第11回広告エッセイ大賞受賞作品

大賞 「たくましく育ってほしい」          大阪府大阪市 比良 千裕

「わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい」

  このハムのCMが流れていたのは、たぶん私が幼稚園か小学校低学年の頃だ。いくつかバージョンがあって、どれもお父さんと男の子が、山登りをしたり、焚き火で料理したりして、商品のハムを食べているものだった。
  私の家は、インドア派で、キャンプや登山に縁が無かったから、このCMは新しい世界を見せてくれたようで、憧れた。いいなあ、キャンプや登山。いいなあ、あの男の子は。わくわくするような冒険ができて。きっとアウトドアで食べるあのハムは、特別美味しいに違いない。
「わたしもあんなの、やってみたい」
  ブラウン管のテレビを指差して、私は父に訴えた。
「うーん、パパはキャンプしたことないからなあ、また今度な」
  明らかに気乗りしない父が、困ったような笑顔を浮かべる。
  私がハムのCMを見るたびに、催促するからか、ある日父が言った。
「明日はハイキングに行くぞ」
  翌日、普段着にスニーカーという格好で、父が私達を連れて行ったのは、隣町の大きな公園だった。歩いて30分くらいはかかったから、ハイキングと呼べるのか。けれど、歩いたのはバスが行き交う大通り沿いで、私の憧れた、あのCMのような冒険とは、全く異なっていた。母は、道中、私の手をつなぎ、
「こんなお店、できたんだね」
と小さなケーキ屋さんを指差し、膨れっ面の私に、
「帰りにあのお店で、ケーキ買おう」
と言ってくれた。
  それでも、私の気持ちは晴れなかった。大好きなケーキも、山登りの後で美味しそうなハムを食べる親子の、あのCMに比べたら、つまらなく思えた。帰宅後、買ってもらったケーキを食べながら、私は父に文句を言い、父も不機嫌になった。父に、悪気はなかったのだろう。仕事人間だった父は、休日に家族をどこに連れて行ったら喜ぶかなんて、分からなかったのかも知れない。

  そして私もいつの間にか、憧れのCMを忘れ去り、一度も親子でキャンプも登山もしないまま、大人になった。

  数十年後。私は、初めての妊娠、出産を控えていた。

  無事に生まれてきてくれるかな、どんな顔をしてるんだろう。どんな子に育つんだろう。大きいお腹を撫でる。

  そして、ふいに、あのCMのフレーズを思い出した。

  わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい。これが、私の子育てのテーマになった。長男が幼稚園に入った年、見よう見まねで、アウトドアに挑戦することにした。

  長男は、あまりお喋りなほうではない。1人で線路をつなげて電車遊びをしたり、本を読んだり。友達に話しかけられれば答えるけれど、自分からはあまり関わりたがらない。そんな、おとなしくて、なかなか自分を出せない長男に、たくましくなってほしいと思った。そして、単純な私は、あのCMのとおり、アウトドアをすることにした。

  最初は、バーベキューから始めた。夫も、アウトドアの経験はない。炭に火をつけるところから、悪戦苦闘した。インターネットで得た知識を思い出しながら、炭に火が回るように、うちわで煽ぐ。長男も、一生懸命煽ぐ。30分経っても、炭は真っ赤に燃えない。言い出したのは私だから、やめるわけにはいかない。焚き火で料理、というところまで行き着くのに、結構な時間と労力がかかるのを、初めて知った。

  やっと出来上がったカレーは、最高に美味しかった。

  翌年、初めてテントを張って寝た。5歳になった長男は、夫を手伝って、地面にペグを打ち込んでいる。そうそう、こういうのがしたかったんだ、と私は思った。あのCMみたいに。自分で頑張っていろんなことができる、って楽しいから。これから2泊3日、このテントで過ごすのだ。子供の頃、できなかったキャンプに、私が誰よりもわくわくしていた。

  朝、蝉の鳴き声に包まれて、目がさめる。

  長男は、オムレツの卵を割ったり、サラダのトマトを切ったり、何でもやりたがった。包丁を使わせるのは、ちょっとハラハラする。

  気を付けて!と言いたくなるのを、彼の真剣な顔を見て、ぐっと堪える。大丈夫。彼はちゃんと分かってる。

  それから彼は、夫と川に行って沢蟹を取り、キャンプに来ている知らない子と友達になって、一緒に探検に行った。

  新しい友達と、ケンカしたりしないだろうか。転んで怪我したりしないだろうか。子供がたくましく育つには、親ははらはらしどおしだと思った。

  木の実や石を拾って、誇らしげな顔で帰ってきた長男を見て、ほっとした。

  心配しながら見守っていたけれど、私が思うより、子供はしっかりしているのかも知れなかった。

  2日目の夜は、しとしとと雨が降った。週末は賑やかだったキャンプ場も、みんな帰ってしまい、この夜は私たちだけになった。テントの中にランタンを吊し、雨の音を聞きながら、眠りについた。

「ママ。ねえ、ママ。起きてよ。雷鳴ってるよ」

突然、長男に揺り起こされた。

  テントを叩くものすごい雨の音と、ゴロゴロ、ドシャーン、とお腹に響く重低音。かなり近くで鳴っているようだ。

  大いびきをかいて熟睡している夫を起こす。

  外に出しっぱなしのテーブルや椅子が気にかかる。それより、キャンプ場に雷が落ちたりしないだろうか。

  そういえば、今日はここには、他に誰もいない。外の様子を覗いている夫の背中越しに、真っ暗な森が見える。

  どうしよう。急に怖くなった。

「車に乗っておこう、ねえ、パパ、ママ。雷が鳴ったら、屋根のある建物とか、車にいるほうがいいんだよ」

私が、どうしよう、と言うより早く、長男が言った。

  溜池みたいになった地面を飛び越えて、車に乗り込んだ。

  ゴロゴロ、ゴロゴロ、不気味な音が山に響いている。滝のようにフロントガラスを流れる雨。向こうの山に何度も稲妻が走り、ドシャーンとものすごい音がする。

「怖いねぇ、大丈夫?」

  タオルで髪を拭きながら、ミラー越しに長男を見る。夫も心配そうに振り返っている。彼は、落ち着いた様子で答えた。

「大丈夫だよ。もう、パパもママも、前に習ったの、覚えてないの?雷が鳴ったらどうするか、教えてもらったでしょう?」

  専門店でキャンプ用品を買い揃えた時、アウトドアの注意点を聞いたことがあったのだ。夫も私も、動揺して、すっかり忘れていた。

  不気味な雷は過ぎ去っても、2時間以上、ザーザーと雨は降り続いた。

「テント、大丈夫かな。」

「うーん、どうかなあ。こんなすごい雨に遭うとはね」

  夫も不安そうだ。

  長男は、後ろの席で、いつの間にか眠っていた。

  翌朝は、カラッと晴れた。あの豪雨も雷も、嘘だったみたいに。夫と長男が設営したテントは、壊れることもなく、立っていた。

  前日に捕まえた沢蟹を川に返して、後片付けをし、キャンプ場を後にした。

「もう、パパもママもしっかりしてよ。雷が鳴った時は、テントで寝てたらダメなんだよ。危ないから」

  帰り道、思い出したように、長男に言われた。

  その年のお正月、実家でお年玉を貰った長男は、

「じいじ、ばあば、ありがとう。僕ね、このお金で釣竿を買うよ」

と宣言した。今度は、自分で魚を釣って、バーベキューグリルで焼くのだと言う。

  そして、夏にキャンプに行った時のことを、嬉しそうに話しだした。川遊び、料理、新しい友達との冒険、そして、彼が一番誇らしげに語ったのは、あの雷雨の夜のことだった。

「パパもママも、全然起きないから、僕が起こしたんだよ。それで、車に避難しようって教えてあげたの」

「わあ、すごいね。大活躍だったね」

「偉かった!しっかりしてきたなあ」

  父と母に口々に褒められて、長男は照れ臭そうに笑った。

「今度はじいじとばあばも、連れてってくれる?」

  父が言った。私は、思わず笑ってしまった。そして、あのCMを覚えているか、父に聞いてみた。あの、期待外れだったハイキングのことも。

  父は全く覚えていなかった。

「いやあ、ごめん。全然思い出せないなあ。パパも年取ったからなあ」

  父は困ったように、頭を掻いて続けた。

「でも、アウトドアってそんなに楽しいなら、次はみんなで行こう」

  キャンプに行けるように、大きい車を買おうかな、と言いだしたぐらいだから、父は案外、本気なのかも知れない。

  その時は、バーベキューグリルで、念願のハムを焼こうかと思っている。

 

