第10回広告エッセイ大賞受賞作品

大賞 「いつかきっとできるまで」               大阪府大阪市   平松  淳枝

我が家は子供が五人いる。にぎやかで楽しいが、ケンカも絶えない。
それでも日曜の夜、みんなそろってテレビを見る時だけは、家中が笑い声であふれる。そんな時に決まって流れる、お気に入りのCMがある。
「♪いつかきっとできるよね。すごいものできるよね。つくるって楽しいよ…」
軽快なメロディの歌い手は子供達だ。素直な歌声が愛らしい。
画面には、子供達と大人達が交代で映される。子供達は段ボール箱を切り抜いたり色をぬったりし、大人達は設計か建築の作業をしている。最後は夕闇の中、ピラミッドの様に積み上げた段ボール・タワーがライトアップされ、子供達は歓声をあげる。作る喜びをとても感じる。

子供達もモノ作りは好きだ。特に次男は、夏休みの工作にも、はりきっていた。
一年生では段ボールでコースを作った「ビー玉迷路」。二年生では、三次元にした「ピタゴラ装置」を作り、クラスみんなが遊びたがって列を作ったらしい。
そして三年生では、口からベビーパウダーの煙を吐き、全関節が動く木製ロボットを作った。
これは難しかったが、支えてくれた人がいた。七十才近くでありながら、現役楽器職人のYさんだ。Yさんは建築関係の仕事の傍ら、大学教授もしていたそうだ。
このYさんと知り合ったのは、次男だった。Yさんの自宅兼工房が、次男の通学中にあった。いつも玄関先に机や椅子を出して作業していたため、帰宅途中の小学生がみんな寄ってくるらしい。
誰にでも優しい人だったが、次男には特によくしてくれた。次男はストレートな物言いをするため、友達の間では「キツイ」と言われてしまうことがあったのだが、Yさんは「素直でいい」と、褒めてくれた。
私はとても嬉しかった。

次男からロボット制作の話を聞いたYさんは、材料の買い出しから面倒を見てくれた。
次男は夏休み中、毎日のようにYさん宅に出かけていった。たまに電話で、「お母さん、よく頑張ってるから見に来てあげて」と言われた。一歳の末っ子を抱いて出かけてみると、玄関先の作業テーブルで、次男が、カッターを使って木材を切っていた。
Yさんは、カッターの角度まで、事細かに注意していた。小学三年生には厳しいと思ったが、次男は真剣な面持ちで聞き、指示通りに作業した。後で聞いた話だが、やはりケガをしないためには、正しいやり方を学ばないといけないから、と言われた。
そして、Yさんは仕事も後回しにして、ずっと作業を見守ってくれていた。
親として申し訳ない気がして詫びると、Yさんは笑いながら言った。
「お母さんは、子供が五人もおったら時間ないでしょう。僕は大丈夫ですよ。」

本心を突かれた。家族が多いことは、とても恵まれたことだが、親が子供一人ずつにかける時間が少ないことは明らかだ。次男が友達をうまくつくれないのは、そのせいではないかと、ずっと負い目を感じていた。

そして次男が四年生になった時、母親としての至らなさを痛感させられた。

ある日、私はいつものように、ぐずる末っ子らの世話をしながら、夕食作りに追われていた。そんな時、机に向かっていた次男が振り向きつつ、「おれが生まれた時ってどうやった?」と聞いてきた。
この質問で頭をよぎったのは、末っ子の妊娠時の、数々のトラブルだ。妊娠8週での早期破水、絶対安静、緊急帝王切開。今、末っ子は元気いっぱいに成長しているが、本当に休まらない日々だった。だから次男の質問には、
「あんたは何もなかったよ。健康に生まれたよ。」
と答えた。次男は「ふうん」と言うと、机に向い直した。
この時は何も気が付かなかった。

次男の小学校では、四年生になると「二分の一成人式」が行われる。参観で、出生時の作文を一人ずつ読み上げ、子供達に”生きていること“を感じてもらう取り組みだ。
他の子供達が、自分の誕生を家族が喜んだ事や、将来の夢など、二分の一成人式にふさわしいことを読み上げる中、次男だけが違った。
出生時については、私の言葉そのまま。他に、日常あったことを無理につないで、文字数を増やしていた。
私は愕然とした。なぜ気が付かなかった。気が付いていれば、もっといろんな話をできたのに。
大事な作文を台無しにしてしまった。帰宅後、私は次男に何度も謝った。

懇談でも先生に謝った。先生は、お母さんも忙しいから仕方ないですよ、と言った。
そして次男が勉強を頑張っていること、委員会活動や部活の他、用務員さんのお手伝いで、校内の畑の水やりも、続けていることを教えてくれた。
そして最後に、次男に向かって、これだけはがんばって、と言った。
人の話を聞こう。自分の思いも言葉で伝えよう。

一年生の頃から、言われ続けていた。私はがっくりした。
ある日曜の夜、TVを見ながら、webでCMの内容を調べてみた。すると、登場しているのは社員の家族だった事が分かった。
CMには流れていない歌詞もあった。
「♪くもにかかるはし うみのうえのがっこう どこまでもつづくみち
かぞくとなかまとみんなと にほんへせかいへうちゅうへ いっしょにみにいこう・・・」
子供達の言葉に、大人が「がんばりまーす」と答えていた。

子供ががんばっているなら大人もがんばらなくちゃ。
それはその通りだ。でもどうやって。
時間がない。余裕がない。体力もない。
次男は、自分からは話してくれない。でも聞いても答えてくれない。

あのCMソングは、私にとって育児にリンクしていた。
子供が幼い頃は、しゃべることも歩くことも、いつかできるよね、と信じられた。定期検診で「成長がゆっくりですね」と言われても、焦らずいられた。
どうしたら、あの時のように、信じて待っていられるのだろうか。

次男も六年生になる頃には、先生の働きかけもあって、それなりに友人関係ができていると聞いた。でもやっぱり本人は何も話してくれないため、私は不安なまま、次男の小学校最後の運動会を迎えた。

毎年、運動会最後の演目は、五・六年生の組み体操となっている。
私も小学生時代に経験したが、体に触れ合うのが嫌だった。その上、友人の倒立を支えるのに苦労したため、あまり良い印象はない。
次男が協力し合えているか、心配だったが聞けなかった。
とにかくケガなく無事に終わってくれればいいと、保護者席で一心に祈った。

演目紹介のアナウンスが終わると、運動場が静まり返った。トラック内に整列した子供達は、真剣な顔つきで直立している。朝礼台に立った先生のホイッスルの音だけが運動場中に響き渡る。その合図で子供達がいっせいに動いた。
まず、最初は個人で、そして少人数の組み体操へ展開していく。想像以上の機敏な動きに、拍手が沸き起こる。子供達は表情を変えず、次の行動に移る。
次男は、びんぼうゆすりもせず、無駄口もたたかず、みんなと一緒に、凛とした態度を保っていた。そして次男と組んでいるクラスメートも、迷いなく次男に体を預け、バランスをとったり、倒立してみせた。
私は驚き、涙があふれた。
次男はみんなと協力し、力を合わせていた。
何も言わないけど、自分でがんばっていた。

実に堂々とし、自信とやる気に満ちた顔をしていた。
十数人で組む3段ピラミッドが終わると、残すは全員ピラミッドだ。
子供達全員が、トラック中央に整列した。
BGMが流れ出す。子供達に人気の、静かなバラード調の応援曲だった。
朝礼台の先生は、子供達の心が落ち着くのを待ってから、一回目のホイッスルを鳴らした。飛び出してきた十人程の子供の中に次男がいた。子供達は、朝礼台を正面に横一列に四つん這いになる。全員が並んだのを確認して、先生がまたホイッスルを鳴らすと、次の子供達が走って駈け寄り、二段目を作っていく。
前日に運動場を清掃しているとは聞いているが、次男達のヒザには砂粒が食い込んでいるだろう。それでも誰も何も言わないで、三段目・四段目を組んでいく間、ただひたすら同じ姿勢のまま待ち続けている。
ゆっくりと、しかし確実に、ピラミッドが高く伸びてゆく。
実は本番の一週間前、全員ピラミッドの練習中に子供が一人、手を骨折する事故が起きていた。先生達は一度、中止を決めていたらしい。
それを聞いた子供達も、最初は何も言わなかった。
だが、翌日、また翌々日と、「やっぱり、ピラミッドやりたい」という子供達が増えていったそうだ。
普段は何でも「めんどくさい」で片付けてしまう子供達だったのに。
先生達は再度話し合い、決行した。
子供達の力を信じたのだ。そして今、全力で子供達を支えているのだ。

子供ってすごい。最後までがんばるって、本当にすごい。
全員ピラミッドの完成後は、いつまでも拍手が鳴りやまなかった。
私も手がはれるほど、たたき続けた。子供達も大人達も、みんな笑顔だった。

