話しかけてきた。
「あんた、これに挑戦してみたら、どうや?」

社会福祉主事課程履修者募集(夜学)
年齢不問 府下在住者に限る
谷町6 大阪府社会福祉センター

私は戸惑った。「福祉」とは何たるかも知らない私が、有資格者になってどうする?
だが、身辺は高齢化がすすんでいる。夫や私、健在な兄・姉のためにも、知っておくべきことがある筈だろう。受験するならば、夫は家事を応援すると言う。覚悟を決めた。
小論文と筆記試験に合格した私は、土・日・祝をのぞく毎日を一年間、無我夢中でセンターに通いはじめた。福祉六法をはじめ心理学、社会学、栄養学など39科目を履修し、やっと修了式を迎えた当日である。ある来賓者の方がご挨拶された。「せっかく学んだ知識を埋もらせることなく、世の中に『還元』してくださるよう切望いたします」  世の中に「還元」。このフレーズはなぜか私の心を捉えて離れず、その後の私の指針となり人生訓となる。
平成五年の夏。五十九歳になっていた私は、四たび求人雑誌の「三行広告」に導かれて、特別養護老人ホームに非常勤職員として採用された。配置されたのはデイサービス部門である。
世の中はまさに高齢化社会である。平均寿命が伸びてきた人々は、老後をどう有意義にすごせばよいのか、誰もが考えねばならぬ課題である。現場のお年寄りとともに考え、ともに行動し、私の残された人生を高齢者福祉に注いでみようと、心底から思った。
私はこの道に入って、平成二十年十月で十五年余になる。七十五歳の今も現役であり、試行錯誤の日々でもある。
目下の私の主な役割は、タイムリーなニュースや先の戦争・戦後の話、簡単な歴史などを、できるだけ多くのお年寄りに話しかけることにある。何らかの身体的な症状に加えて起きやすい、精神的な減退を防ぐための、ささやかな一助になれかしと祈るからである。
お年寄りと私とは年齢が近いため、人生観や価値観が似ている。そのせいか、比較的「ふん、ふん」と、耳を傾けてくれているのが、ありがたい。
と、このように私の人生方向は、その都度「三行広告」によってもたらされた。
情報化時代にあってたとえ小さな広告でも、侮ることはない。読み手はどんな広告にも、しっかりとアンテナを張りつづけ、自己の生活に潤いを求めている筈である。
たかが、「三行広告」、されど「三行広告」に支えられ、ジャンプしてきた私の人生に、悔いはない。それどころか、感謝したい気持ちで一杯である。

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