第4回広告エッセイ大賞受賞作品

大賞 『プロポーズ・アゲイン』             青木 大介

*この場を私的な思いを伝えるために使うことを、どうかお許しください。

クミさんへ

この三ヶ月、本当に心配をかけたなぁ。
風邪ひとつひかないオレが、突然の発熱。寝ていたら治るだろうと思ったら、二週間近く高熱が続き、入院。いろんな検査をしても、なかなか病名がはっきりせず…。下がる気 配のない高熱と先の見えない不安にもみくちゃにされた日々。夫がこんなことになって、クミさんも不安だったでしょ? でも、オレの前ではいつも笑顔でいてくれたなぁ。
クミさんには「オレの不安感知センサー」がついているのか? オレが不安の底に溺れ そうになったらタイミングよく病室に現れてくれたよな。底抜けに明るい笑顔に、ホント 毎日救われたよ。でも、知ってる? 病院の面会時間が、十五時~二十時ってことを。完 全に無視して、時間に関係なく来てくれていたけど…。まぁ、それがまたうれしかったん だけどね。「面会時間なんか守るより、私には守らなあかん人がいるんや」。なんかそんな 強い意思を感じたから。

いちばん不安だったのは、やっぱり悪性リンパ腫を疑われた時かな。今回の入院生活で、 一度だけクミさんの前で泣いてしまったことがあるけど、あれは悪性リンパ腫かどうかの 検査結果が出る前日だったんだよな。クミさんに心配かけないように、「不安じゃないよ。 『強い気持ちと楽しい気持ち』がオレのこれからのスローガン。絶対乗り切る!」なんて  強がってみたものの、その言葉の途中でこらえきれなくなって…。本当は不安に押し潰さ れそうだったんだ。その時もクミさんは笑顔で、なにも言わずにオレの体をさすってくれ ていたっけ。しばらくそうしてもらうと、不思議と不安がどっかへ飛んでいっちゃった。 十分後には、ふたりでケラケラと笑っていたよな。
魔法をかけられたみたいだった。どんな言葉をかけられるより、ありがたかった。

以前にクミさん、言っていたよな。
「私、プロポーズ・アゲインのCM、好きやわ」って。
寺尾聰さん扮するサラリーマンが、定年の日に今までの感謝を込めて、妻にプラチナリングをプレゼントする。そのリングには、結婚してからの日数、そしてこれからの限りな い日々が刻印されている。『12075 Days +∞』。 (注: ∞=無限大)
たしかに素敵なCMだけど…。オレは定年なんてまだまだ先のことだと思っていたから、 その時は正直ピンとこなかった。でも、入院してテレビを観る時間が増えたからか、しき りにあのCMが思い出されてなぁ。
「オレは、定年の日を無事に迎えることができるんだろうか? あのCMのようにクミさ んに感謝のしるしを手渡すことは、もしかするとできないんじゃないだろうか?」
今だから言うけど、そんな後ろ向きのことばかり考えてしまっていた。
「こうなる前に、クミさんを喜ばせる何かをしておけばよかった」
ベッドの上で、心から後悔した。

結婚して四年。思えば、まったく家庭を振り返らない生活だった。
「いまがイチバン働き盛り。いま働かないで、いつ働くんだ」
体を心配してくれるクミさんに、口癖のように言ったよな。朝方に帰っては、眠るため にキツイ酒を飲んで、そして三~四時間後には飛び出していく。休みの日は昼まで寝た後、 休日勤務へ。ゆっくり話す時間もつくらず、どこにも連れていってやらず。自分のことで いっぱいだった。
なのに、クミさんは毎晩「ごくろうさま」のメモを添えて、お酒のアテを食卓に用意し てくれていたよな。菜っ葉のたいたんとか、酢のものとか、どこまでも体を気遣ってくれ て。メモには「何時に起きる? □時□分」って、□の中に数字を書き込むだけでいいよう にしてくれて、書き込んだ時間にいつも起こしてくれた。オレはそれを当然のように思っ ていた。感謝の言葉ひとつ、言うこともなかった。

今回のオレの入院、クミさんにとっては「それみたことか」だよな。あれだけ体を心配 してくれていたのに、まったく聞かなかったオレの自業自得だもん。愛想をつかされて、 看病を放棄されてもおかしくないよな。だけど、クミさんはいやな顔ひとつせず毎日病院 に通って、いろんな不安が芽生えるたびにひとつずつ摘み取ってくれた。オレの「ごめん な、こんなことになってしまって …」って言葉にも、「これだけ長い時間、一緒にいられる ことなかったから、不謹慎かも分からんけどちょっとうれしいかも」って。その言葉を聞 いた時、思いっきり凹んだ。オレはクミさんをどれだけ幸せにできてなかったんだろう…。 プロポーズの言葉が、「ぜったい幸せにするから」だったのに …。
実は、さっきあらためて「プロポーズ・アゲイン」のホームページを見たんだけど、そ こにはグラフィック広告もあって、こんなコピーがあった。
『幸せにするって言ったのに、幸せにしてもらったのは僕の方だ。』
このコピーを見た瞬間、ホッペタをバシーンと張られた気分だった。ホントその通りだ。 いっつも幸せにしてもらっていたのはオレで、なのにオレはクミさんを幸せにするために 何もしてこなかった。ただただ反省するしかできません。ゴメン。

病気になってはじめて、クミさんのかけがえのなさや、自分がいかに幸せ者かに気づく なんて、どうしようもなくダメ男なんだけど…。おかげでオレは、強く強く思うようになっ たんだ。
クミさんとの幸せな時間を絶対に手放したくない、これほど幸せを与えてくれるクミさ んと絶対に離れたくない、って。
この気持ちが、病気と闘う原動力になったし、これからも心のド真ん中にあり続ける。

もしかすると、オレが病気になったのは、神さまがこの大切なことを分からせるためだっ たのかもしれないな。いつまでたっても自分がどれだけ幸せかを気づかないこのド阿呆を、 ちょっとこらしめてくれたのかも。

検査結果が悪性のものではなく、なんとか治療を終えて退院できることになったけど、 たぶん「クミさんと絶対に離れたくない」って強い思いが神さまに届いたんだと思う。コ レグライデ許シテオイテヤロウ…そんな声が頭の上から聞こえた気がするから。

ようやく退院できた今、クミさんとなにげない時間を過ごすことができるのが、なによ りうれしい。クミさんのつくるゴハンもおいしいし、クミさんと並んで観るテレビはベッ ドの上でひとり観るテレビよりなぜか面白い。クミさんとの散歩は歩調がゆっくりだから、 いつもの風景なのに発見がいろいろある。おやすみって言い合って一緒に入る寝床は、す ぐにあったまって快適だ。
幸せだと思う。でも、まだオレから「幸せがえし」できてないよな。
今までのお詫びと永遠の感謝を込めて、本当はプラチナのリングでも買ってプレゼント したいところなんだけど …。ゴメン、オレにはプラチナを買えるお金が、まだない。(今、 貯めてる途中!) でも、どうしてもオレの気持ちだけは伝えておきたくって…。だから、 この場を借りて、プロポーズ・アゲインさせてください。

『1643 Days + ∞』 今までオレを幸せにしてくれてありがとう。今度はオレの番です。
今度こそは …『ぜったい幸せにするから』

そして、幸せな日々を重ねて、やがて無事に定年の日を迎えることができたら…。
その時は、プロポーズ・アゲインのアゲインをさせてください。
『11047 Days + ∞』と刻んだプラチナリングを添えて。
『まだまだ幸せにするから』って言葉とともに。                                 (了)