その日の夜は、ちゃんとテレビの前に座って、CMを見た。
CMの最後には、浜辺から水平線を見つめる、兄弟とおぼしき二人の少年の後ろ姿が映った。バージョンが変わったのかしら、と思っていると、水平線の向こうに、コンピューターの白線が、建物の形を描いていく。それは彼らが想像する「うみのうえのがっこう」だろうか。
いつかできると信じて、今も奮闘中の大人がいるのだろうか。
それなら私もオタオタせず、まずは、子供の力を信じよう。
そこから、始めよう。
最後の運動会という大仕事を終えた次男は、テレビの前でごろ寝している。
事故があった時、怖くなかったのだろうか。
次男に「事故のこと、教えてくれへんかったなあ」と言ってみたが、「あー、うん」としか、返ってこなかった。

心配性の親には言えなかっただけなのか、気にしていなかっただけなのか。
何と続けて良いのか分からなかったので、「お母さん、このCM、好きやねん」と言ってみた。すると、「知ってる」という返事が、さっきと変わらない調子で返ってきた。

 

優秀賞 「愛を伝えるモノ。」             大阪府大阪市 畑岡 優佑

「あなた、広告業界とか向いていると思うわよ。」
これから就職活動シーズンを迎える私にある日母はそう言った。

そうかなぁ。とだけ呟き食べ終わった食器を片付け自室に向かい、先日の競技のビデオを繰り返し見る。
自分の姿勢、馬のテンション、ライバルの走行。就活なんてどうでもいい、今はとにかくインカレで勝つことだけが目標だ。

勝つためには人より努力しなくてはいけない。全てのスポーツがそうであるように馬術もまた同じ。私は来る日も来る日もただ馬に乗り続け、頂点を目指した。
そんなある日の競技会、馬と共に転倒する事故に遭う。
頭蓋骨と顎が割れ、すぐさま救急車に乗せられ3ヶ月の入院と告知された。

医者から告げられる怪我の状況や手術までの段取り、術後のスケジュール。
自分の責任で負ったそれらよりも、共に転んだ愛馬の怪我が心配で心配で、やがてそれは巨大な罪悪感へと姿を変えた。

なんで怪我させてしまったのだろう。馬は何も悪くないのに。もう彼女に乗る資格なんてないかな。

余りある退屈な病室での時間は、そんなマイナス思考を肥大させるのに役立つ。
夕方のニュースで流れる悲惨なニュースの詳細はさらにそれを後押しする。
そんな時にふと、一本のCMが目に留まった。理由は簡単、大好きな動物がそこにいたからだ。

美しい音楽と映像とが織りなすその広告は、
「人が馬を愛するように、馬も人を愛している」
というコピーで最後を飾った。
それが、僕の人生を決める。
その広告を制作した会社を調べ、その業界を調べ、履歴書の書き方を調べ。
面接で言う事は決めていた。
「御社の制作した広告に心が救われました。」
「私も、広告を通じて人の心を動かしたいです。」

憧れて入ったその会社での仕事は思った以上に楽しかった。
担当するクライアントの商品が売れた瞬間、狙ったキャンペーンが世間を賑わせた瞬間。
憧れていた形とは違えど、人の心を、行動を動かすことに醍醐味を感じますます広告が好きになった。
実家に帰省し仕事の話をする度に、母親がニヤリとしていた気がする。
楽しそうに広告の話をする息子は、気付けば30歳になろうとしていた。

悲しい連絡があったのはそんな頃。
学生時代を過ごした厩舎が、漏電で全焼した。
大切な6頭の馬は焼死し、1頭は全身に酷い火傷を負っているという。かつての私の馬だ。

いてもたってもいられず飛び込んだ新幹線。
簡易充電器を差したスマホ片手に少しでも詳細な情報を探る。
空撮される変わり果てた厩舎の姿。その記事の上に並ぶSNSのアイコン。
我先にと記事を引用し呟く心無い匿名の人々。
誰しもが広く告げることが出来る時代。
匿名の広告人たちが発する心無い言葉を、愛する馬を失ったばかりの学生が目にしたら、どれほど傷つくだろう。

そう思ったとき、いつか少し抱いたことのある違和感を確信した。
「広告とは、人の心を動かすもの。」
「救うことも、傷つける事も出来る。」

広く告げる力を持つからこそ、存在できる形無いモノ。
そんな広告を、今度は自分の愛するモノを守るために使おう。いつまでも好きでいるために。

普段は友人までのSNSを「公開」にし事実を切実に綴り拡散させ、その間に被災した馬術部のページをSNS上に新規作成。
どのニュースサイトにも載っていない衝撃的な写真と生の声が掲載されるそのページは、瞬く間に応援の言葉で溢れていった。
それを見た学生達が、どれだけ救われたか。

大きな声で発言出来る広告という存在は、人々の生活を豊かにするためのモノであるべきだと思う。
それが、その権利と引き換えに与えられた責務であるとさえ言いきってもいい。
人々を不快にさせ、傷つける可能性のあるモノに最早広告を名乗る資格はない。

広告とは、愛を伝えるモノである。
担当者の商品に対する愛、制作者のクライアントに対する愛、企業の顧客に対する愛。

その全て満たして、なおかつどこか完璧でない広告に、私は今日も愛を捧げる。
たくさんの愛が、いつかの誰かの人生を豊かに出来ると信じて。

 

優秀賞 「忘れられないCM」             大阪府大阪市 高橋 浩治

忘れられないCMがある。それは今も思い出と共に心に刻まれている。

私は大学を卒業後、地元神戸を離れて東京で働き始めた。
社会人一年目の冬の事、母から突然の電話があった。親父が亡くなったと言う知らせだった。
『まさか親父が!』私は一瞬、言葉を失った。そんな様子は全く無かったからだ。
母の第一声は、はっきりと思いだせないが『おとうさんが!』だった気がする。
慌てた声が印象的だった。その日の親父は、自慢の手料理を作っている最中に、母の目前でいきなり倒れたまま息を引き取ったらしい。最後に何かを言いかけたが、それは聞き取れる言葉にはなら無かったようだ。
親父からは、その少し前のクリスマスに贈り物が届いたところだった。
中にはシンプルなグレーのマフラーに包まれた、サントリー金ラベルのボトルが入れられていた。
予想出来なかった突然のプレゼントに『何だ、これは?』と少し驚いた。親父は酒に強くない。
私もそれを受け継いだのか酒に弱いのだ。『そんな私に酒を送ってくれるとは?』と、意外な気持ちにかられながら同封されていた手紙を読んだ。
『仕事には慣れたか?また飲んで話そう。飲み過ぎには注意。』と書かれていた。
忙しかった親父とは、大人になってからもゆっくり話す事がなかった。
私が酒に強くない事を知らなかったのだろう。
飲めない者同士が飲みながら?とはおかしな話だが、私は8歳だった頃にみたCMのエピソードを思い出していた。

今では販売されていない40年近くも昔のサントリーウィスキー金ラベルのTVCMの話である。子供の私は、この商品が何なのかさえ分からなかった。
しかし、そのTVCMの中で寂しげにウィスキーを飲む青年の大人な雰囲気に憧れを感じていた。
出演しているのは当時28歳の布施明さんである。子供ながらに頭の中のスイッチが押されたのだろうか?
その映像と共に流れるCMソング『落ち葉が雪に』の歌詞にある『どうして僕は、ここにいるのだろう』のワンフレーズが、心に鳴り響いていた。
『落ち葉が雪に』は1976年のヒットソングである。子供向けの曲では無いのだが私にとっては、なんとも心に響く歌だった。
ちなみにCMのキャッチコピーは『俺、水割り五杯が限度かな』で当時の流行語にもなっていた。
TVでもラジオでも頻繁に流れており、秒数も様々なバージョンがあったと思う。
このキャッチコピーも好きなのだが、それ以上に私の頭に焼き付いたのは、30秒のTVCMに流れる『どうして僕は、ここにいるのだろう』の歌詞と、青年がため息をつきながらウィスキーを飲むと言う哀愁感のある映像だった。
『どうして僕は、ここにいるのだろう』とは、なんとも謎めいた歌詞である。
子供の私は、その答えが知りたくてたまらなくなった。そして親父に何度も質問したものだった。
その度に親父が、返答に困った様な笑顔をしていたのが忘れられない。

季節はクリスマスシーズンだった。そのCMに魅せられた私は、クリスマスプレゼントとして買って欲しいと親父に強請った。
けれども、その願いはあっさりと断られた。8歳の子供にウィスキーを飲ませられる訳もない。
駄目と言われたら余計に欲しくなるものだ。歯止めの利かない子供だったら尚更である。
何度も親父に、このウィスキーが欲しいと駄々をこねた。
きっとそれは、飲んだ事も無い美味しいジュースの様な飲み物だと信じ込んでいたのだ。
結局その時は、大人になったら買ってやるからと言って諦めさせられたのだが、どうしても飲みたい気持ちが抑えられなかった。このCMがそれだけ魅力的だったのだ。