優秀賞 「約束のピアノソナタ」             大阪府豊中市 がっこちゃん

  賃貸契約上は室内搬入も使用も禁止対象の商品の購入に踏み切らせてくれたのは、偶然無料動画配信サイトで目にした、四半世紀以上前のとある懐かしいテレビコマーシャルでした。
  両親を相次いで鬼籍へと見送り、一人息子の社会人としての独立を確かめたのを機に、それまでのライフスタイルに極限レベルの断捨離を実行して私達夫婦が移り住んだのは、北摂有数の高級住宅街と囁かれているらしい、桜と古墳の街。
  白と黒の長方形が規則性に沿って横一列に並ぶこの商品が、小さな物語の第二章の幕開けを連れ、音楽関係の仕事で肩幅相応の生計を営む私の仕事場を兼ねる我が家にやって来て、そろそろ半年になります。

  遡る事三十年程前ですから昭和の終わり頃、年齢を振り返れば二十歳から二十七歳までの数年間、大手メーカーが主催する地域密着の音楽教室の運営と営業職を兼任していた私。
  いわゆる富裕層が暮らすお洒落な街とは対極の、住宅と町工場が混在する、肩肘張らぬ下町なる表現がマッチする担当地域で、私は『女のオッチャン』と子供達から称される、一部の方々限定の有名人手前でした。
  当時の営業マンの基本スタイルとはかけ離れた、肩に届く長髪にトンボ眼鏡プラス完全に私服モードで、担当教室に通う生徒達と一緒にギターを奏でて唄って遊ぶ毎日。
  結果生徒達のハートを掴んでいたらしく、足掻かずとも保護者各位が高額なピアノや電子オルガンの売上を運んで来てくれましたから、これぞ好循環でした。
  上席者からすれば煙たく許し難い存在に違い無くとも、朝礼から漫画喫茶行脚経由定刻退社の彼等は私に対し何も言えず、時折の意味不明な嫌がらせ未満が精一杯みたいでした。
  そんな日々の中、一際私との遭遇を楽しみにしてくれた、当時小学校五~六年生の『ゆうこちゃん』なる女の子との思い出は、その後数十年間折に触れて突然蘇る記憶として、頭と心の中から消える事はありませんでした。

  道路に赤錆びと塗料が点在する町工場地帯の一角の、母親と二人暮らし彼女の自宅は、玄関プラス八畳間程度のワンルームの木造住宅で、連日、レッスンが無い日も音楽教室の受付付近で仕事帰りの母親の迎えを待つ毎日でした。
  勿論鍵盤楽器を置くスペースなど自宅内には無く、それでも母親は月々二千円・五年満期で商品購入時に利息が付く積立プランに加入くださっていましたが、おそらく我が子を連日預かって貰い続ける事に対しての謝意だったのでしょう。

  当時私はこの集金業務も兼任していましたが、僅か二千円が財布内に見当たらぬ場面も幾度か有りました。
  自宅に鍵盤楽器が無い彼女の練習ツールは、机上に置いた画用紙に描いた鍵盤の絵でしたが、音も出ず感触も確かめられぬ以上、どれだけ頑張っても他の生徒と同じ進度での上達は望めません。
幸い音楽教室には展示見本のピアノが設置されていたので、私は受付担当の女性に事情を耳打ちして、他の送迎の保護者から意見が上がらぬ範囲内で、彼女に練習させてあげるように指示を出していました。
  同時に最低でも週に一度は彼女と一緒に母親の到着を待てる環境を、決して不自然に映らぬように整えていましたが、定時を待ち切れず我先に帰宅を急ぐ上司が気づく由も無く、この点は正直助かりました。
次第に縮まる距離感の中、思春期から第二次性徴期を迎えた小学校高学年の女子児童が、受付に座る二十代前中半の青年に寄り添う風景に対し、何のお咎めの声も届かなかったのが不思議でした。
  今日であれば声高に叩かれる事必至ですが、優しかった時代のみならず土地柄にも助けられていたのでしょう。

「この人オッチャンにそっくり」
  そう言って楽譜棚から取り出して指し示したのは、月刊誌の裏表紙で微笑む、当時旧ソ連(現在のロシア)の未だ十代ながら、世界的に注目を集める新進ピアニストの姿でした。
「全然違うヨ。それに俺の方が年上なんだよ。この人はヒゲ生やしてるけどサ」
「ううん。この前テレビで見た時、絶対オッチャンだと思ったもんっ」
  主張を曲げぬゆうこちゃんといえば、当時のお気に入りの必殺技『女のオッチャンに自ら肩車状態のよじ登り』に余念が無く、そんなタイミングを見計らったかの如くドアが開き、万事休すを覚悟した私。
「何やってるの!降りなさいっ!」
  平身低頭のお母様から、娘さんが私と若き世界的ピアニストを重ね合わせていた理由を聴かせていただいたのは、年が明けて程無く、私の退職の旨をお伝えに伺った際の事でした。

  離婚されたご主人すなわち父親と、大人の事情で再会が叶わぬ兄を、彼女はどうやら『女のオッチャン』に重ね合わせていたらしく、ですが音楽教室の運営者に過ぎぬ私としては、母娘のプライベートゾーンに踏み入る事は勿論出来ませんでした。
  折しも時はバブルの扉全開から天井知らずの時期、今の年齢なら疑って躊躇するような人生のビッグチャンスの手招きを見逃す選択肢は、当時二十七歳の私には見当たらず、既に退職願は正式受理されていた、実際には残務処理の時期でした。
「モーツァルト ピアノソナタ K545 第一楽章のオープニング、今度ゆうこちゃんと再会する時までにピアノで弾けるようになっておくから。女のオッチャン約束します!元気でね!」
  当時全国各地に展開中の同音楽教室のテーマ曲的に用いられ、教室内のみならず随所でも流れていたこのメロディーが、当然彼女が教えてくれたテレビコマーシャルにも採用していると早合点していた私。
  実際に使用されていたのは、一聴するだけでは同一曲かと混同し兼ねぬ別の楽曲楽章だったのですが、それに気づいたのは冒頭で触れた約半年前でしたから、何とも恥ずかしい限りです。

  神戸方面での打ち合わせを終えた帰路、何かに導かれるかの如く降り立ったホームは、かつては営業マンとして隅々にまで足を運び慣れ親しんでいた、三十年振りの下町の最寄り駅でした。   
  ギターと鞄が重たかったですが、駅周辺を散策するぐらいなら負担は無かろうと、綺麗になった商店街のアーケードを西に越えれば、自ずとゆうこちゃんの家の方向へと歩く速度が速まりましたが、区画整理等で自身の現在位置すら怪しくなる始末でした。
  そろそろ帰ろうかと踵を返そうとした夕暮れ間近、信号待ちの横断歩道で横に立たれた二人連れがこちらをチラチラ伺っておられる気配に気づきましたが、その理由が自身の風貌だと自己解決。
  五十路半ばとは思えぬ、肩を越えて胸に届く長髪を束ねてアポロキャップに、派手な刺繍が入ったジーンズ姿にギターケースですから、売れない芸能人崩れと映ったに違い無く、何より慣れっこの世間様の反応でした。

「あ、あの・・・失礼ですが・・・」
  こんなルックスにも関わらず、不思議とお年寄りや子供から時間や道を尋ねられる頻度が高い私、またかと条件反射的に次の一言を待ちました。
「ずっと前、ピアノ教室にいらっしゃいませんでしたか?」
  逆行のシルエットだった三十代半ばとお見受けする素敵な女性と、随分小さく白髪になられた年齢を刻まれた女性の姿が滲むまで、数秒を要しませんでした。
  奇跡って存在するから、奇跡なる二文字を私達は知っているのでしょう。
  心臓の鼓動が一気にトップギア状態と化し、言葉が喉元から先に出て来てくれませんでした。

  この日をキッカケに、家族ぐるみの不思議なお友達関係らしき距離感で、ゆうこちゃんならぬ優子さんとの時計が再び動き出しました。
  まだご結婚されず、お母様との二人暮らしを精一杯生きておられる彼女は現在、ご自宅に電子ピアノを手に入れ、独学で練習を重ねておられるとか。
  ならば当然、私が約束のあの旋律を弾けぬままでは、奇跡の再会なるプレゼントを届けてくださった神様が許してはくれるハズがありません。
  別れ際に連絡先を交換して興奮状態で帰宅した私は真っ先に、あの日の『女のオッチャンにそっくり』だった、今も勿論世界的名ピアニストがサラリと弾いていた僅か数秒間のワンフレーズを、動画配信されている当時のコマーシャルで繰り返し確かめました。
  朧気な記憶の中の十五秒間とは随分違った感が否めず、何より現行商品とは当然大きく違っていますが、他のメーカーとの比較検討など私には一切無用でした。
「今度のオマエのパートの休み、電子ピアノ買いに行くから付き合ってくれ!」
  誰が何と言おうと、これだけは半永久断捨離対象外です。