優秀賞 『想像の余白』             正樂地 咲

ある夏の日、会社の近くのジュンク堂へ出かけた時のことである。夏休みをかなり楽し んでいるとおぼしき日に焼けた小学生の男子がいた。
「泣けるって書いてある本ばっかりやん。僕そんなもん全然泣きたないわ。」
本棚の前でひとり声を荒げている。
大人になると泣くのにはいつも、
「それは泣いても仕方がない。」
と周りに理解してもらえる理由と、
「そこでなら、泣いてもいいよ。」
と認めてもらえる場所が必要になる。この両者がそろわない限り大人はなかなか泣けない。
そんなことを考えながらの帰り道、ふと、「今日、私は、街で泣いている人を見ました。」 という1つのキャッチコピーを思い出した。仲畑貴志氏が書いたエーザイ・チョコラビー ビーのキャッチコピー。1989年。私はまだ4歳だ。
このコピーの中に登場する大人は、「理由」も「場所」も選ばず、街で泣いてしまっている。 一体このひとに何があったのか。
私は自分が街で泣いたときのことを思い出してみた。それは高校三年生の冬。新大阪の 駅の改札を出てすぐのところだ。馬鹿みたいな数を受験した大学全てに落ちたことを、学 校の先生から電話で知らされ、現実が受け入れられなかった。この調子では、先ほど受け てきた東京の大学も全部ダメなのだろう。
あの頃、受験が生活の全てだった私は、たまらず泣き出してしまった。鼻水も出た。
5分くらい泣いて、泣いて、それでも涙が止まらずにいると、同じ年の娘がいるという サラリーマンのおじさんが話しかけてきた。
「どうしたん。大丈夫か。気分悪いんか。」
その瞬間、私は一気に我に返り、急に泣いている自分が恥ずかしくてたまらなくなった。
「なにもないです。平気です。」
早足に歩き出す。人ごみで泣いていたくせに、その理由をいざ聞かれると、泣きたいのだ から、そっとしておいてくれよと身勝手にそう思った。
結局、あの時おじさんは何を思って声をかけてくれたのか今も分からないけれど、思わず声をかけてしまう程、泣いている私は特異な存在だったのだろう。
とここまで書いて、時計の針が夜の10時をまわった。週の始めの月曜日。会社に残って いる人も、ずいぶん減った。
もし今日帰り道、泣いている人を見たならきっと、月曜日から泣いているなんて大変だ な。この1週間どうして過ごすつもりだろう。この不況でクビを言い渡されたのか、恋人 にふられてしまったのか。
色々な理由を私は作りあげて、その人に当てはめるだろう。
けれど、本当は泣くことにこれといった理由など無いのではないか。
毎日毎日積み重なった負の積み木がある日、何かの拍子に音を立てて崩れ落ちる。その きっかけを理由と呼んでいるに過ぎないのだ。
ニュースでは悲しいことを聞かない日はない。この世の中、泣きたいことだらけ。それ はきっと、1989年も2009年もかわらない。それでも、大人だから仕方がないと、笑ってがんばる。
「今日、私は、街で泣いている人を見ました。」
このコピーには、あの日私に話しかけてくれたおじさんほどは踏み込まず、かといって 無関心なわけでもなく、ただ泣いているひとがいたのだという事実だけが書かれている。 だからこそ、それを見た全ての疲れているひとたちが想像を膨らますことができる。
大人が泣くなんてよほどの理由があったんだろう。けれど、なんだかその気持ちも分か る気がする。わたしだって、このひとみたいに泣いてしまいたい。わたし以外にも今日街 で泣いていた人がいたんだ。みんな、それでもがんばっている。
チョコラビービーのターゲットである「疲れている人」は誰だって、がんばれだの、何 で泣いているのだの、言われたくないし、聞かれたくない。ただそっと、泣くことを認め て欲しい。それだけだ。
広告は見る側には不意打ちで、いつも予告もなく踏み入ってくる。疲れていても、心底 派手で明るい広告が飛び込んでくる。だからこそ、ふと広告であることさえ忘れてしまい そうなこの遠さこそが、安心して広告に近づけるやっとの距離なのかもしれない。
そして見る側の想像力を信じた、捉えようが何通りもある1本のコピーが輝くこともあ るのかもしれない。
でもきっと、無駄な飾りがひとつもないまっすぐなコピーだから、書くのにはかなりの 勇気と自信と熟練の技が必要だ。
私もいつの日にか、見る人の想像を足してようやく完成するような懐の深いコピーが書 けるようになるだろうか。
その日まで、たまに涙を流しながら、広告を見る側と広告を作る側を行ったり来たり自 分のペースで歩んでいこうと思う。

優秀賞 『ラビーとの思い出。』             原 央海

時は小学六年生。十年も前の事なのに、あの日の事は今でもはっきりと覚えている。
二〇〇〇年十一月二十日、家のラビーが死んだ日。僕の友達が死んだ日。
僕が生まれてから一年、ラビーは原家にやってきた。真っ黒で耳の長いウサギ・ラビー。 ラビーは僕に色んな事を教えてくれた。ウサギが1m以上の深い穴を掘れる事。警戒して いる時は、後ろ足で地面を叩きバンバン音を鳴らす事。小さなおちょぼ口でブーブーブー ブー鳴く事。僕たちは十年一緒に育ってきた。十年一緒に暮らしてきた。そんなラビーが、 死んでしまった。
いつも通り小学校に向かう時だった。いつも通りラビーは庭を散歩していた。ただ一つ、 いつもと違うことは、ラビーが家の中に戻って来なかったこと。僕が家を出るとき、母が 言った「ラビーが動かない」、その一言だけが微かに聞こえた。でも、学校に行かなくちゃ。 自分は通学団の班長だし、今日は朝礼がある。児童会の副会長だから、休む訳には行かない。 通学途中は、誰とも話さなかった。話せなかった。朝礼の最中も、一人体育館の袖でこっ そり泣いていた。「どうか聞き間違いであって下さい。ラビーが死ぬなんて嫌だ。お願い、 嘘だと言ってくれ、神様。」そう願いながら、泣いた。
やっぱりラビーは死んでいた。「死」が理解できない歳でもなかった。ただ、それと向き 合うのは初めてだった。悲しくて、悲しくて、悲しくて、ずっと泣いていた。本当に、ずっ と泣いていた。もう飼いたくない、と思った。こんな辛い想いをするくらいなら、もうペッ トなんて飼わなくていい、と思っていた。母から、「新しく犬でも飼おうか」と提案されても、 「死ぬのが恐いから飼わない」って何年間もずっと言い続けていた。

二〇〇九年二月、大学二年生も終わりかけ、私は就職について悩んでいた。インターネッ トを使って、色々な業種を見て、色々な職種を調べて、ふと目が留まった職業があった。 コピーライター。心躍らせながら素敵なコピーの数々を見ていると、1つだけ私の気持ち を静かにさせたコピーに出会った。
「死ぬのが恐いから飼わないなんて、言わないで欲しい。」
心が震えた。「え?」「なんで俺の気持ちを知っているの?」私のためだけに向けられたか のようなコピー。ボディコピーを読みながら、ラビーの事を思い出す。ラビーは「すごく 生きて」いた。たしかに、元気に生きていた。私たちは間違いなく「幸せな時間を共有」 していた。
「死」の力は強く、恐い。生きていた時間全てを忘れさせ、楽しい思い出を奪い去る。 でも、やっぱり生きていた。幸せな時間を過ごしていた。そんなことを思い出した。  この広告を見て、私はすぐにペットフードを買いに行く、なんて事にはならない。もち ろん、ペットを買いに行こう、ともならない。けれど、「嫌」だった思い出が、「良い」思 い出になった。広告の力って、そういう事なのかもしれない。「やらない」を「やる」に、「知 らない」を「知る」に、「動かない」を「動く」に、「嫌い」を「好き」に。心を「マイナス」 から「プラス」に変えてくれる広告。そんなものを作る人になりたいと思った。
もし私が、誰かの父親になれたら、ペットを一匹飼ってみようと思う。とびっきり元気 のいい奴を。そいつが死んでしまったら、子どもに「命」を学んでもらおう。「死」と一緒 に「生」を知ってもらおう。もしかすると、息子以上に私の方が泣くかもしれないけれど。 「死ぬのが恐いから飼わない」なんて言うのは、もうやめにしようと思う。

優秀賞 『うるさい自販機』             北田 みどり

少し疲れてきた。
なにせお昼を食べてからずっと歩きっぱなしだ。
だいぶ時間も経ったのではないだろうか。
久しぶりの買い物で調子に乗った結果、うれしい荷物がだんだん増えてきた。
隣を歩く友人もそんな顔をしている。
次に出てくるセリフはふたりとも同じだろう。
「どっか入って休憩しよか」
いいタイミングだ。現在地はこだわりのあるおしゃれなカフェが多い大阪・堀江。さぁ、 どのお店に入ってゆっくりお茶しようか。
そんなときだった。えらく派手な自動販売機が目に付いた。