そんな気持ちも成長するに連れて熱が冷めた様に少しずつ薄れて行った。
そして、大人になる頃にはすっかり忘れてしまっていた。
しかし、親父は8歳の私との約束を忘れていなかったのだ。その事が無性に嬉しかった。
親父の死は、母にとってそれは衝撃的でつらい出来事だったのだろう。
あまりその時の事を詳しく話してくれなかった。
私は死に目に会えなかったことが、本当に残念で仕方が無かった。
亡くなる前にもっと話をしておけば良かったと思う。なぜ十数年も前の約束を守ってくれたのかも聞いておきたかった。
親父は面倒見が良く、お人好し過ぎるほど人の良い人物だった。その性格のおかげで、ずいぶんと苦労もさせられていた。また、口下手でもあった為、私が一方的に話している事を黙って聞いているタイプだった。今思えば、一生懸命聞いてくれていたのだろう。だから約束を守ってくれたのだ。
あのCMは、親父にとっても私との大切な思い出だったに違いない。

贈ってくれたサントリー金ラベルは『また、飲んで話そう』と言う約束が果たされないまま棚の奥に置かれている。いったいどんな味がするのだろう?いろいろ思い出して行くうちに飲んでみたくなった。
蓋を開けた時、お酒に強くない私には、一瞬抵抗感が湧いたが、気を取り直して、もう一度香りを嗅ぐと、どうも奥深い芳醇なものが混じっている気がする。
ストレートで一口飲んでみた。口の中が焼ける感覚があったが、すぐに消え、茶色い風景が広がる何とも言えない風味。
ああ、これが晩秋の風景なのかもしれないと、いまさらながらにあのCMの深みを噛み締めた。

そう言えるのは、私が哀愁の意味を理解出来る年齢になったからなのかも知れない。
子供の私は、自分より20歳も年上の青年に憧れを抱いていた。
今の私は、CMの青年よりも更に20歳も年上だ。それは私がちょうど8歳だった時の親父と同じ年齢でもある。
それだけ長い年月が過ぎても当時のCMから受け取ったメッセージは、少しも色あせていない。
わずか30秒の長さだった。いや30秒しか無いからこそ私の想像力を掻き立てていく。
すべてを語り尽くさない。それこそがCMの真髄なのかも知れない。
『どうして僕は、此処にいるのだろう』
CMからのメッセージに抱いた謎を、今は亡き親父にもう一度問いかけてみたくなった。
もし、一緒に飲める機会があったなら、その答えを探すヒントを教えてくれただろうか?
私は今、縁あって広告会社で働いてる。自分なりにではあるが、人に大きな影響を与える広告づくりに精一杯努力したいと思う。
ずいぶん昔のCMなので、覚えている人は少ないかも知れない。
しかし、私にとっては親父との大切な思い出をつないでくれる、忘れられないCMなのである。

 

優秀賞 「最高の手紙」             大阪府豊中市 宮川 勉

私の実家は貧しく、私が幼い頃から母は働きに出ていた。そのため、昼間は一人で留守番をすることが多く、母が恋しくて毎日寂しい思いをしていた。
幼稚園の卒園式の日も母は仕事で出席できず、私は一人で式に参加した。友達が母親と一緒に楽しそうに帰っていく姿を羨ましく思いながら、私は走って家に帰り悲しくて一人泣いた事を、子供心に覚えている。
後に父から聞けば、その時母は、「大事な卒園式に出席できず、本当に申し訳ない事をした。無理をしてでも出席すればよかった。」と、泣きながら悔やんでいたとのこと。「あの時の母の悲しい顔が忘れられない。」と、父は涙ながらに話をしてくれた。
そんな母が亡くなった。あまりに突然のことで、臨終の場に立ち会うことができなかった。なにかもやもやしたわだかまりが心の中にくすぶり続け、いつまでも気が晴れないでいた。せめて、今まで育ててくれた感謝の気持ちだけは、母が生きているうちにもっと伝えたかった。
それから一週間後、私にとって忘れられない出来事が起きた。それは、自宅で学生時代の荷物の整理をしていた時のことだった。荷物の中から、きちんと束ねられた数十通の母からの手紙を見つけた。それは、私が学生時代に親元を離れ下宿生活をしていた頃の手紙だった。母はその頃、一人暮らしの私を案じ、時々励ましの手紙を送ってくれていた。
私は、三十年前の懐かしい思い出に浸りながら、一通ずつ手紙を読み返していた。すると、手紙の束の中から、まだ封が開けられていない一通の封筒を見つけた。
私は驚いて、その色あせた封筒を取り出し、丁寧に鋏を入れた。中には、便箋と一緒に一枚の写真が入っていた。それは、大学の卒業式にキャンパスで母と撮った記念写真だった。
写真には、真新しい背広を着た、これから社会人になろうとする初々しい姿の私が写っていた。そして、私の隣には卒業式に初めて出席してくれた母が立っていた。母の顔は本当に晴れやかで、優しさに満ち溢れた素晴らしい笑顔だった。
私は、写真の母に語りかけた。 「母さん、卒園式に出席できなかった事、ずっと気にしていたのかな。でも、母さんのこの笑顔を見ていたら、なんだかほっとしたよ。今まで本当にありがとう。」 便箋には、これから社会人になろうとする私への励ましのメッセージが記されていた。それは、当時流行っていた元プロ野球近鉄バッファローズの名投手、鈴木啓示氏が語るテレビ広告のキャッチコピーで始まっていた。 「人生投げたらアカン、逃げたらアカン。これから先、たとえどんなに辛くても、あきらめずにがんばるんだよ、母さんはいつもお前のことを見守っているから・・・。」 そこからあとは、涙で目がかすんで、まともに読めなかった。
私は、母から最高の手紙を改めて受け取った。その時、生前の母に対する未練がスッと消え失せ、それまで心の中でくすぶり続けていたわだかまりも、綺麗に無くなっていた。
「人生投げたらアカン。」
そういえば、あの頃母はよく、このキャッチコピーを口にして私を励ましてくれていた。母が元気だった頃の、貧しくても温かい家族との思い出の日々が、走馬灯の様に頭の中を駆け巡っていた。ただただ懐かしく、私の目から堰を切った様に涙がどっと溢れ出ていた。
母は晩年脳梗塞を患い、半身不随・言語障害となり施設で寂しく過ごしていた。私が会いに行くと、手を取り泣いて喜んで迎えてくれた。私が何を言っても、にこにこしながらただ頷いてくれるだけだった。でも、このキャッチコピーを言った時は、昔のことを思い出したのか、恥ずかしそうに笑っていた。
この言葉は、まさに母の人生そのものだった。早朝から夜遅くまで家族を養うため働きづめだった母は、辛い時も、きっとこの言葉の様に人生を生き抜いてきたのだろう。本当に心から尊敬できる人だった。
翻って自分自身の人生を振り返ると、私の苦労などまだまだ母には遠く及ばないなと、改めて痛感した。
「人生投げたらアカン。」
この言葉は、これからの私の人生に励ましのエールを送り続けてくれるだろう。優しい母の面影とともに。

 

優秀賞 「道標」        大阪府河内長野市 星加 有梨

自分の身に関係ある広告ほど深く記憶に、心に残るものはない。そして広告は私達にきっかけを与えてくれる存在なのだ。

(♪ピアノ売ってちょうだ~い
みんなまぁるく タケモトピアノ~
電話してちょうだ~い
みんなまぁるく タケモトピアノ~
そのと~り!)
一度は聞いた事があるであろう、家庭では馴染みの深いタケモトピアノのCMだが、私にとってはただのCMで終わらない。なにせ私はこのCMが見たくなく、聞きたくもない、大嫌いなCMだったこと、そして今となっては思い出を振り返るきっかけを与えてくれる、そんなCMなのである。
私は4歳から中学受験を決める小学4年生までの6年間ピアノを習っていた。
ピアノを習い始めたきっかけは「ピアノか書道のどちらを習い事にするのか」という単純なもので、家にピアノがあるからという理由でピアノを習う事にした。幼少期から習いはじめたといえただの習い事にすぎなかった。
習い始めた当初は、鍵盤を押すだけで音が鳴るピアノが不思議でたまらなかった。他の楽器と違ってピアノは鍵盤を押すだけで綺麗な音が響く。まだ幼かった私にはそれが嬉しくて、嬉しくてたまらず、毎日練習を繰り返していた。
ピアノは弾く人によって喜びも哀しみも、同じ曲でも音色は違ってくる。先生のピアノの音色は優しくて、聞く人の心を温める、そんな音色だった。

「いつか私も先生みたいな音を出したい、先生みたいになりたい」
それが私の口癖で、目標でもあった。

1日3時間は必ず練習し、そのうち1時間は母が仕事から帰ってきてから練習を見てもらい、二人三脚だった。まだ幼かった私は言われたことを素直に受け止め、何度も何度も同じところを繰り返し弾いて、曲を完成させていった。
練習しているときは「早く新しい曲を弾きたい、もっと難しい曲を弾けるようになりたい!」と思い続け、課題曲が合格すれば「次はどんな曲なのかな?」とワクワクした。次々と湧き出る気持ちが自分のモチベーションを上げ、ピアノに対する向き合い方ができていたと思う。
しかし成長するに連れて目標も、次々と湧く純粋な気持ちも消え、小学2年生になる頃にはピアノの練習をすることさえ億劫になっていった。この頃の私といえば、学校の宿題をやり、通信教育のこどもチャレンジを済ませ、友達と遊ぶということが多かった。遊びに行って帰ってから練習をするスタイルになっていた訳だが、練習は漫画を読みながらピアノを弾いているふりをしたり、テレビを見ながら弾いていたりでどう見ても集中しているように見られないそんな練習のやり方が続いていた。
そんな姿を見ていた母が言った。