 

優秀賞 「ハイカラ、ええなあ」             京都府京都市 嶋田 数之

  カウンターの隅っこに、ぼくは視線を止めた。脳みそが記憶の確認を求めて回転し始めている。

  ウオッカやウイスキーのボトルを押しのけ、ティッシュの箱を放り投げて、ぼくは隙間に手を突っ込んだ。指先がなにかに触れてつるりと滑った。

  ほら、やっぱり。

  はるか昔に手にとって遊んだ感触を、ぼくの指先は忘れていなかった。

  そっとつまみ上げて、そいつをグラスの前に出した。1960年代に出回ったウイスキー販促用のアンクルトリス人形だった。

  こんな遠い北方の、初めて訪れたカフェで、懐かしいアンクル人形に出会うとは思わなかった。

  トレードマークの赤いジャケットは胸のあたりの色がはげ落ち、こすれて片方が消えかけている眉毛も長い時間の経過を感じさせる。

  酔客の大きな指紋をおでこにつけているが、愛嬌のある表情はそのままだ。

  ぼくは人形を手のひらに包んで、プラスティックのつるつる頭を撫でた。

  ダンダンディダンシュビダディン オデーエエーオー♪ (※)

  ぼくはカウンターの中にいるカフェのマダムに聞こえないよう、小声で口ずさんだ。ライ麦パンを切っていたマダムが気配で顔をあげ、人形をいじっているぼくに素っ頓狂な声をあげた。

「あかんで、こすったらあかん。またハゲるん」

  マダムはそう言うなり、自分の黄色い声に苦笑した。

  70歳は超えていそうなマダムの日本語は、ぼくが少年時代を過ごした大阪に居留するコリアン女性に特有のアクセントがあった。

「かんにんしてや、ハルモニ。これ、大事なもんか?」

つられてぼくも大阪弁になった。

  子供のころ遊んだ近所のコリアンの人たちが、親愛を込めて老婦人をハルモニと呼ぶのをぼくは知っていた。マダムが人形をくれるというなら、欲しかった。

  カフェのハルモニは相好を崩して、アンクル人形を指差した。

「ここ始めたとき、もろたん。50年前か、もっと、じゅーっとじゅっと昔かな」

  じゅーっとじゅっと昔、か。

  そうね、ぼくにも思い出すことがある。

  もう数十年前になるだろうか。

  社会人になったばかりのぼくは、いろんなことに行き詰っていた。

  そんな時、父が業界の会合で大阪に来た。

  人生でたった一度、ぼくは父と酒場でウイスキーを飲んだ。

  在日コリアンの人たちが多く住む大阪市東部、環状線鶴橋駅のガード下のトリスバーに入った。父がそこに行きたいと言った。

  酒場にはとんと縁がないように見えた父が、なんでこんなバーを知っているのか不思議だった。

  バーに入ったものの父と共通の話題がほとんどなく、ぼくはカウンターにあったアンクル人形をいじるしかなかった。

  冷たいものを飲まない父は、ぬる湯で割ったウイスキーをなめていた。

「わし、このハイカラなトリス親爺の顔が好きでなあ。時代も変わったもんや。こんな服はよう着やんけど、いまは誰でもハイカラになれる。ええ世の中や」

  そう言って父は、ぼくの手の中にあるアンクル人形をじっと眺めた。

  父は若いころ、仕事場の棚にアンクル人形を飾っていた。

  赤いジャケットに黒ネクタイ、細身のパンツで足を組むアンクルの粋な姿は、子供の目から見ても格好よかった。

  いま思うと色彩のない職人の仕事場で、置き忘れた赤い花のようにアンクル人形はシュールな光景だった。

  戦争の暗い時代を過ごした父は、ハイカラな親爺人形の風体に時の流れを感じていたのだろう。ときどき仕事の手を休めては煙草を吸い、人形に目を向けていた。

  ぬる湯のウイスキーで酔いが回ったのか、父は赤い顔で唐突に昔話をした。

「復員してすぐ、この辺でひょっこり戦友に出くわしたんや」

  父は南方の戦地で負傷して収容所に送られ、戦後に帰国した。

  鶴橋の闇市を歩いていたら、かつての戦友に出会った。互いに無事を喜び、2匹6円のイワシの塩焼きを分け合って久闊を叙した。

  その戦友の話から、僚友の多くが帰らぬ人となったことを知った。

  それでも誰かに遭遇するかもしれないというあてのない望みから、父はその後も鶴橋界隈をほっつき歩いた。あまり酒が飲めない父にとって、酒場めぐりが目的でなかったのは想像がつく。はからずも生き残った者の切ない焦燥だったのかもしれない。

  仕事場のアンクル人形は、そのころどこかの酒場でもらったのだろう。父にとって戦友との苦楽の語らいを思い起こす、大切な記念品だったに違いない。

  そんな父の話を初めて聞いて、ぼくはひどく落ち込んだ。

  子供のとき、ぼくは仕事場からアンクル人形をこっそり持ち出しては、友達と豆玉鉄砲の標的にして遊んでいた。そのうち赤いジャケットのあちこちがはげてきた。

  友達が「お前の父ちゃん、怒るで」と怖がりだした。

  棚に戻すこともできず、ぼくはゴミを捨てるように裏の運河に投げ捨てた。

  父の思いがこもる宝物、とは知る由もなかった。

「父さんの仕事場にあったトリス親爺の人形はなあ、ぼくが豆玉鉄砲で壊した。それで川に捨てた」

  バーのカウンターでアンクル人形をいじりながら、ぼくは告白した。

  父は柔和な表情で、こっくりうなずいた。

  気がつくと、父は何かモゴモゴつぶやいていた。

  それは奇妙な音程のハミングだった。

 

 ズンズンズビーズビズビー ズンズンズビズバー♪

 

  後にも先にも、父の口からリズムらしき音を聴いたのはこの時だけだ。

「この音楽はええなあ。ハイカラや」

  父はまたハイカラという言葉でウイスキーのCM音楽を褒めちぎり、それをしおに満足そうに帰り支度を始めた。

  鶴橋駅の改札口で、父はぼくを振り返った。

「元気なだけで人生は幸せや。あんたも元気でな」

  素っ気なく言うと、父は「ほな、さいなら」と雑踏に消えた。

  ぼくはいま、あの時の父の年齢を超えた。

  父と同じで、特別に酒が好きというわけではない。

  だがテレビでウイスキーCMの「ダンダンディダン♪」のリズムが流れてくると、ぼくは体の中に抑えようのないざわめきを覚える。

  ぼくの目と耳は、映像と音楽に釘づけになる。

  とりわけ好きなのは、中年の親父が出張と称して上京し、東京で一人暮らす娘とバーでウイスキーを飲むというストーリー。

  娘は素っ気ない振りで父と別れるが、父が自分を気遣って上京してくれたことを見抜いている、という筋立てだ。父と娘の会話はぎこちないが、通い合う心の温かさが短い映像から伝わってくる。

  そしてアコースティックギターに乗って、あのスキャットが流れてくる。

 

ダンダンディダン シュビダディン♪ オデーエエーオー♪

 

  ぼくはそのスキャットを聴きながら、心地よいデジャブに浸る。

  鶴橋の、トリスバーの片隅。

  ぼくはウイスキーを舐めている。

  耳元で父のハミングが聞こえる。

 

ズンズンズビー ズビズビー♪ ズンズンズビズバー♪

 

  ストーリーも音楽もどこか切ないが、ぼくはこのコマーシャルで活力がわいてくる。復興から成長へ、変革から絆へと、時代感覚の移ろいをとらえたCMの心に共感する。

  仕事がうまくいかなかった日でもこのスキャットが流れてくると、少し赤い顔で口ずさんでいた父の横顔を思い出す。

「元気なだけで人生は幸せや」

  満足げな表情の父のハミングに、ぼくは背中を押される。

  よし、明日は一発やり直そう!