「見栄はってカフェなんか行くな。見栄はってカフェなんか行くな。見栄はってカフェな んか行くな。見栄はってカフェなんか行くな。見栄はってカフェなんか行くな。見栄はっ てカフェなんか行くな。見栄はってカフェなんか行くな。」

こんなコピーで自販機全体がびっちり埋め尽くされている。
並んでいる商品は缶ジュースからペットボトルまで全品一律100円。そして自販機の 目の前には公園。なるほど、価格もロケーションも申し分ないということだ。

しかし残念ながら、私も友人も別に見栄をはってカフェに入ろうとしていたわけではな い。この挑発的な四角い塊にひと笑いし、写メールを1枚撮ってから、私たちはまた店 を探し始めた。

しかしそれ以来、なぜだかずっと気になっていた。
周りにはおしゃれな敵が立ち並ぶ中、ずっと孤高の闘いを続けているこの自販機。
「見栄はってカフェなんか行くな。」

前を通るときには、いつも意識してしまう。「あ、また言ってる。」
街の景色の中で、自販機の正確な位置まで覚えていることなんてまぁないだろう。方向 音痴の私は特にそうだと思う。おいしさに感激した料理屋の場所も、店員のお姉さんと のおしゃべりが盛り上がった洋服屋の場所もうろ覚えの私の記憶に、この自販機は確実 に刻み込まれていた。

なぜだろうか。
100円という安さを売りにしてはいるのだが、100円の自販機自体は他にも多々あ り、そこまで珍しいものではない。やはりこのメッセージだろう。
私の財布の状況なんて知らないくせに、強気な口調で「見栄はって」と嘲り、「カフェな んか」と、このエリアにカフェが多いことを把握した上で周囲のお店にジャブを入れ、 挙句の果てには「行くな」と命令してくる。
冷静に考えるとますます一方的で、少し鼻に付くことばだ。しかし不思議なことに、不 快な思いはしないのだ。「味の良し悪しなんてさしてわからないのに、周りの雰囲気に 流されて500~1000円近いドリンクを飲みに行くなんて金の無駄だ」と嫌味を言 われているようには思わない。むしろ、自分のやり方に自信とプライドを持っている、 頑固で口は悪いが人情味のある下町の親父のようなオーラがこのことばからは感じら れるのだ。

またある日、私は別の友人と堀江界隈を歩いていた。ふと友人が、のどが渇いたと言っ て一番近くにあった自販機の前に立った。あの自販機ではない。普通の自販機だ。私は そのとき「あっちで買えばいいのに」と、ふとあのうるさい自販機を思い出した。自販 機なんてどれで買っても同じだ。同じ商品を選べば全く同じ味が出てくるのだから。カ フェは選んでもわざわざ自販機を選ぶことなんてないだろう。にもかかわらず、のどが 渇いたシーンで、あの「親父自販機」が真っ先に思い浮かんだのだ。もちろんそのとき、 私が友人の手を引いてあの自販機に連れて行ったかと聞かれれば、そんなことはない。 しかし数ある類似自販機の中で、「これで買いたい」と思わせる強い魅力を実感したこと は確かだった。何かあったときに頑固親父の無骨なことばに納得させられたくなるよう な気持ちとは、こんな風なのだろうか。
無機質な塊に宿る人格に会いに、私はあの自販機のいる道を歩いているのかもしれない。

と、ここまで言っておきながら、実はまだあの自販機のボタンを押したことはない。今 度前を通ったら、温かいものを買って公園でほっこりしてみようか。

優秀賞 『きっと勝つ広告』             大上 真実

深夜2時。「ああ、あかん!休憩!」
ガタン、と勢いよく机を離れ、キッチンへ下りる。私は冷蔵庫からキットカットを取り 出し、もくもくと食べた。ここ何日かの我が家の冷蔵庫には、キットカットが常備され ている。
2005年の冬。私の大学受験は、いよいよ大詰めを迎えていた。朝は6時前に起きて、 7時半には学校へ行く。自習室で英単語を暗記し、授業を受ける。学校が終わると友人 たちと予備校へ行き、また授業。家に帰って食事などを済ませると、深夜まで予備校の 復習をする。そして、また朝。その、繰り返し。
「○組の ○○ちゃん、めっちゃ勉強してるらしいで」
受験生だらけの空間では、様々な噂が飛び交う。「へえ」と気のない返事をしながら、 「それってどんな子やったっけ」と、必死で考える自分がいる。
この頃の私は、なぜ自分ばっかりがこんなにつらいのか、不安なのか。そんなことばか り考えていた。
ある日の休み時間、一人の友人がにっこり笑いながら、私にキットカットを差し出した。 「え、キットカット?久しぶりに見た!」
思わず私も笑顔を返す。彼女は美容師になるために美容学校へ行く。受験勉強とは無縁 の冬を迎えていた。
「これ、あげる。キットカットは“きっと勝つ ”やから、受験にええらしいよ」
初めて聞いた話だった。最初は面食らった私も、そのゴロにすぐ親近感を感じた。何より、 彼女の気遣いが嬉しかった。
その日、私は久しぶりに顔を上げ、教室を見渡した。必死に問題集に向かう人がいる。 専門学校へ行くことを決めた人も、みな真剣な眼差しで資料を見つめている。
不思議だった。周りなど全く見ていなかった時の私は、あんなに「周囲に比べて自分は」 と思っていたのに。周囲の頑張る姿を見た私は、焦るどころかすっかり安心してしまっ ていた。ここにいるみんなが「きっと勝つ」、そう信じて今を頑張っている。逆に、それ 以外のことはわからないし、どうでもよいことだった。
その日の晩、キットカットの話を聞くと、母はとても喜び、
「受験って、結局は本人次第のところがあるから寂しかったけど、そんな風に応援でき るなんて、ええなあ」
と言った。母がそんな風に思ってくれていることも、私は知らなかった。
その日以来、我が家の冷蔵庫にはキットカットが常備されるようになった。どうやら祖 母も、母と競い合うようにキットカットを買っているようだった。
相変わらず、私は受験勉強を続けた。ただ、夜中にしん、とした家で起きていても、も う寂しくはなかった。キットカットが美味しいのは、自分の脳みそが頑張っているから だという気がして、やる気が出た。
春。私は無事に希望の大学に入学した。「受験」というイベントに当人として関わることは、 もう無い。少しずつ、大学生としての日常に馴染んでいく。
そんなある日、通学に利用するJRの電車が、桜色に染まった。満開の桜の中に踊る、 キットカットの文字。キットカットの受験生応援キャンペーン広告だった。ぎゅっと瞼 が熱くなり、受験生だった頃の自分を思い出す。友人と他愛なく話していたことが、今 では全国的なキャンペーンにまで発展していたことに驚いた。ただの噂話では終わらな いパワーが、そこにはあった。全国の「きっと勝つ」という思いが、製品やブランドにまで、 逆流したのだ。
私はまた久しぶりに顔を上げ、電車の車内を見渡した。食い入るように単語帳を見つめる 男の子。自分のノートを何度も見返す女の子。そこには、「きっと勝つ」という顔が、 いくつも並んでいる。あの頃の、私やあの子がいる。
2008年、「キットメール」という商品まで誕生し、キットカットの「きっと勝つ」 キャンペーンは、より一層有名になった。人々の口コミから波及したこのキャンペーン。 その渦の中に、自分がリアルタイムでいたことを思うと、なんだか不思議な気持ちである。 元々、多くの人に親しみがある商品だったこと。比較的どこでも入手可能なこと。味そ のものが、万人受けするおいしさだったこと。このキャンペーンの拡大には、様々な要 因があるだろう。
しかし、「きっと勝つ」という思い、「きっと勝って」という願い。それに勝る原動力は 他にない。
今年の冬もまた日本じゅうで、きっと勝ちたい人がいる。
「ああ、あかん、休憩!」彼らの唯一心落ち着ける瞬間と、「 Break」のキット カットの出会い。なんて美しいんだろう、と思う。
そして、広告って、いいな、と思う。