「そんなに練習するのが嫌なんやったらピアノやめ!テレビでピアノ売ってちょうだいって言ってるやろ、電話して売るで?」と電話を手に取った。
「やめへん、絶対やめへん。練習するから売らんとって!売ったら怒るで」

私は母が持つ電話を取り返して、泣きながら叫んでいた。
でも結局のところ、言われた1週間位は練習をきちんとするが、しかし徐々にさぼっていくということを繰り返していた。
ある日練習もせず、テレビを見て高笑いしていた私に母が切れた「練習するって言ったのは誰や?あんたやろ、口だけか?口だけなんか?」
鬼の形相で私の腕を掴み、無理やりピアノのイスに座らせ
「あんたがピアノやめへんって言ったんやろ、タダでピアノ習ってるんとちゃうで!パパもママも一生懸命働いたお金で習ってるんやで!口だけなんやったらいつでも電話して売るで!」と言いながら私のお尻をたたいた。私は「何で私はこんな目に合わされるねん、元々は私が言い出したんじゃない」と心の中で思い泣きながら練習をした。
無情にもテレビからいつものピアノ売ってちょうだいとCMが流れてきた。
この日を境に母は怒りながら、私は泣きながらという練習風景に変わった。母の怒っている声、私の泣いてる声は外にまでまる聞こえだった。近所のおじさん、おばさんからは
「最近はいつもお母さんの怒鳴り声とゆりちゃんの泣き声が聞こえるね。今まではのびのびとした音で弾いていたのに、最近は嫌々弾いてる感じがするね」と言われるまでになっていた。
この話を聞いた私は「もう小さいころの時のようにピアノは弾けない。ピアノは嫌い」と思う方が大きくなった。そしてタケモトのCMが流れた時に「もう売ってもいいかな」なんて思うことさえあった。でも”売りたくない“という気持ちも強く、CMの歌が聞こえる度に自分の気持ちが矛盾し葛藤し、イライラした。
実はこのCMの音楽を聴くと泣いている赤ちゃんが泣き止むCMと言われていたが、私にとっては流れる度に辛く感じて泣きたい気持ちになるCMに過ぎなかった。
こんな経緯でタケモトピアノのCMが嫌いになった訳だが、嫌いになった理由が些細な事で、単純で、はたから見ても自業自得だと思われそうだけど、当時の私にはピアノが自分の中を占める部分が大きかった。
今でこそ嫌々弾き、練習をしなくなった自分が悪いのだと分かっているし、ピアノをやめたのは単なる逃げであったと客観的に捉えられるようになった。CMに対しても苛立ちを持ったり、大嫌いだと思うことも無い。むしろテレビを見ている時、CMにタケモトピアノが流れると毎回当時のことが鮮明に思い出されて懐かしく感じることの方が多くなった。

「懐かしいなぁ。小学生の頃、練習せんでよく電話持って怒られたなぁ」
「そやなぁ、練習せんでしょっちゅう怒ってたわ」とほっこりしながら会話することがある。そして毎回「もし続けていたらどうなってたやろなぁ?」と言ってしまう。なぜなら、あの時、正直私は中学受験をするから練習をする時間なんてないという理由をつけてピアノをやめたという根本があり、今となってはこの選択が私の最初の”逃げ“だと思うようになったからだ。高校3年生になるまで、私は自分で決めたことを中途半端に終わらせたり、何か理由をつけて逃げたりすることが多かった。けれど逃げられない大学受験を目の前にした時、今までの私は物事から逃げ回ってきたのだと思うようになり、最初に逃げたのは「ピアノ」だと行き着いた。時々「ピアノを続けてたらなぁ」と思う事があるから、ピアノに対して未練が残っていて、「後悔していない」と言えば嘘になる節がある。だからこそ、私はこの過去を忘れてはならないのだ。思い残すことのないように、二度と後悔をしないように。

私にとってタケモトのCMは「自分がピアノをしていた」という証であると共に「過去を繰り返さないようにする」という戒めとなり、過去を思い出させてくれるきっかけを与えてくれる”道標“なのだ。そしてそんな道標を忘れる事はない、これからも私の道を示してくれる特別な存在だ。

 

優秀賞 「1%の成功のために」        大阪府大阪市 吉武 果耶

「努力は必ず報われる」
周りの大人やテレビに出ている人たち、友達が言う。
私は最初、そんなことあるはずないと思っていた。人には向き不向きがあると思う。だからこそ、不向きな、苦手なことにチャレンジしても仕方がない、そう思っていた。

高校生の時、英語能力検定に落ちた。試験結果の手紙を開いたのは、夕食後に家族でテレビを見ている時だったと思う。不合格の三文字しかなかった。二次面接の知らせも、もちろん入っていなかった。
苦手な英語を頑張って勉強した。自分のためになるから、と自分を奮い立たせて頑張った。試験が近くなると、友達の遊びの誘いも断った。家で、自分の部屋で、机の前に座って、閉じこもった。お風呂には単語帳を持って行った。通学中と寝るとき以外は、ほとんど参考書と一緒だった。なのに、落ちた。あと一歩のところで、落ちた。大幅に点数が足りない、ということではなく、あと少しのところで落ちた。ショックであると同時に、腹が立った。

「頑張っていればいつか報われる
持ち続ければ夢はかなう
そんなのは幻想だ
たいてい努力は報われない
たいてい正義は勝てやしない
たいてい夢はかなわない
そんなこと現実の世の中ではよくあることだ」

そんな時テレビからこんなことが聞こえてきた。ホンダのCMだ。いやがらせかと思った。タイミングが良すぎるだろう、と思った。結果を出すことができなかったということで、頑張ってきたこと、そのものが否定されたような気がした。とても悔しかった。そのセリフを聞いたとたん悔しくて悔しくて、涙があふれてきた。そして自分の部屋に逃げた。1人で泣いた。しばらく落ち込んでいたと思う。赤くなった目で家族に会うのがなんだか恥ずかしかった。頑張っても仕方ない、結局は努力は報われない、そう思ってしまうようになった。

それから数日たったお昼頃だったと思う。1人でテレビを見ていた。すると、あるCMが流れてきた。私に試験に落ちたことに加え、さらにショックを受けさせたCMだ。しかし、あのホンダのCMには続きがあった。よく聞き取れなかった私は、すぐに携帯電話を取って、検索してみた。

「頑張っていればいつか報われる
持ち続ければ夢はかなう
そんなのは幻想だ
たいてい努力は報われない。たいてい正義は勝てやしない。たいてい夢はかなわない。
そんなこと、現実の世の中ではよくあることだ。
けれど、それがどうした?
スタートはそこからだ。
技術開発は失敗が99%。
新しいことをやれば、必ずしくじる。
腹が立つ。
だから、寝る時間、食う時間を惜しんで、何度でもやる。
さあ、きのうまでの自分を超えろ。
きのうまでのHondaを超えろ。
負けるもんか。」

思わずその画面を保存した。感動した。あの時逃げてしまった自分が恥ずかしかった。試験に落ちた自分にとらわれて、身動きができない状態だった私が恥ずかしかった。たった一回の失敗で、挫けて、諦めてしまっていた自分が恥ずかしくなった。
たったの一回じゃないか。初めて受けたじゃないか。自分がしたこと全部が成功していたのではつまらない。試験に落ちたとき、確かに腹が立った。確かに、試験に落ちた。それがどうした。そこからがスタートじゃないか。自分の中で何かが変わっていった。やる気があふれてきた。なんだか、わくわくした。
それから、私はまた、試験の勉強を始めた。苦手な英語を、勉強した。また、落ちてしまうかも、と思うこともあった。そんな時は、携帯を開いた。待ち受けを見て、頑張った。その当時の待ち受けは、もちろんあの時保存した画像だった。”負けるもんか“そう自分に言い聞かせ、頑張った。
試験の結果が出る日は、手紙が来るまで待てなかった。友達と一緒にいたにもかかわらず、すぐにでも確認したかった私は、携帯を開いた。結果を見ることはとても怖かった。どきどきしながら、恐る恐る画面を進めていった。すると合格の二文字が並んでいた。とてもどきどきした。さっきまでとは違い、とても気持ちのいいどきどきだった。とても嬉しかった。友達に自慢した。試験に落ちた自分に、やっと勝てた気がした。やっと前に進めるような気がした。
私はまだ、20年しか生きていない。その間にも失敗はたくさんした。つらいこともたくさんあった。きっと、今後の人生も失敗ばかりかもしれない。とても悔しい思いをすることばかりかもしれない。それでも、1%の成功のためにやると決めたことに出会えたら幸せだと思う。
私だって、負けるもんか。

 