  ぼくは活力のギアを入れる。

  グラスのウオッカがなくなっていた。

  マダムにウイスキーを頼んだ。

「ウイスキーはぬる湯で割ってくれ、ハルモニ」

  ハルモニは「ぬる湯で割る」という意味がわからず戸惑ったが、たっぷりの湯をグラスに注いでくれた。

「日本人、なんで熱い酒好きなん?」

  マダムは首をかしげた。

「うちも日本人になってたら熱い酒飲むかね?」

  マダムはけらけらと笑った。

  そして思わぬ話をした。

  マダムの父と母は戦前、幼い自分たちを連れて郷里の朝鮮半島から大阪に来た。その後、一家で日本の領土だった南樺太に渡った。

  流浪のいきさつをマダムは語らない。思い出したくない物語もあるだろう。

  戦争は終わったが、日本人でない一家は日本にも朝鮮半島にも帰れず、ソ連領サハリンのユジノサハリンスクと改名したこの街に取り残された。

  マダムが忘れかけている日本語には、父と同じ時を生きた人が醸し出す重みと哀しみが残っていた。

  ぼくはペチカで火照った頬をマダムに向けて、聞いた。

「日本のトリス人形の宣伝で、ダンダンディダン シュビダディンっていうリズムがあるの、聴いたことある?」

「ダンダンダン?なにそれ」

  マダムはぽかんと口をあけた。

「それより寒くないか?ボルシチすぐできるよ」

  マダムは厨房に向かおうとした。ぼくはそれを制した。

「おおきに、ハルモニ。もう十分温まった。ダモイ(帰る)や」

  ぼくはロシア人用に作られた背の高い椅子から、転ばないよう用心して降りた。

「ハルモニ、そのトリス人形は大事にしいや」

  マダムはにっこりと親指を立てた。

「ほな、さいなら。ダスビダーニャ」

  はげかかった緑色の重い扉を、ぼくは右肩に体重をかけて押し開けた。

「ギシッ」と木材のこすれ合う音がして、ほてった顔に雪が吹きつけてきた。

  ぬる湯のウイスキーがいい塩梅に回っている。

 

  ズンズンズビー ズビズビー♪ ズンズンズビズバー♪

 

  ぼくは、父のようにはずれたリズムでハミングした。

「父さん。この音楽、ハイカラでええなあ」

  父と同じセリフをつぶやいた。

 

(※)日本音楽著作権協会 (出) 許諾第1702473-701号

 

優秀賞 「テニスコートに秋が来りゃ」             大阪府枚方市  山田 恵子

  何年前だったろうか、よくテレビで流れていたコマーシャルソングがある。小林亜星の作詞作曲による、レナウンのコマーシャルだ。明るくてテンポのいい曲だ。画面にはアニメのレナウン娘がいっぱい出て来ていきいきと踊る。歌っているのは澄んだ声、明るい声のシルビーバルタンだった。

  私は四十年ちかくテニスをしているので、この歌の三番の歌詞が気に入っていた。今、思い出しながら歌ってみる。

 

♪テニスコートに秋が来りゃ

 イェイ イェイ イェイ イェイ、イェイ

 おしゃれでシックなレナウン娘が 

 ワンサカワンサカ、ワンサカワンサカ

 イェ~イ、イェ~イ、イェエ~ (※)

 

  バアさんになった私がしわがれた声で、イェ~イ、イェ~イ……と。ああ~、リズムやテンポにのれない。

  ちなみに、歌の出だしは三番以外は次のようになっている。

  一番、ドライブウエイに春が来りゃ

  二番、プールサイドに夏が来りゃ

  四番、ロープウェイに冬が来りゃ

  掛け声のような、「イェイ、イェイ」や、「ワンサカワンサカ」はみな同じだ。どれも四季が感じられて楽しい歌だ。

  三十半ばだった。私は「しんどいんです」と家の近くの老医師に訴えつづけていた。 

「若いのに……」老医師はそう言うと、私の手を取り脈を診る。えっ? 若いだなんて……、私は困惑する。低血圧、ひどい貧血、持病の腰痛がキリキリと痛んでいた。しんどくて心が萎え何をする気もおきない。まるで人生が終わったかのような暗さを抱えていた。薬でもいい、注射でもいい、助けてほしい。 老医師に頼るしかなかった。

「運動でもして、体を鍛えなさい」

  老医師はいつも同じ言葉をくり返す。しんどいと言う私になぜ運動をすすめるのか。私には運動をして体を鍛えるという知識がなかった。それに私は運動神経が鈍い。それでも老医師が言う「運動」の二文字が頭から消えなかった。

  いつからかテニスはどうだろうかと思いはじめた。意を決してテニススクールに入ることにした。週に一回二時間。コーチは五十代の女性だった。最初のスクールが終った時、私の足はもつれ、息も絶え絶えだった。

「はじめは誰でもそうですよ。すぐ上達しますからね。たくさんボールを打って体で覚えることですよ」

  コーチが励ましてくれた。

  日がたちスクールに慣れてくるにつれ、体はみるみる元気になっていった。一緒にスクールを受けている人達にも目を向ける余裕も出てきた。新婚の若い女性。独身の看護師さん、高校の体育の先生。裁判官の奥さん、科学の大学教授、さまざまの人がここにいる。

  私には夫もいたし子供もいたが、たったそれだけの狭い世界である。スクールの人達とふれ合うことで、私の知らない世界が垣間見れて知識が広まった思いがした。

「しんどいんです」と言っていた私が、健康のためにと始めたテニスで元気になった。それどころかすっかりテニスのとりことなってしまった。きらめく太陽の下でボールを追って走る。たっぷり汗を流したあとの爽快さ。身も心も解きほどけていくようだ。私にも未開だった感性があるかのように思えた。老医師に「ありがとう」と感謝するばかりだ。

  一年のスクールが終った時、コーチが言う。

「みなさんはそれなりにゲームが楽しめます。三年たった頃には、自分の実力を試したくなって他流試合に出たくなりますよ。十年もするとね、本当にテニスをしていてよかったと、きっと思いますから続けなさいね」

   十年先のことなど考えたこともない。けれどその言葉が金言のようにひびいた。

「テニスって、あこぎで意地悪なスポーツね」

  たいがいの人がそう言う。私も初心者の頃にはそう思った。「なぜ、人が困るようなとこへ打つの」とか、「なぜ、人はあんなになりふりかまわずになれるの」「惨めではないの」とさえ思った。それが勘ちがいも甚だしいことだと、随分あとで気づくのだが。

  ある時、テレビで松岡修三さんが小学生を相手にテニスの手ほどきをしていた。そのときに語っていた言葉がある。

「試合中に、相手を気の毒だとか、自分が悪いことをしているとか、そんなこと一切思わなくていい。やさしくしたいなら、試合がすんだあとに、コートから出たあとに、いくらでもやさしくすればいい」

  そ~うよ。そ~うだわね。私は興奮して聞いていた。

  テニスはひとつのボールをコントロールして打つのだ。そのためにどれほど時間を費やして練習することか。体力の限界まで挑戦することか。自分の精神力まで人前にさらし、ためされるのだ。     

「しんどいんです。助けてほしい」と老医師にすがっていた私が、いっぱしに偉そうなことを言うようになっている。

  昭和から平成に変わるころから、あちこちにあったテニスクラブは閉鎖に追いやられ、バッティングセンターや、ゴルフ練習場や、住宅地に変わっていった。私が所属していたクラブも同じ憂き目である。会員たちは散りぢりになり、もうテニスが出来ないのかと私は嘆いた。

  ところが世話をしてくれる人がいて、テニス仲間を二十人も集め、私も一員というか、枯れ木も山のなんとかで入っていた。ありがたいことだ。仲間がワンサカワンサカとはいかないが、二十人は十分すぎる人数だ。

  それからは市のコートや、企業のコートを借りて、今もテニスをつづけている。しかし、ここ二、三年の間に一人かけ、二人かけと寂しくなってきた。一週間前、一緒にプレーをしていたのに今日はもういない……、そんな悲しい思いにかられる。

  みんな高齢になった。老練なジイさん達と、ちょっとだけ老獪なバアさん達だ。今日もコートでは「やりますか」という声や、「それでは」とやおらラケットを手に立ち上がる人がいる。長年、知り合った者どうし、手のうちや癖は知っている。とは言え勝敗はやってみないと分からない。そこがおもしろい。

「テニスは難しくて魅力的なスポーツよね」 バアさんが言う。

「そんな講釈なんかいりませんよ。楽しんだらよろしいのや」

  いちばん長老のジイさんが言った。単純明快な回答だ。

 ♪テニスコートに秋が来りゃ……。

  いやいや秋ばかりではない。テニスコートには春も夏も冬も来る。おしゃれでもないし、シックでもないジイさんバアさん達は、暑い日も寒い日もコートに来る。ゲームに興じ勝った負けたと、ひとときの夢に酔うのだ。