優秀賞 『母親になった証』             柳澤 佳子

引越しの片付けもひと段落ついて、ここの生活にも慣れてきた。二月中旬だが、今年は 暖かい。それでも、生まれて間もない娘のためにヒーターをつけた。
ようやく可愛い寝息をたてて眠ってくれた。ほんの少しだけ許された自由時間。午後二 時、テレビをつけた。起こしてはいけないので小さな音で見る。その時、ユニチャームの 商品、ムーニー紙おむつのCMが流れた。

はじめまして よろしくね
きみが ここにいることだけで
うれしくて うれしくて
かみさまに かんしゃしたんだ

優しい柔らかなメロディにのって聞こえてくる歌詞。映像の赤ちゃんが、眠っている娘 に少し似ているような気がした。気が付いたら、私は涙を流していた。頭の中で、自分の 出産のことを思い返していた。
本当ならば、今頃は実家にいるはずだった。出産予定日は二月の始め。だが、妊娠高血 圧症のため、緊急手術で年末に出産することになった。その日は引越しした翌日のこと。 新しい家には、運び込んだばかりの段ボールが山のように積まれていた。生まれるまでま だ一カ月ほどあるし、ゆっくり片付けようと思っていた。
どうも足のむくみがひどいので、用心のために今年最後の検診に行った。血圧が高く、 頭痛もした。これは大変と、大きな病院に転院するため救急車で急きょ搬送された。  今まで大きな病気や怪我もしたことのない私は、手術を受けるのが初めてだった。下半 身麻酔。意識ははっきりしているのでよけいに怖かった。ガタガタ震える私を押さえつけ て、麻酔の注射が背中に打たれた。麻酔が効いているのか自分ではわからない。衝立があっ て見えなかったが、感触でお腹が切られたのがわかった。何か液体のようなものが、しぶ きを上げる音がする。
手術の前、主治医の先生に「いつまでも怖がってちゃだめ。お母さんになるんでしょ」 と言われた。しかし、その時の私は赤ちゃんのことより自分の恐怖のほうが大きかった。 目をぎゅっと瞑って「大丈夫」と何度も念仏のように唱えていた。右腹に赤ちゃんの足が まだ入っているのがわかる。ずるっと引き抜かれたような感じがした。
「おぎゃあおぎゃあ」。生まれた!と思った。さっきまで自分の恐怖しか感じなかったの に、一瞬で怖くなくなった。看護師さんがそばに連れてきてくれた。小さな手を握る。濡 れた頭をなでた。いつの間にか涙が流れていた。名前を一生懸命呼んだ。抱き締めたかっ たけど体が動かない。
術後も体は思うように動かなかった。起き上がるだけで傷口に激痛が走る。生まれた日、 娘には会いに行けなかった。主人が撮ってきたビデオを見る。保育器の中で、大きな声で 泣いている。泣いていても私にはどうもしてやれない。歯がゆくてまた涙がでた。
娘は早産のために二週間入院していた。私のほうが早く退院したので、その間病院に通っ た。退院したものの傷はまだ痛む。生後一カ月は二時間置きの授乳のため睡眠不足で、テ レビを見る余裕はなかった。
やっとほんの少しでも自分の時間を持てるようになった。少し慣れて、余裕が出てきた のかもしれない。順調に成長する娘を見て、たまらない愛おしさを感じるようになった。 そんなとき見て、聞いたCMの内容は、まさにその時の私の気持ちだった。
実は今まで母親の気持ちを表した映像や歌に、共感したことはない。もちろん子供がい なかったからわかるはずもないのだが、どちらかといえば「そんな大げさな」くらいに冷 やかな感じで見ていた。でも、出産を経験して私の中で何かが大きく変わったと思う。
生まれたての赤ちゃんが、お母さんに抱かれて健やかな表情で眠っている。そんな映像 を見ると、一気にいろんなことが思い出された。娘が生まれた時、すぐに抱いてあげられ なかった悔しさ、初めて母乳を飲んだ日のこと、娘の隣で眠れる喜び。あの短いCMで、 私は何度も母になった「今」をかみしめることができた。
ムーニーのCMはいくつかバージョンがある。生まれたて仕立てのおむつ、ねんねで育 つ頃のおむつ、成長に合わせたサイズのおむつなど、商品のラインナップに合わせたCM がある。

はじめて 寝返りできた日
はじめて ハイハイできた日
はじめて あんよできた日
その成長におめでとう。
その笑顔にありがとう。

成長に合わせたバージョンでは、線で描かれた赤ちゃんのイラストが動いている。この 長いようであっという間だった娘の成長が思い出されて、つい、見てしまう。初めのころ はそのCMを見ても、まだまだそんなに大きくなるのなんてずっと先のこと、と思って見 ていた。娘ももう九か月、最近つかまり立ちを始めた。
今では娘と一緒にそのCMを見ている。やわらかなメロディがお気に入りのようだ。じっ とテレビを見る娘に、また成長を感じた。

優秀賞 『書伝る ―つながる―』             田邊 真紀

キンモクセイの甘く、力強い香りがどこからか風に乗ってやってきた。わたしの鼻をそっ とくすぐり、秋の訪れを知らせてくれた。緑だった木々たちがいつの間にか紅葉を始め 冬を迎える準備をしていた。

・・・・みんなどうしてるかな・・・・・
おじいちゃん、おばあちゃんは季節の変わり目に体調を崩していないだろうか。
お父さん、お母さんは相変わらず元気でやっているんだろうか。
まほちゃんやゆきみは新しい生活にも慣れて頑張っているかな。
みんなの顔が頭に浮かんだ。秋の空を見上げて、ふと思った。
ふるさとにいる祖父母や両親のことを想うとき、知らない土地で慣れない生活を送って いる友達が心配になったとき、思わず足を止めてしまうほどに、キレイな夕日に出くわし たとき、綺麗な円を描いて夜の街を照らす満月を見つけたとき、わたしは決まってみんな に手紙を出していた。正確に言うと、学生だった頃のわたしはそうだった。  今年の四月から、社会人として新しい土地で、新しい生活が始まった。自分のことで精 一杯の毎日。そういえば、母からの「元気でやってる?」メールにまだ返信していない。 友達からの不在着信も放っておきっぱなしだった。忙しさを言い訳に、うやむやにしてい た。そんな生活を送っていたある日、いつものように新聞のページをめくっていた。その 手が、ある広告のページで止まった。
【人】という字が二つ並び、その間を一本のペンがつなぐビジュアル。その横に添えら れたメインのコピー。 “人は思い、人は書き、人はつながる。 ”
パイロットの企業広告で、手紙について書かれたものだった。

広告を見た私は、引越しで奥に追いやっていた《レターボックス》を急いで引っ張り出 した。この中には大学時代に届いた手紙たちがどっさり眠っている。手に取り、そのひと つひとつを改めて読み返した。
いつも同じ封筒で手紙を送ってくれる祖母からの手紙。身体の弱い自分のことよりも、 私の心配ばかりしてくれる祖母の優しさがたくさん詰まっていた。祖父はいつも葉書で返 事をくれていた。絵の具を使って、バレンタインに贈ったチョコレートや飼っている猫の 絵を添えてあった。決して上手とは言えない絵だったけれど、わたしが送った絵に答えて くれる祖父の気持ちが嬉しかった。いつも喧嘩ばかりしていた姉からの二十歳の誕生日を 祝う手紙。やっと、姉へ素直になれる気がした。わたしが落ち込むと必ず届く友達からの 手紙。色とりどりの素敵な絵から元気をもらった。泣きながら読んで、でも最後には笑顔 にしてくれたっけ。ニューヨークへ留学している先輩からの手紙。異国の地からいつも刺 激を与えてくれた。そのおかげで目標を持って頑張れた。
今、こうして振り返って読むと、わたし達は悩み、支えあいながらも、『今日』という日 に向かってその瞬間を生きていたんだ、と実感した。