優秀賞 「『This is my life』」        大阪府大阪市 神野 千代

ニューヨークいち、ひどい顔だわ。
地下鉄の窓に映った姿を見て、私はため息をついた。肌はかさつき、目の下には隈ができ、口角は下がっている。深くかぶったニット帽も、顔を半分覆ったマフラーも、元気のなさまでは隠しきれていない。眉毛も見事にボサボサだ。「世界の中心」と呼ばれるこの華やかな大都会に生きる20代後半の女性が、この有様というのは正直どうかと思う。おまけに、毎日のように着ているダウンコートに、工事現場から落ちて来た水滴がシミをつけてしまった。

電車が動きだし、乗り込んできた黒人の少年が音楽をかけるやダンスを披露し始めた。車両に乗って来ては勝手に歌ったり踊ったりして寄付をねだるこんなパフォーマーたちの姿にも、もうすっかり慣れた。ストリートダンス、民族音楽、祈りや詩の言葉。彼らは歌い、踊り、表現し続ける。まるでそうしないと死んでしまう生き物であるかのように。
ニューヨークは、芸術家で満ちている。ダンサー、アクター、アーティスト。オペラ歌手からコメディアンから砂絵師に至るまで、誰もが成功を夢見て、人生を賭けてこの街へやって来る。そして私も、たぶんその一人なのだ。少なくとも、そう思ってきたのだけれど。

カッコ悪いなぁ……と私は自分の顔を見ながら絶望した。自己実現などほど遠い、不満と焦燥と自信のなさが露呈している。
こんな自分は想像していなかった。何もかもうまくいかない。もちろん、留学先ですべてが思ったようにいくなんて、楽観的な期待はしていなかった。それでも、現実は予想よりもはるかに困難だった。
アメリカは厳しい競争社会だ。その中でもニューヨークは、国内一競争の激しい都市だ。そのうえ私が志望しているのは、ブロードウェイの舞台制作という、生き馬の目を抜いてそれをさらにライオンの目の前に差し出すような業界だ。
「大好きな舞台の世界で面白いショーを作りたい」。そう思ってここへやって来たのは、もう2年も前のことだ。2年も経ったのに、まだ私は何一つ達成できていない。何ひとつ。今日も、何もできなかった。インターン先で数時間かけて作った書類は、すべて上司から却下された。ビザの更新期限は数ヶ月後に迫っているが、今の職場で採用してもらえそうな気配はない。ずっとただ働きで、日本で貯めた留学資金も底をつきかけている。一体なんのためにこんなことをやっているのかと、自分でもわからなくなってため息が出た。
「こんなんじゃ、使い物にならないのよ!」
書類を突き返してきた上司の言葉は、そのまま私への評価だった。

軋んだ音を立てて、地下鉄は駅の構内へと滑り込んだ。開いたドアから、乗客が一斉に下車していく。プラットフォームの空気はひやりとしていて、地上の空気の冷たさが予感される。時刻は午後5時、金曜日に少し早く退社した人たちは、これから友人と飲みにでも行くか、家族との夕べを過ごすのだろう。楽しそうな恋人たちが目に入らないように、私は足を早めた。
その時、出口に向かう壁の大きな文字が、私の目に飛び込んで来た。

「This is your life.」

これはあなたの人生。その言葉は、私の今の状況に対するメッセージのように思えた。目の前に鏡を突きつけられたようだった。私は足を止め、その文章を読んだ。壁一面を埋め尽くしたその広告は、単なる文字の羅列にも関わらず、人の視線をとらえて離さない力があった。

『これはあなたの人生です。好きなことをしなさい。何度でも。
気に入らないことがあるなら、変えなさい。
仕事が嫌なら、辞めなさい。
時間がないなら、テレビを見るのを止めなさい。
一生に一度の恋は、探してはだめ。それは、あなたが心から愛することをしている時にやって来るから。
考えすぎないで。人生はシンプルなもの。どんな感情だって美しい。
食べ物を口にする時は、最後のひと口まで味わって。
新しく出会う人や物事に、心を開き、両手を広げて。私たちの違いが、私たちを結びつける共通点。
次に出会う人に、どんな夢を持っているか訊ねてみて。そしてあなたの夢を語ってあげて。
たくさん旅をすること。道を見失った時にこそ、あなた自身が見つかる。
たった一度しかないチャンスを、つかまえなさい。
人生とは、あなたが出会う人々のこと。そしてあなたが、誰かと共につくりあげてゆくもの。さあ、出かけよう。何かを、新しく作り出そう。
人生は短い。夢に生き、愛を分かち合おう』

自分の身長ほどもあるそのブランド広告を見つめていると、身体が震えた。寒さのせいだけではなかった。
「イグナイト」という英単語がある。「火をつける」という意味の言葉だ。カチリと点火する。心の中に、炎がゆらめく。動きたい、価値を作り出したい、与えられた今この時を最大化したい、やりたいことを全力でやりつくしたい、その衝動が凍えた体温を上げる。これは私の人生。たった一回、たった一度しかないのだ、この人生は。この思いを伝えたい。誰かに届けたい、分かち合いたい、人生とは素晴らしい可能性に満ちたものなのだということを――。

目に涙がにじんだ。私は思い出した。ここへやってきた理由を。ここに来ることが、ひとつの目標だった。自分の夢に向かって、がむしゃらに頑張りたいと思っていた。人生は一度きり、チャンスは一生に一回しかないのだから、チャレンジしようと思った。たとえそれが、どんな結果になろうとも。
息を吸い込み、私は地下鉄の出口を目指した。地上から降り込んだ雪が、階段の隅に薄汚く固まっている。凍てつくような外気が肌を刺す。溶けた雪がブーツの縫い目からしみ込み、足先を冷たく濡らす。地上は一面真っ白だ。灰色の空は、ここ数ヶ月いつもそうであるように、今日もどんよりと重い。

これが、ニューヨークだ。私は思った。私の夢見ていた場所、ずっとずっと来たかった場所だ。ドブネズミが走り、ホームレスが物乞いをし、11月から4月まで凍えるような街。そして、幾千幾万の人が、夢を抱いて挑戦してくる街。
「ここで生まれたから、ここにいる」という人より、「ここに来たくて、来た」という人が作った街なのだ。だから、街はいつも活気にあふれている。街全体が、何かを作り出そうという情熱をかきたてる。「こうしたい」という意志と欲望。この街で生き残るためには、自分が何者なのか、何をしたいか、常に問い続け主張し続けることでしか、道を見つけられない。「みんながこうしてるから……」という態度は、ありえない。「私は何をするか?」が、何よりも大切なのだ。
26年間過ごしてきた日本では、何も考えなくてすんだ。周りと同じように生きていればそれでよかった。進路や伴侶といった重要な選択をする時でさえ、ある程度決められた社会的枠組みの中から、自分に合いそうなものを選ぶだけだった。
でもここでは、全てが自分のオリジナルだ。何をするか、どう生きるかは、周りに決められることでも、既成の選択肢の中から選び取ることでもなく、自分で新しく作り出して行くものなのだ。アーティストであることの条件は、自分の人生を生きるという決意に他ならない。そして私は、その生き方を選んだ。
華やかな大都会、流行の発信地、クリエイティブな人々、ワクワクするような雰囲気。そういう一面も確かにある。旅行で来るのならそういった部分だけを見て楽しめるだろう。でも、ここに住んでわかったことがある。暗く冷たく汚くカッコ悪いこんな一日も、確かにこの街の一面であり、そうした無数の失敗が、この街の圧倒的な魅力を支えているのだということだ。
断られ、否定され、負け続ける日々。自分の無力さを思い知らされる悔しさ。失望と、落胆と、挫折と、徒労と、不安と、焦燥と――それでも、「それでも」という言葉を支えにニューヨーカーたちは、ここで生き続けている。「それでも」という言葉を知らない人は、この街には誰ひとりいないだろう。私はそれを知っている。この街の一部として。
そして私は、このコピーを書いたライターのことを思った。その人もきっと、私のような気持ちになったことがあるに違いない。そうでなければ、こんなコピーは書けないはずだ。つらくて悲しくてみじめで情けなくて――そしてそんな自分の弱さを受け止めて乗り越えるために、この言葉が出て来たのだと思う。だからこの人は、こうしてはっきりと言い切れるのだ。自分と同じような、夢を抱いて生きる人たちへ向かって。

コートにシミがあっても、肌がボロボロでも、かまうもんか。同級生が子育てに励んでいようと、後輩が数千万円稼いでいようと、私には関係ない。私の隣に乗っている人がホームレスだろうと、投資銀行マンだろうと、私よりも幸せな人間はいない。だって私は、私のやりたいことをやっているから。
いつか夢をかなえるその日のために、私は今日50ページの課題を読んで、単語を調べて、レポートを書いて、プレゼン資料を作る。夢のように面白い舞台を作ることが、私の夢だ。そのためにここへ来たのだ。白い息を吐き、真っ白な雪を踏みしめながら、私は家へと向かった。少しだけ、口角を上げて。

あの冬の日から、5年が経った。私は今日本で、イベントを自分で企画運営している。アートと人を結びつけ、芸術の素晴らしさを分かち合う活動だ。舞台制作という分野からは少しだけ変わったけれど、人を喜ばせ、楽しませ、幸せにしたいという気持ちは変わらない。パソコンを立ち上げるたびに、あの時地下鉄で見かけた、HOLSTEEというブランドの壁紙が目に入る。
相変わらず、私の肌はかさつき、目の下には隈があり、眉毛はボサボサで、いつも締め切りに追われている。でも、私の口角はたぶん、上がっている時の方が多い。だって幸せだもの。これが私の人生。This is my life.

