第8回広告エッセイ大賞受賞作品

大賞 「心のカルテ」      大阪府寝屋川市 橘 美咲

「お家に帰っても、ちゃんとお薬は飲んで下さいね。無理はしないで下さいよ。良かったですね。おめでとうございます。お大事に。」
笑顔で退院して行かれる患者さんとそのご家族に向かって私がこれまで何度となくかけてきた言葉である。ありがとうございました、と頭を下げてお帰りになる患者さんの後姿を見送りながら、さぁ、次に入院して来られる患者さんの看護計画はどうしようか、と早くも私の頭の中は目まぐるしく回転していた。
産休と子育ての時期を除いても、私の看護師歴はかれこれ二十有余年が過ぎようとしている。共働きである主人とは全く波風立てずに、とはいえないけれど、家事などはお互いにカバーしながら、そして何よりも三人の子供達の協力があって、今まで何とか看護師としてやって来れたように思う。
全国の看護学校では卒業式の時にナイチンゲール誓詞という看護師になる誓いの儀式を行う所が多い。
看護学校では今も昔もほぼ変わらない儀式だ。
ナイチンゲール誓詞は、「我はここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わん」という言葉から始まる、近代看護師の母といわれたフローレンス・ナイチンゲールの看護精神を誓うもので、看護師となって一番最初に感激する厳粛な儀式である。しかしそのナイチンゲール誓詞で誓った割には、私の看護学生時代は初めての病院実習で失敗の連続だった。患者さんの湯飲みを洗おうとして割ってしまったり、血管の細い患者さんに点滴の針がなかなか入らず、何度もやり直しをしたりで、実習の期間中は散々な出来だった。
看護師免許を取得したばかりの新米時代にもその負の連鎖は続き、医師や上司によく叱られては落ち込み、毎日が緊張の連続だった。だけどそんな私を多くの患者さんやその家族、そして職場の仲間が温かく見守ってくれた。
「気にせんでええからな。頑張りや。」
「夜遅くまで、ほんまにご苦労さんやね。」
心が折れそうになった時、そんな励ましの言葉をかけてもらって、これまで何度助けられてきたことだろう。そして今、ベテランと呼ばれる身となって、かつての私のような後輩を指導する立場になった。そんな中で分かったことがあるとすれば、病院という場所はどんなに時代が変わろうとも、悲喜こもごもな感情が交差するという事実だ。
冒頭に記したように治癒して退院される患者さんの笑顔は清々しい。療法室で懸命にリハビリに取り組む患者さんの状態が少しでも上向けば私達も一緒になって喜ぶことができるし、食べられなかった患者さんが完食できた時の笑顔を見る時は私達も笑顔になれる。つまりこれが「悲喜」のうちの「喜」だろう。
だが病院という場所は、もうひとつの「悲」の部分の方が圧倒的に大きいということが現実なのである。
長い闘病生活の後に逝かれる方、重症の手術の甲斐なく逝かれる方。そしてその患者さんの数以上に、悲嘆にくれるご家族がおられるという現実もある。
あれはいつの頃の看護だっただろう。三十代の若いご夫婦で小学生の息子さんを連れた素敵な三人のご家族がいた。奥様がある病気を発症されて個室に入院されたのだが、私が検温に行くといつも家族三人で笑い合っておられるような、端で見ていてもとても仲の良い、誰もが羨む本当に幸せそうなご家族だった。
「退院したらママを温泉旅行に連れて行くからね、三人で行こうね。」息子さんが張り切ってそういっておられたのを微笑ましく感じていた。
「じゃぁ、頑張らないといけませんね。」私の言葉にママも強く頷いて、ふわっとした花のような笑顔を返されたことを今も思い出す。
ある夜。ご主人が個室を出た廊下の端にある待合室の椅子に座って啜り泣く姿があった。
それは奥様の余命が一年もないということが医師から検査結果で知らされた日だった。個室からは息子さんとママの笑い声が聞こえている。ご主人は耐えきれず、廊下に出て一人で泣いておられたのだった。
医療従事者は看護や介護、医療のプロだ。治癒のために時には患者さんへ厳しい治療方法なども告げるし、ご家族を励ますケアをすることもある。しかしあの時、私は一体あのご主人に何が言えただろう。そっとその場を離れることしかできなかった。その後、奥様は他の病院に転院され、私はあのご家族がどうなったかを知るよしはなかったが、これは病院での「悲」の部分のほんの一例である。
長年、病院でそんな「悲」に接していると、ふと人生の終わり方、儚ささえ感じることがある。看護師といえども感情のある人間だし、自分の目の前に死があれば、医療従事者の宿命ともいうべき「代理被害」という後悔や懺悔の気持ちが芽生える時もある。また、患者さんに最善の看護を尽くすには一体どうすればよいのか、というテーマを、更に後進に伝えるのに最も良い方法はどこにあるのか、どうすればそのことを心から伝えられるのか、と日々懊悩する時が最近は特に多くなった。
そんな時、私は目が覚めるような感覚をもらった。まさに「もらった」という感覚だったのだ。それは一昨年に公開された、ある映画のキャッチ・コピーの言葉からだった。

その映画というのが夏川草介原作で櫻井翔と宮崎あおいが出演した「神様のカルテ」という医療の世界を舞台にした作品だった。
最近の医療に関するテレビドラマや映画は取材がとても充実していると思う。病名の解説はもとより、ドクターや救急隊、看護師が交わす医療用語、患者さんやその家族の心理描写に至るまで相当の長期間にわたって専門家の意見を取り入れて編集していることが、私達看護師が見ていてもよく伝わってくる。原作者の夏川草介が現役の医師だという「神様のカルテ」もまさにそんな作品だった。
仕事が休みの平日。普段なら子供達としか映画館に行かない私は手に取った新聞の映画案内欄を眺めているうちに「神様のカルテ」という題名に眼が吸い寄せられた。その映画には事前に何の予備知識もなかったが、カルテと書いてある以上、何か医療関係の映画かも知れないと考えて足を運んでみたのだった。
ウイークデーの映画館は空いていてゆっくり観ることができた。観客は女性が多く、ひょっとしたら私のように現役の看護師かも知れないと思わせるような女性もいた。映画の内容は私が思った通り、最近の医療業界のことをよく調べていて、観た後でも余韻が残るとても良い映画だった。映画の詳しいあらすじは省くが癌治療がテーマの作品で、その癌患者を演じた加賀まり子の熱演が光っていた。
私が映画の中で目が覚めるような感覚をもらった、といったのは、そのキャッチ・コピーだった。それは、
―『心は、きっと救える』―
という、とてもシンプルだけど今の私の心にすーっと入ってきて胸に響く言葉だった。    長い間、看護の現場にいて、次から次に入院して来られる患者さんの外面ばかりを私は見ていなかったか。患者さんの不安や恐怖、心細さなど内面に配意した看護を私は尽くしていただろうか。治療方法を心配する患者さんの家族に不安を払拭させる説明を尽くせていただろうか。映画を観終わって家に帰ってからもそのキャッチ・コピーは私の頭から離れなかった。思わずペンを取り、そして白紙に書きつけた。「心は、きっと救える。」その紙を冷蔵庫にマグネットで貼りつけておいた。お守りにしようと思ったのだ。
その翌日。私が仕事から帰ると小学五年生の娘が、貼りつけた紙をマグネットから外して手に持ち、私の前にかざして、母ちゃん、これ、何?と聞いてきた。
「これ?お守りやねん。元に置いといてや。」
ふーん、と怪訝な顔をする娘。そして、
「これ、『心が重い』っていう意味やな?」
娘は元に戻した紙を指さす。心が重い?今度は私の方が意味が分からなかった。何で?何で心が重いの?
と尋ねた。すると娘がいう。
「これ、『心は、』って『、』が書いてあるやん。点が付いているから読む時に一回切るんやで。」
改めて分かったことだがこのキャッチ・コピーには確かに心という字の次に点が付いていた。だが心が重いという娘の言葉の意味が分からない私はまた娘の次の言葉を待った。

「考えてみぃ。『心はきっと救える』やったらスラスラって言えるけど言葉の響きが軽いやろ?でも、これ、『心は、』で一回切るんや。
ということは『心』っていう意味は、とても重いっていうことやねんで。」

二重の感動。その時の私の感情はまさにそんな感じだった。そして我が娘ながら凄いと思った。そういえば娘は最近、国語では文法の成績がとても良くなっていた。
あんたは凄いなぁ、賢いなぁ、と娘の頭を撫でながら、私は頭の中で『心は、きっと救える』と、一度、区切って呟いていた。
そうだ、救うための心は重い。だけど人の心は救わなくてはいけない。そして人の心を救うためには看護の力量と自分自身の真心もいる。その時、はっと思い出した。それはナイチンゲール誓詞の最期の章の言葉だった。
「我は心から医師を助け、我が手に託されたる人々の幸のために身を捧げん。」
誓詞の最後にも「心」という文字がある。医師の治療方法を心から助け、患者さんの幸せのために心から奉仕する。娘の言葉で看護師になった頃の初心を思い出すことができた。
思いがけず出会った映画広告のキャッチ・コピー。子供に教えられた心の重さ。誓詞の中にあった心の意味。この三つのことから、
―『心のカルテ』―
ふいにそんな言葉が浮かんだ。神様のカルテまでには程遠すぎる。だけど私の心の中だけにあるオリジナルのカルテなら書ける。思わず息を吸い込んだ。心のカルテ。この言葉をもう一度胸に深く刻もうと思った。

優秀賞 「ポパイとプリンアラモード」             大阪府枚方市 上田 ヒロミ

今から五十数年、昔のことである。
まだ幼かった妹と弟は、テレビ漫画の「ポパイ」より、そのコマーシャルを食い入るように眺めていた。

当時、私は十八歳で就職し、妹が十歳、弟は六歳だった。
そのころ、週に一度、ちょうど夕食時の7時ごろ、テレビでポパイの漫画が始まる。
本編の漫画が始まると妹と弟は「チラッ」とだけテレビに目を向けて食事をするが、コマーシャルが始まると、とたんに箸が止まる。ポパイのスポンサーは、ペコちゃん、ポコちゃんでおなじみの「不二家」だった。
テレビ画面に映る不二家のコマーシャルは、「パフェ」「アイスクリーム」イチゴがのった「ショートケーキ」「プリンアラモード」など、それらは、とても美味しそうに映し出される。幼い二人は、ポパイの漫画より、不二家のコマーシャルのほうに興味があった。
「あの店に行きたいなぁ」と妹が。
「あのプリンアーモ、僕も食べたいなぁ」
まだ口の回らぬ弟も、とても切ない声で。
私が小さかった時は、「あれを食べてみたい」などと言うと「卑しいことを言うな」と親にとても叱られた。
妹と弟には親も、もう、そういう叱り方はしなかった。
「いつか、連れていくから」と、その場しのぎで幼い子供をなだめていた。