広告のメインのコピーの後に続く文章。その言葉たちひとつひとつを自分と重ね合わせ た。
“家に帰って、郵便受けをのぞく。新聞やダイレクトメールの中に、一通の手紙を見つ ける。”
一人暮らしのアパートへ帰り、少し背伸びをしてポストをのぞく。見覚えのある懐かし い字がひょっこり顔を出しているのを見つけて、スーパーからの帰りで重い袋をさげてい るのもおかまいなしで、はやる気持ちを抑えられず四階までの階段を駆け上がった。卵が 入っているのも忘れてスーパーの袋を放り投げ、手紙の封を丁寧にあけたときのことを思 い出した。
“手紙をもらうと、あったかくなる。ひとりじゃないんだ、って。 ”
そういえば、雪の降る夜、何気なくのぞいたポストに入った手紙を見付けたとき、身体 は冷えているのに、心はぽかぽかになったな。
“ペンを走らせている間、その人の心には、あなたがいた。 ”
相手を想い便箋を選び、相手への想いを言葉に託し、相手を想いながら、ポストへと送 り出す。そろそろ手紙届いたかな・・・ひとつひとつの行動に相手への想いが詰まってい るんだ。

想いを伝える手段は、今の世の中には無数に溢れている。今や当然のようにわたし達の 生活の必需品となった携帯電話やインターネット。メールやスカイプ、ミクシィやツイッ ター・・・これさえあれば、国境を難なく越えて、誰とでもつながることができる。とて も便利だし、ないと困る。けれど、大切な想いは液晶画面に映し出された機械的な文字よ りも、自分らしさが表れる手書きの文字で相手に伝えたい。
“こんどはあなたが、大切な誰かを、思い浮かべてください。便箋を前に、心ゆくまで 時間をかけて”
引っ越してきて、まだ空けていないダンボールに、確か何色かセットのカラーペンが入っ ていたはず。それでもまだ足りない色を買いに行こう。そして、わたしの想いをたくさん の色を使って表現しよう。おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん、まほちゃ んにゆきみ・・・ちょっと照れくさいけどお姉ちゃんにも送ろうかな。伝えたい想いを色 とりどりの便箋にのせて、大切な人たちへ。お互いの距離と、逢えなかったぶんの時間を 埋めるために。

あとがき

ある広告代理店へ行く機会があり、その会社へ足を運んだときのこと。その代理店には、 毎年行う広告大賞で受賞した広告たちが丁寧に展示されていた。その中で、あの広告が展 示されているのを見つけた。受賞していたのだ。思わずわたしまで嬉しくなった。ソーシャ ルネットワーク上で年賀状が送れることが評価されるこの時代に、「書くこと」の大切さを 教えてくれたこの広告も評価されているんだと。
この広告は読む人にそれぞれのストーリーを与えてくれる。共感したり、背中を押され たり、大切な何かに気づかされたり、大切な誰かを思い浮かべたり・・・。 忘れかけていた《あの頃のわたし》を思い出させてくれたこの広告に、感謝の気持ちを 込めて・・・・・。

優秀賞 『僕たちは世界を変えることができない』             米沢 絵里

気が付けばボクは泣いていた。目の前の画面に映し出された、あの映像のせいである。
悲しくなんてない。けれども、この胸を締め付ける痛みはなんなのだろう。心のバケツ がいっぱいで、溢れんばかりに次から次へと感情が流れ出す。そのときのボクはこの感情 が何なのかをまだ気付いていなかった。だけど、今までにない初めての感情だったこと、 そして、胸が熱く高鳴っていたことは今もまだ鮮明に覚えている。
毎日毎日同じことの繰り返し、同じ顔に同じ景色、冴えない会話。流行りの服に身を包 んだり、流行の歌や流行りのアイドルについて会話したり、はっきりいってボクにはそん なものなんてどうでもよかった。街を歩けば忙しく行き交うロボット人間に嫌気さえした。 いつしかボクの口癖は「つまんねぇ」になっていたんだ。かといって、当時のボクにはや りたいこともなく、想い馳せる夢もなかった。そんなことから何の変哲もない日常にボク は飽き飽きしていた。
朝目が覚めると、またモノクロの一日が始まろうとしていた。テレビリモコンを手に取 り無造作に押したボタン、と同時にボクは目の前の映像に瞬く間に引き込まれていた。そ れは日清カップヌードルのもので、対立し合う2つの民族の間にカップラーメンで境界線 を作り、憎み合う大人たちの中で一人の少女がそのラーメンを美味しそうに食べる。それ を見た大人たちも次々に食べていき、境界線がなくなるというものだった。そこに流れて いた歌で、【子供らを被害者に 加害者にもせずに この街で暮らすため まず何をすべきだろう】という歌詞。そして 【NO BORDER】と表された文字。あの映像とそれらが ボクの脳裏に焼きついては今も離れない。そのときのボクの心はとてもドキドキしていた。 体中から浮き上がる何か熱いものと、やりきれない虚しさに襲われた。いつのまにか無表 情になっていたボクの心が壊された瞬間だった。自分でもおかしいぐらいに感動していた のだ。いつまでたってもあの映像と音が離れず、そのCMはボクをたった数分にして虜に してしまった。 ――ボクの世界が変わったのは、それからだった。
いつものように街に出ると、空がやけに青く見えた。太陽の日差しはこんなにも暖かな ものなんだと感じた。道端に咲いている花が笑っていた。秋を知らせる風の便りにも気付 いた。ボクは立ち止まり、小さいながら体いっぱいで自然を感じていた。いつもなら気に も留めなかった、公園を掃除しているおじさんでさえもなんだか愛おしく感じた。気付 けば、ボクの心は感動で溢れ、そこに存在する全てのものに感謝をしていた。そして、あのたっ た数分のCMによって、冷めきっていたボクの心は溶かされたのだ。そして、ボクの日常 に彩りを与えてくれた。
もしかしたら、あの日突然流れた感情の答えはこれだったのかもしれない。いや、確か にこれだった。いつしかボクは退屈な毎日に刺激を求め、強く心震わす出来事を探してい たんだ。それは感動というものであった。
それからのボクには夢がある。宇宙一の感動屋さんになること。感動屋さんの仕事は多 くの人を感動させること、それによって自分自身も感動すること。(ときどきみんなよりボ クが先に感動して泣いてしまうこともあるんだけど)。そして、広告を通して人の心にこの 感動を届けようと思う。ボクがあのCMによって想い描いた世界、それは、世界中の子供 たちと友達になること。みんなで歌を歌ったり、一つのボールを追っかけたりして、黒も 白も関係ないから手を繋ぐんだ。だけどね、世界はそんなに簡単じゃないらしい。ボクが 大好きなあのCMのように簡単に境界線はなくならないみたいだ。今日も明日も明後日も こんなにみんなと友達になりたいと想っているのに。

僕たちは世界を変えることができない。しかし、世界の人たちの心を動かせる、その手 段が広告にはあるのかもしれない。たとえ世界を変えることが出来なくとも、感動という ものは言葉の違いや肌の色を超えて、人の奥底までに響くものだから。ほんのたった数分 のCMでボクが心を動かされたように。