 

優秀賞 「不動明王様、これ私の都合ですが・・・」        大阪府大阪市 三好 可代子

7時02分発の快速電車は、超満員ではないものの、冷房の効きも今一つで、む~んとした空気が充満していた。前夜の長男とのやり取りに少し疲れ気味で、いつもに増してため息が重たい朝の通勤電車。いつもと同じ6号車の2番扉の前に立ち、窓の外を何となく見つめていた。
「はあ~、」と息を吐きだして身体を方向転換したその時、何か強い視線のようなものを感じて振り返った。そこには中吊り広告の中で、”ギロリ“と、こちらを睨んでいる不動明王像の勇猛な姿があった。その鋭く力強い眼差しと目線が合ったとき、以前、クイズ番組で、「不動明王はなぜ睨んでいるのか?」と言う問題の解説を思い出した。
「大日如来の脇侍として、仏法に従わない者を恐ろしげな姿で脅し、教えを諭し、仏法に敵対する事を力ずくで止めさせる。外道に進もうとする者はしょっ引いて内道に戻す」、など、極めて積極的な介入を行う姿である。
煩悩を抱える最も救い難い衆生をも、力ずくで救うために忿怒の姿をしているのだ、という。
鬼の形相にも似た厳しい表情は、私が大好きな中宮寺の弥勒菩薩様のお顔とはお役目の違いとは言え、随分な違いである。人からどう思われているかと言う視点で考えれば、かなり損をしておられると思うし、少々お気の毒でさえある。しかし、広告の中央に陣取るコピーは、その心配を吹き飛ばすような、力強いメッセージを放っていた。
”怒りの表情は、優しさの裏返し“
「怖い怖い」、小さい子どもなら今にも泣き出しそうな、怒りに満ちたその表情は、心の奥深くにある、他の感情などまったく感じさせない。本当は煩悩に流される弱い心を持つ者を救うためのとてつもなく大きな優しさを秘めていると言うのに。完全に隠されたその優しさを人はどうして知るのだろう。不動明王の優しさは、怒りの指数が大きければ大きいだけ、優しさも深く、大きいはずなのだ。
私の息子は高校二年生。生まれながらに発達に問題があり、感情のコントロールが苦手だ。人一倍不安や緊張を強く感じ、こだわりも強い。見た目では普通に見えるが、日々、人との関わりや環境の変化に適応することが大変で、戸惑いを感じながら生活をしている。時にそれは大きな疲れとなり、重なる緊張はイライラを生み、溢れると爆発する。問題行動として現れる不快な感情は、すべてと言ってよいほど”怒り“という形で表現されてしまう。彼の中にある不安も、悔しさも、気持ち悪さも、焦りも。本当は様々な感情があるのにも関わらず、すべて変換されるのは”怒り“なのである。そこだけ見てしまうと、「どうしてそうなるの?」と言われても仕方がないぐらいだ。
幼き頃よりトラブルを起こすたびに、涙を目にいっぱい溜めて「ごめんなさい。」を繰り返した。どうしてそうなるのか、説明がつかないけれど、怒りと言う形で相手にぶつけてしまう。なかなか他人様に説明しても理解はしてもらえない。親としてこの子に関わる私でさえ、「どうしてだろう‥。」と理屈で割り切れず、苦しくなることもある。もちろん、その時本人はもっともっと苦しんでいる。抑え切れない怒りの中でもがいている。
しかし、一生このままではこの子はどんなに辛いだろうと悩んだ。不動明王様ではないこの子には、”怒り“以外に自分の思いを伝えるスキルが必要だった。専門家のところに通い、ソーシャルスキルのトレーニングを受けることにした。それは、この先、彼が社会の中で少しでも生きやすくなるための訓練、自分の気持ちの表現方法を学び、怒りだけではない、彼の心の中にある思いを誰かにわかってもらうための手立てを身につけること。実際の彼はとても慎重で繊細。ドキドキしながら、かなり敏感なアンテナを張り巡らせている。怖がりで、心配性だけど、とっても気がつく優しい子。私はそんな彼の優しさが人にはなかなか伝わらないことが悔しい。本当は優しい子なんだと、たくさんの人にわかってもらいたかった。親子で学びながら、少しずつだが、気持ちを伝える事ができるようになった。わかってもらうことで、人は安心を得る。不安が消えると、行動が落ち着き、できることが増えた。できなかったことができると褒めてもらえるようになる。褒めてもらうと笑顔が増えた。分かってもらうって、大切だ。みんな本当は分かってもらいたいはずだ。息子はゆっくりだが成長している。
不動明王のその姿とはまったく異なるもので、私の息子は世のために怒っているのではないが、広告から伝わるメッセージを自分に都合のいい解釈をして受け取った。
タイムリーにその広告に出会ったことで、ため息混じりで重たかった私の心が一瞬にして躍動し、ドキドキと熱くなった。息子は優しさをいっぱい溜込み、これからもっと成長していくだろう。私が注いだ愛は、彼の中にしっかり受け止められているに違いない。きっと、この怒りは優しさの裏返しなのだ。こんな風に勝手に心が満たされる私であった。
彼を信じて、自分の思いを信じて、時に怒りを露わにする息子をがっちりと受け止めることができる母でありたい。
広告は、本来の意図する伝達事項に加えて、目にする人、すなわち受け取る人の立場や状況によって、感じ方やとらえ方が異なることもある。強烈なインパクトを与えるその図案が人の心を刺激し、誰が語るわけでもなく自問自答ができる媒体である。人は日々、忙しい日常の中で、様々な刺激を受け、また感じて自らの姿を確認したり、正したりすることができる。小さな中吊り広告とのめぐり逢いが私という人間の心持ちを一瞬で変えた。こんな風に感じることを日々重ねることで、ごく普通の人生を心豊かに色づけしてゆきたいものだ。私の愛する息子も、そんな感性を磨き、心豊かな大人になって欲しい。
”怒りの表情は、優しさの裏返し“
このポスターはもう見る事がなくなった。駅でお願いしてみたが、手に入れることはできなかった。写メを撮ろうと挑戦したが、ラッシュ時の人の多さであきらめた。普段なら忘れてしまうそのデザインとコピー。でもこれはきっと忘れないだろう。通勤電車の中の一瞬をこんな形で切り取ることができた私は小さな幸せを一つ手に入れたような気がする。
不動明王様から勇気を頂いて、疲れのとれない朝が新たな決意に繋がったこと、
「不動明王様、これ私の都合ですが、お目にかかれて良かったです。」
中吊り広告との小さな出逢いに合掌。

 

優秀賞 「『いってきます』と『ただいま』の間にもらった時間」        大阪府大阪市 久下 尋厚

仕事が終わると、私はほぼ毎晩のようにバーに通う。バーには、いろんな職業、性別のお客が、いろんな想いでやって来る。バー通いを始めたばかりの若い方から、長年様々なバーを巡ってこられた大先輩まで、年代も様々。
酒を傾けながらする話と言えば、今日一日の出来事から、自分の人生のことまで。あの時の恥ずかしい失敗から、昼間の仕事で上げた大手柄まで。大好きな男性からもらった観劇のチケットを眺めながらうっとりしたり、些細な言葉のあやで仲たがいをした女性のことで悔んだり。バーのカウンターは、実は自分自身と向き合う場所なんじゃないかしら、とすら思えてくる。
ふと私は、それぞれは関係のない、「時間」にまつわる2つのキャッチコピーを思い出した。
「『ただいま』と『いってきます』の間にあるこの時間が、私は好きだ。」
積水ハウスのTVCMで見かけたキャッチコピーが切り取った、家族と過ごす、何気ないけど代えることのできない大切な時間。逆に言えば、「いってきます」は、きっと、「ただいま」を言うための約束なんじゃないだろうか。人は皆、その小さくて大切な約束を守るために、その日その日を頑張っているのではないかと。

「さしあげたのは、時間です。」
サントリーのTVCMの最後に置かれたキャッチコピーに込められた、酒がそれを飲む人にくれる、時に誰かと笑いながら、時に一人静かにまどろみながら過ごす時間。ああ、ゆっくりと今日一日といままでの疲れを、明日一日とこれからの英気に変える時間をくれるバーは、「いってきます」と「ただいま」のちょうど間にあるのだな、とその時気がついた。私は、「ただいま」と「いってきます」の間にある時間も、「いってきます」と「ただいま」の間にもらう時間も、どちらも大切で、どちらも好きなんだと。
そのバーのマスターから、老紳士Oさんをご紹介いただいたのは、いまから8年前。まだ私が、ウィスキーの味を覚え始めたばかりの頃だった。

マティーニを2杯。それが、Oさんの中で決めていた流儀だった。必ず、マティーニは2杯。
「マティーニは、女性のおっぱいと一緒。1杯ではちょっと物足りない。でも3杯だと少し多くて、私には酔っ払ってしまう量です。2杯がちょうどいい。人生には、その、”ちょうど良さ“ってものが、あるんですよね。」
そう言って、笑った。