当時は、まだ白黒テレビだったが、今、思い返すと、映っていたケーキ類は、まるでカラーテレビで見ていたような感覚がある。
イチゴの赤、ホイップクリームの白、プリンの黄、メロンの緑など全部、想像できた。
小さい妹と弟が、毎週、不二家のコマーシャルを見るたびに「行ってみたい」とくりかえすのを、私は充分に解ってやれた。
私の住む町は、大阪の隣町で、そんなに田舎では無かったが家の近くに「不二家パーラー」は見当たらなかった。だが、私の勤める事務所のすぐ近くに、それはあった。
大阪、梅田新道、交差点を東に入ったところに事務所があり、その交差点の南西の角に「不二家フルーツパーラー」がある。

私は、給料のほとんどを親に預け、ほんの少額の現金を、お小遣いとして持っていた。
「次のお給料をもらったら『不二家』に連れて行ってあげる」と告げた時の、大喜びして茶の間で転げまわった妹、弟の姿を、今も思い出すことができる。

よそ行きの服装で、電車に乗り、緊張した二人が、不二家のテーブル席に着いた。
「何でも好きなものを注文しなさい」
私は姉らしく大ように言ってメニューを見せた。二人は熱心にメニューを見て、結局「これ」と指差したのは、テレビコマーシャルで何度も見た、あの憧れの、『プリンアラモード』だった。
私も本当は同じものを注文したかったが、十歳以上も年の離れた二人と同じものを食べるのが恥ずかしいような気がして、少し格好をつけ、レモンティーを注文したように記憶する。
二人は嬉しそうに何度も顔を見合わせ、アラモードを平らげた。おみやげにアイスクリームを買い、電車の中で、はしゃいで歌いだしそうな二人を注意しながら帰宅した。
両親は、二人がまだ興奮しながら報告するのを聞いて「そうか、良かったな」と嬉しそうだった。その両親を見て、私も長女らしいことができたと満足した。
その日から、二ヶ月くらいはお小遣いのやりくりに四苦八苦したが、また、連れて行ってやりたいと心から思った。

そのあと、不二家のコマーシャルを見るたびに弟は、
「僕の食べたプリンアーモが映ってるよ」といちいち家族を呼びに来た。

時は移ろい、その弟も、還暦に手が届くような歳になり、妹は、還暦を迎えることもなく、鬼籍に入ってしまった。
そして、梅田新道、交差点角にあった不二家は、現在、その跡形もない。

あの時の、不二家のテレビコマーシャルを思い出すと、五十数年前の、まだ両親も健在だった、賑やかな実家の茶の間が目に浮かぶ。そして今、七十歳になった私は、少し切なさの入り混じった思いで、当時を懐かしんでいる。

優秀賞 「弁当と娘、時々ダンナ」             大阪府吹田市 石田 典子

はじめまして。
四十六歳、主婦です。
主婦ですがフルタイムで仕事もしています。こんなことを言ったら会社に怒られそうですが、会社の仕事より主婦の仕事の方が、私の中の仕事割合が多いです。
それだけ、うちの家族って手のかかる奴ばかりなんです。
特に手がかかるのが、十六歳、高校1年の娘です。
コイツが、どうにもこうにもできない愚娘で、お手伝いどころか、縦の物を横にもしない。
あげくに縦の物が横で何が悪いんだと言わんばかりの口答えをする。
「ムカツク!」というのは、こういうヤツのことを言うのか、と実感しています。
でもね、こんな娘でも、昔は素直で可愛い子だったんですよ。
幼稚園ほどの時だったか、私が「しんどい」と言って寝ていたら「えほん、よんであげるね」と言い、寝ている私の枕元で絵本を読んでくれたりしたんです。

そんな可愛かった子は、いったいどこにいったのやら。
それでも、そんな娘の為に私は、毎朝、毎朝、お弁当を作ってやっているんです。

4年ほど前に、娘に中学受験なんぞをさせまして、娘は、吹田から京都まで片道1時間半の道のりを通学しています。
朝は、6時40分に家を出て駅に向かっています。
その話をすると、たいていの人は、
「え?!朝早くから、かわいそうに」
とか、
「娘さん、頑張ってるんやね。えらいね」
とか言われます。

でもね、でもね、
6時30分に起きて、用意されている朝食を適当に食べて、顔も洗ってるのかどうかわからない状態で、とにかく起きて10分程で出かけて行く娘より、偉いのは、この私ですよ!

娘が6時40分に出かけるということは、私は、その1時間前の5時半に起きて、お弁当を作って、朝食も用意しているわけですから。
最近なんかは、旦那が、職場が変わって6時に家を出て行くんで、私は5時に起きて作ってるんですよ!
(あ、旦那もお弁当を持って行っています。)
5時ってね、冬場は真っ暗。正直、まだ夜中ですよ。

それなのに誰も褒めてくれない?とクサッている私を見て、職場の先輩が勧めてくれたんです。
「一昨年のACC CM FESTIVAL の入賞作品で 東京ガスのテレビCMを見てごらん。感動するよ。泣くかも」って。
すぐにネットのYou Tubeで見ました。

会話が少なくなった高校生の息子に、毎日お弁当を作る母。メールのようにメッセージを込めて。
テストの点が悪い時にはカツ弁で「喝」とか、彼女との2ショットを目撃しちゃったらハート弁当で「祝」とか。野菜たっぷりで「野菜も食べなさい」や、焼き鮭だけで「ごめん、寝坊した」など。
3年間作り続けた最後の日に、戻された空のお弁当箱を開けたら「ありがとう」と息子からのメモが入っていた。
というCMでした。

見終えた私から出たのは
「うっ・・・」と
感動の涙ではなく、

「うっ・・・、うらやましい!」
の一言でした。

私も、ありがとうって言われてみたい。
メモでも、何でもいいから。
「ありがとう」は、無理だとしても
「美味しかった」でもいい。言われてみたい。

そこで、前の晩から仕込みをして、いつもの3倍ほど頑張って、2人それぞれの好きな物ばかりを作り、東京ガスのCMにある「好物ベスト3弁当」になぞらえた好物たくさん弁当を作って持たせました。

帰って来た娘に
「ねえねえ、お弁当、どうやった?」
と尋ねると
「・・・・別に」
との答え。
「別にって、どういうことよ。美味しかったかどうかを訊いてるのに、別にって答えはおかしくない?」
(バタン!)
部屋のドアを閉められた!クソーー!」
(ピンポーン)
あ、旦那が帰って来た。
「ねえねえ、お弁当、どうやった?」
と尋ねると
「美味しかったよ」
って。 「でしょでしょ(嬉しい)。どれが一番おいしかった?」
ともう少し訊いたら
「ん、全部」
との答え。
「全部の中でも、特にどれが良かった?」
と突っ込んで訊いたら、
「全部って言ったら、全部や」
それって、要するに何を食べたか覚えてないってことやんか。(怒!)

結局、
誰も褒めてくれない。
誰も感謝してくれない。
むなしい・・・。

それでも、毎朝、毎朝、早起きしてお弁当を作り続けています。
いつか、『ありがとう』のメモがお弁当箱に入っている日を待ちわびて。

優秀賞 「携帯電話の無かった頃」             大阪府茨木市 曽我 節子

40年ほど前の12月、私は阪急梅田駅で夕方6時半頃、会社帰りの夫と待ち合わせをしていた。
クリスマス前ということもあって、駅周辺はイルミネーションも華やかで、かなり人が多かった。
待つこと30分、仕事が終わらないのか、なかなか夫は来ない。目まぐるしく行き交う人を見ながら待っていると、一人の若い女性が私の前に立った。
頭を下げ、手を合わせるような仕草で、その女性は一枚の紙片を私に差し出した。
「私はキエと言います。話すことができません。友達と会ったので食事をして帰ります。帰りが遅くなると家に電話をしてほしのです。お願いします。」
その横に電話番号が書いてあり、十円玉を4枚渡された。
キエさんと二人の友達は、不安そうに私の顔を見つめる。その女性達も、同じ障害を持つ仲間だろうか。
見ず知らずの他人に声を掛けるのは、勇気のいることだろう。まして家に電話をして欲しいと頼むのは大変だったと思う。断わる人もいたかも知れない。
当時、改札口付近には赤い公衆電話が何台も並んでいた。私は十円玉を受け取り、メモを見ながらダイヤルを回した。
呼び出し音のあと、キエさんのお母さんらしき人が電話に出た。
「私は、キエさんに頼まれて電話をしています。今から、お友達と食事をして帰りが遅くなるそうですが、ご心配されませんように」「娘がお世話をおかけして申し訳ございません。お電話をかけて下さって本当に有難うございました」
キエさんのお母さんが電話口で何度も頭を下げておられるのが見えるように伝わった。
私は、キエさんに指を丸めてO・Kの合図をしながら、残りの十円玉を返した。
キエさんは、声にならない声で「ありがとう」と言い、私の手を握り嬉しそうだった。
うしろで一緒に待っていた友人達と、手話でそれは楽しそうに会話しながら歩き出した。踊るような指先、弾けるような笑顔が輝いてとても素敵だった。ふとキエさんが振り返ってペコリと頭を下げる。私は手を振った。キエさんと友人達も手を振りながら雑踏の中に紛れて見えなくなってしまった。
それから更に30分後、あたふたと夫が到着した。待たされて怒っているはずの私が、何故かにこにこ顔。
訝る夫に、待っている間の出来事を手短に話した。
「遅くなった言い訳を聴く耳も、何でも話せる声が出ることも、当り前だと思っていたことに改めて感謝しているの」そう言う私に、夫は「キエさんのご家族も帰りが遅いと心配で不安だろうから、電話をしてよかったね。僕もお陰で遅刻を叱られずにすんで助かった」と笑った。
携帯電話の無い頃のほんの小さな出来事だったが、今でも忘れられないでいる。

現在は、携帯電話、インターネット等、会話や耳が不自由であってもメールという便利なものがある。
待ち合わせで、時間に遅れたり場所を間違えてもすぐに連絡がとれて本当に有難いと思う。    テレビでの携帯電話、スマートフォンのCMには目を見張るものがある。一度、実物を見たいと思い、ドコモショップに行ってみた。若い女性がにこやかに説明をしてくれる。細く美しい指が次々と画面を動かしてゆく。すぐにスマートフォンに変える勇気もなく、ドコモの広告、機種ラインナップ、サービスカタログを貰って家でゆっくり検討してみた。
〈スマートライフのパートナーへ。〉
キミのそば、夢のとなり。ケータイとしてのサービスから、ひとりひとりの幸せを叶えるパートナーへと進化しますと記されている。
確かにスマートフォンは、電話だけでなくメール、音楽、買物、ゲーム、地図、翻訳とすべての機能が揃っている。果してこれだけの機能を私は使いこなすことができるのだろうか。まさしく夢のとなりである。