5年後のボクへ
「宇宙一の感動屋さん!キミは今、感動していますか?あの日言っていた、人の心に握 手できるような広告、作っていますか?」

優秀賞 『ベルギーの「同性愛の人権広告」から感じたこと』             中牧 莉香

「価値観が変わるような衝撃を受けた広告はありますか?」
私はあります。
それは今から8年ほど前、留学先のベルギーの高校で見た広告です。私が通っていたベ ルギー東部の公立高校には玄関と直結した大きな集会スペースがあって、休み時間には大 半の生徒がその場所にたむろするのですが、そこに2枚の大きなポスターが貼られていま した。ポスターは両方とも白地バックで、片方は上目遣いを投げかけるイケメン風(主観 ですが)男子、もう片方には満面の笑みを浮かべて手を広げているキュートな女の子が写っ ていて、それぞれのポスターに「 Ben Jij Bisekueel?」、「Ben Jij Lesbienne?」というコピーが入っていました。そして、 その下にウェブサイトと問い合わせ先がありました。このコピー、「まさか学校ではありえないだろう」と思ったのに加えて、 自分のオランダ語に不安もあったので、とりあえず友人の女の子に意味を聞いてみたのですが、そうしたらあっ さりと「そういう意味だよ」と言われました。
感の鋭い方はもうお気づきかと思いますが、このコピー、英訳すると「 Are You Bisexual?」と 「 Are You Lesbian?」です。和訳すると「あなたはバイセクシュアル?」 「あなたはレズビアン?」です。
つまりこの広告では、たとえるならば「あなたベジタリアン?」とか「あなたはエコ人 間?」とか質問するぐらいの軽さで、若者に対して同性愛者かどうかを問いかけているわ けです。そして、おそらくそのように軽く問いかけることで、「同性愛者かも ……」という 悩みを抱いている人たちに対して「同性愛者であることは恥ずかしいことではない」とい うメッセージを送っている。一方で、同性愛者に対する偏見とか差別を抱く人たちに対し ては「君の友人のなかにも当然、同性愛者がいるんだよ」というメッセージを込めている。 そして、その両者に対して「悩んでいたり、意見があったりする場合は連絡してね」とい う姿勢が示されているわけです。
私はこのポスターを見て、とにもかくにも「こんな表現が許されるのか!」と驚きまし た。と同時に、ベルギー、あるいは欧州の人々の人権に対する意識と、それを受け入れる 寛容な精神に心底感心しました。そしてまた、このポスターが “当たり前に存在する” 学校に通う子供たちが、将来どんな寛容な価値観を持った大人たちになっていくのかを想像し、 言葉の強さというか、人権広告の潜在的な効果をおぼろげながら感じました。
一方、日本の人権広告に視点を移してみるとどうでしょう。同姓愛者に関しては、昨今 でこそ「オネエ系男子」とか、同性愛者だと公言する人々がメディアに頻繁に登場するよ うになったと感じます。しかし、世間的には同性愛に関する話題はまだまだタブー視され ているように思います。人権広告においても、「いじめをやめよう」とか「差別をなくそ う」といった広告は見たことがありますが、同性愛を中心テーマに扱ったものは見たこと がないですし、まして学校のポスターになったという話はまず聞いたことがありません。 実際に、AC公共広告機構の募集テーマを調べてみても同性愛の問題というカテゴリーは ありません。政治の側面から見てみても、同性愛者同士の結婚を認めるか否かの議論は近 頃では国会でも話題に上らないし、上らせようとする動きもまた無いように思います。こ のような状況から判断するに、同性愛者たちにとって日本はたいへん生き辛い国なのだろ うなぁとシンパシーを感じずにはいられません。そして日本人の、こと同性愛者の人権に 関する意識の低さを感じずにはいられません。
他方、ベルギーでは隣国オランダが2000年に世界で初めて同性愛者同士の結婚を認 めたのに続き、2003年に同様の法律を制定しました。その時期がちょうど私が留学を していた期間と重なるわけですが、この法律の制定に関して周囲のベルギー人たちは、先 述した友人然り、「権利として当然認められるべきでしょう」という態度を示していたこと を記憶しています。このような他者に対する寛容な態度というか、人権に対する高い意識 が育まれた背景として、永きにわたる国内外の争いと調停の歴史や文化的要因があること は言うまでもありません。しかし、ここでベルギー人の同性愛者に対する姿勢を単なる歴 史や文化の違い、お国柄とか国民性といった言葉で片付けるべきではないと思います。 もっと言うと、このような海外、とりわけ欧州の人権広告が日本においてもっと色々な場 面で引き合いに出されて、日本人が人権について考えるための材料になれば良いなと思う のです。
私見ですが、私は「人々に、今まで気付かなかった価値観を提示する広告」こそが、真 に価値のある広告だと考えています。そして、こと人権広告に関しては、通常の商品広告 よりもそのようなメッセージが受け手一人一人の価値観形成に大きく作用すると考えてい ます。もちろん、この意見に関しては、それらのメッセージが受け入れられる土壌が整っ ていなければあまり意味がないといった反論もあると思います。しかし、一方では広告に よって提示された、予想を裏切る一言から大きなムーブメントが生まれるという事例も過 去に少なくありません。だからこそ、たとえば、同性愛者に対して意識すらしなかった私が、 ベルギーでこの衝撃的なポスターに出会ったことで、なんとなくではあるけれども他人に 対する寛容さとか人権意識とかを感じたように、人権広告は使い方によっては他人への寛 容さといった個人の価値観を形成する力が十分にあると私は思うわけです。
同性愛者に関するこのポスターはほんの一例に過ぎませんが、もしこのポスターが日本の 学校で掲示されたとしたら、それは日本人の人権問題に対する意識に一石を投じることにな るのではないかと思います。そしてまた、その一石こそが、未来の日本を担う若い人たちの 寛容さとか、人権意識とかに働きかける小さな一歩になるのではないかとも思います。

優秀賞 『ハル』             西田 純子

春になると思い出すCMがある。
今年の春のある夜、私はこのCMソングを探して、梅田中のCDショップを駆け回って いた。
京都での大学時代、学問や恋愛はそこそこに、部活、少林寺拳法に打ち込んだ私たち。
今でも鴨川を見ると、三条河原で見世物になりながらやった「千本突」を思い出す。腕 にできたあざを隠すために、夏でも長袖。「化粧はしても汗で流れるし」すっぴん登校がご く当然。そんな学生時代だった。
四回生になったら、七月の大会を最後に私たち幹部は引退する。大舞台だ。春、新入生が入っ てきてからのこの四ヶ月間は、就職活動も重なり、毎日が、自分と、それに時間との闘いだっ た。気合・焦り・不安・いらだち・ごちゃまぜになって皆が殺気立っていたと思う。
男性が中心の部活、七人の同期女子部員の結束は並大抵のものではなかった。私たち七 人が練習の前後にガールズトークを繰り広げる場所は、いつも決まって青春の汗薫る女子 更衣室。朝の七時半から八時半まで朝練をし、終わったら朝マックして練習の反省を。授 業にはなんとなく出て、終わったら随時、部室に集合。練習の様子を撮影したビデオを見 たり、練習メニューを考えたりしながら、時間になるまでを過ごす。ある人は早々と道着 に着替え、練習が始まるまで自主練。練習では信じられないほどの汗を流した。当然、睡 眠時間よりも部活をしている時間のほうが長く、私たちは日に日に逞しくなっていった。 筋肉がついてくる腕、固くなる腹筋、凛々しくなる所作。女子更衣室ではよく、「入る部活 間違えたかなぁ?」と笑い合ったものだ。引退したら、毎日汗を流す生活にピリオドを打ち、 毎朝ちゃんとお化粧をして、おしゃれをして …女子らしさを極めようね、と同期の女子部 員たちは励まし合った。
そんなある日のことだった。同期のうちの一人が、いつものように更衣室で着替えをし ていると「マキアージュのCMが好きやわぁ」と話題をふった。
「ちゃららら~ららら、ちゃっちゃ~ん ♪ってやつ。」
「私も好き!『この世のハルがきた』ってコピー良いよなぁ!」
しばらくそのCMシリーズに出ている女優たちの真似をするのが私たちの間でブームと なった。
「篠原涼子みたいになりたいなぁ」
「私は断然栗山千明!」
私たちは揃ってそのCMソングを携帯にダウンロードし、着メロに設定したり、アラー ム音に設定したり …。スポーツに打ち込む私たちと対照的に、華やかで洗練されたマキアー ジュのCMを、まるで私たちのテーマのように思い描き、過ごしたのだった。
それぞれが就職活動をし、私は現在勤める広告会社に内定をもらった。そして最後の大 舞台も終え、悔いのない学生時代は終わった。
ちょうどそれから三年が経とうとした頃、テレビっ子のその子から結婚式の招待状を受 け取った。嬉しいことに、私と、もう一人の友人で、メッセージを読み上げるチャンスを もらった。私たちは、現役当時、朝マックをしたあのマクドナルドに集い、思い出に浸り ながら精一杯の気持ちを手紙にしたためた。
BGMには何を流そうか、と話し合い、異口同音、マキアージュのCMソングしかない と。インターネットで検索し、それが山田タマルというシンガーソングライターの「My Brand New Eden」 という歌だということを確認。そして、この曲を、テレビっ子の花嫁に聞かせるべく、躍起になってCDショップを探し回ったわけだ。
三軒目だったと思う。見つけた。家に帰ってオーディオでかけてみた。途端、結婚する 親友の幸せ、あのときのあの複雑な心境、泥臭い青春、それぞれの道、いろんな思いが ドロドロとこみ上げてきて、イントロを聞いただけで感極まって思わず涙が出てきた。
「これは、感動してくれること間違いなし!」
結婚式当日。春の陽気に包まれ、八重桜は満開。着飾った同期女子が、テレビっ子の花 嫁をいっぱい祝福するために集う。
同期の代表として、私たち二人は会場の前に出る。
「ちゃららら~ららら、ちゃっちゃ~ん♪」
私たちの思い出の曲が流れた。
「あ~っ!」
花嫁はきらきらとまぶしい笑顔をこちらに見せてくれた。間違いなく、CMに出ていた豪 華絢爛の女優陣のだれよりも、美しい。綺麗だった。
会場の反対側にいた、当時更衣室で一緒に過ごしたほかの仲間たちも笑顔に涙を浮かべ ている。
まさにそれは、花嫁と6人の同期たちに「この世のハルが来た」瞬間だった。
きっと季節が巡り、春が来るたび、私たち7人の頭の中には、あのマキアージュのCMが 流れ、互いを思い出すことだろう。過ぎたハル、これから見るハル、それぞれのハルを想って。