Oさんは、人生の長い時間を、ただまじめに、ひたむきに仕事に注ぎ、世界中を飛び回り、懸命に走ってこられた。仕事を愛し、妻を愛し、家族を愛し、そして、こよなく酒を愛していた。たまたまOさんとカウンターで隣になり、話をするうちにOさんの様々な経験からくる魅力的な言葉に接して感銘を受けたお客さんが、たくさんいる。
そのOさんが、2010年の春に定年でお仕事を退職された。

「仕事帰りに来れたんだけれども、今度からはここに飲みにくる理由を探さなきゃいけませんね。仕事辞めてしょっちゅう飲んでたら妻に怒られてしまいますから」

そうやさしい笑顔をたたえながらおっしゃった後も、Oさんは月に数回、お店にいらっしゃっては、変わらずマティーニを2杯、飲んで帰った。
それが、その年の7月にお会いしたのを最後に、ぷっつりとお顔を見せに来なくなってしまった。

最初のうちは、退職されてから、ご自宅のことやら何かと忙しいので、また落ち着かれた頃にふらりといらっしゃるだろうと思っていた。とはいうものの、ひと月に1度も来なかったことは、それまでの3年間で1度もなかったことだったので、何かあったのではないか?と、心のどこかで心配していた。

12月が過ぎ、年を越して1月、2月…。バーの2周年のパーティにはお越しになるかもしれないと思い、マスターが連絡をとってみたのだが、お返事はなかった。

「4月に世界旅行をするんですよ。船でね。これが楽しみでね。ずっと行きたかった。僕の夢です。家内ですか?一緒に行ってくれないんで、僕は1人で行きますよ」
そう話してくださったのが、その前の年の夏。
4月になり、「Oさんはもう旅立っただろうか・・・」「しかし、旅立つ前には、必ずここに来てくれるはずだ。いらっしゃらないということは何かあったんではないだろうか・・・・」と、ことあるごとにOさんを思い出し、もしくは・・・、と心配が募ることが多くなった。

そして、いまから3年半前。Oさんがバーに来た。はじめて、奥様と御一緒に。

久しぶりにお会いするOさんは、とても痩せられていて、すぐに何かあったのだと悟った。
カウンターに座られたOさんはほとんど話すことなく、こちらからの語りかけには、奥様が応対した。それもそのはずで、Oさんは前の年の秋に、脳梗塞で倒れていたのだ。

倒れたのが幸いご自宅だったので、奥様がすぐに病院に連れて行くことができ、一命を取り留めた。しかし、その時の後遺症で障害が残ってしまい、まだ言葉がちゃんと話せないのだという。大変なことがあったのだと聞き、それでも、命があって本当によかったと、心から安堵した。

Oさんの言葉はとぎれとぎれではあったが、なんとかお話できるようで、手話を交えながらお話した。しかし、最初のうちはほとんどまったくと言っていいほど、言葉が出なかったのだという。

「自分でも記憶をたどって言葉にするのだけれど、言葉が出せないの。でもね、年が明けて少しずつ話せるようになったときにね、このお店のことだけは覚えていて、ここに行きたいって言うの。」
そう奥様が言うと、Oさんははにかんで笑うのだ。

「今日はね、この人、本当は1人で行くって言ってたの。カレンダーに丸がしてあって、【18時~19時 八重洲】って書いてあったから、行くの??って聞いたら、うんって言うの。でも、危ないじゃない?だから今回だけは一緒にねって、2人で来たんです。」

涙が出そうになった。

マスターの「お酒は大丈夫ですか?」との問いに、奥様が
「ワインなら二杯。日本酒なら一合までは大丈夫です」と答えた。
「何を飲みますか?」と聞くと、今度はOさんが小さい声で
『・・・マティーニを・・・』。

では、1杯だけ、とマスターは準備をはじめた。

作っている間、色々な想いがマスターの胸を駆け巡った。そんな命に係わる大変な状況になって、手繰り寄せるように遠のく記憶と言葉を拾う中で、この店のことを覚えていてくれて、ここに来たいと願い、いらしてくれたOさんの想い。この1杯に魂を込められるなら、この1杯を飲むOさんが全身で求めた、かけがえのない時間を差し上げることができるのであれば・・・マスターは、本当に自分の持てる魂を精いっぱい込めた。

「どうぞ。」

差し出したマティーニを一口飲み、Oさんは、ぐっと眼を閉じられた。眼を開けたその時のOさんの顔を、マスターは一生忘れない、という。一生、忘れることはないと。

目に涙を一杯にためて、Oさんは、言葉にならない言葉を眼で語られた。
『またここのマティーニが飲めて良かった。』『生きて、帰ってきて、またここにこられて良かった。』

そんな安堵と嬉しさで感無量の表情を、マスターはずっと、ずっと見つめていた。これほどバーテンダー冥利に尽きると思った日はない。これほどまでに、この仕事をしていて良かったと心から思った日はなかった、と。
死の淵から生還し、どうしてもまた飲みたいと思う酒がある。また飲みに行きたい場所がある。誰かの魂を癒す時間を提供できることがバーの目指す形だとするならば、まさにこの瞬間が今であり、その魂を救う1杯があるとすれば、この1杯のマティーニがそれだと、マスターは確信した。
美味しそうに1杯を飲み終わったOさんは、ジェスチャーで

『もう一杯』

「もうだめよ。」そう奥様に言われても、

『もう一杯』

「仕方ないですね。楽しみにしていましたもんね。それじゃ、本当に最後ね。」
奥さんがそう言ってくださり、マスターは2杯目のマティーニを作った。美味しそうに2杯目のマティーニをゆっくりと飲み、Oさんは帰って行った。ゆっくりとした語り口で、

『次はいつも通り”いってきます“をして、私1人で来ます』と。

3年半たった今、まだOさんはバーにいらっしゃっていない。「いってきます」の一言を約束できないまま、それでもきっと懸命に生きよう、また八重洲のバーに1人で行こうと想い続けておられるであろうOさんのことを思い出すたび、私は2つのキャッチコピーを頭の中でそらんじる。

人生の長い時間を、ただまじめに、ひたむきに仕事に注ぎ、仕事を愛し、妻を愛し、家族を愛し、数えきれない「いってきます」と「ただいま」を繰り返し、そしてその2つの言葉の間にあるバーカウンターで、こよなく愛した酒とともに、濃厚で幸せな時間を重ねたOさん。「ただいま」と「いってきます」の間にある家族との時間と、「いってきます」と「ただいま」の間に傾けるバーのグラスからもらう時間の両方を、心の底から大切に愛し続けたOさん。

キャッチコピーは、時として人の心の中にある情念を、その人生をかけて描いてきたドラマを、たった一言の短い言葉で掘り起こす力を持つことがあると思う。その一言が、様々な人の内側にある「言ってほしかったこと」の芯を食えば食うほど、そこから人の本質があふれ出してくる。少なくとも私は、2つのキャッチコピーから、バーのマスター、そこで出会ったOさんや友人、そして飲み干したたくさんの酒たちからもらった時間が、どれだけの意味を持って自分の人生を豊かにしてくれているかに気付くことができ、それを語る言葉を得た。

だから私は、「いってきます」と「ただいま」の間にあるバーのカウンターにいて、Oさんを待つ。2つのキャッチコピーが教えてくれたこの話を、2杯のマティーニを飲みながら、Oさんとゆっくり語る時間をもらうために。

 