若い人の中には、携帯電話やメールを通さなくては、自分の意志が伝えられない人もいるという。携帯依存症というのか、電車の中でも無表情に指だけ動かしてスマートフォンを操作している人達がいる。
本来、会話は人の目を見てするものだと思う。キエさんのことを40年近く経った今も鮮明に覚えているのは、その表情だった。
真剣に物事を頼む目、不安そして安堵の顔。携帯電話のない頃は、確かに不便だったかも知れないが、心が通い合った、目には見えないものが見えた良い時代でもあったように思う。
スマートフォンが進化すればする程、すべてが当り前になり、感動する心を忘れ、無表情な若者達を創り出しているのではないか。
ふとこんな危惧を抱くのは、スマートライフのパートナーになりきれない私の負け惜しみかも知れない。
携帯が無くてはならない今だから、私も努力をしようと思う。機能を使いこなすことでボケ防止にもなるだろう。
テレビのきらびやかなCMを見ながら、若者達だけでなく、団塊の世代をターゲットにした、心にも優しいスマートフォンを進化させて欲しいと願っている。

優秀賞 「ランドセル物語」        大阪府南河内郡 塩見 葉子

今年の夏、東京に住む息子夫婦が、生後9か月の勇樹を連れて帰省した。勇樹は私にとって初孫だ。
赤ん坊の成長はとっても早い。勇樹はすぐ小学校に入学するだろう。その際には、息子のランドセルを勇樹に使ってほしい。
今年、息子が小学校を卒業して20年になる。しかしランドセルは「たったいま友樹(息子)君と一緒に学校から帰って来たよ」という感じで、息子の部屋に置かれている。
息子にこっそり訊いてみた。嫁の益美さんは遠慮をして答えられないと思ったからだ。
「友樹のランドセル、勇樹が使わないかな? まだまだいけるよ」
「それはないよ。バアチャンも、テレビのCMを見て知っているやろ。ランドセルは黒だけの時代とちがうよ。ボクは勇樹に選ばせたいな。益美もそのつもりや」
息子はドライな子だ。言って損をしたが、私の気持ちはおさまらない。
「でもね、あれはおばあちゃんが最高ものを買ってくれたんよ。部屋にあったでしょ?いまでも立派よ。おばあちゃんと一緒に買いに行ったん、覚えてへんの?」
「う?ん、バアチャン、それは断るよ」
「まあ……」
淋しくなって来る。それなのに、飛び入りの夫は無責任なことを言う。
「そりゃそうやな。友樹の言うとおりや。勇樹にはピッカピッカの新品がええのに決まっているやないか。
今の流行はあれや、天使のはねやろ、テレビでやってるな。勇樹の時は、ジイジとバアチャンで奮発するか!」
夫は息子が帰省すると、いっぺんに元気になる。なんでも息子に同調するから、こっちはたまったものじゃない。
夫はランドセルのテレビコマーシャルが大好きだ。毎年可愛い子供のタレントさんが、色とりどりのランドセルを背負って、リズムカルに躍って華やかだ。体操のお兄さんだって出て来て頼もしくなってくる。
新1年生になる子は、早く学校に行きたくなるだろう。そんなコマーシャルを見ている時の夫は、本当に目をほそめながらこう言うのだ。
「ほら、見てみ。こっちまで元気で明るうなるでー、ええなあ」
ほんとにそう思う。可愛いと思う。
だけど私は、そんな華々しいコマーシャルを素直に正面から見ることが出来ない。まぶしすぎて切なくなって来るのだ。
半世紀以上も前のこと。
私は、近所の雅子ちゃんと秀夫君は同じ歳で、同じ保育園に通う仲良しだ。春からそろって小学校に通うのを楽しみにしている。
雅子ちゃんと秀夫君のところは、すでにランドセルを買ってもらっている。雅子ちゃんの家に遊びに行くと、ランドセルを背負って見せてくれる。
ところが、私はまだ。母はランドセルの「ラ」の字も口にしない。私は、ほんとに小学校に行けるのか心配でならなかった。
ようやくランドセルを買ってもらったのは、入学式の数日前だったと思う。私は父と母に連れられ、待ちに待ったランドセルを買いに行った。商店街にあるその店は閉店まぎわで、店のおじさんは、もう少しで大きな引き戸に鍵を掛けるところだ。母は頼みこんだ。
「夜おそい時間にすいませんね、ちょっとこの子のランドセルを見せてもらえますか」
おじさんは気持ちよく店の中へ入れてくれた。赤と黒のランドセルがいくつか壁にかけてある。
おじさんは壁からランドセルをはずしながら、嬢ちゃんの赤はふたつしか残ってまへん、とショーケースの上に置いた。
ひとつはきれいな赤色で、全体にふっくらとして光っている。あとのは、赤色でも濁ったような暗い色だ。それにランドセル全体がぺっちゃんこで、まんなかあたりがとくにへこんでいる。ゲンコツで叩かれたように。
ふたつのランドセルを並べると、優劣の差が歴然だ。もちろんきれいな赤色のふっくらした方が優だ。
父と母は顔を見合わせ、見劣りのする方を買ってくれた。
しかし、やっと買ってもらったランドセルだ。うれしいに決まっている。入学式の前夜、ランドセルを枕元に置いて寝たが、翌日の入学式に出られなかった。麻疹に罹ったのだ。
1週間ほどが過ぎて麻疹が治り、学校に行くとすでに仲良しグループができあがっている。雅子ちゃんと秀夫君はちがうクラスだ。
クラスに友達がいないのは辛い。休み時間に遊ぶ子のいない私は、教室に残っていると、あることに気がついた。クラスのみんなのランドセルは、赤も黒も全部が、店で見たのと同じ優だったのだ。
ある日、隣に座っているあけみちゃんのランドセルのフタ裏が、白くなめらかであることに気づいた。
私のは茶色のぶつぶつだらけだったので、すごいショックを受けたことを、いまでもよく覚えている。
以心伝心ではないが、私の気持ちが背負われているランドセルに伝わったのか、ランドセルは3年しかもたなかった。
3年生の学校帰り、国道26号線の岸里交差点を横断中のことだ。急に背中が風通しよく、軽くなったなあと思ったら、後ろでドサッと音がした。何が起きたのかまったくわからない。頭のなかが真っ白だ。
車のクラクションが鳴る。バイクに乗ったオジサンが「ランドセル落ちたでー」と叫ぶ。お巡りさんが走って来てランドセルを拾ってくれる。
その間、私はランドセルの肩ベルトだけで、国道のまんなかに立っていたことになる。こんなカッコワルイまぬけで悲惨な小学3年生など、ちょっといないだろう。
落ちたランドセルを抱えて家に帰ると、母は何も言わない。その夜、また私は、父と母に連れられ、3年前とちがう店に行き、赤い布製の手提げカバンを買ってもらった。
年月は経ち、私の娘と息子が小学校にあがる時、母は私が止めるのも聞かず、大丸デパートでびっくりするぐらい高額のランドセルを買ってくれた。こう言いながら。
「あの頃は、ぺらぺらのランドセルを買うのが精いっぱいやった。葉子にはワルイことをしてしもた」
母は岸里交差点でランドセルが落ちたことを覚えていたのだ。

勇樹はあと2、3年もすると、ランドセルのテレビコマーシャルを見ながらリズムに乗って、小さい体をくねくねさせながら踊るのだろう。 ?ランランラン天使のはねは?
すっかりお馴染みになったこのフレーズ。
勇樹が小学校にあがる時は、ランランランと私たちジイジとバアチャンは、わざわざ東京まで行って、ランドセルを買うかもしれない。

お願いがあります。
まだまだ活躍できるランドセルを捨てるのは、忍びなくもったいないです。施設や東北地震の被災地の子供たちに使って頂けたら、ランドセルも満足でしょう。しかし、新しい物しか受け付けないとお聞きしますが、そうでしょうか? また再生利用ができるのでしたら、テレビCMの時に、目立つようにその文言を明記していただけたらと思います。

優秀賞 「12年越しの恋」             大阪府大阪市 吹上 洋佑

「ボクは小学生のころ、大恋愛をしていた。相手は幼なじみのさっちゃん。小さくて細くて、小食で小心者で、運動が苦手ですぐに泣いちゃうさっちゃん。綺麗な艶のある黒髪が印象的なさっちゃん。そんなさっちゃんに、動物のカタチをした消しゴムをもらったことがキッカケで、ボクはさっちゃんのことが気になるようになった。そして知れば知るほどさっちゃんのダメなところがわかってきて、そんなさっちゃんをボクは守りたくなった。そして気づけば、さっちゃんに恋をしていた。

でもさっちゃんには、別に好きな人がいた。同級生の大ちゃん。「大ちゃん!大ちゃん!」とさっちゃんは困ったときに、いつも大ちゃんを頼った。ボクはそんな大ちゃんがうらやましかった。大ちゃんにどうしても勝ちたかった。でもボクは、足の速さも勉強も、ルックスも性格も全敗だった。でも一つだけ、大ちゃんに勝っている点があった。それはさっちゃんとの家の近さ。大ちゃんの家はさっちゃんとは逆方向で、ボクの家はさっちゃんと同じ方向だった。下校中にアプローチするしかない、ボクはそう思った。
ちょっとだけ、大ちゃんに勝てる気がしていた。

ボクは帰りが同じ方向のさっちゃんに、なかなか「一緒に帰ろう」と言い出せないでいた。周りに知られて、からかわれるのを恐れていたのだ。でもある日、ボクはさっちゃんと一緒に帰るチャンスを得る。
ボクが放課後先生に、なにかの用事で呼ばれて職員室に行きその後教室に戻ると、ポツンと一人、さっちゃんがいたのだ。
「あれ、さっちゃん何してるの?」
ボクが聞くと、
「ウサギにエサあげに行ってたの。」
とさっちゃんは言った。そんなやさしいところが好きだ、とボクは思った。そして、これは一緒に帰るチャンスだと思った。勇気を出して誘わないと…そう決心し、思い切って声を振り絞った。
「さっちゃん!」
するとボクが声を出したと同時に、さっちゃんも何かを言った。そしてお互い口を閉じた。
「あ、さっちゃん何か言おうとした?」
「ううん…ヨウスケくんは?」
「あ、いや、一緒に、一緒に帰らないかなって…」
「え!?あ、うん、いいよ!家近いもんね!」
ボクは嬉しくてたまらなかった。一緒に帰ってくれるだけでも嬉しいし、そもそも家が近いことを知ってくれていたのも嬉しかった。そして2人で一緒に帰った。雪が降りそうな、とても寒い冬の日だった。