優秀賞 『手帳にはさんだセピア色の新聞記事』             由良 さゆり

「“受け付け”というところを“受付”ってしてください。」
「金額の前の“通常価格”が抜けてるでえ。」
そんなやり取りを編集担当や審査担当と繰り広げている私は、フリーペーパーの広告営業 担当。140文字程度しかないスペースに、受付時間を書かないといけないのだけど、社 内の規約では“受け付け”と4文字が必要になってくる。その2文字分で、もっといろん なことを書き足したいのは山々だけど、なかなか、規約と言われれば、反論する余地はな い。規約とかは、そもそも、「読み手にわかり易く!」ということを前提としているし、後 者の“通常価格”という文字を入れるのは、「二重価格ではない!」ということを読み手 に伝えるということで、いわゆる読者を守るというスタンスから、決まっていることが多 い。難しい漢字も極力さけ、「贅沢な宴」という表現はNGで「ぜいたくな宴」となる。文 字だけをみたら、全然、ググっとくるものがないですよね。そこは、悲しいかな規約なん です。でも、メニュー名・コース名などが「比内地鶏の究極の親子丼」、「贅沢三昧コース」 という名前だと堂々と書けたりするんです。
あるハワイアンリング専門店で広告を頂いたときの話。そこで売られているリングには、 波や花の模様が彫られていて、大自然のすごいパワーが宿っているような印象を受けた。 店長に取材をし、そのリングの写真説明は、ホームページの内容とあわせて欲しいという ことで、
「自然のパワー(マナ)がこめられたリングです。」
と下書きで、納品したところ、編集担当から、「“マナ”ってなんですか?」と呼び止められた。
「ウィキペディアで調べたところ、“神秘的な力の源とされる概念である。魔法や超能力と いった尋常にならざる特別な力の源とも言われている。”そういう自然現象とか、非科学的 なことは、うちの新聞では書けないんです。」
とけんもほろろに、“マナ”という文字が、削除されてしまった。
そこからが、この編集担当とお店の店長との板ばさみで、もっとも、営業が苦しむ時間。 (人によっては、ヤリガイと思う時間ですが・・。)まずは、お店の店長に、新聞という性 質を知ってもらい、“非科学なことは書けない! ”という説明をしないといけなかったり する。(私が、店長の立場だったら、「なんで、お金だしてやってるのに、好きなことを書 けないんだ~!」って、ゴネるところですが・・・。)
紳士的な店長は、「“マナ”が書けない?私たちは、これを提唱して、“マナ”をモチー フにした商品にこだわり続け、いろんな人にもハワイの文化や“マナ”を知ってもらお うとがんばってきているのに・・。」と憤慨はせずに、遺憾の意を表している。そこは、根 気よく、相手の話に耳を傾け、「そうですよね。そうですよね。」とウンウンとひたすら頷く。 店長は、こうも続けた「“フラダンス”って、よく、普通に使われていますよね。あれっ て、ホントに現地の人にしてみれば、意味が通じない言葉で、“フラ”っていうことが、「ダ ンス」っていう意味があるので、直訳すると、“ダンス・ダンス”ってことで、なんのこ とやら?ってかんじなんですよね。そういう間違った言葉も、そのまま、日本では、まか り通っていて、
つい、この前も、“ハワイアン・フラ”という表現をしたら、そこは、“フラダンス”っ ていう言葉にしましょうか。って、訂正されてね。」店長は、ホント悔しそうに話を続けた。 「このあまり、世間では、使われていない表現も、NGだったりするんですよね。」と、 “マナ ”っていう言葉を削除することに納得していただくというミッションは、店長 にしぶしぶ折れてもらったというカタチで事なきをえた。
自宅に帰り、主人に話すと「こうなったら、“マラ ”って、思いっきり、誤字してみたら?」 って、無責任なことを言われ、笑い話のネタにも・・・・。(意味がわからなかったら、ウ ィキペディアで調べてみてね。)
そうなんです、世の中には、お金を出して、取材のように見せる広告記事も存在する。よ く、競艇で「サンスポ杯」「デイリースポーツ杯」という大きいレースがあるが、あれは、 新聞社が賞金をだしているのではなく、競艇場が、新聞の一面を買い取って、その日のレー スを書いてもらうために、お金を払っているのだ。私は、この仕事をはじめる前までは、てっ きり新聞社が賞金を競艇場に払っているんだと思い込んでいたので、大きなレースの時は 舟券も売れるし、競艇場が儲かっているのだと信じて疑わなかったのだ。
新聞の取材記事でも、記事型広告でも、書き手は、やっぱり、そのお店の繁盛を願い、な んとか、この店のよさを知ってもらおうとか、お客を呼ぼうというキモチを込めて、一生 懸命に書いているのだ。
もし、みなさんも、これは取材記事かな?それとも、お店がお金を払って書いてもらって いる記事かな?とか、みるのではなく。どうか、どうか、「このお店は、ホント、オススメ だよ!」っていうキモチを読み取って欲しいな。私の作りたい広告は、やっぱり、色あせて、 冷蔵庫のマグネットにいつまでも貼られていたり、手帳に挟んであるような記事広告。読 者が、この記事を読んで「いつか食べに行こう、買いに行こう。」って思い、重い腰をあげ、 切り取るというアクションをして、そして、ずっと冷蔵庫にマグネットで貼って、保存し てくれる記事を書くことが目標なのだ。
私の手帳にも、毎日新聞の切り抜きが色あせてシワシワになっているけれど、入っている。内 容は「心斎橋チーズロール」という洋菓子を作っているお店の取材文だ。最近では、何億とい う売り上げをあげる「堂島ロール」に追いつき、追い越せという応援の記事だった。これは、 広告ではなく、取材記事だったのかもしれないけど、いつか、近くを通ったらのぞいてみようっ と思い、切り抜いて、手帳にはさんだのだ。写真の西園パティシエがイケメンだったというこ とも手伝ってはいるが、いつも、原稿につまったり、お客さんに「全然、客が来ないぞ!」って、 しかられたりしたら、そっと、その記事を読み返す。私には、何が足らなかったんだろう?お 店の立地条件や読者特典、いろいろ要因や問題があるかもしれないけど、「行ってみたい。の ぞいてみたい。」ってキモチを起こさせる何かが、足らなかったんだと反省。もう、かれこれ、 こういう仕事をはじめて、何年も経つけれど、「こう書いたら、絶対、客が来る!」っていう セオリーは、未だ手探り状態。でも、それが、普通なんじゃないかな?「絶対儲かる方法」が うさんくさいように、「絶対客が来る文章」っていうのも、うさんくさいのかも。
「紙媒体は、もう、しんどいなぁ。斜陽産業だな~。」
立ち止まって、そんなことも、考えるけど、やっぱり、手帳にはさんだ、セピア色の新聞 記事は、私に勇気を与えてくれる。私みたいな、アナログな人間も、まだ、いっぱい存在 するかもしれないし、この紙のあたたかさなども見直される。そんな時代に逆行する媒体 があっても、いいかもと。電車で携帯のメールをチェックしながら、考えるのであった。