  バアさんの私は「イェ~イ、イェ~イ、イェエ~」と、心はレナウン娘だ。

 

(※)日本音楽著作権協会 (出) 許諾第1702473-701号

 

優秀賞 「生きることは素晴らしい」~広告が私に教えてくれたこと~           兵庫県宝塚市 土井 七海

  今の世の中、世界は広告で溢れている。広告とは宣伝材料であるが、それだけでは何も後に残さない。人を笑わせる、泣かせる、かっこいいと思わせる、感動させる、そんな広告でなければ何も後に残さない。

  いつのことだろうか。おそらく今から10年ほど前だろう。私は小学生だった。いつもの様に何気なくテレビを見ていると、あるCMが流れた。それが、私があのCMを見た最初のときだったと思う。

「あなたに会えて、本当に良かった。嬉しくて、嬉しくて、言葉に出来ない。」(※)

  聞き覚えのある歌詞とメロディー。その歌にのせて、いくつかの写真のスライドショー、言葉が映った。明治安田生命のCM「たったひとつのたからもの」だ。そのCMは秋雪くんというダウン症の男の子とその家族の6年間の記録である。

  真っ暗な画面に「平成4年10月19日、神様からの贈り物が届きました。」という白い文字が映るところからCMは始まった。CMがあまり好きではなかった私は、テレビを見ていてもCMになるといつも他のことをはじめてしまう。だから最後までじっくりとCMを見ることはほとんど無く、CMを見て何かを感じるなんて考えもしなかった、そんな私であった。だけど、何故かそのCMは気になって、じっくりと見入ってしまった。いや、見入ってしまったというよりは、始まった瞬間からそのCMの世界観に引き込まれ、時間が止まった感じがした。きっと、心に響く何かがあったのだと思う。大袈裟だと思うかもしれないが、まだ幼かった私にはそれほど印象的だったのだ。今でもそのCMのことを鮮明に覚えているのだから、よっぽどであろう。

  CMに映る言葉はこうだ。

「平成4年10月19日神様からの贈り物が届きました。生まれた季節の『秋』と主人の好きな『雪』を合わせて秋雪と名づけました。生後一カ月ダウン症と判明。合併症が原因で余命一年と告げられる。『風をひいたら、最後だ・・・』と言われ、いつも気をつけていました。それでも少しずつ大きくなっていく姿を見るよろこび何を見ても何をしてもあなたはうれしそうでした。3歳、『いずみの学園』入園。運動会。一歩、一歩ゴールをめざしました。生きる・・・。ただ精一杯生きる。秋雪と過ごした6年の日々。あなたに出会わなければ知らなかったこと・・・。ありがとう。」

  おそらく、この言葉は秋雪くんのお母さんの言葉であろう。私はこのCMをみたとき、ただ純粋に「人はこうして生まれてきて、愛されて、大きくなっていくんだな」と、そう思った。同時に自分がそうであることにも気づいた。

  このCMを見た後、私はアルバムを開いてみたのだ。そこには、私が生まれた直後に母に抱かれている写真。休日だろうか、動物園に行っている写真。遊園地に行っている写真。家で撮った何気ない日常の写真。誕生日の写真・・・。

  とにかく、たくさんの写真があった。どこかに出かけたとき、私はたいてい父に抱っこされていたようだ。そして、ときたまアルバムに吹き出しでそのときのエピソードが書かれていた。たぶん母が気まぐれで書いたのだろう。たくさんあった写真の中で、私と父が手のひら、足の裏の大きさ比べをしている写真が印象的だった。私の手や足はすごく小さかった。父の手や足はとても大きかった。その大きな手のぬくもりに抱かれた幼い私はきっと幸せだったのだろうと思う。生まれた直後の私を抱いている母も、とても幸せそうな笑顔だった。そんな写真を見た私は、ただ、嬉しかった。

  私の父は、私が幼いころはとても厳しく父親に対して怖いという印象を持っていた。その為、思春期になると私は父のことを嫌い避ける様になった。特に父の方から話しかけてくることもなかったので、話をすることもいつの間にか無くなっていた。母はとりわけ普通だったので特別に「親の愛」とか、そういうものを感じたことはあまり無かったし、考えたこともなかった。ひとりで勝手に大きくなった気でいたのかもしれない。

  だけどこのCMによってアルバムを開いたことで自分もちゃんと親に愛されて、少しずつ大きくなって、今ここにいるんだなと気がついた。それからはすぐにとは行かなかったが少しずつ親の気持ちというものを考える様になり、気がつけば自然と仲の良い親子になっていた。

  そしたまた、私はこのCMから「生きる」ことは素晴らしいことなのだと、教えられた。 私たちは普段当たり前のように食べたり、寝たり、勉強したり、遊んだり、笑ったり、泣いたり、怒ったり、喜んだりして毎日を過ごしている。こんなのは本当に当たり前のことで、一日一日同じような時を過ごしていても、起こる出来事は日々違っていて、その中で自分は少しずつ、少しずつ大きくなっていく。笑うことが多く、幸せだと感じることもあれば、泣くことが多く、辛いと感じることもある。こんな生活が嫌になることもあった。だけどこんなのはすべて生きているから出来ること。生きていなければ、笑うことも、泣くことも、怒ったり、喜んだりすることも出来ない。

  そう気づかせてくれたから「生きる」とは素晴らしいことなのだと思うようになった。

  今では「生きることが幸せ」とも思う。

「ただ精一杯生きる」そんな秋雪くんの姿に心うたれたから、わたしはこのCMに感動したのだろう。

  だけど、私は時々ふと思う。

「『精一杯生きる』って、なんなんだろう・・・」

  生きるのに、ふつうとか、精一杯とか、あるのかって疑問に思うのだ。いくら考えても答えは出ないが、ただひとつ分かることは、秋雪くんは限られた「生きることの出来る時間」の中で彼の人生をひたむきに生きたということ。そしてその限られた時間をはるかに超えて生きたということだ。

  人は皆、明日死ぬかもしれないし、50年後、60年後、それよりもっと先も生きているかもしれない。私もそうだ。

  その中で自分は何ができるのだろうか、何をしたいのか。

  そんなことを考えるきっかけを作ってくれたのもこのCMであった。

  そして私は今まで考えたこともなかった自分の将来について考えた。気づいたことは私も誰かの人生を変えるような広告をつくりたいということ。この世界にはふっと笑ってしまうような広告や、キャッチフレーズが印象的で記憶に残るような広告もある。同じ広告であっても見る人によって解釈は変わる。このCMをみても何も感じず、何も思わない人だっているかもしれない。

  だけどたった一言で、また一分程度のCMでも誰かの人生を変えるきっかけになることだってある。それが広告だ。だったら、一人でも多くの人に広告によって何かを伝えたい。その一言が誰かの救いになったり、生きる希望になることだってあるかもしれないから。だから、私は広告の可能性って無限だなと思う。

  無限の可能性をもった広告。だから面白いし作りたいと思うのだ。

  そしてもう一つ、このCMが私に教えてくれたこと。

  それは日々を「ただ、精一杯生きる」ことだ。

  まだ私は20歳だけど人生はいつ終わりを迎えるか分からない。だから私は1日1日を後悔のない様、精一杯に生きようと決めた。やりたいと思ったことは考える前にやってみること。自分を支えてくれる人たちを大切にすること。想いを伝えること。感謝の気持ちを大切にすること。楽しいことは思いっきり楽しむこと。

  これが私なりに考えた「ただ、精一杯生きる」ということだ。

  今の世の中、世界は広告で溢れている。

  その中で出会った、たったひとつのCMが、私の人生を、生き方を変えてくれた。だから私はこのCMに感謝し、その恩返しを自分が作った広告で誰かの人生を変えることによって果たしたいと思う。

(※)日本音楽著作権協会 (出) 許諾第1702473-701号

 

優秀賞 「効果がありすぎて」           大阪府箕面市 稲田 麻衣

  我が家には、4歳の息子と2歳の娘がいます。
  2人ともそれぞれにお気に入りのテレビ番組があり、興味のないニュースなどが流れている時には、レゴやおままごとなど自分の遊びに興じています。しかし、CMに切り替わった途端、2人の手はピタッと止まって凝視です。15秒ごとにクルクルと切り替わる世界観と、耳なじみの良い音楽や繰り返されるわかりやすいフレーズが子供心を離さないようです。
  その中でも、2人が笑顔で私に興奮を伝えてくれるCMがあります。
  オムツのCMです。