男たちが一番、期待に胸を膨らませる日がやってきた。そう、バレンタイン。ボクは密かに、さっちゃんから貰うことを期待していた。というか、なんだか貰えるような気がしていた。初めて一緒に帰ったあの日から、その後何度も何度も一緒に帰ったからだ。一週間後には、さっちゃんの家に行く約束もしていた。
最近の言動を見ても、なんだか自分のことを好きでいてくれているような気がしていた。勘違いかもしれないけれど。
ドキドキしながら、まずは下駄箱を開ける。しかし、チョコはない。まあ今どき下駄箱になんて入れないよな、なんて自分に言い聞かせながら、教室へ向かう。さっちゃんはいつも朝が早いから、きっともう来てるはず。そして勢いよく教室の扉を開けようとした瞬間、「ね、ねえ!」さっちゃんの声がした。周りを見渡すと、階段の陰にさっちゃんがいる。急いでボクはさっちゃんのもとへ駆け寄っていった。
「どうしたの?」
「あ、あの、こ、これ…」
さっちゃんは赤い包装紙に包まれた長方形の箱をボクに差し出した。
「え、チョコ?」
「う、うん…」
「これ、ボクにくれるの!?」
ボクは嬉しさを抑えきれなかった。いつもより高く大きな声で、さっちゃんに話しかけてしまっているのを自分でわかっていながら、それはもう抑える事はできなかった。しかし次の瞬間、予想もしない言葉がボクを襲った。
「あ、いや、その…大ちゃんに渡しといて!じゃあね!」
そう言い残しさっちゃんは走り去っていった。ボクはしばらく言葉が出なかった。恥ずかしくて恥ずかしくて、情けなくて情けなくて、どうすることもできなかった。しばらく立ち尽くし、ボクはまっすぐ教室には戻れず、校内を適当にふらふら徘徊してから教室へと戻った。

もちろん大ちゃんには、そのチョコを渡さなかった。

それから12年後、ボクは成人式を迎えた。大学生になり、髪を茶色く染めている頃だった。久しぶりに地元の友達に会えると、ウキウキしながら会場へ向かった。着いたらもうみんながいた。親友のヤスに犬猿の仲だった吉田、クラスのマドンナ優子ちゃんに生徒会長だった田代君、懐かしい面々にワクワクが止まらなかった。しかしその直後、それ以上にワクワクする人に再会する。
さっちゃんだ。

金色や茶色に髪を染めている人が多かったが、さっちゃんは今も綺麗な艶のある黒髪だった。さっちゃんを一目見たとき、自分がまださっちゃんのことを好きである事が容易にわかった。大人になったさっちゃんは、昔の可愛さを残しつつも、さらに可愛くなっていた。さっちゃんに話しにいきたい、そう思う自分と、しかしそれ以上にさっちゃんを避けようとしている自分がいた。なぜなら、バレンタインで大ちゃんにチョコを渡さなかった事をすごく申し訳なく思っていたからだ。ボクとさっちゃんは、あの日のバレンタインを機に疎遠になっていた。というか、ボクがずっと避けていた。なんだか嫌われたような、そんな気がしていたからだ。そして12 年後の成人式でもまた、ボクは避ける事を選んだ。できるだけさっちゃんから遠い席に着席し、成人式を終えた。
12年前の恋なんて、思い出にしてしまった方が楽だと思っていた。
こんな昔の恋が、叶うわけないと思っていた。

成人式から一週間後、それでもボクはまださっちゃんのことを忘れられないでいた。悶々としながら日々過ごしていると、一本の素敵なCM に出会う。大学の広告の講義で紹介された、サントリーオールドのCM だ。たしか、街で自転車が壊れて困っている女性と、それを助ける男性の淡い恋の物語だったように思う。そのCM の最後に現れる言葉に、ボクは今まで感じた事のない衝撃を受けた。
「恋は、遠い日の花火ではない。」
ボクの心に、この言葉は深く深く刺さった。刺さって抜けないくらい、刺さった。そしてボクはすぐさま色んな同級生に連絡をし、どうにかさっちゃんの連絡先を手に入れた。そしてデートに誘い、その1回目のデートで告白をした。ボクたちが通っていた小学校の近くの公園で。
「さっちゃん、ボクと付きあってほしい」
「え、いいの!?」
「え?」
「いや、ずっと好きだったから…でもヨウスケ君がなぜか私を避けだして、それで諦めたの…」
「え、どういうこと?ボクはずっと、バレンタインの日に大ちゃんにチョコを渡さなかった事を後悔してて、それでボクはゼッタイにさっちゃんに嫌われちゃっただろうなって…」
「あ!あのチョコね、実はヨウスケ君へのチョコだったの。でもいざ渡すとなったら恥ずかしくなっちゃって、それで照れ隠しに大ちゃんに渡してって言っちゃったの。あの日、家に帰ってから私わんわん泣いたわ、ハハハ。」
「え、そ、そんな…」
「初めて一緒に帰った日の事は憶えてる?」
「もちろん!あの日は偶然さっちゃんが教室にいて」
「違うの。あの日ね、実は教室でずっと待ってたの。ヨウスケ君が先生に呼ばれるのを見て、一緒に帰れるチャンスだ!って。何してるのって聞かれたときは、適当に理由つけて言っちゃったけど。」
「ウサギにエサをあげてたって」
「そう!たしかそうだったねっ!懐かしいなあ…」

思い出話は日が暮れるまで続いた。そして手をつないで家に帰った。ボクにとってさっちゃんへの恋は、遠い火の花火ではなかった。過ぎ去って、手の届かないものではなかった。あのサントリーオールドのCM を見ていなければ、遠い日の花火になっていただろうけど。

優秀賞 「贅沢な広告」                          京都府京都市  宮崎 祐子

「広告の効果なんか、まったく無い!適当な嘘ばっかりついて、詐欺やないか!」
老人ホームを経営する社長の恫喝に、反発して怒りが湧いてくる。
お客さんだからって、なんでも言っていいわけじゃない。
応接室は社長の怒気で満ちている。
息苦しい緊張感だ。
社長はかっとなるとこんな風になる。
相手の意見を聞こうとしないし、ひどい言葉で相手を恫喝する。
しかし、詐欺師という言葉を聞いた時、同時に、諦めに似た気持ちも湧いてきたのだった。
ほんとに、そうかもしれない。
私がやってることは詐欺に近い。
多額の予算を使ったCMを打って、入居者がちっとも集まらなければ、誰だって怒り出したくなるだろう。
「…申し訳ありません。」
私は頭を下げる。
私の仕事は、本当にお客さんの役に立っているのか?
その不安はいつも心にあった。

広告会社の営業職に就く前、学生だった私は色んなアルバイトをやっていた。
居酒屋、おもちゃ屋、しゃぶしゃぶ屋、コンビニ、変わったところだと人力車。
でも、そのどれを取っても、「自分がお客さんに何を売っているか?」はっきりとした手ごたえがあった。
気持ちの良い接客であり、美味しい料理であり、おもしろいおもちゃであり、楽しい人力車の旅だった。
そしてそのどれもが、きちんとお客さんの「利益になっている」という実感があった。
もちろん、今の広告の仕事だって、「広告媒体を売っているのだ」ということが出来る。
けれど、お客さんは自社の広告がCMで流れれば満足というわけじゃない。
CMを流すという行為は方法に過ぎない。
そのCMを観た人が自社の商品を買ってくれて初めて満足してくれるのだ。
自分が売ったものが、お客さんの利益になるか、損失になるか、分からないまま売るしかない。
それが「広告」だった。
「広告の営業は、広告を売るのが仕事であって、広告効果なんて保証できない。」
というのはもっともな理論だけれども、それはやっぱり、お客さんの立場に立ったら詐欺だと思う。
広告をすれば商品が売れる、そう思って、お客さんは広告を買うのだから。

私は広告媒体について説明する。
「この局で、この時間にCMを流せば、視聴率は大体これくらい。
CMを観て欲しい年代層に人気がある番組はここ。
TV局さんが多めに放送枠を取ってくれると言っていますよ。」
私は、嘘はついてない。
嘘はついてないけど、老人ホームに入居者は来ない。
だからやっぱり、詐欺なんだと思う。
広告営業を始めて、今年で3年目になる。
だけど分からない。
広告ってなんだか、
私にはよく分からない。
怒るような、落ち込むような気持ちで、会社に帰る。
心の中で、中島みゆきが流れ出す。
ふぁいとーー戦うー君のうーたを?

うちの会社は、新聞社系の広告会社だ。
だから朝は、部員が揃って他紙をめくる。
毎日新聞や、読売、朝日をめくり、広告についてああだこうだと批評し合う。女性が多いから、賑やかだ。
てんでバラバラに喋りだす。
「この会社、本社どこや。大阪か?」
「あッ、ウチ抜かれてる。」
「カルティエ出てるわ。部長、買うてぇや。」
「ん、この会社、朝日にまた出とんな。」
「いややわ、安そな原稿やなァ。」
先輩や上司の紙面批評は厳しめだ。そんな中で、珍しい声があがる。
「ヘーエ、この広告、ええやん。」
「シュッとしてんなァ」
「こういうのが一番やね。」
そんなに褒められるなんて、どんな広告なんだろうと身を乗り出して覗き見る。
広告は新聞1ページをまるまる使った広告だった。
全面、絵具で塗ったような山吹色の紙面。
その真ん中に、ぽつりと1行のコピー。
「CHOYA 酸味料を使っていない梅酒を飲みませんか?」
たった、たったそれだけ。
しかも、その新聞は日経新聞だった。
日経新聞は高い。もう、めちゃくちゃ高い。広告料が。
日経新聞を、全国版で、しかも、1ページカラー。
いったいいくらかかったんだと、恐ろしい。
そんな高い紙面に、写真も、商品説明も、CMに出ているかわいい女優さんも出さないなんて…。
私が営業担当だったら「これでもか」とばかりに情報を詰め込む。
「これくらいシンプルなのがちょうどええな。」
「あんまりごちゃごちゃしてんのは品がないわ。」
先輩方の賞賛。
通な感覚すぎて、私には分からん!
私はこの紙面を、「もったいない」と思ってしまう。
広告を見つめながらもんもんとしていると、
「贅沢やね。」
こちらも、ぽつりと聞こえる声で、部長が言った。