 

審査委員特別賞 『自分史のなかの広告』             夏田 信身

ヘイワースなど妖艶な女優の写真を切りぬいた。
南方から復員した父は公職追放され、やむなく帰農を決断していた。「これからは農業を やる」という父の指示で、わたしは隣村の農学校に徒歩通学する身だった。幼児から受験 を厳命されていた旧制中学から海軍兵学校へのコースは、霧消していた。
わたしは農作業を手伝いながら、学制改革で転じた新制高校の普通科を卒業した。いっ たん地方の国立大学文系に籍を置いたが、父が早世、中退して農を継いだ。わたしは長男で、 弟妹はまだ幼かった。
すでに、民間のテレビ放送も開局していたが、わが家にTVはまだなく、もっぱらラジ オに親しんだ。広告に関して、いまでも記憶に残っているのは、昭和33年年秋、皇太子殿 下(当時)と正田美智子さんご婚約発表の際、民放ラジオの地元スポンサーのCMが一斉 に「あやかり」広告にチャレンジしたこと。翌春のご成婚まで、あやかりブームが一世を 風靡した。
昭和37年、農業基本法が制定され「7桁農業」が喧伝されたころ、わが家は農業をたた んだ。もはや、5反百姓に前途は見出せなかった。弟妹もすでに社会人になっていた。
とはいえ、何の特技もないアラサー農村青年が適職に就くのは容易ではない。結局、頼 りにしたのは新聞の求人案内広告だった。毎日、いわゆる3行広告とにらめっこ。掲載件 数の多い地元紙の求人欄に助けられて、どうにか職を得た。
大阪に本社を置く訪販会社の、四国事務所だった。片道1時間半かけて、県庁所在地ま で通勤した。一日4件以上の成約が自己規制件数(準ノルマ)とされ、四国四県をセール スして回った。生涯、行くこともなかったであろう土地まで、思いがけず足を踏み入れる こととなった。
出張先の足摺岬の国民宿舎でみた「堀江君が帰ってきた、おめでとうマーメイド号」と いうシキボウのテレビCMは、太平洋を眼前にしてのものだけに、ひとしお印象深いもの があった。一方で「スカッとさわやか、コカ・コーラ」のジングルが、圧倒的な露出量で 流れていた。
2年後、結婚。やがて大阪の同社近畿事務所に転勤となった。なれた業務内容で、市場 性が高いだけに少しは楽かなと思っていたら、現実は甘くなかった。関西出身者が敬遠し て誰も行きたがらないような、厳しいエリアを宛てがわれた。ラブホテル街であったり、 零細業者の密集地帯であったり。
知らぬが仏と、田舎者の律義さでなんとかこなしたが、自ずと転職を考えはじめた。そ の気になってみると、さすがに関西経済界のお膝元だけあって、新聞各紙の求人欄は百花 斉放、より取り見どりの観があった。囲みスペースでの求人広告も少なくなかった。折か ら高度成長のさ中で、わたしは歳をようやく越えたばかりであった。
まず門真市にあった社宅を出て、神戸市内に転居した。小五まで外地(台北市)で育 っていたので、南の植民地を思わせる明るい風光と、開放的な雰囲気のKOBEが気に入っ ていた。なにしろ中華街がある!
連日、丹念に新聞各紙の求人広告を吟味した。まず履歴書を送ったメーカーは、異色の 創業者社長で知られていた。学歴・年齢を問わずとあるのが、ありがたかった。  宣伝課員を求めての筆記試験は型通りのものだったが、試験の最中に「経理でも募集し ているので、希望者は別室へ」のアナウンスには驚いた。急成長する会社の、乱暴なまで のバイタリティを感じた。10人以上の受験者がぞろぞろ出ていったのには、さらに吃驚さ せられた。
面接試験では服装を問われた。リクルート・ルックよろしく紺の背広にホワイトシャツ、 臙脂のタイで決めていたら「お前さんはいつも、そんな窮屈な格好をしているのかい」と。 居並ぶ役員諸公は、みな色とりどりのスポーツシャツ姿である。社長のバンカラへの不自 然な迎合に思えて、辟易させられた。「TPOです」と反論する気にもならず、あえなく落第。
2社目の採用試験で合格した。逆3K職種として人気の企画部員募集とあって応募者が 多く、書類選考で百人に絞られ、2日間にわたって試験が行われた。大卒者対象であったが、 図々しく応募していた。学科・作文・面接のほか、グループ・ディスカッションまで課せ られた。GDなるものを経験したのは、後にも先にもこの入社試験のとき一度きりである。
ちょうど昭和41年の暮れ。この前後、サマーギャル第1号・前田美波里を起用した資生 堂の「太陽に愛されよう」キャンペーンが話題を呼び、巷ではポスターが持ち去られる騒 動が起きていた。個人的には、レナウンの「プールサイドに夏が来た、イエイエ」のテレ ビCMがお気に入りだったけれども。マギースープの「お早う、マギーです」のコピーは、 いやでも覚えさせられた。当時、史上最大といわれた「いざなぎ景気」に突入していた。
この職場は気質に合って居心地がよく、わたしにとって最も長い職歴となった。好んで 神戸にながく住み、阪急電車でキタへ通勤した。社内の中吊りや額面のポスターは、阪急 の企業グループで占められ、広告の中で微笑むタレントも、ほとんどが宝塚歌劇団の生徒 さんたちだった。車内の雰囲気にも「清く正しく美しく」に通じるものがあった。
時は流れ、世のなかは高度成長から2度のオイルショックを経てバブル期、平成不況へ と変遷した。新聞・雑誌の広告やラジオ・テレビのCMもまた、「モーレツからビューティ フルへ」(富士ゼロックス)、「もうすぐ未来がやって来る」(NTTデータ通信)などと、 的確に時代の空気を映し出していた。映画や大衆音楽は、かつての国民共通の話題性を失 い、代わってテレビCMが時代を表徴する記号となっていった。
定年まで3年余を残した年の秋、地下鉄御堂筋線のターミナルで、市内の公立大学の社会 人学生募集(経済学部2部)の告知ポスターが目にとまった。数年前に導入されていた新 制度だったが、それまで全く気付くことがなかった。にわかに人生の忘れものが思い出さ れた。大学を中退した若い日、苦い思いの中で、いつかきっと折をみて復学したいと願っ ていたことを。また、社内研修でケーススタディなどを受講していたが、いま一つ飽き足 りない思いを抱いてもいた。
さっそく、事務局へ問合わせた。出願期日が迫っていたが、ともかく書類を整えること ができた。元高校国語教師の家内には内緒で事をすすめた。いまさら進路指導などされて は堪らないし、もし滑ったりしたら何を言われるか分からない。試験科目は英語に小論文 と、面接だけだった。
さいわい入学を許可された。家内の協力をえて通学に便利な大阪府下へ転居した。社内 でも、午後6時の開講に間に合うよう多少は業務に融通がきく立場にあった。5年間(国 公立大の2部は5年制)の修学は順調に推移し、ストレートで卒業することができた。こ の間に、わたしは60歳の定年を迎えて年金生活者となり、母が他界した。
いま、振り返ってみれば、わたしの生活歴の節目ごとに、広告によって得られた情報が 重要な役目を果している。とくに職業選択の成否は人生を左右するものだけに、案内広告 には一期一会の運命的な巡り会いすら感じる。求人欄に一縷の望みを託して精読した体験 が、わたしに下から新聞を読む習慣をつけたものに違いない。
メディアの多様化とIT化のスピードには驚嘆すべきものがある。欧米では名門新聞の休刊さえ伝 えられている。だが、インターネットが如何に進展しようとも、新聞媒体の培った情報力と題字への 信頼感は、少なくともわが国では、将来にわたって揺らぐことはないのではあるまいか。    (了)

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