審査委員特別賞 「ウィンナー先生の教訓」        大阪府箕面市 岡田 久留美

それは、あまりにも感覚的なポスターだった。「パリッ」という音が彩られた文字で次々とウインナーから溢れだしている、それ以外に何の言葉もないポスターだった。私は、しばらく見とれてしまった。ウインナーにはこんなきらきらした音楽が詰まっているのか、と。それはポスターなのにリズムが躍る、まるで音楽のように私には感じられた。
いつも通る梅田のトラベルカフェの前に貼ってあったシャウエッセンのポスターで、何年間もその前を通っているのに初めて足を止めた瞬間だった。
なぜ、私がこれほどまでにそのポスターに魅了されたのか。人生で初めてウインナーという存在に好奇心をそそられたからであろう。私は、20と数年生きてきて、一度もウインナーを口にすることがなかった。もちろん目にすることは多々あったが、手を伸ばすことはなかった。そもそもウインナーやベーコンといった加工肉が食卓に上ることがなく、なぜかウインナーは遠い存在であり続けた。そのポスターはそんな私の想像力をかきたてた。きっと、このパリって言うのは皮がはじける時の音なのだろう、こんなに色んな色で色んな文字で描かれているということは、一言では表せない味なのだろう。勢いさえ感じられる、もしかしたらポップコーンみたいな感じなのかも、いやでもみずみずしさも感じられる、きっとかじった瞬間にアブラが吹き出すのだろう。私は今この究極に感覚が研ぎ澄まされている間にウインナーを経験しなくては、とカフェに飛び込み、6本入りのウインナーの小皿を注文した。運ばれてきた湯気を放つウインナーは、まさにポスターそのものだった。口に運ぶと熱さと共にパリッという音がほとばしった。一流のオーケストラの演奏が目の前で始まったときのような、幸せな音楽に包まれた気持ちになった。ポスターに描かれた表現が頭の中、口の中いっぱいに広がった。このウインナーとの出会いに、私の心は感謝でいっぱいだった。言葉でなく、感覚に訴え想像力を掻き立てられる広告に出会ったのは初めてだった。広告会社という存在を知る前から暇つぶしに街中や駅前の広告を見るのが子どもの頃から好きだったが、そんな広告は一度も見たことがなかった。
そして、私は「食わず嫌い」のもったいなさを身に沁みて感じた。なぜ今までウインナーを食べてこなかったのか、悔しくてたまらなかった。いや、食べ物の話だけでない。私達は普段から、なんとなく苦手な人や変わった人と話すことを避け、仲良しグループの心地よさに甘んじてしまう。いつも同じブランドで買い物をしたり、いつも同じ店で食事をしたり、行動パターンが一定に落ち着いてしまっている。忙しい毎日で冒険ばかりしていられない、私だけの話ではないだろう。しかし日常にも、ウインナーのような「感動」が潜んでいる。そんな感動を平気で見落としてしまっていることがもったいない。もっともっと、今はまだ気付いていない驚きや不思議や感動が日常に転がっているに違いない。あのウインナーのポスターが、私にそう教えてくれた。まさにウインナーは私の人生の教訓である。今、私は少し早めに起きていつもと違う場所で予習してみたり、ちょっと学校まで遠回りしてみたり、隠れている感動を見つける宝探しみたいな人生を目標に少しずつ冒険に踏み出そうとしている最中である。いつもそんなに心に余裕は持てる自信はないが、行き詰まったり焦りを感じた時は、またあのカフェでウインナーをかじりあのポスターのくれた感動にふけってみようと思う。

 

審査講評 111篇のエッセイが語る多様なライフスタイルとその変遷       審査委員長・協会理事 植條則夫

一、エッセイから暮らしが見える。広告が見える。
日本では昔から月日の経つさまを、『光陰矢のごとし』とか、『十年一日』など、様々にたとえられてきた。もちろん、この言葉は他にも色々の意味に使われたりもしているが、OAAAのエッセイ募集も早いもので第10回、10年ひと昔を迎えた。いずれにせよ、この間、広告を取り巻く世界も、政治、経済、文化など、多岐にわたる状況下で大きな変貌を遂げており、それがこの広告エッセイにも反映されてきたことは言うまでもない。

二、広告人の10年にわたる吐息と感動
広告に携わるクリエイターなら、誰しも経験することだろうが、広告とエッセイはどちらがつくるのが難しいかと時々たずねられる。私などは『そんなものはどっちだって同じだよ』と答えることにしているが、しかしよく考えてみると、文章だけでひとつの世界を構築する文学としてのエッセイと、広告目標を設定し、それを文字(コピー)にするだけでなく、視覚的要素などあらゆる芸術的手段を駆使して創りあげる広告作品(テレビCMなど)とでは、比較にならないほどの違いが存在していることは事実である。
ここではその違いを指摘することは目的ではないので書き控えさせていただくが、エッセイは文字通り文章のみで作品を構成する文学的作業であるのに対し、広告は、中でもテレビCMなどは、音楽や映像など、あらゆる創作技術を駆使して完成させる。言うならば総合芸術のような性格があり、その制作には予想を超える経費と労力を伴うことだけは事実である。

三、111篇のエッセイが語るもの
去る11月30日に締め切られた記念すべき第10回の広告エッセイ大賞の応募には、全体で111篇のエッセイが寄せられた。昨年は71点、一昨年は42点であったから大幅に作品数はアップしたことになる。その内容も男性が56人、女性が55人とほぼ同数であり、その他、学生の47人、無職の19人、会員社の11人、会社員の7人のほか、パート、アルバイト、主婦、公務員、自営など多様な方々からの応募をいただいた。その年齢をみても、60代が33人、20代が32人、10代が17人、40代が14人と各世代からのエッセイが応募されている。ただ、50代が8人、30代が6人と他の世代からすると少ないように思われるが、働き盛りゆえかエッセイまで手が回らなかったのかもしれない。

審査会では、次の各作品が選出された。
大賞(賞状と副賞20万円)
『いつかきっとできるまで』     平松 淳枝 氏

優秀賞(賞状と副賞5万円)
『愛を伝えるモノ。』     畑岡 優佑 氏
『忘れられないCM』     高橋 浩治 氏
『最高の手紙』     宮川 勉 氏
『道標』     星加 有梨 氏(学生)
『1%の成功のために』     吉武 果耶 氏(学生)
『This is my life 』     神野 千代 氏
『不動明王様、これ私の都合ですが…』     三好 可代子 氏
『「いってきます」と「ただいま」の間にもらった時間』     久下 尋厚 氏

審査委員特別賞(賞状と副賞10万円)
『ウインナー先生の教訓』     岡田 久留美 氏(応募時学生)

これらの入賞者のうち、今回、大賞受賞の平松淳枝氏は、かつて優秀賞の受賞者でもあるし、今回優秀賞の久下尋厚氏も、同じく優秀賞を獲得されたことのあるエッセイストである。
さて、今までの広告エッセイ大賞の選定では、個々のエッセイに関して、多数の選者の作品に対する推薦や批判など、様々の視点から検討や評価を経て、最終的な入賞の賛否を決定させていただいた。それは前回も同様ではあるが、今回はなにしろ111篇という多数の応募エッセイの中から、大賞をはじめ入賞作品を決定する必要があったため、審査をお願いした委員の方々には、大変なご苦労をおかけした次第である。
特に今回ご応募いただいたそれぞれのエッセイには、作者の熱い想いが感じられ、そのテーマや表現手法など、読む人の心を打つエッセイとしての内容と表現手法をそなえた力作が多かったため、評価もまた、今まで以上にご苦労をおかけしたのではなかろうか。
そんな中でも、平松淳枝氏のエッセイ『いつかきっとできるまで』は、各審査委員から広く高い評価を得て大賞を獲得した。
また、審査委員特別賞に輝いた岡田久留美氏の『ウインナー先生の教訓』をはじめ、優秀賞を獲得した各エッセイストの入賞作も、読者の心に伝わってくる秀作であった。
そして岡田氏もそうであったが(現在は、既に就職)、今回募集時に「学生の部」を要項に加え、学生の応募促進・別途評価を意図したのだが、期待した以上に学生の応募が有り、通常の選考基準のままでも学生の方が3名入賞し、いずれも秀作だったことから、敢えて「学生の部」を併設して表彰する必要はないとして、表記はするものの優秀賞内に収容して表彰させていただいた。

四、10年間の広告エッセイ応募数757篇
それではここで、スタート時から今日まで、10年間の『広告』に焦点を当てたエッセイの応募状況を紹介していくことにしよう。
言うまでもないことだが、当時は『広告エッセイ』などという概念は、まったく一般化しておらず、その定義や表現形式など、具体的な作品なども、ほとんど存在していなかったように思われる。つまり、広告とエッセイ(随筆)があまりにも離れすぎていて、『広告エッセイ』などというふたつの領域を合体した概念やジャンルを理解するには、かなりの勇気と決断が必要ではなかったかとも推測されるのである。
別の見方をすれば、当時の広告は、素材としてもエッセイ(文学)の領域に入り込むほどの一般的理解が整っていなかったとみた方が正しいのかもしれない。
しかし、のちに明治の文豪と言われるようになった何人かの作家たちは、無名の時代は今でいうコピー(当時は広告文案と言った)などを書いて生活をしのいでいたとも言われている。
次のデータは、10年間における各年度のエッセイの応募数である。

回数             年度         応募エッセイ数
第1回         2006年           63
第2回         2007年           68
第3回         2008年           90
第4回         2009年           88
第5回         2010年         101
第6回         2011年           53
第7回         2012年           69
第8回         2013年           42
第9回         2014年           71
第10回       2015年         111

五、むすび
今日の広告はかつての広告と違って、消費者(生活者)の暮らしや地域社会にとっても不可欠な情報提供をしており、暮らしの文化や地域社会になくてはならない存在として機能し続けることが必須条件となっている。したがって広告自体の機能や役割も、ものを売り込むだけを目標とした古き時代の宣伝と違って、生活文化を創造すると共に、地域社会を支える情報提供者として、多様な機能を分担していることは10年にわたるOAAA広告エッセイ大賞の入賞作品からも充分理解できるところである。また、その主張などにも同時代を生きる生活者として賛同できる側面が多々あったように思われる。
特に直近の第10回は、それぞれの人生の貴重な体験や暮らしの記録が、作品を通して表現されており、読む人に大きな感動を与えていただいたことに、審査委員の方々と共に私も心から感謝を申し述べねばと考えている。ご応募いただいた皆さま、いつまでもエッセイストとしての若々しい心を忘れずにお元気で、ありがとうございました。
(エッセイスト・関西大学名誉教授・社会学博士)

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