「いい広告」ってなんだろう?
いい広告…。もちろん、お客さんの商品がたくさん売れる広告だ。
だから、広告を見た人が「商品を買おう!」と決意してくれる広告がいい広告に違いない。
ということは、商品の情報が分かりやすく載っているのが、いい広告ということになる。
通販の、TVCMみたいなやつだ。
観てたら思わず、それが欲しくてなってしまうような。
例えばそう、快適そうな老人ホームに入りたくてたまらなくなるような広告!
でも、本当にそうだろうか。
少なくとも、CHOYAの新聞広告は、分かりやすい情報はどこにも無かった。
ただ、「CHOYAの梅酒には、酸味料が入ってないらしい。そしてそれは、どうやらCHOYAのこだわりの様だ。」という事は伝わる。
そのシンプルな問いかけだけで、読者の関心を集めている。
「ウチの梅酒を飲んで下さいね!ね!絶対!」
というような押しの強さはない。でも逆に、その姿勢が読者の好感を呼んでいるのかもしれない。
高い広告料を払って、生々しい価格や内容に触れない。企業イメージに徹する。
実はこれは、なかなかできない。だからこそ、その心意気がかっこいい。
私の扱う広告にはない潔さだと思った。
私はこの仕事を始めて、自分にはデザインのセンスがあんまりないことが分かった。 お客さんに「宮崎さんがええようにデザインしといて。」なんて言われたら大変だ。もちろん広告を作ってくれるデザイナーさんはプロだけど、私が作るラフ案がまずいとそのまままずい原稿になってしまう。
私のデザインを一言で言うと、「チラシみたい。」
そして目立たせる方法が「!」か、色だと「黄色」しか思い浮かばない。
私がラフを描いた広告は、なぜだかスーパーの特売チラシになる。
だからセンスがいい原稿や、CMが作れる人はすごいと思う。
センスがいい広告…。
ごちゃごちゃしていない、
押しつけがましくない…。
そんなことを考えていると、もうひとつ、頭に浮かんだ広告があった。
私の隣の席には、Kさんという先輩が座っている。
その先輩の原稿だった。
お葬式の会社に提案するための、チラシ原稿。

中央には、頑固おやじといった風情の、おじいちゃんがひとり、腕を組んでこちらを見ている。 そしてその脇に、やっぱりシンプルなコピーが1行。
「派手な葬式は、いらんよ。」
私はこの原稿が、一目見た時からとても好きになった。
その葬儀会社は、参拝者がたくさん来る、大きな葬儀を執り行うというよりは、個人向けのファミリー葬が中心の会社だった。
この原稿からは、そんな会社の、あたたかな葬儀の様子が目に浮かんだ。
「おじいちゃん、葬式は身内だけでって、言ってたね。」
「おじいちゃんの意向どおりに、小さいお葬式にしようか。ほんと、頑固だったもんねぇ。」 なんていう、家族の思い出話まで、聞こえてきそうな広告だった。
私は、この原稿案が通るに違いないとひそかに思っていたのだが、残念ながら別のデザインで決まったと後に知った。
けれどもやっぱり、私はあの原稿は素敵だったと思う。

いい広告ってなんだろう。
広告はもちろん、お客さんの代弁者でありたい。
お客さんの商品の、より良いパフォーマーでありたい。
間違っても詐欺師なんかじゃなく。
商品の良さを、あれもこれもと詰め込んだ広告が、いい広告とは限らないのかもしれない。
なぜかといえば、広告は、見た人の感情が動かされた時、深く印象に残るものだから。
私は、お客さんの視点だけで、広告を作りすぎていたのかもしれない。
もうひとりのお客さん?つまり、広告を見て、商品を買って下さる「読者」や「視聴者」の目線が不十分だったのだ。
私はお客さんばかりを見すぎて、「お客さんの、お客さん」の事を、良く見てなかった。
「とにかくこの商品を買って下さい!」
なんていうオーラに溢れた、押しつけがましい広告を、「お客さんの、お客さん」にしていた。
読者をひきつける広告。
相当難しそうだ。
つまるところ、詐欺にならない広告を作るのは、難しい。
お客さんの事を一方的に宣伝するより、ずっとずっと難しい。
この間、詐欺師呼ばわりされた社長のところへ、もう一度行ってみようか。
そして例えば、イメージ広告を提案してみる。
「社長、やりましょう!全国5大新聞、全紙1ページ買い切りで!」
また怒鳴り散らされるかな。
提案用の原稿案には、おじいちゃんとおばあちゃんが、質のよさそうなソファに座って、うたたねをしている。
コピーはたった1行。
「あなたの幸せ、ここにあります。」

優秀賞 「愛することは、合わせること」             兵庫県神戸市  坂本ユミ子

先日、夕食の後、夫と二人、リビングでテレビを観ている時だった。
「これって、ボクのことだ!」
テレビのCMを観ながら夫がしきりにうなずいていた。リリーフランキーさんと深津絵里さんが夫婦を演じている大和ハウスのCMだった。私は気になって、最初からじっくりと観てみた。
(また、どうでもいいことでケンカした)
夫、リリーさんの心の声から始まる。うん、ある、ある。どうでもいい、しょうもないことでケンカしてしまうのが夫婦かもしれない。
(どうでもいいと思っているところがすでにダメ)
妻、深津さんの心の声が続く。妻には「どうでもいいこと」ではなかったのだ。
ソファーの白、黒など二人はいちいち趣向が合わない。「おでん、食べに行かない?」と妻にさそわれて、
(すごく天ぷらが食べたい。おでんはありえない)
夫は心で言っているのに、妻とおでんを食べながら、「おでんで正解だね」とうなずいている。夫は海に行きたいのに、妻が行きたい山に行って、「山、最高」なんて、心にも無いことを言ってしまう。
(オレは野党だから、結局、与党には逆らえない)
夫はいつも妻に従ってしまう。心の中で文句を言いながら。なぜだろう?それは、たぶん妻の笑顔を見たいからだろう。年の離れたかわいい妻を夫は深く愛しているのだ。愛している人の笑顔を見たい。妻の笑顔を見ると、自分も幸せになるから、妻に合わせていると、私は思う。
(たまにはオレが決めてもいいかな)
最後に夫は「これからはこうやって歩くぞ」と妻の手を取る。妻はめずらしく「うん」と素直に同意し、二人は手をつないで家に帰る。そして、「ここで一緒に」のコピーが入る。

CMが終った後、同意を求める夫に、
(うーん、ちょっと違うけどね)
と、言いそうになったけれど、言葉を飲み込んだ。
「うん、そうかもしれない」
夫は満足そうにうなずいて、
「そうだよ。ボクはいつもキミがしたいようにしてきた。男ってみんな自分勝手で我儘だ。妻の気持ちなんて考えない。特に僕の年代はね。僕と結婚して、よかったね。こんないい夫はいないよ。キミは幸せだね」
(その、恩着せがましい所が違うのよ!)
言いたくなったが、飲み込んだ。言ってしまうとまた、ケンカになってしまいそうな予感がした。ケンカしてしまうと、修復するのに二、三日かかってしまう。結婚32周年、それくらいは学習した。
夫は週末に必ず、「どこへ行きたい?」と聞いてくれる。外食する時は「何を食べたい?」と必ず聞いてくれる。そして、たいてい私に合わせてくれる。夫は確かに優しい。私はきっと幸せな妻なんだろう。
(休みはどこへも行かず、家でのんびりしたい。仕事しているから家事もたまっているし)
時おり、心の声が聞こえてくるけれど・・・。

夫はアウトドア派。休日にどこかへ出かけなければ気がすまない。私はインドア派。休日は家でゆっくり過ごして一週間の疲れを取りたい。でも、毎週末、必ず二人で出かける。32年間そうして来た。どうして?それは夫の笑顔を見たいから。夫もきっと、そうなのだろう。
夫婦って、何だろう。赤の他人の男と女が縁あって一緒に暮らすようになる。親よりも姉妹よりも親友よりも親しい関係になる。性格も生活習慣も嗜好品も違う二人が一緒に暮らすのは大変だ。どうでもいい、しょうもないことでケンカしてしまう。ケンカするたびに、一人で自由に気ままに暮らしたいと思う。
でも、直ぐに一人はさびしくなる。やっぱり、二人がいいなー としみじみ思う。

夫婦って、不思議。
夫婦って、おもしろい。
夫婦って、いいものだ。
― と教えてくれたCMだった。                                              終

優秀賞 「祖父と時計」                     大阪府大阪市  北山 達哉

「カチ、カチ、カチ・・・」

「ピッ、ピッ、ピッ・・・」

「チクタク、チクタク、チクタク・・・」  etc・・・

1つ1つ音をたて、1歩1歩前へ進む。
その音は、なんとも心地よく、それと同時に、生きていることを実感させてくれる。
たとえ、秒針がなかろうとも、液晶のデジタル式であろうとも、時を刻み、進んでいる。
時間を計る道具あるいは、一日、または日中の何分の一が経過したかを知る道具(Wikipedia より引用)

「時計」とはまさに、「生そのものである」と私は思う。

昭和であろうと、平成であろうと。日本であろうと、アメリカであろうと。
時計の持つ意味は、変わりはしない。

私がこう思うようになったのは、成人後「SEIKO の一秒の言葉」
というCMを見て思い出した、今は亡き祖父のある話からである。

実はこのCM、現在、漫画家として活躍している、小泉吉宏さんの詩で、1985年に放送され、2008年にリメイクされたものであることを、後に知った。
1985年当時も、この詩に多くの人が心を打たれ、大きな反響を呼んだそうだ。
それは、私がまだ5、6歳で、保育園に通っていた頃である。
幼少期ということもあり、祖父との思い出はほとんど記憶にないのだが、この話だけは、今も鮮明に覚えている。

お正月、毎年のように、お年玉を貰うために、祖父の家を訪れていた。

実は、この年に祖父は体調を崩し、翌年の正月に亡くなっている。
私はこのとき初めて、「死」というものを経験した。

家に着くと、まず祖父の両親(私にとっては、曾祖父と曾祖母)の仏壇の前に行き、手を合わす。
もちろん、祖父の両親に会ったことなどない。
そして、リビングに移動し、お待ちかねのお年玉を貰う。

ふとそのとき、リビングの柱にかかっていた時計が気になり、私はその時計を指さし、祖父に尋ねた。
「おじいちゃん、これ何?」
「これは、ねじまき式の柱時計や。」祖父は答えた。

祖父の家には、50年以上動き続けている柱時計がある。しかも、その柱時計は、ねじ巻き式で1日に1回、ねじを巻かないと動かなくなってしまう。

祖父は続けた。
「この柱時計は、おじいちゃんとおばあちゃんが結婚した時に買った、大切なものなんや。」 「もう、50年以上はあるんちゃうかなー。」

「それじゃー、おじいちゃんがおばあちゃんと結婚してから、今日まで、毎日ねじを巻いて、動いてるってこと?」
「そういうことになるなー。」

「ふーん。そうなんやー。なんかすごいな!」
幼いながらも、この柱時計が、祖父母と共に「生」そのものを共にしていることを実感した。
祖父は続けた。
「でもな、この柱時計が、今、こうやって動いてるのも、おばあちゃんが守ってくれたおかげなんや。」

結婚後、祖父と祖母の間に、3人の子供が生まれた。
しかし、まもなく太平洋戦争を迎えることとなる。
祖父の元に赤紙が届き、お国のために兵隊として戦地に行くことに。

「それまで、あの柱時計のねじ巻きはおじいちゃんがやってたんや。」
「おばあちゃんは、背が小さいやろ? だから、あの柱時計には、手が届かんかったんや。」
見かねた祖父は、祖母が、ねじ巻きをできるようにと、柱時計の位置を移し、戦地に赴いたそうだ。
1日に1回ねじを巻く祖母。
祖母がねじを巻いているうちは、祖父が戦地から帰って来ていないことを意味する。