  どのメーカーという訳ではなく、オムツのCM全般です。

  二人とも画面に映る赤ちゃんがとても気になる様子。
  息子は「あっ!赤ちゃんだ!可愛いねー。」と顔を綻ばせるし、片言の娘は
「あんあん(赤ちゃん)ねー。ねんねしてるねー。」と寝ていたり、歩いていたり、座っていたりする赤ちゃんの様子を毎回、何度も伝えてくれます。

  あまりにも食いつきが良いので、
「赤ちゃん好き?」
と2人に尋ねると
「好きっ‼︎」
と即答。

  確かに、外出先で赤ちゃんを見ると2人とも関心を示していました。息子は面倒見がいい方だとわかっていましたが、娘に関しては未知数だったので、こんなにも赤ちゃんに興味津々になるとは母親としても新たな発見です。

  CMにも関わらず娘は、
「もうっかい(もう一回)!」
と、いつもおねだり。
  録画再生中の際は、彼女が納得するまで繰り返しオムツCMを観ることに。

  赤ちゃんが出ているというだけで、どんな幼児向け番組よりも、彼女のハートはガッチリ持って行かれているようです。

  テレビCMでは、サンタクロースが姿を現し、子供達にとっては魅力的なおもちゃが次々と紹介されるようになってきました。
  息子、娘たちのもとに、そんなサンタクロースがプレゼントを届けにやってくる頃、我が家は新たな家族を迎えます。

  息子、娘は毎日のように私のお腹に「おとうとー」と声をかけ、その日を楽しみにしています。
  テレビで観ていた赤ちゃんが現実にやってくるのです。

  結婚当初、子供は2人で、と考えてたのですが、こんなにも赤ちゃんに興味を示し、可愛いねーと満面の笑みで話してくれる彼らを見ているうちに、もう一人兄妹が出来たら、彼らはどれだけ喜んでくれるだろうか、どれだけ楽しい生活を送ってくれるだろうかと思うようになりました。それに、不思議と自然に、彼らの横にまた小さい存在を想像することが出来たのです。

  お陰様で、思いが叶い三人目を授かることが出来ました。

  少しずつ膨らむお腹に、毎日のように声をかけ、撫で、キスをしてくれます。

  オムツのCMを観ての感想も少しずつ変化してきました。
「赤ちゃんママのお腹にいるねー。」から「12(月)になったら、赤ちゃんに会えるよ!」と喜ぶ息子。
「あんあん、ママ、いる!」から「おとうとー、オム(オムツ)ない!」と心配する娘。
  最近、産まれてくる赤ちゃんにもオムツが必要で、家にはそれがまだ用意されていないことに気付いたようなのです。CMが流れる度に、買うように急かされます。確かに、そろそろ準備しないといけないね。

  CMは、今必要だと思っている顧客に対して、他社製品よりも自社製品を購入してもらおうとするものだと思っていたのですが、まさかCMをきっかけに、その必要とする顧客を増やす、産むことになるだなんて。きっと、制作者の誰一人として想像もしていないだろうな、とほくそ笑みながらオムツのCMを観ている私です。

  さて、彼らはどのメーカーのオムツを選ぶのでしょうか。
  そして、弟が産まれてからは、オムツCMを観てどんな反応を示してくれるのでしょうか。
  考えただけでとても楽しい気持ちになってきます。

  オムツCMのお陰で、我が家の幸せ指数は格段にアップしそうです。

 

優秀賞 「プーさんの贈り物」           奈良県生駒市 相川 実穂

  新聞にカラーの広告が載っていると、ふと気になって見てしまう時がある。
  灰色と黒の記事の渦の中に他の色がいきなりポンと入っているとそれだけでよく目立つということもあるし、その中でも特に美しいと思ったり、かわいいと思った広告に出会ったときは、好きな人から甘いセリフをささやかれた時の様に胸がキュンとしたりして、ついじっくり眺めてしまったりする。
  しかもそのしばしの時間にほっこりとした幸せを感じてしまうのだからやめられない。

  去年の今頃もそうだった。
  灰色の中に突如として大きく出てきた白、その中にいる愛らしいクマのキャラクター。私の愛してやまない彼は、いつもの愛らしい顔で彼の大好物である蜂蜜の壷を覗いていた。

  2015年の11/25~12/27まで大阪梅田にある阪急百貨店で行われていた「くまのプーさん展」の広告であった。母とともにその広告を見ていた私は絶対に行きたいと思ったが、期間内は何かと忙しく一人で行くことも、母とともに行くこともできないだろうと思って正直半ばあきらめていた。

  そして、私がその広告について忘れかけていたころに母のがんが見つかった。
  驚いた。怖かった。母に泣きつかれたときはどうすればいいのか途方に暮れた。それでも時は止まってはくれない。友達にも相談できず悶々とした日々を送った。
  そんな中、下校途中に母からLINEがきた。
「今病院の帰りに梅田にいます。実穂もおいで、プーさん展見に行こう」
という内容だった。
  この時になってようやく私は秋ごろに見た新聞広告を思い出した。行きたいなと思っていたことも、まあいつもみたいに無理なんだろうなと思っていたことも、誰と一緒に見ていたのかも…。

  現地集合にすることに決めて私は阪急まで急いだ。
  慣れない梅田の町だったが標識を頼りに何とかたどり着けた。ちょうどそのときはクリスマス目前だったので催し物をしているフロアではミラーボールを使ったちょっとした光のショーが行われていた。
  それを母と共に見てから一緒にプーさん展を回った。

  楽しかった。私が知らないプーさんの情報がいっぱいあった。
  作者のプロフィールや、どのようにしてプーさんが作られたのかということ、アニメの原画や色々な年代に作られたぬいぐるみたち、等身大のものもあった。一つ一つをじっくり見すぎて母にあきれられたが、19年間本当に好きなのだから仕方がない。
  せかされつつ一つ一つを目に焼き付けるようにじっくりと見て回った。
  すべてを見終わったあと二人でグッズショップに足を運んだ。どれもこれもかわいらしいものばかりだった。当たり前だがどこを見回してもプーさん一色で、値札さえ見えなければすべて持ち帰ってしまいたいと思う程であった。
  私はよほどうれしそうな顔をしていたらしく、全く知らないおじさまから
「えらいにこにこして、ほんまに好きなんやねー」
といわれてしまう程度には顔がほころんでいたらしい。

  自分の財布と相談してどの程度までなら手を出せるかと考えていたところ、またも母から意外な言葉があった。
「なんか欲しいのないの?あるなら言いや」というものだった。

  普段であれば私が頼んでも「えー、自分で買えばいいでしょ」とばかり言うのにと思った。だが私は、すぐにその言葉が嬉しくなって何か欲しいものはないかと探し始めた。
  すると、プーさんの顔の形をしたクッションが目に入った。一目見てこれが欲しいと思った。
  私は、母にその旨を伝えて残りは見本の現品一つだけとなっていたそのクッションを買ってもらった。本当にうれしかった。
  今でもそのクッションは私のベッドの上に、枕代わりとして鎮座している。

  そして今になって思うことは、あれは母から私にむけての最大限の愛情表現だったのではないかということだ。その後も母はことあるごとに私を色々な店に連れだし、服や靴、喪服などを買い与えてくれた。
  その時は年末だからかな、などと思っていた。だがしかし、今冷静に考えてみればこれらは、母にもしものことがあっても私が困らないようにとの心遣いであったのではないかと思うようになった。
  もし、母がいなくなってしまい私が一人になってしまったとしても誰にも何も言われないようにするために私を守ってくれようとしたのではないかと。
  もし本当にそうだったならと考えると今更ながらぞっとする。

  幸いにも母のがんは大きさこそこぶし大と大きかったものの癌になる前段階のものだったということが手術でわかり、私は今も母と暮らすことが出来ている。
  母は最近、私をおいて父と二人で北海道に旅行に行けるほどに回復した。おいて行かれたことに対して少しさみしさも感じているが、そこまで元気になってくれたことが何よりもうれしい。

  たった一枚の広告、それを見るほんの少しの時間で大事な人とつながり、かけがえの無い大切な時間を共有し、笑いあえる。それはとても幸せで、そして素敵な事だ。
  今回の私の場合は、私の愛してやまない小さな黄色いクマが私たちにその温かな時間を与えてくれた。彼はこれまでも私に色々な贈り物をくれたが、今回の物は本当に特別なものとなった。
  彼は私に、広告と言う形で母と一緒に過ごせる残り僅かかもしれない時間の中で心の底からおもいきり笑い、おもいきり楽しむ機会を与えてくれたのだ。

  最後に一言だけ…ありがとうプーさん。大好きだよ。

 