1ヵ月、2ヵ月、3ヵ月…。ねじを巻いているのは祖母。
待てども待てども、祖父は帰っては来ない。
祖母は、この時既に、覚悟を決めていたそうだ。

その後、1年が経過し、終戦を迎えた。

そんな矢先、祖父が戦争から生きて帰ってきた。
「おじいちゃんはな、シベリアで捕虜になってたんや。なかなか帰してくれんでなー、大変やったんや。」

その日から、柱時計は元の位置に戻され、以前のように、祖父がねじを巻くようになったそうだ。
柱時計の動く音を聞いて、生きている心地がするとしきりに言っていた。

「実はな、おじいちゃんが帰って来てから、おばあちゃんとの間でもう1人、子供ができたんや!」
「それが、お前のお母さんや!」

「・・・・・。」
つまり、祖父が戦争から帰ってこなければ、母は生まれず、当然私も生まれていない。
なぜか、最後にどっと疲れたような、でも、とてもほっとした気持ちになった。

当時の私は、幼く、祖父の話の深い意味までは、理解できていなかった。
しかし、10数年という歳月が過ぎ、人並みに「生」と「死」を経験してきた。
そして、そのときに見た「SEIKO の一秒の言葉」というCMがきっかけとなり、祖父の言葉の奥底にある意味を、ようやく触れることができたような気がした。

祖父と祖母と同じ時間を共有し、「生」を共にしていた柱時計。
たとえ、祖父に生命の危機が及ぼうとも、ねじを巻き続け、「生」を続ける祖母。

私は、あのCMを見るといつも、思い出す。(完)

審査委員特別賞 「あの頃、父が口にしなかった言葉」        大阪府大阪市 橋本 亮介

実は今働いている会社の面接のことを、僕は全く覚えていない。
面接の前日、父が亡くなった。
通夜や葬式を理由に何とか面接日をずらしていただいたのだが、
真っ白の精神状態で、面接どころではなくなってしまっていた、というのが、本当のところだ。
ずらしていただいた面接日も葬式の翌日、
父の死を、まだ実感として受け止められず、喉に詰まったまま飲み込めずに、いたのだろう、
ぼーっとして降りる駅を通り過ぎ、面接時間ギリギリになったことくらいしか、
いくら思い出そうとしても、出てこないのだ。
内定後の研修で、その面接に同席していたらしい同期社員に、
「あんな暗いやつが内定するとは思わなかった」と言われた。
その頃の自分は、どちらかというとお調子者だという自覚があったので、
その言葉には、随分びっくりしたが、
面接でその同期と同席したことすら思い出せなかった記憶がある。

とにもかくにも、なんとか社員になれた僕は、広告制作の仕事に携わるようになった。
TVCM、ラジオCM、いわゆる電波媒体の企画制作が主な業務だった。
広告制作者として、若い頃は、「人をびっくりさせる」ことを目標に、
新奇なもの、見たこともないようなものを制作しようと思っていた気がする。
何しろ大阪の広告会社だ。師匠から教えられたのは、
困ったときは「歌って、踊って、かぶりもの」だったのだから。
できるだけ多くの人に自分の携わった広告に触れてもらって、
話題になりたい、と思っていた。

しかし年齢とともに、「自分の中にあるものでなければ、本当に人の心を打つことはできないのだなあ」、
ということを実感して、自分を見つめることから広告を制作したい、
という気持ちが高まってきた。
広告としては、多くの人に届けば、それにこしたことはないのだが、
僕個人としては、少人数で構わないので、
その人の心に深く届くような広告が作ってみたいと思うようになった。
その方が、より深い意味での広告効果も生まれてくる、という信念もあった。

ちょうどそんなことを考えていた40歳を迎える直前、福岡への転勤が決まった。
生まれてから40年間、関西以外で住所を持ったことのない人間としては、
海まで隔てた地で暮らすことに多少の不安はあったが、
福岡は、伝統的に日本のフロントラインだったからだろうか、
よその人間を県内出身者と区別することなく、温かく迎え入れてくれた。
おまけに何を食べてもうまい。
それまで食べられなかった鶏肉が大好物になったのも、福岡に転勤してからだ。

そこで、僕は、ひとつのクライアントを担当させていただくこととなる。
「大分むぎ焼酎二階堂」。
大阪でもオンエアはしていたので「なにやら独特の風合いの文学的なTVCMを作っているなあ」と気にはなっていた。
そのCMを企画することになったのだ。果たして、自分の中にそういう要素があるのだろうか。
今までとは全く違う広告の企画制作に戸惑いはあったが、
逆に「自分と向き合うこと、自分の中に何があるのかじっくり自分と対話して企画する」またとないチャンスであるとも、思えた。

果たして、二階堂のCM企画は今までのものとは、全く違っていた。
年々スピードが要求される時代において、頑ななまでに時間をかける。
2~3ヶ月かけて企画をまとめていく仕事なんて、やったことも、聞いたこともなかった。
僕以外はこの仕事を何年もやっているベテランスタッフ。
特に監督の清水さんは、20年近くずっと企画・演出をされている、という大ベテランだ。
そのベテランスタッフたちと、まずは、この一年、どんなことに心を動かされたのか、
どんな光景を美しいと思ったのか、その光景はどんな思い出につながっているのか、
など、直接的には、CMに繋がらないかもしれないことを話すことから始まった。
時には、角打ち(福岡では立呑屋のことを「角打ち」という)に場所を移して、
商品調査という名目で、二階堂をグラスに注ぎながら。

二階堂のブランドコンセプトは「初めてなのに懐かしい」。
そのコンセプトを心のどこかに持ちながら、絵でもコピーでも思い出話でもいいから、
とにかく思いつくまま、出し合った。
その中で、僕の書いた「私の知らない父と、父の知らない私が、坂の途中ですれ違う。」というコピーを清水監督が取り上げた。
何かが、監督の中でカチッと音を立てたようだ。
僕と父との思い出話を次々と引き出し、二階堂の世界を重ね合わせて、シーンを紡いでいく。
そう、それはまさに糸を紡いで、一反の布を織り上げるような作業だった。

僕の父は大学の先生だった。家にいるときも書斎に篭って、座卓に向きっぱなしで
背中を向けていることが多かった。
母も働いていたので、その頃には珍しく我が家は、母より父の方が家にいる時間の長い家庭だった。
たまに、父の大学に連れて行かれると、学生と話をする普段とは違う父の姿に驚いたものだった。
そんな話が、清水監督の気になっていた福岡県志免の鉱業所竪坑櫓の特異な建物のシルエットと重なって、ナレーションにこそ出てこないものの、主人公は炭鉱技師とその子供の少年と決まった。
その設定で、シーンを重ね、コピーを練った。

言葉は、先ほどの「私の知らない父と、父の知らない私が、坂の途中ですれ違う。」というコピーを、
最後にスーパーインポーズして、そこにつなぐナレーションを
「私の記憶に、いつも後ろ姿で現れる人がいる。あの頃、あなたが口にしなかった言葉に、いつか私はたどり着くのだろうか」
と語りかけたいと思った。
ナレーションでは敢えて「父」という言葉を避けて、ラストの言葉を浮かび上がらせたかった。
ビジュアルこそ、炭鉱技師の話だが、言葉には、僕が父に対して思っていることと、一片の違いもない。
このコピーを書いたとき僕は40歳、丁度僕が物心ついた頃の父の年齢だ。
あの頃の父の考えていたこと、昔より少しはわかるようになっていると思うが、
それでも、きっと永遠に知ることはできない。
同じ坂道を歩いていても、上りながら見る光景と下りながら見る光景が違うように。
だからといって諦めてしまうのでなく、生きている限り、僕はそのたどり着けない言葉を永遠に探し続けるのだろう。
それは、男の子が亡くしてしまった父に対して思い続ける普遍的な感情ではないか、
という思いを僭越ながら抱いた。

さて、3ヶ月かけて練った企画が通るのかどうか、
今までの企画とは全く違った方法で作った企画に、僕は期待より不安を多く抱いて、
別府の手前の日出(ひじ)という町へ向かう列車に乗った。
二階堂酒造さんへのプレゼンテーションも今までとは全く違ったものだった。
もちろん他にも何案か持って行っていたのだが、
社長一人にプレゼンテーションをする。社長がしばらく黙考する。父をテーマにしたコンテを指差して、
「この企画が一番力入ってるな、これやりたいんだろ?いいね。これで行こう」。
判断は、5分とかからなかったように記憶している。
こういう社長の素早くて、的を外さない判断の積み重ねも、
あの文学的なCMのトーンを作っていくには欠かせないものなんだろうな、と感心した。

仕事で父のことをテーマにできるとは、その時まで思ってもいなかったので、
その仕事は、僕にとって、他の仕事とは、全く意味の違うものになった。
そして、「自分と向き合うこと、自分の中に何があるのかじっくり自分と対話して企画する」と思っていた僕にとって、
まさしくそれを実現できた仕事ともなった。

撮影の現場、父と息子が夕日の中を手をつないで風呂屋に向かうシーンを撮った。
僕は新興住宅地で育ったので、小さいながらも家に風呂があり、
父と洗面器を手に風呂屋に行った記憶はなかったのだが、
このシーンになぜか涙がボロボロこぼれて仕方がなかった。
撮影中に泣いたのはあとにも先にも、この一度だけだ。

オンエア後、今までに経験のない事態に遭遇した。
CMを見た人から何通もお手紙を頂いたのだ。
もちろんお手紙はクライアントである二階堂酒造さんに届くのだが、
それを見せて頂くことができた。
「父のことを思い出した」という僕と近い年の人、
「私の父も炭鉱技師をしていた」というずっと年配のご婦人。
「未成年だけど、成人して一番初めに飲むお酒を二階堂にしたい」と
言ってくれた若者もいた。
全国的な話題になるようなCMではないかもしれないが、
届く人には、確実に深く届いていることを実感できた。
当時、電子メールは十分に普及していたのに、なぜかほとんどの方が、
便箋に自分の文字で書いて来てくださったのも、嬉しかった。

あのCMを制作して10年以上が経った。
あれから二階堂のCMも何本か作り、その後大阪に戻り、
あのCMより話題になったCMにも何本か制作に携わったが、
僕をいつも引き戻すのは「大分むぎ焼酎二階堂 父」篇のCMだ。
時々、あのCMのDVDを取り出して、父と語り合う。
あと、数年で僕は父が逝った歳になろうとしている。
そして、まだたどり着けない父の言葉を探している。

 

審査委員特別賞 「おふくろの味」             兵庫県西宮市 吉田 永二郎

「ブブブブ ブブブブ」

枕元に置いてあるスマートフォンが激しく響き、私は深い眠りから一気に現実へと呼び戻された。

「ブブブブ ブブブブ」

今日は土曜日だ。そして明らかにまだ朝早い時間だと感じる。
私はまだ目を開ける前から、なんとなく電話をかけてきた相手が誰だかわかったし、その用件が何かということまで予測できた。
寝ぼけ眼でスマートフォンの液晶を見ると、案の定、神戸に住む母からの電話だった。
毎年、10月の半ばになると決まって母からの電話が鳴るのだ。
私は寝転んで、目もはっきりと開けないままにその電話に出た。
「おはよう。朝早くにごめんね。寝てたでしょ?」と母は前置きして、すぐに、
「元気?もうすぐ誕生日だね。おめでとうね。」と言った。
私の予測通りだった。

「うん。」と私はぶっきらぼうに返すが、「もう31だね」と母は嬉しそうに続ける。
「もう結婚して子供もおるし、ええ大人やわ」と照れくさいのと感謝の気持ちとが入り混じりながら、私はボーッとあの日のことを思い出した。

もう、18年も前のことだ。

私がもうすぐ13歳になる1995年の10月半ばのある日。
夜の8時くらい。いつものように私は、母と3人の兄弟とで晩ご飯を囲んでいた。
私の父は、銀行員で当時は東京に単身赴任をしていたため、私、母、高校生の姉と兄、小学生の弟の5人で食べる晩ご飯が日常だった。
いつも晩ご飯のときは、明るい性格でよくしゃべる姉と兄が学校であった出来事をケラケラと笑いながら話す。
まだ幼い弟は、姉と兄の話にふざけながらつっこんだりする。
そんな兄弟にはさまれた私は、少々内気な性格だった。
このような日常の晩ご飯の時間も、自分のことを話すよりは兄弟の話を聞いていることのほうが多かった。
母は私のそんな性格をよく知っていてくれた。
その日もごくごく普通の日だったのだが、私は母からの「ある言葉」を、まだかまだかと楽しみにしていた。

姉と兄の他愛も無い話が一段落し、少し間があいたとき。おかずの入った大きなお皿に、お箸をつつき入れながら母が、

「もうすぐ誕生日だね。」

と言った。

私は嬉しいというより、安心した思いで「うん」と応えた。
「何が食べたい?」

私が待っていたのは、母からのこの言葉だった。

私は少し気まずそうに「味噌汁」とだけ答えた。
母は笑いながら「何それ」といい、その顔はマジメに答えなさいと言っているようだった。
私は、今度は力強く「絶対味噌汁がいい」と言った。
「なんで?」と聞く母に、私はなんとも言葉にしづらい感情を伝えることができず、
「最近食べてないから」と、濁しながらその場を切り抜けた。
そしてまた、姉と兄がべらべらと話しだしたのだった。

そういえば、その前の月の9月、7つ年下の弟の誕生日の晩には、ハンバーグと唐揚げといういかにも子供が喜びそうな、なんとも無邪気なメニューがわが家の食卓を彩っていた。

私の母は食品メーカーに勤めながら1女3男の子供たちを育て、学校のPTAまで積極的に取り組むという、とにかく忙しい人だった。
そのせいか、食卓にはスーパーで買ってきた惣菜が並ぶことも多かったし、子供たちだけの晩ご飯も珍しくはなかった。
けれど、私たち兄弟はそんなわが家の食事を微塵も嫌だとか辛いとか感じることがなかった。
それは、母の底知れぬ活気と明るい性格に子供ながらに救われていたのだろう。

そして、あと、もう一つ。

わが家には、母が作ったある恒例行事があった。
母は子供たちの誕生日が近づいてくると「誕生日、何が食べたい」と聞き、必ず誕生日当日には、その約束を守ってリクエストの手料理を作ってくれた。
私たちはこれがとても楽しみで好きだったのだ。

私は、その年の夏になる前から早々と「味噌汁」と決意していた。
それは、まだ誕生日など3ヶ月以上も先で、誕生日のメニューのことなどまったく意識もしていなかったある日の晩のことだった。
その日の晩も母がスーパーで買ってきたおかずと作り置きのできる料理を、母と兄弟たちと食べていた。
その日は兄の好きなバラエティ番組をみんなで観ていて、ケラケラと笑いながら家族の楽しい時間を過ごしていた。
そのバラエティ番組は、続きが気になるところで必ずCMになる。
兄弟たちは決まって「えー、どうなるの!」などとリアクションをとり、そのあとのCMには目もくれず、CMの間にご飯を勢い良く食べるのだった。

私も何となくその流れに乗っていたのだが、ふとテレビに目をやると、森光子さんが出演しているタケヤ味噌のCMが流れた。

和服姿の森光子さんの前に、湯気が立って温かそうで、なんともおいしそうな味噌汁と「ひと味ちがいます」のキャッチコピー。

はじめてそのタケヤ味噌のCMを見た私は、体の中からポカポカするような温もりと、言いようのないうらやましい気持ちが湧き出ていた。

母が多忙きわまりないわが家の食卓には、あのCMのような温かい味噌汁が並ぶことがなかった。

私は日本の温かい家庭を象徴するような、あのタケヤ味噌のCMを見た瞬間、次の誕生日のメニューはこれがいい、とひらめいたのだった。
それは、ただ「おいしそう」とCMをうらやましく思ったのではない。
母が忙しく、温かい味噌汁が食卓に出てこない、自分の家庭はダメなのではないかという不安感もあった。
私はわが家のぬくもりを、子供ながらに確かめたかったのかもしれない。

そして誕生日。私は下校のときから晩ご飯のことばかり考えていた。
私が家に着くまさにそのとき、道路の向こう側からスーパーの袋2つギッシリ詰め込むまで買い物をした母が歩いてきた。きっと会社を早退して帰ってきてくれていたのだろう。
「おかえりー」とまだ距離のあるうちから、母が大きな声で言った。
私の抱いていた不安は、この瞬間にほとんど拭い去られていた気がする。
母がようやく近づいてきてから、私は「ただいま」と言い、2人で家に入った。
母はすぐに晩ご飯の支度に入り、私はその間に部屋で宿題を済ませていた。いつもはそんなことはないのだが、この日はなぜかそうしたほうが良いのではないかと思っていた。

しばらくすると、母が子供たちに向かって「ご飯よー」と大きな声で言う。 「はーい」と言いながらぞろぞろと各々の時間を過ごしていた子供たちが食卓を囲みだす。 座るやいなや、母が「誕生日おめでとう」と言い、兄弟たちもそれに続いて「おめでとー」と祝ってくれた。
「ありがとう!」といつもよりテンション高く応えた私の前には、湯気が立ちのぼる味噌汁といくつかの手作りのおかずがあった。
母は約束どおり、ズズッとすすらなければ飲めないほどアツアツの味噌汁を作ってくれた。
いつもよりご馳走が食べられると期待していた兄弟たちは、少し不満げな表情だったが、私はこの上ない満足感に浸っていた。

そこには紛れもなくポカポカした家族の愛を感じることができたからだ。

そして母は必ずこう聞く。
「おいしい?」

私は「うん」とだけ応え、黙々と食べ続けたのだった。

18年たった今でも、私は誕生日のある10月になると、この日のことを必ず思い出す。
そして、毎年「誕生日おめでとう」と電話をかけてきてくれる母に感謝をしている。
何が理想の家族かなんて人それぞれだと思うが、あのタケヤ味噌のCMが私にとっての一つの答えを教えてくれた。

「ポカポカした家族は、ひと味ちがいます」
今でも私のおふくろの味は、あの日の「味噌汁」である。

審査講評 広告―それは企業の顔、生活者への約束              審査委員長・協会理事 植條則夫

一、広告は企業が創るもう一つの主力商品
「広告は科学である」と言われてから久しい。また、「広告は芸術である」と言われてからも長い月日が経っている。それでは、今日の広告は何なのかと問われてもなかなか正解が見つけにくい。それは、広告が単なる経済的機能を超えて様々な役割を担うようになったからであろう。その証拠に今日の広告は社会性、公共性、文化性、芸術性、国際性や地域性など、暮らしを豊かにする生活情報だけでなく、あらゆる分野に深いかかわりを持つと共に多くの影響力を与えつつある。
かつて、「広告は時代を映す鏡」と言われたことがある。今日でもこの言葉は生きてはいるが、むしろ現存する社会や時代を超えて新しい世界を創造する機能を発揮することの方が、重要な役割になっているようにも思われる。
それは今回のエッセイを読んでいても広告の受け手である生活者は、むしろ広告に新しい価値を見出そうとしているのではなかろうかとさえ思われる。それゆえ、広告の送り手も単に企業活動や商品機能だけでなく、今までにない社会的、文化的価値を創造していかなければならない時代になりつつあるのではなかろうか。
今回応募いただいたエッセイを読んでいると、すでにその中にはそうしたニーズに応える萌芽が潜んでいるような作品にも出会えたように思われる。
したがって、これからの「広告」は、企業が創るもう一つの重要な商品であり、情報の送り手である広告主や広告関係者に、広告が新しい先導文化としての自覚と役割が求められる時代になりつつあるのではないかと考える。

二、暮らしと広告の確かな絆
この「広告エッセイ」の募集も、今回で八回目をむかえた。第一回は二〇〇六年のスタートであるから、それ以後、毎年の入賞作品は翌年の五月に、主催者のOAAAから一冊の作品集として発行され、公開されることになっている。その最新版がこの冊子である。
それゆえ、この広告エッセイの概念も、この間に幅広いとらえ方がされるようになったし、それ以上にテーマに設定されている人々の「暮らしと広告のかかわり」も大きな変化を見せてきた。
こうした中でも当然のこととはいえ、広告もまた様々な役割を担ってきたことはいうまでもない。

三、広告が与える感動の多様性
さて、この広告エッセイの応募は年により多少の増減はあるが、共通していえることは、広告は常に一部の年齢層や特別な職業の人々の関心事というだけではなく、実に多くの人々をターゲットに、様々な情報がコミュニケートされているという事実である。
つまるところ、広告はテレビの各種の番組や、日刊紙の記事と同様、いやそれ以上に必要不可欠の生活情報として機能している。そのために多額の広告費が投入されているが、広告という情報の制作にも実に多くのクリエーターの才能や情熱が費やされていることはいうまでもない。
ところで今回の応募数は四十二編、その年齢層をみても最年少は十九才の男性から最高齢者は八十八才の男性に至るまで、幅広い方々からの作品が寄せられている。
また、入賞者の十一人の内訳は、女性が七名、男性が四名。応募者の職業はやはり広告の送り手の仕事に従事する人が多いが、このほか一般の会社員、学生、看護師、主婦、無職など、情報の受け手である生活者も含まれており、いつものことながら広告が送り出す新商品やライフスタイル等への関心や興味の高さが窺える。
このエッセイ募集は先にも述べたように今回が第八回目にあたるが、この間の全応募作品数は、五百七十四点にものぼっている。また、年齢層も十五才の女性から九十才の男性までと幅広く、広告が世代を超えて暮らしの中に生かされ、日常何気なく触れている広告が生活者にいかに大きな影響を与えているかが理解できるのである。