優秀賞 「世界でいちばんの仕事」           大阪府大阪市 神野 千代

  広告は、お母さんに似ていると思う。ふだんはやかましい。あれを買え、これをしろ、こうあるべき、なんだかんだ押し付けがましい。うるさいな、そんなこと言われなくてもわかってるよ、ほっといて。そう言って目をそらし、耳をふさぎたくなる。でも広告は時に、すべてのお母さんがそうであるように、私たちが忘れがちな大切なことを教えてくれる。

  そのCMをシェアしていたのが友達の誰だったかは憶えていない。けれどいつそれを見たかは、わりと簡単に思い出せる。それはロンドンオリンピックの年だったから、私が転職を機に母と離れて暮らすようになった時のことだ。

  その日も仕事から帰ってパソコンを立ち上げると、母親からどうでもいい内容のメール(「今日はどこそこに行きました」「何々をして疲れました」「仕事はどうですか」「身体に気をつけなさいよ」というお決まりの文句)が届いていて、私はうんざりした。母は娘の年齢を数えるのを25年前に止めたに違いない。たった2日間連絡が途絶えただけで、私が死んだり病気になったり事故や犯罪に巻き込まれたりしていると思い込む。

  その場で返信しようかとも思ったが、その日も変わり映えのない平凡な一日だったので、特に話したいことも浮かばなかった。そもそも仕事で8時間パソコンに向かったあと、さらにキーボードを打つ気力は残っていない。私はメーラーを閉じ、代わりにフェイスブックを開いていつものように友達の近況をチェックし始めた。世界中に散らばっている友達がタイムラインでシェアしているニュースやネタや動画をぼーっと眺めるのは、私にとって何よりのリラックス方法だった。

  赤ちゃんの写真や犬の動画やセレブのゴシップに混じって、「Best Job in the World(世界最高の仕事)」というタイトルの動画がシェアされていた。世界最高の仕事って、何だろう? 単純な好奇心から、私はそのリンクをクリックした。ショートムービーのような動画が始まった。

  ほの暗い早朝。母親が幼い子供を起こす。母親は子供に朝ごはんを作り、学校へ送り届ける。アメリカで、中国で、イギリスで、ブラジルで、それぞれ異なる人種の、けれど普遍的な母子の日常が描かれる。体操教室への送り迎えをする母親。バレーボールを楽しむ息子を見守る母親。水泳を習う娘を心配そうに見つめる母親。子供たちはすくすくと大きくなってゆく。母親たちは毎日同じことを繰り返す。子供を起こし、ごはんを食べさせ、バスに乗せ、迎えに行き、洗濯をし、皿を洗い、洗濯物を干し、それをまた取り込む。繰り返される日常。何度も、何度も、延々と。カノンのように同じフレーズを奏でるピアノ曲が、終わることのない家事の繰り返しを強調する。子供たちはしだいにそれぞれの才能にめざめ、アスリートとして成長してゆく。その傍で母親たちは、彼らを支え続ける。試合で失敗した我が子を悔しそうに見つめ、疲れて眠る子を送り届け、怪我に泣く子の足をテーピングしてやる。来る日も来る日も練習と試合に明け暮れる日々。母親たちは練習着を洗い、応援に駆けつけ、遠征に送り出し、テレビ中継越しに励まし続ける。

  そして場面は突如切り替わり、かつての子供たちが立派な選手としてオリンピックの大舞台に立つ様子が映し出される。それまでの練習で培って来た力を発揮し、勝利を手にする選手たち。喜びを爆発させる彼らの視線の先には、涙ぐむ母親たちがいた。

  観客席の母親へ一直線に駆け寄る選手と、それをひしと抱きしめる母親の姿を見て、私は胸を衝かれた。自分が何気なく過ごしている日常が、どれだけの母の努力の上に成り立っているかを、まざまざと見せつけられたようだった。知らなかったわけではない。私は知っていたはずなのだ。それも誰よりも深く。母もこの動画の中の母親たちとまったく同じように、何十年にもわたって自分の身をすり減らしながら、私を愛し育ててくれたことを。

  母は毎朝、学校に遅れないように私を起こしてくれて、おいしいごはんを作ってくれていた。部屋はいつもぴかぴかで、洗濯物はきちんとたたまれていた。私が病気の時は夜通し看病してくれた。悩みを相談すればいつだってきちんと話を聞いてくれた。花の名前も、自転車の乗り方も、おにぎりの作り方も、いじめに立ち向かう方法も、ぜんぶ母が教えてくれた。本を読むことの面白さを知ったのも、留学する決心がついたのも、母のおかげだった。「お母さんもういいから、あなた食べなさい」と何回言われただろう。毎日、毎日、毎日、毎日、お母さんはずっとお母さんでいてくれた。ずうっと。

  私はオリンピック選手にはなれなかったし、これから何かの分野で世界一になることもたぶんないだろう。動画の中の選手のように、母の努力に対して目に見える形で報いることなど、とうていできそうにない。何一つ恩返しできないまま漫然と日々を過ごしている自分が恥ずかしく、情けなく、涙がこぼれた。

  けれどもし私が母に向かって、「お母さんが望むような娘になれなくてごめんね」と言ったところで、母はきっと「いいのよ、あなたが好きに生きてるんなら」と笑って答えるだろう。母はそういう人だ。「自由に生きなさい」といつも言ってくれた。

  がんばろう。私はティッシュペーパーに手を伸ばしつつつぶやいた。この動画はスポーツ選手だけではなく、母親たちだけでもなく、何かを頑張っているすべての人に通じる動画だと思った。私たちはみな、自分なりの金メダルを目指して努力しているのだと思う。そしてその陰には必ず、それを応援し、助け、支えてくれている人がいるはずなのだ。たとえわずかでも、私はそれに報いられる人になりたい。

  『世界一大変な仕事は、世界一素晴らしい仕事。お母さん、ありがとう』。キャッチコピーと共に表示されたロゴを見て、私はそれが世界最大の消費材メーカーのCMだとようやく気付いた。すべての母親たちと同じく、いつも生活の中にある日用品を、日々の暮らしを支えている製品を、世界中で販売している会社だ。この広告に出会えてよかったと思った。私も私なりの金メダルを目指そうと思った。だって母は、私をそういう強い子に育てたはずなのだから。

  『すべてのお母さんを応援します』という締めくくりのナレーションで、私はさらにあることに気付いた。もうすぐ母の日だ。私はメーラーを開き、さっき読んだメールに返信を打とうとして、止めた。代わりに私は携帯を取り、母の電話番号を久しぶりに押した。

 

優秀賞 「一枚の広告」           大阪府松原市 神野 榮美

  たった一枚の広告を、二十年間持っていた。大阪南港で開催された住宅博で受け取った、外構施工業者のチラシだった。それはコンクリート自体にレンガ模様を表現できる化粧材の宣伝で、風雅なヨーロッパの街並みを彷彿させる写真に、私は魅了された。いつか自分達の家を建てることができたなら、玄関まわりや駐車場には絶対これを使いたいと、夢とチラシをもち続けた。その間の三度の引越しにも、捨てずに持ってきた憧れのチラシの電話番号に、やっと連絡する時がきた。

「奥さん、失礼ですが家を建てるというのに何だか楽しそうじゃありませんね」

  土地を見に来たその業者の人は私に言った。その通りだった。依頼している建築業者とこちらの希望がどうも噛み合わないのだ。何度か設計士と話しても、両者の間には、会社や下請け業者がはいるのか、溝が感じられた。といっても、手付け金も入れてしまっていたので、浮かない顔の私に、思わず出た言葉だったのだろう。その人は、自分の仕事は家の外構だけだが、家も楽しく建ててほしい、友人に建築会社を立ち上げた建築士がいるので、相談だけでもしてみて気が楽になればと進めてくれた。仕事にもならない電話での相談だけで申し訳ないと思いつつも、紹介された建築士と三度ほど話すうち、声と一緒に誠実さが伝わってきて、初めて会い、手がけた家の見学に行く時にはもう、先の業者を断ろうという決心はできていた。そして手付け金をフイにはしたが、その建築士に依頼することにして、思い通り以上のいい家が完成した。一枚のチラシのおかげで、満足のいく家を建てることができた。

「そのうちあのレンガ道を通って、お嫁さんがやってきますよ」

  完成した家の、二階の窓から外を眺めながら、設計士が言った言葉を思い出したのは、その言葉通り、我が家にお嫁さんがやってきて、孫も生まれた後だった。家を建てた時は息子は中学生だったし、同居したいなどとはずっと思ってもいなかったが、財産もなくあるのは住宅ローンだけという私達夫婦と一緒に住みたいと、息子夫婦があまりにもいってくれるものだから承諾した。