四、尊い体験から生まれたエッセイ大賞の世界
今回の大賞は、橘美咲氏の「心のカルテ」で、すでに二十有余年の経験を持つ看護師の心温まる体験を綴ったエッセイである。この作品では、ナイチンゲールの誓詞である「我は心から医師を助け我の手に託された人々の幸福のために身を捧げん」という言葉が紹介されているが、どんな職業にもあることとはいえ、当初は作者の橘氏も書いているように人間の生命にかかわる看護師の仕事において失敗を重ねることも少なくなかったという。そうした時、橘氏は『神様のカルテ』という医療の世界を舞台にした映画に出合う。この原作者の夏川草介氏は医師でもあり、彼が書いた小説「神様のカルテ」は、癌治療をテーマにした作品で、その映画のキャッチフレーズが『心は、きっと救える』であったという。
このエッセイの中で作者も書いているが、看護師の任務は「医師の治療方法を心から助け、患者の幸せのために心から奉仕する」ことであるという。
この映画を観たあと、作者は自分の仕事の仕方を反省し、「心は、きっと救える」と書いた紙を冷蔵庫にマグネットで貼り付け、毎日の自分の仕事の支えにしようと決意するのである。
つまり、このエッセイが読む人の心を打つのは、人を救うためには看護の力量だけでなく、自分自身の真心も必要である。これはナイチンゲール誓詞の言葉にも通じることを作者はこのエッセイを通じて強く主張している。医師を助けることも、患者の幸せも、すべてそこに看護師の「心」がなければならないということを、このエッセイでは自らの体験を通じて訴えており、それが読む人の心を打つ作品となっている。

五、多様な味わいを持つ優秀賞の八作品
次に紹介するのは、今回の応募作の中から優秀賞に選ばれた八作品。それぞれ作者の暮らしや感性がエッセイのテーマや文体に表れていて、個性のある表現となっている。
まず、上田ヒロミ氏の「ポパイとプリンアラモード」では、五十年も前の不二家のテレビCMがエッセイの素材に使われている。その頃の子供たちにとってポパイの映画などよりはるかに興味があったことであろう。よほどの強い体験がない限り思い出せないものであろうが、十八才の作者の妹や弟の発言や行動が、この作品には細やかに描かれている。
また、当時の不二家のコマーシャルを素材にしながら、幼かった時代の兄弟の思い出が懐かしく綴られている。
CMの送り手からすれば、商品のイメージアップや売上げの増強が大きな目的ではあるが、このエッセイのように人生の重要な一部として幼い頃の思い出が生き続けていることも多く、広告のクリエーターは自分の制作する広告が、受け手の人生の中で様々な影響を残していることも十分意識して制作しなければならないし、それもまた制作者の生きがいであり、一つの大きな幸せではなかろうか。
次のエッセイは、石田典子氏の「弁当と娘、時々ダンナ」である。この作品は家族に対する一種のグチをそのまま紙にぶつけたようなエッセイで、上品な文体で全体を飾ろうとすることの多い応募作品と違って、作者の思いやエッセイの意図が独特の文体となって、そのままストレートに伝わってくるところがユニークであり、優秀賞を受賞した。
このエッセイでは、母の作ってくれる弁当に対する東京ガスのCMに出てくる息子の態度と自分の夫や娘の態度が、一種の今日の家庭環境に対する批評となっており、味わいのある内容であった。
同じく優秀賞の「携帯電話の無かった頃」は曽我節子氏の作品。かつて阪急梅田駅で突然会話のできない障害者の方に頼まれて公衆電話から、その人の家に電話をかけてあげたという話である。
当時は赤電話しかなかったが、今は携帯電話、スマートフォン、インターネットなど、通信や地図、翻訳など、その機能や手段も多様化したが、作者の曽我氏は、新しい便利なメディアが多数登場することで、今の若者たちは特に、「感動する心を忘れ、無表情になりつつあるのでは」と憂慮している。エッセイの中に優しい視点と鋭い批判や提案が織り込まれた作品として評価が高かった。
次の優秀賞は塩見洋子氏の「ランドセル物語」である。このエッセイは、作者と、その息子夫婦である初孫のランドセルにまつわる話である。
作者は今年小学校を卒業して二十年になる息子の使っていたランドセルを初孫にも使って欲しいと願っているが、息子夫婦や夫の反対にあう。メーカーもこんな時こそ新しいランドセル販売のチャンスなどと考えるのと並行して、一つの社会活動として、大いに評価できる。
作者は小学校の頃、ランドセルを買ってもらったのは、入学式の数日前で、やっと手に入れたものも、見劣りのするものだった。しかも交差点を横断中、ランドセルの肩のベルトが切れて大変なことになる。結局それによって三年しか持たなかったと悲しい体験を綴っている。
このエッセイの最後に作者の塩見氏はエッセイとは別に、お願いがあります。と次のように書かれていたのは、注目すべきものであろう。「まだまだ使えるランドセルを捨てるのは忍びなくもったいない。東北大震災の被災地の子供たちに使って頂けたら、ランドセルも満足でしょう。しかし、新しいものしか受け付けないとお聞きしますが、そうでしょうか?また、再生利用ができるのでしたら、テレビのCMの時に、目立つように、その文言を明記していただけたらと思います」この提案は、「大震災の支援に中古品なんて失礼だよ」という声も上がるだろうが、公共的視点からも、一つのあたたかい提案として評価できるのではなかろうか。
次は吹上洋佑氏の「十二年越しの恋」である。この作品は小学校の頃の作者の淡い恋心が書かれた思い出話であるが、このエッセイが読む人の心を打つのは小学校の頃の話とはいえ、子供なりの淡い初恋がいくつになっても心の奥底に鮮烈な体験として生き続けている事実に感動するからである。
このエッセイには、「恋は遠い日の花火ではない。」というサントリーオールドのテレビCMが使われている。作者は、「ボクの心にこの言葉は深く深く刺さった。刺さって抜けないくらい、刺さった。」と書いている。
こうした表現からも理解できるように、広告作品にはクライアントの単に売上にのみ貢献するのではなく、広告の受け手の思考や行動を決める上でも様々な影響を与えていることは、この作品だけでなく、今回の広告エッセイの入賞作品からも十分理解できることである。
次の優秀賞は宮崎祐子氏の「贅沢な広告」である。このエッセイには、広告会社で働く営業職女性の苦労や苦悩といえるような現実が綴られている。作者は「CHOYA」の梅酒の新聞一頁広告や、葬式の会社に提案するチラシの広告原稿などをケースに挙げながら、「いい広告って何だろう」と日常自問自答しながら広告の営業に当たっている姿が綴られている。ここで作者が気付いた結論は、広告主のことばかりを気にしていて、その広告主のお客さん(顧客)のことを良く見ていなかったことを反省している点がユニークであった。
次の優秀賞は、坂本ユミ子氏のエッセイ「愛することは、合わせること」で、リリー・フランキーと深津絵里が夫婦役を演じている大和ハウスのCMが、この作品の素材に取り上げられている。ここで作者の坂本氏が言いたかったのは、大和ハウスのCMが主張している「夫婦って不思議。夫婦っておもしろい。夫婦って、いいものだ。」ということであり、「しょうもないことでケンカをしても、そのたびに直ぐに一人ではさびしくなり、やっぱり二人がいいなと思う。」
それを教えてくれたのは、大和ハウスのCMであったという。そこに夫婦の理想的なあり方があるのかもしれない。
さて、最後に紹介する優秀賞は、北山達哉氏の「祖父と時計」である。このエッセイで作者は「時計とはまさに、いきものである」と書いており、こう思うようになったのは、かつて「SEIKOの一秒の言葉」というCMを見て思い出した今は亡き祖父の話からである。
作者の北山氏は祖父の家を訪ねたとき、五十年以上動き続けている柱時計があるのを知った。その時計はねじ巻き式で一日一回ねじを巻かないと動かなくなる。しかし、祖父は太平洋戦争に行くことになり、その間祖母であるおばあちゃんが一日一回ねじを巻いていたという。それからずっと後に「SEIKOの一秒の言葉」というCMがきっかけとなり、北山氏は祖父と祖母とが同じ時間を「生」を共にしていた遠い昔の時代を思い出すのである。
以上の九編が今回の入賞作品となったエッセイであるが、そのいずれもが広告とのかかわりが表現されていて、読む人の心を打つ作品となっている。

六、深い体験が綴られた審査委員特別賞
今回の審査委員特別賞は、橋本亮介氏の「あの頃、父が口にしなかった言葉」と吉田永二郎氏の「おふくろの味」が受賞した。
橋本亮介氏は四〇才を迎える直前、関西から福岡へ転勤。そこでの「大分麦焼酎二階堂」の仕事をする機会を得る。その時の体験が今回のエッセイの中心をなしている。私は初めてこのエッセイを読みながら、作者である橋本氏の心豊かな人間性や人柄が、私の頭の中で確かなイメージとして形作られていくのを実感した。そして彼の作った二階堂のCMが、いかにも彼独自の温かな世界を伝えているように感じられた。
もう一編の審査委員特別賞は、吉田永二郎氏の「おふくろの味」である。このタイトルからも想像できるように、このエッセイでは、作者の家庭における母の子を思う温かい心づかいが、味噌汁の味を通じて大切な思い出として綴られている。ここに出てくる味噌汁は誰にでも知られている森光子さん出演のCM、タケヤ味噌である。このエッセイの作者の誕生日に欠かせなかったタケヤ味噌の味は、作者の吉田氏も「何が理想の家族かなんて人それぞれだと思うが、あのタケヤ味噌のCMが私にとっての一つの答えを教えてくれた。」と書いている。これこそが作者にとっての「おふくろの味」そのものなのであろう。

七、むすび
こうして、今回の入賞エッセイを読んでいくと、やはり視聴者の心をとらえるCMは、商品と共にCM自身が消費者の心を打つ内容を持っていることが大きな条件となっているように思えるのである。
もちろん、広告が商品の性能や機能とは関係なく一人歩きをして、生活者の心をとらえることも時には経験することではあるが、それは、商品の永続的な人気や販売につながらないことはいうまでもないし、感動的なCMが創られる背景には、商品自体が今日的な性能や品質をもつものでなければならないのではないか。
テレビCMだけが実際話題になったりすることも時にはあるが、長い目で見れば、やはり商品そのものが生活者の心をとらえる内容や性能を持つものでない限り、長続きしないことを現実が証明しているように思えるのである。
(エッセイスト・関西大学名誉教授・社会学博士)

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