  息子たちと同居して、私たち夫婦は、テレビをまったく見なくなった。テレビの置いてあるリビングは、若い家族にゆずるようにして自室で過ごすようにつとめた。それにたまにテレビを見ようにも、見方が分からないのだ。テレビ放送の受信方法がいつのまにか単純ではなくなっていて、リモコンのこのボタンを押して、次にこのボタンと教えてもらっても、次にはもう状況が変っていて、その場合はこのボタンとこの… 、で、もうええわ、となった。見なければ見ないで、どうという不自由があるわけでもない。どうしても得たい情報は、夫も私もそれぞれの部屋でパソコンを見たり、息子や嫁に聞いたり、図書館に行ったりしている。

  テレビを見なくなって、久し振りに自室でラジオを聴くようになった。ラジオの面白さを再発見し、目立たないが確実にもつ、人を動かす力に驚いている。宣伝にのって買ってしまうのだ。始めは機能性食品だった。機能性食品は気のせい食品と、それまで手をださなかったのに、お気に入りのパーソナリティーの声で言われると、なるほどと納得し、0120に電話した。次はコンビニ弁当だった。弁当どころか、コンビニにもめったに行かないのに、

「番組と共同開発の期間限定弁当、目標まであと何食!」

と言われると、雨の中、足を運ぶのだった。食品だし、金額はしれてはいる。だが日頃、玄米食や自然食にこだわり、嫁にも注意を促している私を動かす力は末恐ろしい。この弁当はこっそり食べた。

  友人に頼まれているような気になってしまうのだ。不特定多数に向けて発信されているのに、私だけに向けて語りかけているようで、それくらいのことならしてやろうじゃないかという気になってしまうのだ。

  先日、ラジオ祭りにでかけた帰りの、電車の中の広告は凄かった。一両目から、最後尾九列までの中吊り広告がすべて同じもので、車内壁面、側面のポスターも目に入るものすべて同じ関連広告だった。何だかひとつの函の中に入れられ、知らない場所に運ばれていくような気がして、少し寒気を感じた。やはり広告は、ずっと持ち続けられるものであっても、映し出されては、たちまちに消えていくものであっても、そのなかに今の自分を映し出すことのできる空間があり、選んだ自分を感じられるほうが楽しい。

 

審査委員特別賞 「うまい。ありがとう、お父さん」           大阪府三島郡 生越 寛子

  好きなCMがある。そのCMのシリーズを見てふるさとに想いを馳せることがある。それは東京ガスの「家族の絆」シリーズ。このシリーズのサブテーマは「料理は家族をつなぐ絆であってほしい」この言葉が大好きだ。

  うちは父が料理好きで母は料理が好きではなかった。世間一般とは反対な夫婦だったが、そのでこぼこ具合がぴったりな夫婦だったと思う。父は仕事が休みの時などは私のお弁当もよく作ってくれた。

「女子高生の弁当箱は小さいねー。いっぱい作っても全然入らないよ」

とぶつぶつと言いながらも全て手作りのお弁当を持たせてくれた。

「今日もお弁当できてるよ」

  ニヤニヤニヤ。こんな笑顔をするときはたいていお弁当に細工がしてある。お弁当を開けると、、、ご飯の上に海苔でヒロコ。その横には桜でんぶのハートマーク。美味しくて、嬉しいけどこれが父のお手製とバレるのが恥ずかしくてちょっと隠して食べていた。友人に見られれば

「えー、かわいい!パパすごいじゃん!」

「今日は何か書いてないの?」

などなどみんなにからかわれる。父もその話を耳にするや、また俄然張り切りモードでお弁当を作ってくれる。

  私の顔そっくりな似顔絵海苔アートや喧嘩の次の日は(カエッテクルナ)などなど。なかなかの手の込んだお弁当だった。

  キャラ弁などと、もてはやされる前の時代にこんなにも手の凝ったお弁当を作ってくれていた父はまめで、料理好きで、そして私をとても愛してくれていたことがわかる。こんな食の繋がりのお蔭か、反抗期でも父とは仲が良く、よく喋っていた父娘だったと思う。

  家に帰れば父がキッチンのカウンターからあのにやけた笑顔で

「おかえりー。今日のご飯はなー」と話しかけてくれる毎日に見守られ、私は大きくなり、そしてお嫁に行った。

  私がお嫁に行った半年後、母が突然倒れた。末期癌だった。

「余命は3ヶ月と思ってください」

  そのナイフのような言葉は私たちの心を貫きズタズタにした。

「なんとか、できないんですか?本当に?本当なんですか。どうして、どうしてですか?」    

  私は同じ言葉しか出なかった。父は何も言わずに唇をぎゅっと噛んでいた。

  父の涙を見たのは初めてだった。

  父は母に美味しいものを毎日届けた。笑顔が溢れていたあのキッチンで、時に泣きながら料理をしていたのだろう。父のレパートリー全てを母に味わってもらおうとしていたように見えた。

  そして、桜が綺麗に咲き終わった5月に母はこの世を去った。

  そして、父は全く料理をしなくなった。1ヶ月経っても、半年経っても、1年経っても。

  父の笑顔が溢れていたキッチンはいつも静まりかえっていた。野菜やお肉で溢れていた冷蔵庫は空っぽになった。大切に研いでいた包丁も錆びていった。そしてあんなに大きかった父の背中は小さくなっていった。

  私は父に何かしてあげられないか。少しでもあの笑顔を取り戻してあげられないか、悩んだ。そして私は、お弁当を作って父にもっていくことにした。

  お父さんの好きな料理は何だったかな。いつも私たちの大好きなものばかり作ってくれていたから。ふっと浮かばない。

  それでもなんとかお弁当を作った。昔教えてもらったおふくろの味ならぬ、おやじの味。野菜の肉巻き甘辛味にだし巻き卵、インゲンの胡麻和えにミニトマト。彩りよし。そしてお米に私も海苔と桜でんぶで想いを乗せる。

  なんて描いたらいいかな。どうしたら、笑顔になれるかな。ずっと考えて、私の似顔絵海苔アートと父の似顔絵海苔アート。そして真ん中には桜でんぶでハート型。いつも父のお弁当にはこんなにも愛が詰まっていたんだと、作って初めて感じた。そして出来上がり蓋を閉めると、私の目から自然と涙が出た。

(お父さん。ありがとう)

 

  父にお弁当を持っていった。

「なんだよ急に」

「いいじゃん。いいじゃん。初めて娘の手作り弁当ってのもさ、いいんじゃない?」

  お弁当を開ける父。

「おっ」

  それ以外何も言わなかったけど、割りばしを割る後ろ姿の肩が震えていた。

「はい、お茶。味はどうだった?お父さんの味に少し近づけたかな?」

「まだまだ、かな。でも俺のお弁当食べて育ったからかな。美味しい弁当だったよ」

そう言って一緒に笑った。

  それからは、帰省する度に一緒にキッチンに立つ。

  私が材料を切れば、父がフライパンで炒め合わせ調味する。私がご飯をよそえば、父がお味噌汁を入れる。このキッチン、二人がぴったりかもね。1人では寂しくても2人なら笑顔のキッチンになるね。

「じいじのご飯美味しいね」

「これはじいじ特製ソースでなぁ」

「このピンクの甘い粉おいしい」

「ほら、ハート。かわいいだろ。ママもこのピンクの粉が大好きでなぁ」

  孫にも人気の父のご飯。

「じいじの料理、ママもいっぱい覚えるからね」

  料理が家族の絆となり、そして繋がっていく。その料理に込められた愛も繋がっていく。懐かしい料理の記憶と新しい料理の記憶が交差しながら、また新たな絆を繋げていく。

「ねえ、今度はお父さんの得意のカツオのたたきしようよ。あ、待って。スペアリブも捨てがたいなぁ。あれもほんと美味しいから」

「どっちも作ろうか!みんなで食べたら全部食べられるよ」

  父の笑顔も弾んできた。いっぱい覚えるから、ずっとずっとおやじの味を教えてね。

  東京ガスのCMでは世間一般のように、父は料理下手で母は料理上手という設定になっている。うちは反対だけどあのCMが大好きだ。

 

  東京ガスのCM「お父さんのチャーハン」編。

「あの時言えなかった言葉を言おう」

「うまい。ありがとう、お父さん」

 

  私のふるさと、父の笑顔に会いたくなると私はあのCMを見る。そして心がほわっと温かくなる。

 

  私も言おう。「うまい。ありがとう、お父さん」

 

 

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